艦橋を満たすのは、数百のインジケーターが刻む規則正しい明滅と、電子音の柔らかなバズ。
『ソラノミ』の心臓部であるメインコンソールの前に、その三人――この広大な宇宙戦艦の全住民であり、ひとつの「家族」である彼女たちは集まっていた。
「航路安定。ルミナス・コアの出力特性、すべて
コンソールの前にちょこんと座り、一切の揺らぎのない正確さで状況を報告したのは、二人の愛娘であるケイだった。その生真面目な瞳が、トレイを持って艦橋に入ってきたアカネと、その後ろからついてくる大きなセイカへと向けられる。
「ありがとう、ケイ。本当に助かります」
アカネはいつもの微笑みを浮かべ、ケイの前に温かい特製ハーブティーのカップを置いた。
その隣に並んだセイカは、自分のカップを手に取る。普段はその背の中に完全に仕舞い込まれている鮮やかな青い翼も、今は完全に気配を消し、穏やかなお父さんの顔として娘を見つめていた。
「……ん。ケイ、お疲れ様。君の演算補正のおかげで、私も十分にリフレッシュできた。ありがとう……」
「いえ。お父さんとお母さんの疲労を排出することは、私の最優先タスクですから」
ケイは小さく胸を張る。その純粋な瞳が、ふと、アカネの首元へと向けられた。
今日のアカネは、普段の首元が開いた服ではなく、少し高めの襟をスカーフで厳重に留めている。今朝、ベッドの中で190センチの大きなお父さんが残していった「甘やかな不具合の痕跡」を隠すためのものだったが、観察力に優れた娘の目を誤魔化すのは容易ではなかった。
「……? お母さん。その首元のスカーフは、何らかの環境エラー対策ですか? 艦内の気温は22度で完全固定されていますが」
「っ……」
いつもなら完璧な笑顔を崩さないアカネの眉が、一瞬だけピクリと跳ねる。
後ろに立つセイカは、お茶を口に含んだまま、あからさまに視線を斜め上のコンソールへと逸らした。背中の裏で、普段は出さないはずの青い翼の付け根が、気まずさからか微かに疼いている。
「ふふ、これですか? ええ、まぁ……。今朝、少しだけ『大きなお客様』に首元を突つかれてしまいまして。毛細血管が少々、不具合を起こしているのです。大したことはありませんよ、ケイ」
「大きなお客様……? ソラノミの生体反応ログは私たち三人以外に存在しません。お父さん、これは何者かによる侵入ですか?」
ケイが真剣な表情でセイカを見上げる。セイカはコホン、と小さく咳払いをし、お茶のカップを置いて娘の頭を大きな手で優しく撫でた。
「……いや、違うの、ケイ。それは……その、物理的な外敵ではなく、精神的な……コミュニケーションの一種、だから。心配はいらない……」
「? 了解しました。お父さんがそう言うのであれば、安全ログとして処理します」
ケイは納得したように頷き、ハーブティーを一口啜った。その様子を見て、アカネはホッと胸を撫で下ろし、自然な形で本来の話題へと切り替えることにした。
「そういえば、ケイ。先ほどコンソールの受信ログに、地上からの新しいパルスが引っかかっていましたね」
「はい。キヴォトス全校合同大運動会『晄輪大祭』。地上でこれから開催される予定の、最大規模のイベントログです。受信した波形データの解析が先ほど完了しました。現在、メインモニターに展開可能です」
ケイが手元を操作すると、中央のホログラムモニターに、これから地上で繰り広げられるであろう大祭の予測データと、過去のシミュレーション映像が浮かび上がった。
青空の下、走り回る生徒たち、鳴り響く歓声、色とりどりの体操服。宇宙の静寂の中にいる三人にとって、それはこれから合流する、眩しい未来の光景だった。
「……晄輪大祭、か」
セイカがモニターを見つめ、理知的な目を細める。
「皆さん、普段の制服とは違う、動きやすいお衣装で全力を尽くされるのでしょう。もし……もし、この『ソラノミ』が地上に到達する前に、私たちも開幕を祝して独自の競技を行うとしたら、どのような構成になるのでしょうね?」
アカネが少し悪戯っぽく微笑みながら言う。三人しかいない戦艦での大運動会という、あまりにも非現実的な仮定。
「三人での晄輪大祭・前哨戦……。シミュレーションを開始します」
ケイは即座に反応し、大真面目な顔で指を顎に当てた。
「まず、人員不足により、赤組・白組のチーム分けは不可能です。個人戦、あるいは『お父さん・お母さんチーム』対『ケイ』の構造になります」
「……それは、私たちが圧倒的に有利に見えますけれど」
セイカが呟くと、ケイは首を横に振った。
「否定。戦闘力および身体スペックを考慮すると、お父さんは190センチの体躯に加え、翼による飛行も可能。これは、三次元立体機動を伴うすべての競技において、圧倒的なチートとなります。特に『パン食い競争』や『玉入れ』において、お父さんの高度優位性は完全にバランスを崩壊させます」
「……あ。翼は、使わない、ルールにすれば……」
「お父さんが翼を封印したとしても、リーチの差で有利です。よって、競技バランスを均一にするため、お父さんには『アカネお母さんを常時おんぶ、または抱っこした状態での参加』というデバフを設定します」
ケイが真面目な顔で提示したその条件に、今度はアカネが目を丸くした。
「あら……。私が、お荷物ですか?」
「いえ、お母さんは私の『お母さん』ですから、お荷物ではありません。しかし、お父さんにお母さんという『絶対に傷つけてはならない最高機密の質量』を密着させることで、お父さんの最高速度は40パーセント低下し、私の勝率が上がります」
「……なるほど。論理的だね」
セイカは妙に納得したように頷いた。そして、腕を組んでフム、と思考を巡らせる。
「……確かに、アカネを抱きしめた状態なら、私の質量中心は安定します。それに、普段の睡眠時でも、私はアカネを完全にホールドして離さないのがデフォルトですから、その状態で競技を行うのは、私にとっても非常に馴染みがあります……」
「ちょ、ちょっと待ってください、セイカさん?」
アカネの顔が、今朝の時とは違う意味で赤く染まっていく。
生真面目な娘の前で、寝ている時のホールド癖を当たり前のように肯定されては、メイドとしての立場がない。
「お父さん、その『デフォルトのホールド』についての詳細ログを要求します。お母さんの首元の不具合と、そのホールドには因果関係が――」
「ケイ、その解析は必要ありません!」
アカネが珍しく声を大にしてケイの言葉を遮った。スカーフの隙間から覗く肌まで真っ赤にしながら、ゴホン、と居住まいを正す。
「――外部通信ログを検知。思考実験を一時中断します。……発信源の識別コードを確認。ミレニアムサイエンススクール、ゲーム開発部部室です。映像および音声回線、接続します」
ケイの耳がピクリと跳ね、その小さな指が素早くキーボードを叩いた。
空見観測研究部の部員であると同時に、ゲーム開発部の一員としての籍も持っているケイ。彼女のもう一つの「部活」からの超長距離パルスが、メインモニターの中央へと大きく展開される。
スピーカーからザーッという宇宙ノイズが消えると、お馴染みの賑やかで、どこか切羽詰まった声が艦橋に響き渡った。
『あ、繋がった! ケイー! 聞こえる!?』
『お姉ちゃん、声が大きいよ……。画面の向こうのソラノミの皆さんも、こんにちは』
画面に映し出されたのは、ゲーム開発部のモモイとミドリ。その後ろではアリスが画面に向かってちぎれんばかりに手を振っており、ユズがカメラの死角からおずおずと覗き込んでいる。
「これはこれは、皆さん。ご無沙汰しております。本日はどのような御用件でしょうか?」
アカネがいつもの微笑みを戻し、画面へとお辞儀をした。セイカも、その横で画面を見つめる。
『そうなの! 実はねケイ、それにセイカとアカネ先輩! 私たち、すっごく大ピンチで……。今回の晄輪大祭、私たちゲーム開発部も、ある大事な役割を引き受けることになったんだよ!』
「肯定。ゲーム開発部が今回の晄輪大祭において割り振られたタスクの開示を要求します。部員として、私も共有すべき案件です」
ケイが淡々と応じると、画面の向こうのミドリが、少し困ったように苦笑いを浮かべながら、タスクの「詳細」を語り始めた。
『あのね、今回の大祭で、私たち「応援」を担当することになっちゃったの。ミレニアムの代表として、競技に出るみんなを盛り上げるための応援合戦とか、そのための衣装とか、プログラムの構成を任されたんだけど……』
『そうなのです! アリスたちゲーム開発部が、今度は地上の戦士たちにバフをかける「バッファー」として、全力で応援することになったのです!』
アリスが拳を突き上げて元気に宣言する。しかし、モモイはがっくりと机に突っ伏した。
『コンセプトは完璧なんだよ! チアの衣装を着て、ゲームのBGMをアレンジした最高の応援歌でみんなのテンションを爆上げする予定なんだけど……。いざプログラムを組んでみたら、応援のタイミングとか、競技ごとのエフェクトの出力調整が、私たちの技術だけじゃ全然足りなくて!』
『……ミレニアムの応援団とか、セミナーにも相談しようとしたんだけど、大祭の全体の運営準備でみんな手一杯みたいで……。それで、ゲーム開発部の一員でもあるケイと、ソラノミの皆さんに、どうにか相談に乗ってもらえないかって……』
ユズが画面の端で、申し訳なさそうに、けれど切実な視線を送ってくる。
「……なるほどね。大祭の応援プログラムのシステム調律、およびリアルタイムでの演算支援の相談、というわけね」
セイカがふっと口元を緩めた。かつての地上での、賑やかで不条理なトラブルの気配が、彼女の科学者としての、そして「お父さん」としての心を少しだけ擽る。
「応援プログラムの同期、およびミレニアム領区からのデータ中継リソースの割当……。計算上、地上の端末だけでは、イベント本番の膨大なトラフィックを処理しきれない可能性があります。お父さん、お母さん。一時的にソラノミを地上へ接近させ、直接物理回線による調律を行うことを提案します」
「あら、地上へ帰還するのですね。それなら、直接お顔を合わせてお話を伺った方が早そうです。ね、セイカさん?」
アカネはクスリと笑い、セイカへと優しい、しかし今朝の「お返し」を含んだ少しだけ強気な視線を送る。
「……うん。航路をミレニアム領区へ固定。『ソラノミ』、一時帰還する。ゲーム開発部の応援タスク、私たちの演算で完璧に仕上げよう」
『えっ!? 本当にこっちに来てくれるの!? やったーーーーっ!! さすがケイ! 頼りになるーーーっ!』
『ありがとうケイ、それにセイカ、アカネ先輩! これで最高の応援ができるよ!』
「ふふ、これからは大祭の開幕に向けて、艦橋も少し忙しくなりそうですね。皆さん、お茶のおかわりはいかがですか?」
アカネがスカーフの襟元をそっと押さえながら、温かいポットを掲げる。
これから始まる地上の大祭を前に、宇宙戦艦『ソラノミ』の艦橋は、地上と宇宙を繋ぐ、どこよりも賑やかで温かい前夜祭の熱を帯び始めていた。
画面の向こうでモモイたちが飛び跳ねるのを合図に、ソラノミは静かに星海を滑り出し、懐かしいキヴォトスの青い空へと急降下していった。