ミレニアムサイエンススクール、セミナー執務室。
外の世界の喧騒から完全に隔離されたその空間には、私の手元にあるポータブルコンソールが発する、極小の電子冷却音だけが冷たく響いていた。
壁一面に配置された超高解像度のメインモニターには、天文学的な行数の数式と、不気味なほど綺麗なフラットを描くエネルギー制御グラフが明滅している。それは、ミレニアムの如何なる天才たちも成し得なかった、完全なる永久機関の証明だった。
「――以上が、昨日をもって完全制御化に成功した、次世代永久機関『ルミナス・コア』の最終同期ログ、および永久機関の最適化データです」
私の指先が、空間に浮かぶホログラフィック・ウィンドウを軽くフリックする。
提出されたその完璧なロジックを正面から見つめるセミナーの3人の視線が、一瞬にして凍りついたのを私は捉えていた。
「……信じられないキヴォトスの既存の物理法則そのものを『逆算された必然』によって上書きしている……。セイカ、あなた本当に、これを一人で組み上げたの?」
最初に沈黙を破ったのは、生徒会長であるリオだった。
いつもは冷徹極まる彼女の瞳が、今ばかりはあり得ない計算式を前にして、驚愕に微かに見開かれている。彼女の脳内でも今頃、この数式がもたらす未来の可能性について、猛烈な速度で再計算が行われているに違いない。
「ちょっと、セイカ……! データの整合性はセミナーのメインサーバーが保証しているけれど、この消費演算量、まさかあなた……ここ数週間、一度もを休んでいないんじゃないでしょうね!」
ユウカが算出された天文学的な負荷の数値に気づき、弾かれたように席から立ち上がった。
私を呼ぶその声には、技術者としての驚きだけでなく、後輩が犯した「生命維持プロトコルを無視した無茶」に対する、本気の怒りと焦燥が混ざり合っていた。
「ふふ、驚くのも無理はありませんよ。……でも、私の計算に、狂いはありませんから……」
いつものように、不敵に胸を張って言い返すつもりだった。
ミレニアムの最高頭脳たちを相手に、私という存在の絶対性を誇る――それは私のプライドであり、観測士としての存在意義でもある。
だが、私の口から出たのは、自分でも驚くほど掠れた、消え入りそうな呟きだった。
――カチリ。
脳の最深部で、何かが完全に切れる音が聞こえた。
この数週間、ルミナス・コアを完成させるために、それこそ命を削るようにしてノンストップで演算を続けてきた。ソラノミのベッドに横たわっている時でさえ、私の脳内CPUは臨界駆動を維持し、数式のバグを排し、完璧な未来を削り出すための計算を実行し続けていたのだ。
昨日ようやくすべての調律を終え、そして今、ミレニアムの最高頭脳たちにその絶対の証明を提出し、完全に受理された瞬間。
「すべてが終わった」と脳が認識した途端、これまで気力とアドレナリンだけで無理やり維持していた私の並列演算プロセッサが、音を立てて灰へと変わっていく。
視界が急速に色を失い、ホワイトアウトしていく。
立っているはずの膝から一切の感覚が消え、私の身体は、重力に従って床へと崩れ落ちた。
「セイカ!?」
「セイカちゃん!?」
ユウカの悲鳴のような声と、ノアが手帳を落とす音が遠くに聞こえる。
だが、私の肉体が無機質な床へと激突することはなかった。ふわりと、私の身体を受け止めるように、驚くほど柔らかく、そして温かい「何か」が滑り込んできたからだ。
「……お疲れ様です、セイカさん。本当に、本当によく頑張りましたね」
頭上から降ってきたのは、世界で一番大好きな、すべてを包み込むような蜂蜜色の声音。
隣に控えていたアカネが、私の限界をミリ秒単位で予測していたかのように、スクールバッグを音もなく床へ放り出し、その両腕で私の身体を完璧に抱きとめていた。
「あ、かね……。私は、どうやら……完全に、オーバーヒートしてしまった、ようです……」
指先ひとつ動かせない。
セミナーの先輩たちの目の前だというのに、こんな無防備な姿を晒すなんて、普段の私なら絶対に容認しないロジックだ。けれど、今の私の脳細胞は、周囲の目を認識するだけの余力すら残っていなかった。
「ええ、知っていますよ。あなたがどれほど強固なロジックで武装していても、中身はただの、私の無茶苦茶な頑張り屋さんなのですから」
視界が反転し、私の頭はアカネの膝の上へと収まる。
いつも私を包み込んでくれるメイド服の柔らかなフリルは、そこにはない。視界に飛び込んできたのは、ミレニアムの制服の上から彼女が羽織っている、ベージュの柔らかなニットカーディガンだった。
ウールの少しルーズで優しい質感。そこに私の顔が深く沈み込んだ瞬間、生地越しに伝わってくるアカネの圧倒的な体温と、室笠アカネという最愛の存在の絶対的な安心感が、私の冷え切りかけた脳幹を優しく、どこまでも甘く包み込んでいった。
「ちょっと、アカネ!? ここセミナーの執務室……って、言おうとしたけど、それどころじゃないわね……。セイカ、顔色が真っ白じゃない……!」
ユウカが慌てて私たちの元へ駆け寄ろうとするが、アカネはその動きを、いつもの物柔らかで完璧な微笑み一つで制してみせた。同じミレニアムの仲間としての体裁よりも、恋人として、そして母親としての深い慈愛が勝っている。
「ユウカさん、申し訳ありません。私の愛しいセイカさんは、今お砂糖が完全に枯渇してしまっているのです。ここからのデータ解説は、彼女のデバイスに添付されているケイの自動ログに切り替えていただけますか?」
「え、ええ……分かったわ。会長、これ以上の追求は今は無理です。すぐに保健室の医療カプセルを――」
「いいえ、ユウカちゃん。その必要はありません」
ノアがそっとユウカの肩に手を置き、開いたままの手帳を胸元で閉じながら、困ったように、けれど本当に優しく目を細めて私たちを見つめていた。
「今のセイカちゃんに必要なのは、お薬でも高度な医療設備でもありませんから。……ね? アカネさん」
「ええ。ノアさんの仰る通りです」
アカネは小さく微笑むと、私の髪を、その細い指先でゆっくりと、慈しむように梳き始めた。
カーディガンの温もり。髪を撫でるアカネの指の心地よさ。そのご奉仕を受けるたび、私の頭の中に残っていた複雑な数式の残滓が、綺麗なノイズ消去のように消え去っていく。
「……あかね、熱い、です……。脳の冷却ファンが、完全にロックされて、動かない……」
「ふふ、構いませんよ。オーバーヒートしてもう動けなくなってしまったら、私がこのままソラノミのベッドまでお姫様抱っこして連れて帰って、一生、お世話して差し上げますから」
耳元で囁かれる、最高に甘くて、独占欲の滲むような優しい声。
セミナーの先輩たちが見守る前だというのに、私は恋人の制服のスカートを、残された微かな力できゅっと握りしめ、さらにそのカーディガンの胸元へと深く、深く顔を埋めた。
リオは提出されたホログラムの数式群を見つめたまま、静かに息を吐き出した。
「数週間、ほぼノンストップでソラノミの演算システムと同等の処理を脳内で行っていたのね。ユウカ、彼女のバイタルデータをセミナーのシステムと同期させて。異常値が出たらすぐに私が介入するわ」
「言われなくても、もう同期させてます、会長……。でも、本当に異常なのはその精神力ね。これだけの負荷がかかっていれば、普通なら脳が焼き切れて気絶しているはずなのに。……アカネが隣にいるから、安心して今になって落ちたのね」
ユウカの声には、呆れと、それ以上の深い感嘆が混ざっていた。
ミレニアムにおいて、計算力とは力そのものだ。1年生でありながら、セミナーの面々すら戦慄させる結果を叩き出したセイカ。しかし、その中身は、恋人のカーディガンに顔を埋めて、小さな子供のように丸まっている少女でしかなかった。
「素晴らしい記録ですね」と、ノアは静かに手帳にペンを走らせる。
「ルミナス・コアの完成。そして、天才観測士の完全なる機能停止。これはミレニアムの歴史に、極秘事項として、けれど最も美しい奇跡として記録されるべきです」
__________
先輩たちの会話は、もはや私の脳にはノイズとしてすら処理されなくなっていた。
私の世界は今、アカネの膝の上の、わずか数十センチメートルの空間だけで完結している。
いつもなら、ソラノミの部屋で、完璧に整えられたベッドの上で、アカネのメイド服のエプロンに顔を埋めていた。あの白くて清潔なフリルの感触も大好きだが、今のこの、ミレニアムの制服の上に羽織られたベージュのニットカーディガンの質感は、特別に脳を融解させる。
少しルーズな編み目の隙間から、アカネの皮膚の体温がダイレクトに伝わってくる。ウール独特の、ほんの少しカサついた、けれど圧倒的に柔らかい温もりが、私の頬を包み込んでいる。
「セイカさん、そんなに力を入れなくても、私はどこにも行きませんよ」
アカネの手が、私の背中に回され、ゆっくりと一定のリズムで叩き始める。
トントン、トントン、と。それはまるで、演算プロセッサのクロック数を、強制的に「急速睡眠」の領域へと引き下げていくための、絶対的なメトロノームのようだった。
「……私は、負けなかった、からね……。キサキとの、約束を……たがえるわけには、いかなかった……」
誰に言うでもない、ただの独り言のような弱音が、アカネのカーディガンの中に吸い込まれていく。
この数週間、私は恐怖していた。完璧に制御できなければ、キサキの体内に存在する毒を除去できない。それは、私の友人を失うことを意味していた。
だから、私は眠れなかった。1%でも、0.0001%でも不具合の可能性が残っている限り、私の脳は演算を止めることを拒否したのだ。
「ええ、知っています。あなたがどれほどの不条理と戦ってくれたのか。……でも、もう因果は固定されました。未来は安全です。ですから、もうやすんでいいのですよ、私の可愛いセイカさん」
アカネの指が、私のこめかみのあたりを優しくマッサージするように円を描く。
脳に溜まった疲労物質が、その指先によって物理的に押し流されていくかのような錯覚を覚える。張り詰めていた前頭葉の緊張が、急速に解けていく。
「アカネ……」
「はい、セイカさん」
「……帰ったら、オムライス、作って……。お砂糖、多めの、甘いやつ……」
「ふふ、お安い御用です。卵もふわふわにして、ケチャップで大きなハートを描いて差し上げますね。だから、今はその体を休めてください」
その言葉を聞いた瞬間、私は本当に完全なシャットダウンシークエンスへと移行した。
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コンソールの上に表示されたルミナス・コアのデータを見つめながら、リオはふと、ソファーの上で完全に静かになったセイカに視線を移した。
水色の髪がアカネのベージュのカーディガンの上に広がり、まるで糸が紡がれているかのように美しい。先ほどまで、セミナーを相手に凛とした態度で不敵な笑みを浮かべていた1年生の少女は、今や完全に意識を失い、アカネの太ももに顔を押し付けている。
「……可愛いわね」
と、リオがぽつりと言った。
「え? 会長、何か言いました?」
「いいえ、何でもないわ、ユウカ。ただ、彼女がミレニアムにいてくれて良かったと、そう思っただけよ。これほどの頭脳を、もし他の学園や、あるいは大人の組織に利用されていたら、キヴォトス全体のバランスが崩壊していたわ」
リオの言葉に、ユウカも静かに頷いた。
「そうね。……でも、彼女をミレニアムに繋ぎ止めているのは、その大層な計算のロジックじゃなくて、ただの『恋人の膝枕』みたいだけど」
ユウカは少し呆れたように、けれど本当に嬉しそうに微笑んだ。
「アカネ、あなたも大変ね。こんな規格外の天才を恋人に持って、四六時中振り回されているんでしょう?」
問いかけられたアカネは、セイカの髪を梳く手を止めることなく、どこまでも上品に、そして誇らしげに目を細めた。
「いいえ、ユウカさん。私はこれ以上ないほど幸せですよ。セイカさんは世界を書き換えるほどの天才ですが、私の前では、こうして私なしでは眠ることもできない、ただの可愛い女の子なのですから。……これを特権と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう?」
その言葉には、一切の迷いも、謙遜もなかった。
恋人としての絶対的な自信と、セイカに対する全幅の信頼。それを見たノアは、「素晴らしい関係性ですね」と、手帳のページをさらにめくった。
「すべてを計算し尽くす観測士が、唯一、計算を放棄して身を委ねられる場所。……室笠アカネという存在そのものが、天野江セイカにとっての、もう一つの永久機関なのかもしれませんね」
「ふふ、ノアさんは相変わらず詩的な表現がお上手ですね」
アカネは小さく笑うと、セイカの体が冷えないように、自分のニットカーディガンの裾を少し引っ張り、彼女の肩を覆うようにして掛け直した。
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私の意識は、深い闇の底へと沈降していく。
――アカネ。
私は心の中で、何度もその名前を呼ぶ。
私が徹夜でコンソールに向かっている時、冷めないように何度も温め直した紅茶を置いてくれたのはアカネだった。
私の並列演算が限界を迎えて、頭痛にのたうち回っている時、その冷たい手で私の額を優しく冷やしてくれたのもアカネだった。
「……ん、……ぁかね……」
無意識のうちに、私の唇からかすかな音が漏れる。
アカネは私の小さな動きを見逃さず、さらに上体を屈めて、私の耳元にその温かい息吹を寄せた。
「はい、ここにいますよ、セイカさん。私はどこにも行きません。あなたのプロセッサが完全に冷えるまで、ずっとこうして抱きしめてあげますからね」
その言葉が、私の脳内に残っていた最後の1ビットの緊張を完全に融解させた。
今、この瞬間の温もりこそが、私の導き出した因果の、唯一にして絶対の最適解なのだから。
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セミナー執務室の窓から、夕暮れの茜色の光が差し込み始めていた。
ホログラムの数式群は静かに明滅を続け、世界が新しく生まれ変わったことを無言で告げている。
「ユウカ、ノア。今日の会議はここまでにするわ」
リオは静かに立ち上がり、自分の黒いコートを整えた。
「ルミナス・コアの提出データに関しては、セミナーとして完全に受理する。これ以上の追究も、彼女への追加のタスクも当面は凍結。天野江セイカには、最低でも1週間の『完全休養』を命じるわ」
「了解したわ、会長。……っていうか、命令されなくても、彼女、当分は動けないでしょうね」
ユウカはソファーの上で完全に寝息を立て始めたセイカを見つめ、苦笑した。
「アカネ、もし運ぶのが大変なら、セミナーの移動用車両を使ってもいいわよ? ソラノミまで送らせるわ」
「お気遣いありがとうございます、ユウカさん」
アカネは上品に一礼しながらも、セイカを抱きかかえる腕に少し力を込めた。
「ですが、大丈夫です。私の恋人は驚くほど軽いですから。……それに、こうして甘えてくれている時間を、もう少しだけ堪能したいのです」
「ふふ、ごちそうさまです」
と、ノアは楽しそうに微笑んだ。
「セイカちゃんが起きたら、セミナーのみんなが『本当によくやった』と褒めていたと、そう伝えてあげてくださいね」
「ええ、必ず」
セミナーの3人が静かに部屋を後にし、自動ドアが閉まる音が響く。
広大な執務室に残されたのは、制服姿のアカネと、その膝の上で灰になって眠る1年生のセイカの二人だけだった。
アカネは夕日に照らされるセイカの寝顔を、愛おしそうに見つめていた。
いつもは生意気で、理知的で、誰よりもプライドの高い私の観測士。その彼女が、今はすべての武装を解いて、自分のカーディガンに顔を埋めている。
「本当にお疲れ様でした、セイカさん」
アカネはそっと唇を寄せ、セイカの額に、静かな、けれど深い愛を込めたキスを落とした。
人類の叡智を超える永久機関の完成。数週間に及んだ過酷な戦いの終着点に待っていたのは、冷徹な勝利の数式ではなく、この世界で一番柔らかくて温かい、最愛の人の膝枕という名の、絶対的な揺り籠だった。
外の世界のロジックなんて、もうどうでもいい。
セイカはアカネの心地よい体温と、絶え間なく注がれる無償の愛にプロセッサのすべてを委ねながら、セミナー室の静寂の中で、深い、深い眠りの底へと、満たされたまま沈んでいくのだった。