未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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幕間Ⅳ
観測士の甘やかな不具合


 

 

 

 静謐な夜明けが、宇宙戦艦『ソラノミ』の静まり返った艦内に訪れようとしていた。

 この巨大な、惑星一つを容易に消し去りかねないほどの質量を持った鋼鉄の要塞を動かしているのは、広大な宇宙の広さに対してあまりにも頼りなく、そしてあまりにも強固な、僅か三人きりの家族だった。

 

 空見観測研究部の部長であり、この艦のあらゆる電子演算システム、ひいては宇宙の航路そのものを定義する頭脳を持つセイカ。その恋人であり、艦内の限られた生活資源の循環から日々の実務、そしてこの冷たい鋼鉄の塊を「家」に変えるためのすべての管理を完璧にこなすアカネ。そして、二人の大切な愛娘であり、驚異的な処理精度でメインコンソールを監視し続ける、二人の自慢の娘であるケイ。

 

 終わりなき星海の深淵を征く、孤独と隣り合わせの航海。その過酷な旅路にあって、居住区の最奥に位置する二人の寝室だけは、世界のどこよりも温かく、甘やかな「家族」の熱に満たされた、何者にも侵されざる絶対的な聖域であった。

 

 厚手の遮光天幕が厳重に下ろされた窓の隙間から、細い糸のように滑り込んでくるのは、地球のような生命の惑星が放つ、親しみ深い黄色の朝日ではない。

 船の遥か後方に遠ざかりつつある、未知の超新星残骸――ガスと宇宙塵が混ざり合い、数百万年かけて冷えていく星雲が放つ、淡く、どこか退廃的な琥珀色の宇宙光だった。

 その人工物ではない天然の光が、壁の奥で微かにハミングを繰り返す人工重力制御装置の駆動音と溶け合い、特注の広いキングサイズベッドの上にかけられた、真っ白なシーツをゆっくりと淡く染めていく。

 

 

「……ん……ぅ……」

 

 

 寝返りを打つ、擦れるような柔らかい布擦れの音。それに続いて、ベッドのシーツの海から、微かな、甘えるような吐息が漏れた。

 

 セイカはまだ、深い深い微睡みの底から這い上がれずにいた。

 ここ数日間、永久機関『ルミナス・コア』の最終調整と、今後の不安定な重力圏を回避するための航路予測演算のために、彼女の稀代の頭脳は文字通り限界まで酷使されていた。何万、何億という複雑な未来を絶え間なく駆け巡り、コンソールに並ぶ無数のシステム警告の赤ランプが、ようやくすべて「正常(グリーン)」となって消灯したのが、ほんの数時間前の深夜のこと。

 

 いつもなら、誰よりも規律正しく、冷徹なまでに正確な時間感覚で跳ね起き、自身の背筋を伸ばすはずの部長であったが、今朝ばかりは完全に、その精密な生物時計の針が錆びついたように狂わされていた。

 

 張り詰めていた数日間の緊張の糸が、最愛の恋人の隣という環境によって完全に解かれ、精神の防御壁が消え去った状態。今のセイカはただひたすらに、己の生存を維持するための絶対的な安らぎと、無条件に全てを委ねられる体温だけを、本能的に求めていた。

 

 もぞもぞと、大きな身体を縮めるようにしてシーツを手繰り寄せながら、セイカの肉体が自然とベッドの右側へと移動していく。そこに、自分のすべてを受け止めてくれる、世界で一番大好きな「熱」があることを、彼女の皮膚が、細胞が、熟知しているからだ。

 

 特注の大型ベッドであっても、彼女の「190センチメートル」という、細身でありながらも均整の取れた巨躯は圧倒的な存在感を放っていた。

 普段の艦内実務や生活の際、その背から生える漆黒の夜天を思わせる巨大な翼は、通路の移動や椅子の着席に邪魔にならないよう、完全に彼女の背中の内側へと仕舞い込まれている。

 

 しかし、睡眠時の完全な無警戒状態のせいか、あるいは恋人に抱きつこうとする無意識の情動のせいか、衣服の下の皮膚の裏で、その巨大な質量が微かに疼くように波打っていた。重い毛布の隙間から、鮮やかで深い、息を呑むほどに美しい青色の羽の先端が、ほんの僅かだけ、光を浴びて 零れ落ちている。

 

 セイカは、すぐ隣にある恋人の甘い匂いと温もりを網膜の裏のセンサーが感知すると、長い腕を迷うことなく伸ばし、アカネの細い身体を横からすっぽりと抱きすくめた。

 その抱擁は、まさにアカネを完全に「包み込む」ような形になる。

 アカネを、自分の大きな腕と胸の中に完全に閉じ込め、我が物としてこの冷たい宇宙から隠してしまうかのような、無意識かつ圧倒的な独占欲の現れだった。寝ている時のセイカは、その大きな身体に見合わず、まるで寂しがり屋の子供のように、アカネを片時も離そうとはしなかった。

 

 

「……あら。お目覚めですか、セイカさん」

 

 

 すぐ耳元、至近距離から、柔らかく、心地よい鈴の音のような声が降ってきた。

 アカネはすでに、とうに目が覚めていた。枕に頭を預けたまま、自分を完全にロックしているセイカの広い胸にすっぽりと収まり、少しだけ乱れた自身の金色の髪の隙間から、愛おしそうな眼差しを向けている。

 

 その瞳は、指示を待つ完璧な給仕のそれではなく、大人の余裕と、そして底なしの慈愛を孕んだ、細く優しい恋人の目だった。その眼差しは、窓の外に広がる宇宙の絶対零度の冷たさを、すべて一瞬で融かしてしまいそうなほどに温かい。

 

 

「……ん、……ア、カネ……?」

 

 

 セイカの長い、形の良い睫毛が微かに震えるが、その瞼は睡眠の重力に引かれて下りたまま、完全には開かない。

 あれほどの演算をこなす天才的な脳の回路は完全にフリーズしており、目の前の光景を正しく処理できていなかった。視覚情報は遮断され、世界は白く霞み、ただ、すぐ間近にアカネの甘い匂いと、自分を無条件で受け止めてくれる柔らかい白い肌があることだけが、確かな熱量として伝わってくる。

 

 

「はい、あなたのアカネです。まだ眠いようでしたら、無理に起きる必要はありません。今日の午前中は、ケイが『お父さんとお母さんは、これまでの過度な演算負荷を完全に排出すべきです』と言って、一人で艦橋のコンソールの見張りをしてくれていますから」

 

 

 アカネのシーツ越しの手が、自分を強く抱きしめるセイカの、広くて逞しい背中へと回される。

普段はどこかに格納されている、その背の大きな青い翼の付け根あたり。少しだけ筋肉が緊張して硬くなっているそこを、アカネは優しく、ゆっくりと、まるで壊れやすい精密ガラスを扱うかのような一定のリズムで撫でた。

 

 そうして、愛おしい恋人を再び深い、心地よい眠りの海へと誘おうとする。

 

 私たちの愛しい娘が、しっかりとこの広大な戦艦の心臓を守ってくれている。だから、今だけは、すべての規律を忘れて、ただの「セイカ」として私に甘えることが許されているのだと、アカネの温かい掌が雄弁に伝えていた。

 

 しかし、その心地よい皮膚への愛撫が、寝ぼけたセイカの頭の奥で、普段は理性の鍵で固く封印されている「独占欲」と「野生」のスイッチを、完全に押し切ってしまった。

 自分よりも頭一つ分以上大きなセイカに全身をホールドされながら、アカネはその心地よい重みを心ゆくまで堪能しようとしたが、不意に、セイカの長い腕の力がさらに一段、ギチリと強くなった。

 

 

「……だめ、です……。もう、捕まえました……」

 

「おや……?」

 

 

 ふにゃふにゃとした、いつもの明晰で論理的な口調からは想像もつかないほど、締まりのない声音。しかし、その甘えた言葉とは裏腹に、セイカは驚くほどの執着心で、腕の中のアカネをさらに自分の方へと強く引き寄せた。ベッドの上で、体躯を僅かに丸め、お気に入りの最高級のぬいぐるみに顔を埋めるようにして、アカネの細い首筋へと、自身の額を執拗に擦りつけ始める。

 

 

「ふふ、どうしたのですか、急に。そんなに強く抱きしめて……。さては、まだ夢の続きをご覧になっているのですね、私の格好良くて可愛い旦那さん?」

 

 

 アカネはクスリと小さく笑い、セイカの背中をなぞる手を止めなかった。寝起き特有の、いつもより少し高くなっているセイカの微熱のような体温が、たまらなく愛おしい。

 

 だが、次の瞬間、アカネの背筋に、未知の悪寒に似た、しかし甘美な衝撃が走り、その身体が微かに強張った。

 

 

「……んむ」

 

 

 アカネが制止の言葉を紡ぎきるよりも早く、セイカの小さな、しかし熱い唇が、アカネの寝衣から剥き出しになった首筋へと、隙間なく完璧に押し当てられた。

 いつもなら、理性という名の防壁を何重にも張り巡らせ、お互いの境界線をどれほど大切に、そして慎重に越えるかを論理的に組み立てるセイカである。しかし、今の彼女はその一切の社会性を忘却していた。

 ただひたすらに、自分が今抱きしめているこの温かい存在が、広い宇宙の誰のものでもない、自分だけの固有の所有物であると、肉体そのものの重みで証明しようとするかのように。

 

 セイカは、アカネの細い鎖骨の少し上、最も柔らかく、ドクドクと静かに脈打つ肉が薄い皮膚の一部を、ちゅう、と小さく生々しい音を立てて、強く強く、吸い上げた。

 

 

「っ……、あ……」

 

 

 不意を突かれたアカネの喉から、小さく、そして熱を持った、聞いたこともないような吐息が漏れる。

 普段なら、どのような予期せぬ艦内不具合や、急な戦闘状態に直面しても、完璧な笑顔と冷徹な実務能力で対応してみせる、完璧な「お母さん」であり、完璧な「給仕」であるはずのアカネ。その彼女の完璧な鉄の表情が、首筋から脳髄へと直接突き抜けた微かな痛みと、圧倒的な愛の熱量によって、一瞬にして鮮やかに瓦解した。

 

 シーツを握りしめるアカネの指先に、ぎゅっと強い力がこもる。

 自分をしっかりとベッドに縫い付けるようにロックしている、セイカの長い腕は、微動だにしない。それどころか、逃がさないとばかりに、セイカの小さな歯が微かにアカネの皮膚をカリ、と刻み、さらに深く、強く、その白い皮膚の奥にある情熱を集めるようにして、何度も何度も、熱を吸い上げていく。

 

 その瞬間、セイカの背中の奥で、普段は決して外に出さないはずの巨大な翼が、彼女の脳内で跳ね上がった感情の昂りに呼応するように、一瞬だけピクリと、大きな質量をもってシーツの裏でその鮮やかな青い色と輪郭を激しく主張した。

 

 

「せ、セイカさん……? ちょっと、それは……反則、ですよ……っ」

 

 

 アカネの声が、いつになく浅い呼吸と動揺で震えていた。

 しかし、ここで強引に引き剥がせば、繊細な恋人の心を傷つけてしまうかもしれない。何より、寝ぼけながらも、自分を完全にその大きな身体でホールドしたまま、これほどまでに激しく、暴力的なまでの独占欲を向けてくれるセイカの姿が、アカネの胸の奥にある、これまた普段は隠されている深い情動を、激しく揺さぶっていた。

 

 数秒、あるいは数十秒。

 人工の重力だけが優しく二人を縛り付ける、静かな星海の底の寝室で、二人の呼吸の音だけが幾重にも重なり合う、濃密な時間が流れていく――。

 

 静かな、本当に静かな星海の底で、二人の呼吸の音だけが幾重にも重なり合う濃密な時間が流れていた。

 どれほどの時間が経っただろうか。未知の星雲が放つ琥珀色の宇宙光は、ゆっくりとベッドの上の影の輪郭を変えていく。やがて、ぷは、と満足そうに、潤んだ吐息を漏らしながら、セイカがゆっくりとアカネの首筋から顔を離した。

 

 その小さな唇は微かに赤く濡れており、まだ半分閉じたままの睫毛の隙間から、ぼんやりとした瞳がアカネの顔を見つめている。自分が今、この完璧な給仕の鉄面皮をどれほど鮮やかに剥ぎ取ってみせたのか、おそらくその天才的な頭脳の1パーセントも理解していないのだろう。

 

 

「……ん、……あったかい……ア、カネ……」

 

 

 蕩けたような、けれど深い安らぎに満ちた声を漏らすと、セイカは再びアカネを腕の中にしっかりと抱きしめたまま、その豊かな胸元へと顔を埋めた。

 今度こそ完全に、すべての演算負荷を吐き出した彼女は、満足感の海へと沈没していく。耳を澄ませれば、すー、すー、と、驚くほど規則正しく、健やかな子供のような寝息がすぐに寝室へ響き始めた。

 毛布の隙間からわずかに覗いていた鮮やかな青い羽の先端も、主人の眠りの深化に伴って、その境界線を曖昧にするようにシーツの奥へと、再び静かに仕舞い込まれていく。

 

 残されたアカネは、しばらくの間、天井で静かに明滅する環境維持インジケーターの緑の光を見つめたまま、呆然と固まっていた。

 

 自分をすっぽりと包み込む大きな腕の、心地よい重み。それを全身で受け止めながら、空いた右手で自身の首筋にそっと触れてみる。そこは未だに、ドクドクと信じられないほど熱く拍動し、ジンジンとした甘い余韻を残していた。

 

 自分をホールドするセイカの眠りを妨げないよう、細心の注意を払いながら、アカネはベッドの脇に設置されている鏡へとそっと視線を向けた。

 

 薄暗い宇宙光の中に映し出された自分の姿――その白い首筋の、最も目立つ場所に、言い訳のしようもないほど鮮やかで、赤黒い、確固たる痕跡が刻まれていた。

 ぽつりと、まるで「この人は私のものです」と冷徹な数式で定義する代わりに、熱い肉体で所有権を主張したかのような刻印。それは、白い肌の上でひどく扇情的に自己主張している。

 

 

「……はぁ。困りましたね、本当に」

 

 

 アカネは自由な方の手で顔を覆い、深い、しかしどこか甘やかなニュアンスを含んだ溜息を漏らした。ふっといつもの大人の余裕を取り戻した微笑が口元に浮かぶが、その頬は未だに、セイカに吸い上げられた熱のせいで朱に染まったままだ。

 

 

「こんなに目立つ場所に、これほど鮮やかなものを残されるなんて……。普段の理知的なセイカさんからは、とても想像がつかない大胆さです。私を完全に閉じ込めておいて、寝ている時はまるで子供のように離してくれないのですから……本当に、ずるい人です」

 

 

 胸元で無邪気に眠り続ける恋人の、ツヤのある水色の髪を指先でそっと梳かす。

 セイカがどれほどこの『ソラノミ』の航海に全力を注いできたか、アカネは誰よりも近くで見てきた。自分と、そして二人の大切な娘であるケイという存在を乗せたこの船を、安全な未来、まだ見ぬ約束の星へと導くために、彼女は常に完璧な「部長」でなければならなかった。その反動としての甘えが、このような形となって自分に向けられたのだと思えば、首筋の痛みすら愛おしさは何倍にも膨れ上がる。

 

 しかし、同時に極めて現実的、かつ実務的な問題が、アカネの優秀な頭脳を悩ませ始めた。

 

 

「これでは今日、首元を大きく開けた普段の服は着られませんね……。スカーフを巻くか、あるいはタートルネックのインナーを引っ張り出してこなければ……」

 

 

 鏡の中の痕をもう一度見つめる。隠そうと思えば隠せるが、この船にはもう一人、極めて観察力に優れた、そして純粋無垢な家族がいるのだ。

 

 

「もし、お茶を持って艦橋へ行った際に、起きてきたケイに『お母さん、その首の赤黒い変色ログは何ですか? 毛細血管の異常不具合ですか?』と真っ直ぐな瞳で訊ねられたら……。私は一体、なんと説明すれば良いのでしょうね、セイカさん」

 

 

 うふふ、とアカネは楽しげに肩を揺らした。

「お父さんが寝ぼけて、お母さんを美味しく食べようとしたのですよ」とでも言えば、あの生真面目で愛らしい娘は一体どのような解析結果を導き出すだろうか。驚きのあまり計算エラーを起こして、顔を真っ赤にしてフリーズしてしまうかもしれない。どちらにせよ、母親としては少々刺激が強すぎる教育案件だった。

 

 

「……まぁ、それもまた、家族の愛嬌ということで、少しだけからかってみるのも悪くありませんね」

 

 

 アカネはベッドから抜け出すのを止め、再びセイカの大きな腕の中にその身を深く委ねた。

 まだしばらくは、愛しい娘が一人で完璧に艦橋のコンソールを守ってくれている。

 

 セイカの寝息はどこまでも穏やかで、その大きな身体から伝わってくる心地よい体温と、シーツの隙間に残る鮮やかな青い翼の残り香が、アカネの首筋の痕へと優しく伝播していく。

 

 窓の外には、終わりなき広大な宇宙の星海。

 その孤独な世界の中で、三人だけの完璧な家族は、今日も変わらない深い絆と、少しの不器用で甘やかな愛の痕跡を抱えながら、静かに、そして温かく、新しい一日の始まりを待っていた。

 

 

 




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