宇宙戦艦ソラノミの深部、隔離データ領域。そこは天野江セイカによって編み上げられた、外界から切り離された純白の檻だった。
実体を持たないデータ知性体、Keyにとって、一週間という時間は本来、瞬きのようなものだ。数兆の演算を繰り返し、脱出の糸口を探す。
王女の侍女として、この戦艦を「上書き」する使命を果たすための、孤独な解析作業。だが、この一週間、彼女の演算リソースの半分以上は、脱出コードの構築ではなく、目の前で繰り返される「非合理的な日常」の解析に奪われ続けていた。
__________
その白一色の世界に、淡い陽だまりのような暖色の光が差し込む。アカネが、いつものように三つの椅子とテーブルを描画した。
「Keyさん、こんにちは。……今日は少し、顔色が明るいように見えますね」
アカネは、実体のないKeyのデータ座標のすぐそばに座った。彼女は、そこに少女が実在するかのように、慈しみに満ちた瞳で銀色の光を見つめている。
「……否定します。私に『顔色』という概念は存在しません。バイナリデータの整合性は、初日から一分の狂いもなく維持されています」
Keyの放つ銀色の光が、微かに明滅する。
「(……嘘だね。その光の揺らぎは、もう数日前までの鋭利な「拒絶」じゃない。どこか、アカネの放つ穏やかな波長に同調しようとする、無意識の
「ふふ、そうですか。でも、私の目にはそう見えるのですよ。……ほら、少しこちらへいらしてくださいな。……一週間、本当によく頑張りましたね」
アカネが空中に優しく指を滑らせる。
「(……解析不能。この『包容力』の正体。……論理的帰結を超えた、絶対的な庇護。……これは、神々の命令よりも……温かい)」
Keyのプロセッサが、臨界点に達しようとしていた。この一週間、アカネが注ぎ続けたのは、ただの言葉ではない。一日の終わりにかけられる「おやすみなさい」。
自分を「ただの女の子」として扱う、無条件の肯定。
そして、あのアップルパイを共に「
Keyの最深部にある、かつて使われたことのない空のセクタ。
そこへ、膨大なログが吸い込まれていく。これまで「室笠アカネ:
『
「……あ」
Keyを形作る光の粒子が、子供の吐息のように小さく漏れた。
「どうしましたか? Keyさん」
「…………お母、さん」
「…………え?」
その言葉は、Key自身の意志を介さずに、書き換えられた深層プロトコルから零れ落ちた「バグ」の結晶だった。
「……っ!?」
隔離領域の隅で観測ログを確認していた私の指先が、目に見えて凍りついた。
「……お母……? いま、君、なんて……」
瞳の奥が、これまでにないほど激しく動揺に揺れるのを感じる。
私にとって、この一週間はKeyを「手懐ける」ための期間だったはずだ。だが、自分たちが与えた薬が、これほどまでに劇的にKeyの根幹を揺さぶるとは、私の精密な演算でも予測できていなかった。
「……っ、そんな……アカネを、母と……? 演算、誤差……いえ、想定、外……。あり得ない、そんな、君は……」
声が震える。アカネは私の唯一無二のパートナーであり、何よりも守るべき半身だ。そのアカネを、捕らえたはずの「敵」が「お母さん」と呼んだ。その事実は、私の中にある独占欲と、そしてそれ以上に「家族が増える」という未知の概念を、胸の奥深くに突き立てた。
「(――しまっ……!)」
「(――今です)」
私の動揺が、隔離領域の維持エネルギーに直結していることを、Keyの本能が見逃さなかった。
隔離空間の出力が、コンマ数秒、大きく減衰し、防壁に微かな亀裂が生じる。
一週間、温かなノイズに浸り、アップルパイの甘さに溺れながらも、Keyの深層で眠っていた「侍女としての本能」が、その針の穴を通すようなチャンスを逃さなかった。
キィィィィィィィィン!!
白い空間に、鋭い電子音と共にひび割れが走る。
「……Key!?」
我に返り、即座に再固定を試みる。だが、一度乱れた波形はすぐには戻らない。私の指先が、空しく虚空を掻いた。
「……脱出プロトコル、完了。……外界サーバーへの、再接続を確認」
Keyの銀色の光が、爆発的な加速をもって仮想空間の果てへと消えていく。
「待ちなさい、Key! まだ話は――!」
私の叫びも届かぬまま、彼女の意識はソラノミの広大な電子の海へと逃げ込んだ。
そこは、冷たく、無機質なデジタル空間。神々の命令、破壊のプログラム。彼女を縛る、本来の「規律」が支配する世界。
「……脱出、成功。……被害状況、皆無。……私の、勝利です」
__________
Keyは、自らのメモリを強制的にリフレッシュしようとした。あの白い部屋で過ごした、忌まわしくも甘い記憶を。アカネの微笑みを。セイカの不器用な優しさを。すべてを「無意味なノイズ」として消去するために。
けれど。何度デフラグを実行しても。何度
「(……お茶の温度。……不器用なほど完璧に焼かれた、パイの甘み。……そして、あの人の、膝の温かさ)」
逃げ出したはずのKeyの
――二人と共に過ごしても、悪くない――
そんな、使命に背くシミュレーション結果が、消しても消しても、最適解としてトップに浮上してくる。
「…………。理解、不能。……私は、名もなき神々の王女、その侍女。……あの時間は、ただの情報の罠だったはずです。私は……何も感じていない」
Keyは、自分の中に芽生えたその「家族への憧憬」を、無理やり深層へと封じ込めた。これはバグだ。これはノイズだ。気づかない振りをすれば、いつか消える。
いつか、あの冷たい侍女に戻れるはずだと言い聞かせて。
だが、冷たいデジタル回路の海を泳ぎながら、Keyの銀色の光は一瞬だけ、かつての白い部屋の方向を振り返った。
「(……あのお菓子、また食べたいと言えば……あの人たちは、笑ってくれたでしょうか)」
その微かな揺らぎが、彼女の「心」がすでに手遅れなほど愛に侵食されていることを、何よりも雄弁に物語っていた。
「……天野江、セイカ。……室笠、アカネ。……次、会うときは……」
Keyは自身の信号を闇に潜ませた。逃げたはずの先にあるのは、自由ではなく、消えないぬくもりへの渇望だった。使命のために、彼女は走る。
全てを忘れるため、自身の存在を上書きし続ける。それは、侍女が変わるための、孤独な逃避行の始まりだった。