ソラノミ医務室の調律、あるいは少女たちの落とし物
宇宙戦艦ソラノミの最重要区画である医務室は、外界の喧騒を一切寄せ付けない、完璧な静寂に満たされていた。
部屋の中央、そのすべてを見下ろす位置に鎮座する永久機関『ルミナス・コア』。
かつては冷徹な金属の光沢を放っていたその球体は、今や完全なる調律の瞬間を迎えていた。天野江セイカによる、執念とも言える幾千幾万の数式添削、および最後の一片たる青輝石の完璧な同調プロセスは、数週間という気の遠くなるような時間を経て、すでに百パーセントの完了を見ている。
コアの内部から溢れ出すのは、吸い込まれそうなほどに深く、そしてどこまでも優しいエメラルドグリーンの光粒子だった。
それはまるで、生き物の呼吸に合わせて明滅するように、静かに、しかし力強く部屋全体へと湛えられている。この光こそが、遥か山海経の地で苦しむ門主・キサキを蝕み続けている毒の因果律を、根底から相殺し、書き換えるために用意された究極の救済であった。あとは、その対象がこの部屋に足を踏み入れ、システムを起動する、ただそれだけの段階に達している。
「よし……。これでいつキサキさんたちがお見えになっても大丈夫ですね。床も、コンソールも、分子一つ残さないレベルで磨き上げました」
チリ一つない完璧な「お掃除」を終えた室笠アカネが、満足げにメイド服のエプロンをそっと整え、極上の微笑みを浮かべた。
彼女の指先によって磨かれたコントロールパネルは、鏡のように部屋の光を反射している。アカネにとって、この部屋の不純物を徹底的に排除することは、これから迎える大切な客人、そして何よりも、自分が「お母さん」として支えるべき家族の領域を美しく保つという、絶対的な矜持の現れであった。
「お母さん、ありがとうございます。こちら側の生体データ受信ポートも、今の掃除で完全にノイズが消去されました。……お父さん、数式の安定度は依然として九九・九九九八パーセントを維持しています。医療システムの受け入れシミュレーション、および緊急時のバイパス経路の確保もすべて完了。お迎えの準備は万全です」
サブコンソールの前で、小さな手を忙しなく動かしていた娘のケイが、やり切ったというように小さな胸を張った。
その瞳には室笠家の一員としての、および高度なシステムとしての絶対的な自信が宿っている。ケイはコンソールの横に丁寧に並べられたティーカップへと視線を落とし、トレイを持ち上げた。そこには、みんなのために淹れてくれた温かいお茶の湯気が、優しく立ち上っている。
「……ありがとうございます、ケイ。ケイがバックアップにいてくれたから、私の演算も最後のコンマ数秒を詰めることができました。……完璧な調律、ですね。ふふっ」
メインコンソールの前に腰を下ろしていた天野江セイカが、キーボードからそっと指を離し、振り返った。
観測士として世界のバグを睨みつける時の張り詰めた空気は、今の彼女にはない。自分を「お父さん」と慕うケイの健気な姿、迅速にサポートしてくれるアカネの存在に包まれて、その美しい紫の瞳は、穏やかな温度を纏っていた。
「ふふ、セイカさん、お疲れ様です。さあ、キサキさんたちが到着される前に、ケイが淹れてくれたお茶で少し一息つきましょう? 私、新しくお湯を沸かしてきますね」
アカネがセイカの肩にそっと手を置き、柔らかく微笑みかける。
セイカはその手の温もりを感じながら、「……ええ、そうさせてもらいましょうか。……ありがとう、アカネ」と、少し照れくさそうに微笑んだ。アカネは自ら積極的に給湯スペースへと動き、新しくお湯を沸かし始める。その様子は、巨大な宇宙戦艦の心臓部とは思えないほどに、絵に描いたようなホームアットホームな日常の風景そのものだった。
「相変わらず、見事な家族の調和だね。ここにいると、自分が宇宙の特異点に迷い込んだか、あるいは極上の家庭劇を特等席で見せられているかのような錯覚に陥るよ」
そんな室笠家の温かい光景から、少し離れた位置に設置された応接用のソファー。
そこに深く腰掛け、ケイが淹れてくれた紅茶のカップを傾けていた少女――トリニティ総合学園のティーパーティーのホストであり、空見観測研究部と兼部している百合園セイアが、鈴の鳴るような声で小さく笑った。
3年生としての気品と、どこか浮世離れした神秘的な雰囲気を纏う彼女は、その大きな狐耳を微かに揺らしながら、部屋の中央で輝くルミナス・コアへと視線を向ける。
「セイカ。君が成し遂げたこれは、失われた因果そのものを『添削』し、本来あるべき正しき形へと世界を書き換える不遜なる試みだ。……青輝石を用いた治療の結実。一人の予言者として、これほど興味深く、あるいは祝福すべき瞬間に同席できる栄誉を、私は神に感謝しなければならないね」
「……セイア、それは大袈裟ですよ」
セイカはカップを口に運びながら、ふふっ、と柔らかく微笑んで視線を逸らした。
「私はただ……不条理なバグが目の前にあるのが、少し不愉快だっただけですから。それに、私一人ではこの数式は完成しませんでした。……アカネのお掃除と、ケイの最適化があってこその……『最適解』なんです」
その様子を見て、セイアの隣に座っていた人物――先生が、優しく目を細める。
"うん、本当に素晴らしいよ、セイカ、アカネ、ケイ。みんな、本当にお疲れ様。ルミナス・コアの輝きを見ているだけで、どれほど大変な調整だったかが伝わってくるよ。キサキも、これならきっと安心して治療を受けられるはずだ"
先生は手元のコーヒーカップをローテーブルに置き、室笠家の3人へと温かい視線を送った。
このプロジェクトが始まって以来、先生は彼女たちの苦闘をずっと傍で見守ってきた。完璧に完成されたシステム、あるいは信頼できる仲間たちと家族の笑顔。キサキたちの到着を待つこの時間は、極上のオアシスのような穏やかさに満ちていた。
そんな完璧な平穏が保たれていた医務室の、ちょうど部屋の隅に当たる一角。
そこには、室笠家のホームアットホームな空気とは明らかに異なる、独特のマイペースな空気感を放つ二人の少女の姿があった。
一人は、ミレニアムサイエンススクール「C&C」所属のエージェント、トキ。
先生の絶対的な安全を確保するための護衛として、この部屋に直立不動の姿勢のまま佇んでいる。そしてそのすぐ隣、医療用の簡易ベッドの縁に腰掛け、だらしなく足をぶらつかせているのが、彼女の呼びかけで動員された特異現象捜査部の1年生――エイミであった。
エイミはいつも通り、ジッパーをかなり低い位置まで下げた独特の制服姿のまま、大きな胸元をはだけさせている。室内の完璧な空調などどこ吹く風といった様子で、彼女は眠たげな視線を部屋の中央へと向けていた。
「……綺麗。……ねえ、トキ。あの大きい丸いやつ、ずっと見てると、なんか目がチカチカする。……でも、すごく綺麗な緑色」
エイミは指先で自分の前髪をいじりながら、ぽつりと呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、隣のトキが首を九十度回転させ、エイミを凝視する。
「エイミ。あの球体はセイカによって完全に調律された永久機関『ルミナス・コア』です。単なる『丸いやつ』ではありません。適切な敬意を払うべきです」
「……んー。よく分からない。難しいことはトキにお任せ。……それより,トキ。やっぱりここ、ちょっとあったかいね……。さっきから、胸のあたりが、じんわりする……」
エイミが制服の襟元を手でパタパタと仰ぐ。トキはすかさず、その無防備な同行者の様子を冷徹な視線で見つめ直し、ビシッと一歩前に足を踏み出す。
「エイミ。ここはソラノミの最重要医療区画です。私のC&Cの先輩である、アカネ先輩の完璧な『お掃除』と、ケイの最適化によって、室温および湿度は一分一秒の狂いもなく管理されています。『あったかい』などという主観的なバグは存在し得ません。だらけてはいけません。シャキッとしてください」
トキは真面目な顔で、エイミの乱れた襟元を直そうとする。そもそも、エイミがここにいるのは、トキが「今回の同行任務において、彼女の戦闘能力は最強の保険になる」と大真面目に判断し、逃げ出さないように特異現象捜査部の制服のフードを後ろからガシッと掴み、そのままここまで連行してきたのだった。
「私は、先生の絶対的な安全を確保するために、あなたを連れて参りました。そのような緊張感を欠いた態度では困ります。……ピース」
トキは真顔のまま、お馴染みの不器用なピースサインをエイミの目の前に突きつけた。
エイミはその指をぼんやりと見つめながら、「……トキ、それ、流行ってるの?」と、全く緊張感のないトーンで問い返す。
「はい。これは私のアイデンティティであり、任務への覚悟を示すコードです。エイミも真似をすると良いでしょう」
「……んー、パス。指を動かすの、ちょっと面倒くさい……」
ソファーの席からその二人のやり取りを眺めていたセイアは、思わずクスクスと肩を揺らした。
「ふふ、ミレニアムの生徒というのは、本当に個性の見本市のような場所だね、先生。あの直立不動のメイドエージェントと、緊張感という概念をどこかに忘れてきたかのような少女。二人の噛み合わない問答は、聞いていて飽きないよ」
"あはは……。トキもエイミも、根はすごく真面目なんだけどね"
先生は苦笑いしながら、新しくお湯を沸かしてくれたアカネの姿を見届ける。キサキたちの到着を待つこの時間は、実に穏やかに流れていた。
そんな温かい時間が流れていた医務室に、シュウ、という滑らかな油圧の音とともに自動扉が開く。
室内に足を踏み入れたのは、ワイルドハント芸術学院の気品ある制服を端正に着こなした小柄な少女――レナだった。
彼女は部屋に一歩入った瞬間、そこに広がるエメラルドグリーンの美しい光粒子、そして何よりも、メインコンソールの前に佇む天野江セイカの姿を視界に捉え、一瞬だけ息を呑んだ。
「(……あ、あわわわ……っ! セ、セイカさん……! セイカさんがすぐそこに……っ! お、落ち着きなさい私、今はワイルドハントの生徒として、礼儀正しく振る舞うべき時よ……!)」
内心で激しい限界オタクの葛藤を爆発させ、心臓を爆速で高鳴らせながらも、レナはそれを表に一ミリも出さないよう、すっと背筋を伸ばした。ワイルドハントの生徒としての気品を保ち、まずは部屋の主たちへと丁寧にお辞儀をする。
「失礼するわね、先生。みんなもお騒がせしてごめんなさい。……あの、実は、先日の誕生日パーティーの時に、この部屋に私の髪飾りを忘れてきちゃったみたいで……」
育ちの良さを感じさせる丁寧な言葉遣い。だけど、どうしても照れくささと、憧れのセイカの前で完璧でありたいというプライドが混ざり合い、少しだけツンと澄ました、背伸びしたタメ口になってしまう。
「……別に、失くしてもそこまで困るようなものじゃないけれど、お気に入りだったから……その、もし見つかればと思って」
「ふふ、わざわざご丁寧にどうも、レナちゃん。ええ、ちゃんとお預かりしていますよ。こちらの安全な場所に保管してあります」
アカネが上品に微笑みながら棚へと向かい、丁寧に刺繍が施された可愛らしい布製の髪飾りを取り出した。
「はい、こちらですね。傷一つついていませんよ」
「あ……! ありがとう、アカネ先輩……! お手数をおかけしちゃって、ごめんなさい」
レナは両手で大切に髪飾りを受け取ると、心底ホッとしたように胸に抱きしめた。そして、すぐ近くのコンソールに視線を向けつつ、極力平静を装ったツンデレなトーンで言葉を続ける。
「……それにしても、素晴らしい調律ね。ワイルドハントの芸術的観点から見ても、このエメラルドグリーンの光の波形は……完璧に計算され尽くした、至高の芸術のようだわ。……ええ、これほどの数式を組み上げられるのなんて、この世界に、ただ一人しかいないと思うけれどね」
レナはチラリと、本当に一瞬だけセイカの方を見つめ、すぐに頬を赤く染めて視線を逸らした。口には決して出さないが、その瞳には熱い崇拝と憧れの色がハッキリと宿っている。
__________
「……ん。はじめまして」
ベッドの縁でその様子を眺めていたエイミが、ゆっくりと上体を起こし、レナへと声をかけた。
「私はエイミ。ミレニアムの1年。……その制服、ワイルドハントのだね。すごく綺麗。……よろしく、レナ」
「あ、はじめまして、エイミちゃん。私はレナ。こちらこそ、よろしくね」
レナは突然の自己紹介にも、ワイルドハントの生徒としての礼儀を崩さず、綺麗に一礼を返す。しかし、ジッパーを大きく下げたエイミのあまりにも無防備でマイペースな姿に、少しだけ調子を狂わされたように目を丸くした。
「……あの、エイミちゃん? 差し出がましいようだけど、その……お洋服のジッパーがかなり下がっているみたい。風邪をひいちゃったら大変だし、少し直した方がいいんじゃないかしら……?」
相手を気遣う優しさを見せつつも、少しツンとした調子で指摘するレナ。しかしエイミは、全く気にする様子もなく前髪をいじった。
「……んー、大丈夫。ここ、すごくポカポカしてて、あったかいから。……レナは、寒くない?」
「え? ええ……確かに、このお部屋はとても温かくて、居心地が良いわね。……だけど、身だしなみを整えるのは芸術の基本なんだから……っ」
エイミの境界線のない独特の距離感に、レナは少し頬を染めながらも、一生懸命に自らのペースを保とうとしている。その横から、トキがビシッと一歩前に踏み出した。
「レナさん、補足説明を行います。今回の護衛任務において、彼女の戦闘力は極めて有用であると私が判断し、身柄を物理的に確保して同行させました。ピース」
真顔で繰り出されるトキの不器用なピースサインと、「物理的確保」という不穏な言葉に、レナは思わず困り顔を浮かべた。
「物理的に、って……トキちゃん、いくら任務とはいえ、他部活の子を無理に連れてくるのは少し感心しないわ。お散歩の邪魔をしちゃったのなら、エイミちゃんにちゃんと謝らなきゃダメよ?」
「……うん。後ろからフードを掴まれて、ズルズルって。ちょっとびっくりした」
エイミの証言に、トキは真顔のまま「否定します。あれは最も合理的な――」と言いかけ、レナは「合理的でも、女の子を引っ張るのはお行儀がよろしくないわ!」と、優しく、しかし的確にツッコミを入れた。
__________
そんな1年生たちのやり取りを、メインコンソールの前から見守っていた室笠家の面々。
「ふふ、1年生の女の子たちが集まると、本当に華やかですね。セイカさん、あの子たちを見ていると、なんだかソラノミが学校の放課後の部室か何かのよう見えてきませんか?」
アカネがセイカの隣で、楽しそうに囁いた。
セイカはコンソールの画面から目を離し、レナたちを見つめながら、ふふっ、と柔らかく息を抜いた。
「……賑やかなのは嫌いではありませんが。ここは最高精度の医療室です。あの子たちがいると、部屋の平均バイタルデータが『賑やか』という、定義不能の数値で満たされてしまいますね。……まあ、算式の安定度に影響がない以上、注意する理由もありませんけれど」
口では理屈っぽい文句を並べながらも、セイカの紫の瞳はどこまでも優しく細められていた。
そして――セイカがこちらを振り返り、その美しい声で言葉を発した瞬間、レナの全神経がそちらへと集中した。
「(わ、わわわわ……! セイカさんが、私の方を見て……『嫌いではない』って……! 今、私の方を見ていってたよね!? ああ、どうしよう、頭のコンソールがオーバーヒートしそう……っ! でもダメよレナ、取り乱してはワイルドハントの名が廃るわ。あくまで冷静に……!)」
レナの胸の奥のセイカオタク精神が限界を迎え、絶叫をあげている。しかし、表向きの彼女は、ただ少しだけ姿勢を正し、おすまし顔で髪飾りをパチンと髪に留めてみせるに留まった。普段は絶対にこの熱い思いを口には出さない。それが彼女の矜持だからだ。
「お父さん、脳細胞の活性化には糖分の補給が有効ですが、先ほどからのコーヒーの摂取量は計算上、健康を著しく害する領域に達しています。直ちにカフェインおよび糖分の追加投入を停止すべきです」
サブコンソールの前で、小さな手を正確に動かしていたケイが、メインコンソールのセイカへ向けてピシッと厳しい視線を向けた。
「……ふふ。ケイ、私の脳内演算を侮らないでください。これくらいの糖分、ルミナス・コアの数式添削に比べればバグのようなものです。……ですが、そうやって私の健康管理を気にかけてくれるのは、やはり、私の自慢の娘ですね」
セイカがふふっ、と柔らかく微笑みながら、何気なく父親としての絶対的な信頼を口にした。
――その瞬間、ケイの論理回路に想定外の幸福が叩き込まれた。
「――ッ!? じ、自慢、の……娘……っ!? お、お父さん、今の発言はあまりにも抽象的かつ情緒的であり、数値化不可能な好意の押し売りです! 私はただ、お父さんの健康維持がソラノミの演算効率に直結すると具申しただけであって、け、決して『お父さんに褒められたくて監視していた』などという、浅ましいマザボ思想に基づいた行動ではありません! ログの全削除を要求します……っ!」
それまでの雰囲気が一瞬で完全崩壊し、ケイは顔を真っ赤にして早口でまくしたてた。処理落ち寸前のCPUのように目が泳ぎ、自分の言葉の矛盾でさらに自爆していく姿は、絵に描いたようなファザコン娘そのものだった。
「ふふ、セイカさん、ケイをあまりからかってはダメですよ? 照れ隠しでオーバーヒートしてしまいますから」
新しく淹れた温かい紅茶のトレイを持ったアカネが、蜂蜜のように甘い声音でクスリと笑いながら、二人のやり取りに加わった。
「お母さん……っ。お母さんまで私をからかうのは、極めて不条理です……」
ケイはさらに顔を真っ赤に染め上げると、今度はアカネのメイド服の裾を小さな手できゅっと握りしめた。お父さんには早口で反論するが、母親としての絶対的な包容力を持つアカネの言葉には、絶対に逆らうことができない。そのままアカネの淹れた紅茶の香りを胸に吸い込み、生真面目なトーンで全幅の信頼を口にする。
「……ですが、お母さんの淹れた紅茶は、私の生体パラメータを最高効率でリラックスさせます。この配合比率は、ミレニアムの科学力をもってしても再現不可能な、絶対的な正解です」
「あら、嬉しい。ありがとうございます、ケイ。……さあ、その最高効率の紅茶を、あそこの賑やかな1年生の女の子たちにも届けてあげてくれませんか? レナちゃんや、トキちゃん、エイミちゃんたちとも、もっとお話ししたいでしょう?」
「了解しました、お母さん」
ケイはアカネの手からトレイを受け取ると、名残惜しそうに服の裾から手を離し、トレイを落とさないよう最新の注意を払いながら、タタタッとレナたちが待つ1年生の輪へと駆けていった。
「みなさん、お茶のお代わりは必要ですか? お母さん特製のハーブティーです。摂取することで精神の安定度が九九・八パーセント向上します」
再びお堅いトーンに戻りつつも、どこか誇らしげに声をかけるケイ。レナやトキ、エイミたちがその小さな給仕係を笑顔で迎え入れる。それぞれの学園も、抱えている事情も全く異なる少女たちが、ただ「お茶を飲む」という日常の一点において完璧に同調している。その姿は、ひとつの美しい奇跡のようでもあった。
__________
完璧なまでの静寂と、それに溶け合う少女たちの他愛のない笑い声。その奇跡的な調和は、このまま永遠に続くかのように思われた。
――しかし。
世界のバグは、往々にして最も美しい瞬間に、最も無慈悲な形でその牙を剥く。
ピピッ――ピピピピピピピ!
突如として、医務室の静寂を切り裂くような、甲高い警告音が鳴り響いた。
それは、それまで完璧な緑色の文字を刻み続けていたセイカのメインコンソールから発せられたものだった。
「……っ!?」
真っ先に反応したのは、やはりセイカだった。彼女の紫の瞳が、一瞬にして穏やかな家族のそれから、冷徹な観測士の鋭さへと戻る。細い指先が、流れるような速度でキーボードを叩き、警告の発生源を特定していく。
「お父さん! 山海経特区のデータリンクに、急激な暗号化パケットの増大を検知しました! 通常の通信経路が遮断されています!」
サブコンソールに飛びついたケイが、悲痛な声を上げる。
「通信妨害……? いいえ、これは単なる電波妨害ではありませんね。山海経のメインフレームそのものが、内側から強制的に書き換えられています。……極めて強引で、悪意に満ちた形跡です」
アカネがコンソールの画面を覗き込み、その美しい眉を不快そうにひそめた。
「先生、これは……」
トキが即座に先生の前に立ち、その身を盾にするように構える。エイミもまた、それまでの眠たげな目を完全に開き、いつでも戦闘行動に移れるよう武器のトリガーへと手を伸ばしていた。レナは突然の事態に「何が起きたの……!?」と、髪飾りに手を添えながら、緊張の走る室内の空気に表情を引き締めた。
"セイカ、状況は!?"
先生がメインコンソールへと駆け寄る。百合園セイアもまた、大きな狐耳を緊張に震わせながら画面を凝視した。
「……山海経からの緊急暗号通信です。発信源は玄龍門。……ミナさんからです。強制接続を敢行します!」
セイカが最後の一鍵を静かに、しかし強く叩きつけると、大型メインモニターにノイズの走る映像が映し出された。
『――先生! セイカ! 聞こえるか!?』
画面の向こうに映し出されたのは、満身創痍の玄龍門のミナの姿だった。
「ミナさん! 一体何が起きているのですか!」
『……クーデターだ! 申谷カイによる幼児化事件が勃発し、玄龍門の本営が完全に包囲された! 連中の散布した秘薬のせいで、山海経特区は完全に閉鎖……戒厳令が敷かれている! それだけではない……! カイの使った不純物のせいで、キサキ門主の御身にある毒が、最悪の形で共鳴を始めてしまった……! 門主様のバイタルが、急激に危険域へと低下している!』
「そんな……! ルミナス・コアは今、ここで百パーセント完成しているというのに……!」
ケイが悲痛な声を上げる。すぐ目の前に、いつでもキサキを救える完璧なエメラルドグリーンの光があるのだ。それなのに、対象であるキサキがそこへ辿り着けないという、あまりにも理不尽な現実。
『ルートは完全に遮断された……! カイの息がかかった武装集団が封鎖している! 門主様の御身は、我々玄龍門が命に代えても死守するが……そちらのソラノミへ向かうことは、もはや物理的に不可能となった……! 申し訳ない、先生、そちらへは行けない……!』
ザザッ――ブツッ。
激しい閃光とともに、モニターの映像が完全に途切れ、砂嵐へと変わった。
医務室に、再び沈黙が訪れる。すべての希望が遮断されたかのような、あまりにも重苦しい絶望の沈黙。
「通信、完全にロストしました」
ケイが落胆したように肩を落とす。レナは「そんな……キサキちゃんが……。……先生、何か、何か手立てはないの……っ!」と、ツンとした態度を忘れて必死に先生を見つめた。
百合園セイアも、悔しげに狐耳を伏せ、拳を強く握りしめている。
「……ここまで来て、不条理な因果がまた牙を剥くか。運命というのは、どこまで残酷に少女たちを弄べば気が済むのだろうね」
――だが。
その絶望の沈黙を、一人の少女の、恐ろしいほどに冷静で、および絶対的な確信に満ちた言葉が切り裂いた。
「……いえ、問題ありません」
全員の視線が、メインコンソールの前へと向けられる。
そこにいたのは、セイカだった。彼女の細い指先は、通信が切れた今もなお、止まることなくキーボードの上を猛烈な速度で走り続けていた。
"セイカ……?"
先生がその名を呼ぶ。セイカは振り返ることなく、ただ紫の瞳に絶対的な傲然たる光を宿らせ、静かに、けれど明確な丁寧語で告げた。
「キサキさんがこちらに来られないというのなら……私たちの確定事項を、変更する理由にはなりませんから。……ただの一つのバグ風情が、私の完成させた最適解の邪魔をするなんて、少し……許せませんね。ふふっ。……来られないのなら、私たちが直接、そこへ行くだけです」
「(せ、セイカさん……! なんて、なんて知的な格好良さ……っ! ああ、もう本当に、一生付いていきます……っ!!)」
その圧倒的な格好良さに、レナの心の中のセイカオタクは完全に限界を迎え、尊さのあまり天を仰ぎそうになっていた。だが、必死でそれを理性で抑え込み、ワイルドハントの生徒として毅然と前を向く。
セイカのその宣言は、彼女の知的なスタイルを崩さないまま放たれた、最高にスマートな逆逆転劇の始まりだった。
「お父さん……! 了解です! ソラノミのメインスラスター、起動!」
ケイの目が、一瞬にして戦闘用の輝きへと変わった。
「ふふ、そういうことなら、私のお掃除の出番ですね。セイカさん、お掃除のエリアをソラノミ全体、および山海経特区の全電脳領域まで拡張します。……汚れは一文字残さず、電子的に『デリート』してしまいましょう」
アカネが極上の、しかしどこか恐ろしい微笑みを浮かべながら、戦闘用ハッキングコンソールを展開した。
「……ええ、アカネ。そのゴミ溜めのような妨害電波を、綺麗さっぱり片付けてあげてください。……ケイ、絶対防御の計算に、ブレはありませんね?」
「はい、お父さん。私たちの家族の領域に、これ以上の不純物の侵入は許しません。ソラノミの艦首防壁、出力最大で展開します!」
室笠家の3人の、息の合った完璧なチームワーク。
セイカの演算、アカネのお掃除、そしてケイの絶対防御。家族の絆だけで、ひとつの学園の危機をねじ伏せようとするその圧倒的なカタルシスに、先生もセイアも、思わず鳥肌が立つのを感じていた。
「……素晴らしいね、セイカ。これこそが、理不尽に対する最高の『添削』だ。ケイ、私も手伝おう」
百合園セイアがソファーから立ち上がり、ケイの隣に立ち不敵に笑う。先生もまた、力強く頷いた。
"よし、みんな! キサキを救いに行こう! トキ、エイミ、レナ! 宇宙戦艦ソラノミ、山海経特区へ向けて――抜錨だ!"
「了解しました、先生。C&Cのエージェントとして、先生の絶対的な安全を確保しつつ、不純物の排除を敢行します。ピース」
トキが真顔のまま、今度は戦闘への決意を込めた完璧なピースサインをビシッと決める。
「……ん。私も、のんびりできる空間を邪魔する奴らは、ちょっと嫌い。……お掃除、手伝うよ」
エイミが武器の安全装置を解除し、不敵に目を細めた。そして、レナもまた、胸の髪飾りをギュッと握りしめ、ワイルドハントの誇りと、憧れのセイカと同じ戦場に立てる密かな喜びを胸に、凛とした声で宣言する。
「オカルトの陰謀だろうが、クーデターだろうが……私の前で、不条理な暴力が通ると思わないことね! カイという人の不作法、私が徹底的に正してあげるんだから! キサキさんは、絶対に助けるわ!」
ツンとした強がりの裏にある、確かな正義感と礼儀、そしてセイカへの熱い忠誠。
ゴゴゴゴゴゴ……!
ソラノミの巨体が、激しく鳴動を始める。
天野江セイカの理不尽なまでの知的な格好良さと、室笠家の愛の力が、今、戦場と化した山海経の真上へと、傲然たる宇宙戦艦を降臨させようとしていた――。
わざわざ生身で傷つく必要などない。
医務室のコンソールの前で、家族の絆と、セイカの圧倒的な天才のロジックによって、世界をスマートに「添削」する。
「宇宙戦艦ソラノミ、連邦捜査部シャーレのもと、武力介入を開始する」
セイカの宣言とともにソラノミは山海経へと向かうのだった。