未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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孤高の因果と、泥濘の火花

 

 

 

 無数の自動兵器の残骸が転がり、黒煙の燻る山海経の租界。

 激しい掃討戦を終えた大通りには、重苦しい静寂と、戦い抜いた者たちの荒い息遣いだけが響いていた。

 

 アスファルトは抉れ、建物のコンクリートは無残に剥き出しになり、鉄筋が飴細工のようにひん曲がっている。空気中に充満しているのは、焼けたオイルと硝煙、配置された電子基板が融解した際の特有の刺激臭だ。つい数十秒前まで、ここが凄惨な鉄と血の戦場であったことを、音のない瓦礫の山が証明していた。

 

 

「ふぅ……。ひとまずは、これで全部片付きましたね、ルミ会長」

 

 

 そう言って、手にした得物を地面に突き、かろうじて身体を支えたのはレイジョだった。その額からは大粒の汗が流れ落ち、衣服の随所には掠り傷による煤と血が滲んでいる。山海経の武術を極めた彼女の身体をもってしても、絶え間なく押し寄せる集団の波を捌き続けることは、肉体のリミッターを削るに等しい行為だった。

 

 

「ああ、なんとかなったよ、レイジョ。……だけど、さすがにちっとばかり、弾も体力も使い果たしちまったねぇ」

 

 

 その隣で、愛用の武器を肩に担ぎ直しながら、ふぅと長い息を吐き出したのはルミだった。普段の快活な笑顔は鳴りを潜め、その瞳には明らかな疲労の色が混じっている。彼女たちの背後には、完全に沈黙した敵の装甲車の群れが、巨大な鉄の墓標のように連なっていた。

 

 この地上の防衛戦は、まさに薄氷を踏むような勝利だった。

 天上へと飛び立った戦艦『ソラノミ』の艦内では今、負傷者の治療が完治に向けて必死に行われている最中のはずだ。あちらの無事を祈るからこそ、地上の通信がノイズで途絶し、天上からの精密なバックアップや情報支援が一切期待できない状況であっても、彼女たちは一歩も引くずにこの拠点を守り抜いたのだ。

 

 だが、その代償は大きかった。

 

 

「……各員、残弾数の確認を」

 

 

 冷徹に、しかし心なしか掠れた声で告げたのはミナだった。彼女は愛銃のボルトを引き、レシーバーの隙間から覗くマガジンの中身を厳しく見つめる。残弾、わずかに三発。予備のマガジンは、すべて空になって路頭に転がっている。ミナは忌々しげに舌を打ち、銃を強く握り直した。

 

 

「残弾、残り僅少。アビ・エシュフのエネルギー残量、全体の4%を推移」

 

 

 淡々と、しかしその機械的な音声の裏に張り詰めた緊迫感を滲ませて呟いたのはトキだった。彼女の纏う戦術兵装『アビ・エシュフ』の各部からは、過熱した冷却液が白い蒸気となって絶え間なく噴き出している。装甲の随所には、敵の自爆ドローンの破片による強烈な焦げ跡と亀裂が走り、警告インジケータが彼女の視界の中で赤く点滅を繰り返していた。

 

 

「……う、みんな、お疲れ様。私もちょっと、弾が切れちゃったみたい。ジャケットの中も、すっかり軽くなっちゃってさ」

 

 

 いつものマイペースな口調ながらも、前髪の隙間から覗く瞳に鋭い警戒を宿したまま言ったのはエイミだった。普段ならどれほどの攻撃を受けても平然としている彼女の肌にも、爆風による細かな擦り傷がいくつも刻まれていた。

 

 

「お怪我はありませんか、先生? ……ふぅ、お洋服が少し汚れてしまいましたね。後できちんとお洗濯しなければなりません」

 

 

 そんな極限の状況下にあっても、まるでお茶会の給仕でもするかのような声音で先生の衣服の煤を払ったのはアカネだった。彼女のメイド服は、激しい立ち回りのせいで裾が少し破れ、トレードマークの笑顔の端には隠しきれない疲労の影がある。だが、その左手薬指には、鈍い鈍色の光を放つ指輪がしっかりと嵌められていた。それは、天上へと旅立った「彼女」との、そしてこの場を守り抜くという強固な誓いの証。アカネはその指輪をそっと右手で愛おしげに包み込み、それから再び、周囲の闇へと視線を戻した。

 

 

 衣服の乱れを気にする余裕すらなく、ただ息を詰めてへたり込んでいるレナ。彼女は弾切れになった銃を抱え、ガチガチと奥歯を鳴らしていた。

 全員が肉体的にも、精神的にも、完全に底を突きかけている。

 押し寄せる無数の自動兵器という「ゴミ」は、すべて綺麗にお掃除し終えた。しかし、誰もが動けない。それは、あまりにも無防備なエアポケットだった。

 

 

 パチ、パチ、パチ、と。

 

 

 突然、抉れたアスファルトの向こうから、乾いた拍手の音が響いた。

 建物に反響するその音は、奇妙なほどに規則正しく、そして冷酷だった。

 

 

「――っ!?」

 

 

 ミナの身体が、極限の反射速度で反応する。ルミも、レイジョも、エイミも、即座にそれぞれの得物を音のする方向へと向けた。

 立ち込める濃い煤煙の向こう側。引き裂かれた闇の奥から、一人の女性が悠然と歩み出てくる。

 

 白々しい、飄々とした笑みを浮かべた長身の女性。

 ――申谷カイ。

 

 その周囲には、護衛の私兵の姿も、彼女が使使するはずの自動兵器の影もない。正真正銘、たった一人。

 だが、その事実こそが、この場に集まった少女たちに、背筋を凍らせるような不気味さを与えていた。

 

 

「素晴らしい連携だったよ、ミレニアムと山海経の諸君。実に、実に見事な戦いぶりだねえ」

 

 

 カイは歩みを止めず、どこか親しみやすい、フランクな口調で語りかけてくる。しかし、長身を包むコートを夜風に揺らし、眼鏡の奥から覗く切れ烈な瞳は、限界を迎えている一行の肉体、空になったマガジンのすべてを、冷徹に見透かしていた。

 

 

「なっ……申谷カイ……! お前、なぜここに……!」

 

 

 ミナが声を荒らげる。残弾三発の銃口が彼女の胸元を正確に捉えていたが、カイは楽しげに肩をすくめるだけだ。

 

 

「なぜ、って? 君たちがわざわざ私を隠れ潜む場所を探すために、その擦り切れた頭と身体を動かすのは可哀想だからねえ。だから、親切心からこうして直々に出向いてあげたのさ」

 

 

 カイはフッと妖しく笑い、髪をかき上げた。

 

 

「君たちが流した血も、消費した弾薬のデータも、すべてリアルタイムで計算させてもらっていたよ。これほど弾薬も体力もすり減り、満身創痍となった今の君たちなら――わざわざ私が大軍を引き連れるまでもないよね。私一人で十分に、効率的に処理できる」

 

 

 一瞬、言葉を切り、カイの眼の奥の瞳から完全に「親しみやすさ」が消え失せる。底冷えするような不気味なトーンへと、声音がすり替わった。

 

 

「大人しくお縄につくのはそちらだ。――という事さ」

 

 

 カイの手が、コートの内側へと滑り込む。

 その瞬間、張り詰めた空気が爆発するように、地獄の決戦の幕が切って落とされた。

 

 

 

__________

 

 

 

 

 言うが早いか、カイの腕が閃いた。

 放たれたのは、一切の躊躇もない、冷酷な一撃。そしてその弾道の先にあるのは、地上組の戦術的な急所、すなわち指揮官である――先生だった。

 

 

「――っ、先生……!」

 

 

 誰もが息を呑み、動けないほどの疲労に足を取られたその一瞬。

 最も早く動いたのは、前線で「盾」となることを本能レベルで叩き込まれているエイミだった。自分の残弾がないことなど意にも介さず、ただ先生の命を守るためだけに、その身体をダイレクトに前方へと投げ出した。

 

 鋭い着弾音と、衝撃波。

 カイの放った超高威力の弾丸が、エイミのタクティカルジャケットを正確に捉え、火花を散らす。特殊繊維が引き裂かれ、強烈な運動エネルギーが彼女の肉体を打ち据えた。

 

 

「くっ……あ、つ……」

 

 

 エイミの足が、アスファルトを深く削る。かろうじて踏みとどまったものの、カイの攻撃が放つ不気味な熱量が、彼女の防御兵装のエネルギーを限界まで奪い去っていく。

 カイの狙いは、先生の前に立ち塞がったエイミを、そこから一歩も動けないように完全に固定することだった。少しでもそこから動けば、次の瞬間に先生の命が刈り取られる。

 

 

「……う、やっぱり、先生を狙ってくる。……ここからは、一歩も動けない。……動いたら、先生が危ないから。みんな、あとは……任せたよ……」

 

 

 エイミの言葉は、事実上の戦線離脱宣言だった。最強の盾である彼女が、先生の防衛だけに全神経を割かざるを得なくなり、前線から「壁」が消失した。

 

 

「フッ、まずは一人。やっぱり、戦術的な計算通りに動いてくれるねえ。じゃあ、残りのゴミも一斉にお片付けさせてもらおうかさ」

 

 

 カイの歪んだ笑みが深まる。彼女が纏う圧倒的な「暴威」が、物理的な圧力となって大通りを吹き抜ける。

 

 

「舐めるなよ……! 玄竜門を、山海経を……舐めるなぁぁ!」

 

 

 ミナが残弾三発のトリガーを連射する。正確にカイの胸元を捉えたはずの弾丸は、しかしカイが振るった袖の一閃によって、呆気なく火花となって虚空に散らされた。

 

「なっ……!?」

 

「その程度の残弾で、私の因果を捻じ曲げられるとでも思ったのかい? ――無駄だよ」

 

 

 カイの足が地を割る。目にも留らぬ速度で肉薄した彼女の拳が、ミナの腹部を正確に捉えた。

ドン、と重い衝撃音が響き、ミナは一言の悲鳴すら上げられず、そのままアスファルトの上を何メートルも転がり、壁に激突して動かなくなった。

 

 

「ミナ……! このッ!」

 

 

 ルミが激昂し、残された体力をすべて拳に込めて突撃する。レイジョもまた、その背後から死角を突くようにキックを繰り出したが、今の彼女たちはあまりにもボロボロすぎた。

 カイは彼女たちの動きの「遅さ」を冷ややかに笑いながら、最低限の動きでそのすべてを回避する。逆に、ルミの懐へと滑り込み、その顎を掌底で打ち抜いた。

 

 

「ガハッ……!?」

 

「会長……! くっ――」

 

 

 レイジョが追撃を試みるが、カイはルミの身体を盾にするように位置を入れ替え、レイジョの放った一撃を受け流すと同時に、彼女の軸足を容赦なく踏みつけた。ボキ、と不穏な音が響き、レイジョの身体がバランスを崩して崩れ落ちる。そこへ、カイの無慈悲な蹴りが叩き込まれた。

 

 

「――ぁあ!」

 

 

 衝撃波とともに、ルミとレイジョの身体が重なり合うようにして吹き飛ばされ、瓦礫の山へと叩きつけられた。

 

 レナは、その光景をただ言葉を失って見つめることしかできなかった。弾切れになった重い銃を握りしめ、ガチガチと身体を震わせる。前線は、開始からわずか数十秒という短時間で、完全に崩壊してしまったのだ。

 

 静まり返る戦場。残されたのは、先生を守るために動けないエイミと、地面にのされた仲間たち。

 底冷えするような静寂の中、カイは衣服の埃を払うようにして、悠然と残る二人を見つめた。

 

 

「ふむ。残るは、C&Cの生き残り二羽か。……随分と羽を毟られているようだけど、まだ踊れるのかい?」

 

 

 その挑発に応じるように、二人の少女が、一歩前へと踏み出した。

 

 

__________

 

 

 

 

「――アビ・エシュフ、限定解除。セーフティシステム、全機能を強制シャットダウン。出力を……120%までオーバーロード」

 

 

 トキの呟きとともに、彼女の纏う装甲が、禍々しい青白いスパークを放ち始めた。内蔵されたプロセッサが悲鳴を上げ、視界の端の警告表示はもはや赤一色に染まる。

 

 

「システムが自壊するまでに残された時間は、約3分。……十分です。先生と、アカネ先輩の道を切り拓くには、それだけで事足ります」

 

 

 トキはアビ・エシュフの出力を推進力へと変え、爆発的な加速で地を蹴った。その速度は、暴風となってカイへと肉薄する。

 

 

「これ以上私たちの邪魔をするなら……あなたをここで『完全消滅(お掃除)』します!」

 

 

 そのトキの突撃と完全に同期するように、逆の死角から飛び出したのは、室笠アカネだった。

 彼女の顔からは、いつもの上品な笑みが完全に消え去っていた。そこにあるのは、ミレニアムの闇を暗躍し、数々の困難な任務を冷徹に遂行してきた『C&C』のプロフェッショナルとしての、剥き出しの殺意と冷徹さだった。

 

 アカネの左手薬指にはめられた指輪が、彼女の激しい動きに合わせて鈍く光る。

 天上で今も戦っている「彼女」の元へと、必ず帰る。そのためなら、この身がどれほどボロボロになろうとも、一歩も引くわけにはいかない。

 

 

「ハッ、面白い……! 面白いねえ、ミレニアムの壊れた人形どもが!」

 

 

 カイが叫び、向かいくるトキのブレードを自身の武装で受け止める。

 

 

 キィィィィン――!!

 

 

 鼓膜を引き裂くような高音の金属摩擦音が響き、周囲に凄まじき火花が飛び散る。トキの限界を超えた一撃は、カイの絶対的な防御を真っ向から押し込んでいた。

 

 

「――そこです!」

 

 

 カイがトキのパワーを押し返そうとしたその一瞬の硬直を、アカネが見逃すはずがなかった。

 彼女はスカートの裾から強力な爆薬を手掴みで直接カイの足元へと投げ込み、手元にある最後の起爆トリガーを躊躇なく押し込む。

 

 

 ズガァァァァン――!!

 

 

 強烈な爆炎と爆風が、カイとトキをも巻き込むようにして炸裂した。己の肉体ごと敵を消し飛ばさんとする、アカネの波状攻撃。

 

 

「くっ……あいつ、正気かい……!」

 

 

 爆煙の中から、初めてカイの苛立った苦悶の声が漏れた。コートの一部が焼け焦げ、体勢がわずかに崩れる。だが、その爆煙を切り裂いて、トキが再びブレードを振り下ろした。

 

 

「……捉えました」

 

「調子に乗るんじゃないよ、ガキがぁ!」

 

 

 カイが体勢を立て直し、トキのブレードを素手で掴み取るようにして受け止める。カイの掌から血が噴き出すが、彼女はそれを気にも留めず、トキの装甲を力任せに殴り飛ばした。

 バキィッ、とアビ・エシュフの胸部装甲が砕け、トキの身体が地面を転がる。しかし、トキは転がりながらも即座に内蔵ガトリングを斉射し、カイの追撃を牽制した。

 

 その隙に、アカネが背後から回り込み、ワイヤー付きの清掃用ナイフをカイの首元へと走らせる。

 

 

「死角ですね」

「甘いよ!」

 

 

 カイは反転し、アカネのナイフを紙一重でかわしながら、彼女の細い手首を掴み取った。みし、みし、と骨が軋む音が響く。だが、アカネは痛みに顔を歪めるどころか、冷徹な瞳でカイを真っ向から見据え、掴まれた方の左手の指輪を、カイの目に叩き込むようにして突き出した。

 

 

「なっ……!?」

 

 

 指輪の金属光沢が一瞬、カイの視界を眩ませる。その僅かな隙を突き、アカネは自由な右足でカイの膝を正確に踏み抜いた。ゴン, と鈍い音が響き、カイの身体が初めて大きくよろめく。

 

 

「ハァ、ハァ……! トキ、今です!」

 

「了解。――フルバースト」

 

 

 傷だらけのアカネの叫びに応え、起き上がったトキがアビ・エシュフの残された全兵装を一斉に解放した。ミサイル、ガトリング、レーザーが、カイの身体へと収束していく。

 

 本来であれば、弾薬も底を突き、体力も限界を迎えていたはずの二人。しかし、お互いの背中を預け合い、互いの傷を埋め合わせるようにして繰り出されるその連撃は、凄惨なまでの「互角」を作り出していた。手負いの二人がかりで、万全な一人の申谷カイと渡り合う。

 

 トキの装甲がさらに一枚、また一枚と剥がれ落ち、内部の回路が焼き切れる黒煙が上がる。アカネのメイド服もまたズタズタに裂け、彼女の白い肌には無数の血線が刻まれていった。

 

 

「ハァ……ハァ……くっ……」

 

「アビ・エシュフ……駆動率、1%未満。……スタンドアロンシステム、停止します……」

 

 

 限界は、確実に近づいていた。

 二人の動きが、肉体の疲労と兵器の機能停止によって、目に見えて鈍くなる。

 カイの身体もまた、数々の爆撃と斬撃によって傷ついてはいたが、その瞳の奥にある傲慢な光は、未だに衰えてはいなかった。それどころか、自分をここまで追い詰めた二人に対する、激しい怒りと歪んだ愉悦が混ざり合った、最悪の笑みを浮かべていた。

 

 

「素晴らしいねえ、本当に素晴らしいよ。C&Cの絆とやらは、これほど泥臭く、見苦しいものだったかい?」

 

 

 カイは大きく息を吐き出し、自身の武装を構え直した。その銃口には、二人を完全に、跡形もなく消し去るための、最大出力のエネルギーが充填され始めていた。フッと、お姉さんのような軽薄な口調に戻り、しかし絶対的な死を宣告するように、彼女は言い放った。

 

 

「さあ、終わりにしよう」

 

 

 アカネは、迫り来る死の光を前にしながらも、左手薬指の指輪をそっと口元に寄せ、誓うように目を閉じた。

 トキは、静かに最後のトリガーに指をかけた。

 誰もが、これで終わりか、と思ったその瞬間――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空気が、一瞬で凍りついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、物理的な温度の低下ではない。この場にいる全員の魂を、その場に縫い留めるかのような、圧倒的な「格」の差がもたらす威圧感だった。

 

 

「――そこまでにせよ、申谷カイ」

 

 

 凛とした、しかし絶対の威厳を孕んだ少女の声が、戦場を支配した。

 

 その声が響いた瞬間、カイの銃口に集まっていた赤黒いエネルギーが、まるで主人の命令を失ったかのように霧散した。限界を迎えていたアカネとトキが、大通りの向こうへと視線を彷徨わせる。

 

 

「……おや」

 

 

 カイの口から、小さく、どこか怪訝そうな呟きが漏れた。

 だが、その眼鏡の奥の切れ烈な瞳は、わずかに見開かれ、眼前の光景をじっと睨みつけている。

 

 大通りの向こう側。立ち込める濃い残骸と煤煙が、左右へと綺麗に割り振られていく。そこから静歩で現れたのは、小さな身体に山海経の頂点たる圧倒的なオーラを纏った少女――キサキだった。

 

 

「これは、少し驚いたねえ……。私のシミュレーションじゃ、君は今頃、まだあの毒に侵されてベッドからのそのそ這い出ることすらできないはずなんだが」

 

 

 カイはフッといつもの薄笑いを浮かべ直すが、その声音には確かな違和感が混ざり合っていた。

 

 カイの計算では、キサキの身体にはまだ毒が深く回り、地上の戦線に出てくるなど物理的に不可能なはずだった。まさかソラノミが、地上との通信を断絶してまで、その毒を完全に無力化して「完治」させていたなど、カイの頭にはなかったのだ。

 

 

「毒の状態のまま無理をして出てきたのかい? ――それとも、私の計算を狂わせるどんな手品を使ったのかねえ」

 

「申谷カイ。お主の言う『因果』とやらは、随分と底が浅いようだな」

 

 

 キサキは手にした扇を静かに翻し、凍りつくような視線をカイへと真っ向から向けた。

その背後には、完全に武装を整え、門主の降臨によって士気が最高潮に達した玄竜門の精鋭たちが、一糸乱れぬ隊列で控えている。

 

 キサキの瞳には、傷つき倒れたミナやルミたち、そしてボロボロになりながらも先生を守り抜いたアカネとトキの姿が映っていた。その小さな胸の奥にあるのは、自身の庭を荒らされ、大切な生徒たちを、友を傷つけられたことに対する、静かな怒りの炎。

 

 

「我が山海経において、これ以上の狼藉は容認できぬ。――お主の浅ましい計算も、我が門前においては、ただの雑音に過ぎぬと知れ」

 

 

 キサキの一言が、絶対の王命となって戦場を完全に圧殺する。

 完璧な計算を誇った申谷カイの前に、絶対的な統治者が立ちはだかった。

 

 

 

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