「……ふむ。茶が新しくなるまでの間、少し退屈しのぎに付き合え、セイカ」
湯気を立てる茶器を前に、キサキがふと悪戯めいた笑みを浮かべた。その瞳は、観測士としての冷徹な仮面の奥にある、セイカの「人間味」を覗き込もうとしている。
「……何でしょうか。次のシミュレーションの前に答えられることなら、何でも」
「其方とアカネのことじゃ。……常々不思議に思うておった。論理と観測を何より重んじる其方が、あの一見すれば清楚で、しかし中身は微笑みながら障害を爆破して進むような苛烈な娘を、恋人として傍に置くようになったその『馴れ初め』とな。……どのような因果の波が、其方たちを結びつけたのじゃ?」
予期せぬ角度からの問いかけに、セイカは茶を注ぐ手を一瞬だけ止め、それから……ほんの少しだけ頬を染めて視線を逸らした。
「……っ、アカネとの、馴れ初め、ですか。キサキさん、たしかにそれは演算データにもルミナス・コアの調整にも、一切関係のない不確定事項ですが……」
「よいではないか、ただの雑談じゃ。それとも、妾には聞かせられぬような、非論理的な大恋愛でもあったのかえ?」
くくっ、と喉を鳴らして楽しそうに追及してくるキサキに、セイカは観測士としての防壁を早くも崩されかけていた。彼女は小さくため息を吐くと、かつての記憶を手繰り寄せるように、遠い目をして微笑んだ。
「……大恋愛、だなんて。……始まりは、本当にただの事故……いえ、文字通りの『爆撃』でした。当時の私は、今よりもずっと視野が狭く、ただ自分の信じる『観測』の数値だけに没頭して、周囲のすべてを拒絶していたんです」
その頃の自分は、冷たい画面の向こう側だけが世界のすべてだと信じ込んでいた。心を摩耗させ、孤独であることすらデータの一部として処理しようとしていた、そんな時期。
「そこに、私の計算式には存在しない、圧倒的な熱量で飛び込んできたのがアカネでした。……私が引きこもっていた部屋の強固なセキュリティを、彼女は『お掃除の邪魔です』と、笑顔で爆破して突破してきたんです。それが、私たちのファーストコンタクトでした」
「ふむ、いかにもあの娘らしい、容赦のないお掃除じゃな」
「ええ。……呆然とする私の都合などお構いなしに、部屋を片付け、手作りの料理を並べるんです。私の精密な観測機器のすぐ横に、綺麗に盛り付けられた温かいお食事を置くような子ですから……当時の私は、恐怖と混乱で本当に頭を抱えていました」
思い出話を進めるうちに、セイカの声音は自然と柔らかくなり、語尾には愛おしさが滲み出ていく。
「……何度も拒絶しましたし、『迷惑です』と論理的に説明もしました。でも、アカネは私の冷たい言葉なんて最初から聞こえていないみたいに、ただ物柔らかに微笑んで、私の凍りついた手を握りしめたんです。……『どれだけセイカさんが世界を冷たく見つめても、私がそのこころの壁をすべて綺麗に吹き飛ばして、温め続けますから』って。……あんなの、ずるいですよね……ふふっ」
セイカは自分の両手を見つめ、かつてそこに重ねられた、完璧なメイドの所作で、けれどバカみたいに力強く温かかったアカネの手の感触を思い出す。
「……私の完璧なロジックは、アカネのその、微笑みの裏にある呆れるほどの真っ直ぐな執念の前に、完膚なきまでに叩き潰されたんです。……観測士としての私が、初めて『計算できない奇跡』を認め、敗北を認めた瞬間。それが、私たちの始まりでした」
「なるほどな。理屈で固めた其方の心を、あの娘の過激なまでの純粋さが融かしたというわけか。……くくっ、やはり勝負というのは、何が起きるか分からぬから面白い」
キサキは満足そうに頷き、新しく淹れられた茶を口に運んだ。その顔には、命を預け合う恋人たち、そして家族たちの絆の深さを改めて確かめ、安心したような色が浮かんでいる。
「……もう、本当に意地悪な質問です、キサキさん。……ですが、アカネが私を救ってくれたように、今度は私が、私の観測のすべてを賭けて、あなたを救う番です。……ですから、どうか信じて待っていてください……ね?」
「うむ。其方の淹れた茶はやはり少し理屈っぽい。……じゃが、その奥にある温かさは、あの娘から貰ったものなのじゃろうな。……信じておるよ、セイカ」
お茶の温かさがリビングを包み込む。
「……ふふっ。そこまで私の過去を暴いて満足したのなら、大人しくそのお茶を飲み干してください。……冷めてしまったら、今度こそ私の計算通りにいかなくなってしまいますから」
セイカは少しだけ尖らせていた口元を緩め、キサキの前に新しい茶器をそっと差し出した。その所作は流麗で、アカネの給仕をどこか無意識に模倣しているようでもある。
キサキは差し出された器を両手で包み込み、立ち上る温かい湯気を細い目を細めて見つめた。
「うむ。其方の言う通り、冷めぬうちに頂くとしよう。……しかし、こうして静かに茶を啜っていると、あの賑やかな娘たちの声が、遠くからでも聞こえてくるようじゃな」
「……確かに、そうですね。今頃はシャーレのオフィスに着く手前でしょうか。……ケイが最短の移動ルートを演算し、トキが周囲の警戒を怠らず、セイアさんが運命の糸を手繰り寄せ、そして……」
セイカは一度言葉を切り、ふっと視線を落とした。
「……アカネが、笑顔でシャーレの扉を文字通り『お掃除』していないことだけを、私は切に祈っています。……相手は一応、キヴォトスの特異点たる『先生』なのですから」
「くくっ、それは少々、先生とやらに同情せねばならんのう。あの娘たちの突破力を前に、一介の大人がどれほど抗えるものか」
キサキは楽しそうに喉を鳴らし、上品に茶を口に含んだ。
張り詰めていたはずの「ソラノミ」の空気は、今や二人の穏やかな雑談によって、どこか家庭的な温かさに満たされている。しかし、セイカの背後にあるメインモニターだけは、冷徹にその刻限を刻み続けていた。画面の隅で点滅する、キサキの体内の毒素のシミュレーション数値。
それは確実に、けれど確実に、彼女を削ろうと蠢いている。キサキは茶器をトレイへと戻すと、ふう、と小さく息を吐き、再びソファの背もたれへと預けた。その眼差しは、先ほどまでの悪戯っぽいものから、山海経のトップとしての、そして一人の少女としての、静かな覚悟を湛えたものへと戻っていた。
「……セイカ。妾はな、此度の勝負、負ける気は毛頭ない。……じゃが、其方もあまり根を詰めすぎるなよ。……其方のその綺麗な瞳が、冷たいデータの色に染まりきってしまうのは、妾の本意ではないのじゃ」
「キサキさん……」
「其方がかつて、あの娘に融かしてもらったというその温もり……それを、妾を救うための『贄』として摩耗させるな、と言うておる。……妾が欲しいのは、救われた後の未来じゃ。其方が心を失ってしまっては、最高の景色も色褪せて見えてしまうからのう」
それは、ただ守られるだけの存在ではない、キサキという少女の底知れない強さと、セイカへの深い配慮だった。セイカは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
論理では説明のつかない感情が、彼女の心を優しく満たしていく。
「……ええ。分かっています。……私は観測士ですから、自分の限界値も、心の許容量もすべて把握しています。……それに、私には、帰りを待つべき大切な恋人も、可愛い娘もいますから。……自分を壊すような非効率的な真似は、絶対にしません」
セイカはそっとキサキの隣に歩み寄り、その小さな、けれど確かな温もりを持つ手を、もう一度優しく、今度は包み込むように握り直した。
「……ですから、あなたもその目蓋を閉じる時、どうか恐れないでください。……いつかあなたが目を覚ますその瞬間、私の隣にはアカネがいて、ケイがいて、みんながいて……そして、あなたが最も望む、どこまでも澄み渡った『景色』を、必ずこの手で証明してみせますから……ね?」
「……うむ。其方がそこまで言うのなら、妾はただ、極上の果報者として待つとしよう。……少し、眠気が戻ってきたようじゃ……」
キサキは満足そうに微笑むと、セイカの手に支えられながら、ゆっくりと頼りなげに目蓋を閉じていった。その生体波形は、静かな眠りへと移行していく。セイカは彼女の寝顔を優しく見つめた後、そっと手を離し、デスクの上のコンソールへと向き直った。
細い指先が、今度は迷いなくキーボードへと滑り出す。
「……観測を再開します。……ルミナス・コア、最終調律プロセスのシミュレーション、開始。……さあ、みんな、早く帰ってきてくださいね。……私の、大好きな人たち」
静寂が戻ったソラノミの部屋で、緑色の文字列だけが、彼女の決意を映すように激しく流れ始めていた。
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ソラノミを出発し、流れる雲海を背に移動を開始した四人――ケイ、トキ、セイア、そして私。 先頭を歩く私は、通信端末の画面に「先生」の文字を表示させると、迷いなく発信ボタンを押しました。数回のコール音の後、スピーカーから聞き慣れた、けれどどこかバタバタとした様子の声が響き渡ります。
『あ、アカネ? どうしたの、こんな時間に急に連絡なんて……うわっ、ちょっと待って、そっちは危ないから――!』
背景から聞こえてくるのは、先生の焦った声と、何やら賑やかな……いや、騒がしい中国風の喧騒と爆竹のような音でした。
「ふふっ、お忙しいところ恐れ入ります、先生。少々お耳を拝借したくてお電話いたしました。……ところで先生、その背景の音、そして微かに電波に乗って聞こえる特徴的な地脈の残響……。先生、もしかして今、シャーレではなく山海経にいらっしゃいますか?」
私の指摘に、電話の向こうの先生が一瞬、息を呑んだのが伝わってきます。
『えっ、なんで分かったの!? そうなんだよ、ちょっと玄龍門と錬丹術研究会の間でトラブルがあって、今まさに山海経の本校に呼び出されて調整に走り回ってるところで……』
先生のその言葉を聞いた瞬間、隣を歩いていたケイが瞬時に端末を操作し、青いホログラムの地図を空間に展開しました。
「……先生のGPS信号を受信。位置情報を修正します。目的地をシャーレオフィスから『山海経・中央特区』へ変更。……お父さんの演算ルートを上書きします。移動時間を大幅に短縮可能です」
「さすがはケイ。仕事が早いですね」
トキが淡々とケイの頭を撫でると、ケイは少し誇らしげに胸を張っていました。
一方で、並んで歩いていたセイアは、呆れたようにふっと息を漏らしています。
「……ふふ。あまねく可能性を演算するセイカですら、先生が最初から自分たちの目と鼻の先にいるとは夢にも思わなかっただろうね。運命の糸というのは、本当に意地悪で、そして効率的だ」
私は端末を耳に当て直すと、いつもの完璧なお淑やかさの中に、どこか逃げ道を塞ぐような、底知れない笑みを滲ませて先生に語りかけました。
「そういうことですので、先生。わざわざシャーレまで行く手間が省けました。私たちは今から、先生のそのポケットの中にある『最後の一片』を……いえ、先生ご自身を『お掃除』しに向かいますね」
『えっ? お掃除って……アカネ? ちょっと待って、なんか嫌な予感がするんだけど――』
「ふふっ、どうぞそのままでお待ちください。すぐに綺麗にして差し上げますから」
カチリ、と笑顔のまま通話を切った私は、仲間たちを振り返りました。その瞳には、何より大切な存在であるセイカさんのために、そして大切な家族のために、障害をすべて叩き潰して進む爆破狂としての、極上の熱量が宿っています。
「皆さん、進路変更です。山海経へ向かいましょう。……先生がどんなに逃げ回ろうと、私たちの包囲網からは逃がしませんよ?」