『ソラノミ』が、重力の枷を完全に振り切り、大気圏外へと消えていく。雲海を鋭く割り、天へと昇っていくその眩い残光を、地上の租界から見上げる者たちがいた。
天上の静寂とは対照的に、そこは文字通りの泥沼であり、鉄火と硝煙の渦が荒れ狂う最前線であった。
申谷カイの息がかかった武装集団の数は、こちらの予測を遥かに上回っていた。路地裏から、崩れたビルの影から、黒い戦闘服に身を包んだ不穏分子たちが、次々と銃火を吐き出しながら距離を詰めてくる。
乾いた銃声がコンクリートを激しく削り、跳弾の甲高い音が鼓膜を刺す。地上の引力に縛られたこの戦場は、一歩足を踏み外せば底なしの沼へと引きずり込まれる、最悪の混濁の地であった。
「は、払い下げ品のポンコツ銃なんかで、この衣斐レナが舐められると思ってんじゃないわよ! 私だって意地があるんだからね!」
戦線の一角、崩れかけたレンガ壁の影で、レナは愛銃を構えながら精一杯の虚勢を張って叫んでいた。ツインテールを激しく揺らし、舐められたくない一心でガチガチに背伸びをして尖っている。しかし、その額には大粒の汗が滲んでおり、引き金を引く指先には隠しきれない緊張が走っていた。
「(……ここで私が無様な姿を晒したら、ワイルドハントの、オカルト研究会の名が廃るし。何より、あの気高くも美しいセイカさんが天の上で戦っているんだから……その地上を守る私が、こんな雑魚相手に怯むわけにはいかない……!)」
押し寄せせる弾雨の恐怖に心臓が激しく脈打つが、レナは唇を強く噛み締め、必死におすまし顔を維持していた。背伸びした言葉とは裏腹の、真剣そのものの鋭い眼差しで前方の敵をしっかりと見据え、正確に狙いを定めて引き金を引き絞る。
「おい、そこの不審者ども! 私の行く手を阻むなら、蜂の巣にしてあげるんだから!」
レナが必死に銃火を放つ隣で、アカネはいつもの物静かな笑みを湛えたまま、手慣れた手つきで新しい指向性爆薬の信管をセットしていた。その仕草には焦りも、恐怖もない。あるのは、家事を片付けるかのような淡々とした義務感だけだ。
「おや、レナさん、今日も元気があって素晴らしいですね。ですが、あまり前に出すぎると、お洋服が塵芥で汚れてしまいますよ」
「ちょっと、アカネさん! 私は別に子供扱いされたくて背伸びしてるんじゃないだし! それに、この状況でなんでそんなに落ち着いていられるのよ!?」
「ふふ、お掃除の前には、深呼吸が大切ですから。先生、そこで頭を下げていてください。少しばかり、換気が激しくなりますので」
アカネが引き金を引いた瞬間、路地を埋め尽くしかけていた武装集団の足元が、激しい閃光とともに吹き飛んだ。轟音が大気を震わせ、爆風が敵の隊列を容赦なく引き裂いていく。煙の向こうで、怯んだ敵が悲鳴を上げる。
だが、敵の物量は文字通りの「暴力」だった。爆炎を強引に突き抜けるようにして、装甲化された自動歩兵ユニットと、盾を構えた重装兵の分隊、その隙間を縫うようにカイ派閥の生徒たちが路地を完全に埋め尽くしながら前進してくる。左右のビル群の上層階からも、一斉にクロスファイアの射線が先生たちの位置へと集中した。
「チッ……本当にキリがないな。まるで質の悪いB級映画の悪役のように、湧き出てくる」
ミナが愛銃のボルトを激しく引き、迫る敵を正確に撃ち抜くが、重装兵の盾に弾かれる。
「……暑い。この戦場、熱気がこもりすぎ。ジッパー、もう少し下げたい」
エイミがいつもの露出度の高い衣装の首元を気怠そうにパタパタと仰ぎながら、平然と歩み出る。飛び交う銃弾の嵐など最初から気にも留めていない様子で、彼女はただマイペースに佇んでいた。
「ここから先は、一歩も通しません」
飛鳥馬トキが淡々とアビ・エシュフを構える。
誰もがここを正念場だと覚悟した、その瞬間。
前線のど真ん中へ、流れるような美しさで歩み出た影があった。黒と白の完璧にアイロンがけされたエプロンドレス。室笠アカネである。
「皆様、少し下がっていただけますか? 汚れ仕事は、メイドの役目ですので」
アカネの顔から、いつもの穏やかな笑みがフッと消えた。代わりにその双眸に宿ったのは、絶対的な「拒絶」と、冷徹極まるプロフェッショナルとしての光だった。
——ここから、室笠アカネの凄惨なまでの「お掃除」が始まった。
彼女は遮蔽物から完全に身を乗り出すと、信じがたい速度で路地流を疾走した。迫り来る弾雨の軌道を完璧に見切っているかのように、わずかに上半身のブレだけで銃弾を紙一重でかわしていく。
重装兵の分隊が驚愕して盾を構え直した時には、すでにアカネはその懐へと潜り込んでいた。手にしたサプレッサー付きの銃が、至近距離から盾の覗き窓へと正確に、無慈悲に撃ち込まれる。パン、パン、と抑え込まれた発射音が響くたびに、重装兵が崩れ落ちていく。
それだけではない。アカネは倒れゆく敵の肩を器用に踏み台にすると、そのまま軽やかに空中へと跳躍した。
スカートの裾が美しく翻り、その内側に仕込まれていた無数のクレイモア爆薬と指向性散弾が、まるで花弁が舞い散るように左右のビル群の上層階へと正確に投擲される。
「一網打尽、です」
空中でアカネが起爆スイッチを押した。
刹那、左右のビルの窓枠が一斉に内側から吹き飛び、凄まじい爆炎と鉄の散弾がスナイパーたちを完全に圧殺した。激しい衝撃波が路地を駆け抜け、爆風が周囲の瓦礫を乱舞させる。
着地したアカネの背後からは、さらに別の重装甲車両が轟音を立てて突入してこようとしていた。しかし、アカネは振り返りもせず、あらかじめ地面に仕込んでおいた特殊なワイヤー爆薬の残りのスイッチを、親指一つで弾いた。
——ズガァァァァン!!
車両の真下のコンクリートがV字型に陥没し、数トンはある装甲車がまるで玩具のように生々しく宙を舞って横転した。炎上する車両の残骸から傷だらけの敵兵が這い出そうとするが、そこへアカネは笑顔のまま、容赦なく手榴弾を転がしていく。
「ふっ……見事なものだな。ノワール映画の冷徹な暗殺者でも、ここまで鮮やかにはいかないさ。……すまない、あまりの過激さに少々見惚れてしまったな」
ミナが冷や汗を流しながら、愛銃の銃口を上に向ける。
「アカネ先輩、相変わらずお掃除の火力が容赦ないね」
エイミが紙パックのストローを咥えたまま、感心したように呟いた。
「アカネ先輩の活躍により、私の出番がありません、先生」
トキもまた、アビ・エシュフの照準を下げて淡々と告げる。
レナはその圧倒的な光景に息を呑み、愛銃を強く握りしめていた。
「(アカネさん……! お掃除ってレベルじゃないでしょ! 街ごと消し去る気なの!? でも、これだけ無双して道を切り開いてくれているんだから、私がここで立ち止まるわけにはいかない……!)」
アカネは爆炎と黒煙を背にしながら、再びいつもの物静かな、上品な笑みをその顔に浮かべて、エプロンのシワをパパッと払い、先生の方へと歩み寄る。
「お粗末様でした。ですが先生、まだ奥から『ゴミ』が湧いてきているようです。少々、根が深い汚れですね」
アカネの言う通り、彼女が一人で一箇所の方面を完全に消滅させたものの、別の路地からはさらに膨大な数の武装集団が、今度こそ先生たちを包囲しようと雪崩れ込んできていた。
戦況は、膠着から完全な「掃討戦」へと移行しつつあった。しかし、敵もさるもの、申谷カイが山海経の闇に潜ませていた私兵集団の物量は、底が抜けたかのように次から次へと路地を埋め尽くしていく。
「ふむ。波状攻撃の手際だけは評価してあげてもいいですが……いかんせん、効率が悪すぎますね」
返り血の一滴すらエプロンドレスに寄せ付けないまま、アカネは路地のど真ん中で平然と呟いた。彼女の足元には、先ほど彼女自身が「お掃除」した重装兵たちの無力化された身体が、まるで不燃ゴミの袋のように積み重なっている。
アカネの視線の先、崩壊した大通りの向こうから、今度は二足歩行型の大型自動無人兵器が三機、地面を揺らしながら突進してきた。その両腕にマウントされたガトリング砲が、凶悪な駆動音を立てて回転を始める。
レナは物陰から身を乗り出し、恐怖で震えそうになる足を強引に踏みしめ、銃口をロボットの関節部へと向けた。
「レナ、叫ぶと喉、乾くよ。水分補給、重要」
エイミが相変わらずのマイペースさで、ストロー付きの紙パックを差し出す。
「い、いらないだし! 私は今、めちゃくちゃ集中してるんだから!」
「トキちゃん、右の機体の関節駆動系、装甲の隙間を狙えますか?」
アカネはいつもの上品な所作で耳をふさぐ仕草をしてみせた後、エプロンのポケットから端末を取り出し、トキへと指示を出す。
「了解。アカネ先輩の要請を承認。ターゲットを右の無人機に固定。……チェスにおける『ルック』の動きで、直線的に粉砕します」
無表情のまま進み出たトキの背後で、アビ・エシュフの超大型レールガンが火花を散らす。
一閃。
空気を一瞬で真空に変えるほどのプラズマの奔流が放たれ、右側の無人機は、その自慢の複合装甲ごとドロドロに融解しながら消滅した。
中央の無人機がアカネに向けてガトリングの弾幕を文字通り「面」で浴びせかけてきた。コンクリートの地面が凄まじい勢いで削られ、砂塵が視界を覆う。
その砂塵の奥から、信じられない速度で飛び出してきた影があった。
「——お掃除の基本は、上から下へ、奥から手前へ、ですよ」
アカネは弾雨の僅かな隙間を「踊るように」すり抜けていた。彼女の手には、いつの間にか極細のワイヤーが握られている。無人機が砲身を旋回させるよりも早く、アカネはその巨体の周囲を滑らかに周回した。
一瞬にして無人機の首回りと関節部に鋼線が巻き付けられ、アカネはその端を、近くの頑丈な鉄柱へと強引に固定する。
「難分解性のゴミは、細かく裁断して処分するのが鉄則です」
アカネが手元のトリガーを引くと、鋼線に高周波の振動が走り、無人機の頑強なアームが火花を散らしながら切断された。
「残るは、あと十機……だね!」
爆炎を切り裂いて突撃してきたのは、玄武商会の会長、ルミだった。彼女は手にした銃を正確に無人機のセンサーアイへと叩き込み、視界を奪う。
「レイジョ、仕込みはバッチリだよ!」
「はい、ルミ会長。それでは失礼して——気を引き締めていきましょう!」
レイジョが無人機の足元へと滑り込む。非の打ち所がない美しい姿勢からの、強烈な震脚。その衝撃が地面を伝わり、数トンはある無人機の巨体をわずかに「浮かせた」。
そこへ、ルミの容赦のない射撃が炸裂する。
「うちの店の厨房を荒らされるよりは、こいつを壊す方がずっと簡単だよ! ほら、飛んでけ!」
凄まじい衝撃波とともに、最後の一機が瓦礫の山へと叩きつけられ、激しく爆発した。
「ルミ、それにレイジョも!」
ミナが叫ぶ。その表情には、明確な安堵の色彩が浮かんでいた。
「先生、ご無事でしたか。全身全霊でお守りします。さあ、参ります!」
レイジョは先生の姿を確認すると、深く一礼し、すぐさま生真面目な声音で前衛へと躍り出た。彼女の繰り出すカ風の打撃は生真面目な性格そのもののように正確で、容赦なく武装集団を無力化していく
ルミとレイジョの乱入によって、すでに壊滅状態だった武装集団にとどめを刺す形となった。
突如として真横から戦線を切り裂かれた敵兵たちが、驚愕の声を上げる間もない。レイジョは地面を鋭く踏み締めると、低い姿勢のまま一瞬で敵の懐へと滑り込んでいた。
「ハッ——!」
無駄のない精密な動作から放たれた強烈な掌打が、先頭にいた重装兵の分隊長の胸板へ直撃する。その一撃は、分隊長が構えていた頑強な盾のバリスティック・ガラスを内側から粉砕し、数トンはあろうかという衝撃となって彼の巨体を後方の瓦礫へと叩きつけた。さらにその背後に控えていた兵士たちをも巻き込み、ボーリングのピンのように敵の列が崩れていく。
「レイジョ、そのまま低姿勢をキープ!」
ルミが弾むような声で叫びながら、レイジョの頭上を飛び越えるようにして空中へ跳躍した。
キビキビとしたリズムでルミの愛銃が火を吹く。放たれた銃弾は、レイジョの突破によって生じた敵陣の死角、すなわち後方から回り込もうとしていた自動歩兵ユニットのセンサーアイを寸分の狂いもなく正確に撃ち抜いた。火花を散らして機能停止する機械の巨体を、ルミは着地の勢いを利用した流麗なカンフーの蹴りでさらに蹴り飛ばし、接近しつつあった別の一隊へと衝突させて足止めする。
「あはは、みんな、相変わらず無茶苦茶やるね。でも、助っ人が来たからにはもう大丈夫だよ。……ま、本当はこんな泥だらけの戦場に来るって分かってたら、もっと可愛い下着にしたのに、ちょっともったいなかったかな?」
「ルミ先輩、戦闘中に何を言っているんだ君は……!?」
「ちょっと! ルミさんまで何ふざけたこと言ってるのよ! 下着の話なんて今関係ないだし、そもそもかわいいのにしたら汚れちゃうじゃない!」
ミナとレナの叫び声が硝煙の中に響くが、ルミは「あはは!」と笑顔を崩さない。しかし、その双眸の奥にある光は、恐ろしいほどに冷徹で据わっていた。
「冗談はこれくらいにして……さあ、ここからは山海経の街を荒らしたお仕置きの時間だよ!」
それと同時に、敵側も必死に息を吹き返そうと、手薄になった左翼側から新たな重装甲車を突入させてきた。その銃口が、先生とレナたちのいる遮蔽物へと一斉に照準を合わせる。
「……あいつ、邪魔」
エイミが重装甲車の射線上へと平然と歩み出た。
敵の機銃が咆哮を上げ、激しい弾雨がエイミの周囲を襲う。コンクリートが粉々に砕け散り、凄まじい砂塵が彼女の身を包むが、エイミは眉一つ動かさない。ただ「暑いなぁ……」と呟くかのようなマイペースさで立ち尽くし、その圧倒的な存在感だけで、敵の射線と注意を完全に自分へと引き付け、固定していた。
「トキ、今です。エイミが作ってくれた射線をそのまま利用してください」
戦場全体を冷徹に見据えていたアカネが、すかさず端末へ向かって鋭い指示を飛ばす。
「了解。アカネ先輩の要請を完全承認。……ターゲットの駆動系、および動力源の座標をロック。アビ・エシュフ、最大出力」
無表情のままエイミの背後から進み出たトキの肩部から、ミレニアムの最高峰たる兵器群が、その銃口を一斉に重装甲車へと向けた。
次の瞬間、大気を焦がすプラズマの奔流と、追尾ミサイルの群れが一点へと集中する。装甲車は回避行動をとる余裕すら与えられないまま、その自慢の複合装甲ごとドロドロに融解し、内側から激しく爆発して四散した。
「は、ハン! 私だって負けてないんだから! セイカさんが天上で頑張ってるんだから、その足元を汚すような雑魚どもは、この私が一匹残らず駆逐するわ!」
爆発によって生じた煙を切り裂き、レナが遮蔽物から飛び出した。
彼女は舐められたくない一心で、恐怖を完全に押し殺しておすまし顔を維持していた。愛銃を両手でガチガチに固定し、反動に耐えながら、ルミとレイジョの猛攻によって瓦解し、敗走を始めようとしていた敵の残党へ向けて正確に銃弾を叩き込んでいく。ワイルドハントの芸術的矜持、および天上のセイカへの絶対的な敬意が、彼女の引き金を引く指をこれ以上ないほど力強く支えていた。
「素晴らしい連携ですね。では、私も仕上げの『お掃除』を」
アカネが不敵な笑みを浮かべ、エプロンのポケットから大量の手榴弾をジャグリングのように滑らかに空中へ放り投げた。
ルミの射撃、レイジョの蹴り、トキの火力、およびレナの猛射によって完全に一箇所に追い詰められていた武装集団のど真ん中へ、その手榴弾が正確に転がっていく。
——ズガァァァァン!!!
この日一番の凄まじい爆炎が大通りを包み込み、すべての悪意の残滓が木っ端微塵に吹き飛ばされた。逃げ惑う敵のわずかな残党たちも、ミナの冷静な追撃によって確実に無力化されていく。
「ふっ……見事なものだな。君の瞳に乾杯……いや、この状況で言うセリフではなかったか。すまない、ノリで言っただけだ! 先生、地上の敵集団の鎮圧、これにて完了だ」
ミナが少し照れくさそうに銃口を収め、先生に向かって親指を立ててみせた。
「ふぅ、ようやく片付きましたね」
アカネはいつの間にか取り出したハンカチで、先生の服についた小さな煤汚れを丁寧に拭き取りながら、いつもの物静かで上品なメイドの笑みをその顔に浮かべた。
「レナさんも、お疲れ様でした。素晴らしい立ち回りでしたよ」
「当たり前でしょ! 私だって、ちゃんと役に立ったんだからね!」
レナは顔を真っ赤にしながらも、どこか誇らしげに胸を張った。
その瞳には、恐怖に打ち勝ち、最後まで守り抜いた、確かな強さが宿っていた。
大通りを埋め尽くすのは、完全に沈黙した機械の残骸と、戦意を喪失して地面にへたり込んでいる不穏分子たちだけだ。地上の脅威は、彼女たちの圧倒的な絆と戦力によって、完全に鎮圧されたのだった。