未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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完璧な正解の記述

 

 

 

 大気圏外、高度数百キロメートルの漆黒に浮かぶ宇宙戦艦『ソラノミ』。

 その中枢に位置する医療室は、張り詰めた沈黙に支配されていた。

 カプセルの中から溢れ出ていた、神秘的で、どこか神聖さすら感じさせる鮮やかな緑の光粒子が、ゆっくりと、しかし確実に一人の少女の身体へと吸い込まれていく。山海経の頂点たる門主・キサキの肉体を蝕んでいた、地上由来の陰惨な毒。その不浄な変数を、天上の高度な医療ロジックが完全に分解し、無力化していくプロセスだった。

 やがて、最後の光粒子が完全に消失し、バイタルサインを示すホログラムが均一な安定の緑色へと染まる。完全なる「完治」の証明。医療室に静寂が戻ると同時に、部屋のメインスクリーンには、冷徹で無機質な電子音が鳴り響いた。

 

 医療フェーズの終了。それは同時に、遮断されていた地上とのデータリンクが再開されたことを意味していた。

 コンソールの前に佇む副官、ケイ。その細い指先が、一切の感情を排した速度でキーを叩く。次の瞬間、メインスクリーン全体に、地上・山海経租界の熱源データ、構造物の損壊率、そして戦闘要員たちのバイタルサインがリアルタイムで拡大投影された。

 

 そこに並んでいたのは、目を覆いたくなるような、地上の「全滅」を予期する無慈悲な数値の羅列だった。

 

 ミナ、生命維持シグナル低下。脳波の乱れ、瓦礫の直撃による昏睡状態。

 ルミ、レイジョ、共に重度の打撃を検知、戦闘不能。

 トキ、アビ・エシュフ大破、スタンドアロンシステムは完全に沈黙――。

 

 凄惨な文字情報が、ミリ秒単位で画面を埋め尽くしていく。

 だが、その最悪のログ群の最下層に、ある一つの文字列が血文字のように弾け出た瞬間。

 セイカの思考回路は、一瞬にして凍りついた。

 

 

『警告:室笠アカネ、負傷率72%。生命維持シグナル危険水域。残弾数ゼロ。戦闘継続不可能』

 

 

 自動で切り替わった光学映像が、スクリーンの中心へと非情にズームインされる。

 そこに映し出されていたのは、いつも完璧な給仕をこなし、上品で、どこか悪戯っぽい微笑みを決して絶やさなかったはずの、室笠アカネのあまりにも痛々しい姿だった。

 あの気品ある黒と白のメイド服は、無残にもズタズタに引き裂かれている。爆風の硝煙と泥、そして、彼女自身の肉体から流れ出た鮮血が混ざり合い、生地を不快な赤黒さに染め上げていた。かろうじてその場に立ち尽くしてはいるものの、膝は小刻みに震え、失血による意識の混濁は素人目にも明らかだった。

 それでもなお、アカネは自身の左手薬指に嵌められた、セイカとの誓いの証である「指輪」を、世界で最も大切な宝物を労るように、狂おしいほどの力で握りしめていた。先生を守る最後の盾になるために。己の命が擦り切れるその瞬間まで、その場から一歩も退かないために。

 

 

「……、……」

 

 

 セイカの手元が、ピタリと止まった。

 いつもなら、世界のあらゆる事象をミリ秒単位の狂いもなく数式へと置換し、ホログラムを自在に操作するあの正確無比な指先が。

 今は、怒りのあまりに、小さく、しかし激しく震えていた。

 

 医療室の温度が、一瞬にして絶対零度へと叩き落とされる。

 普段のセイカは、冷徹な論理の塊だ。感情の揺らぎなど、演算を狂わせる「不確定要素」として冷酷に切り捨てるはずの存在。その彼女の双眸から、完全にハイライトが消え失せていた。瞳の奥底に宿ったのは、光すらも吸い込む底知れない闇。そして、極限まで圧縮された、狂気的なまでの密度を誇る「静かな殺意」だった。

 

 

「……不快です。極めて、不快です」

 

 

 低く、地を這うような声が室内に響く。それは声を荒らげるような安っぽい怒りではない。理性のリミッターを完全に消し飛ばし、世界のバグを根絶やしにすると決めた天才の、絶対的な死の宣告。

 

 

「私の構築した論理の世界に。私の認めた安寧のなかに、これほど劣悪で汚らわしいノイズが介入しているなど……論理的に、万死に値する。申谷カイ、あなたの存在そのものが世界の不条理だ。今すぐその腐った因果ごと、世界の記述から完全消去してあげます」

 

 

「セイカ、落ち着くんだ……!」

 

 

 背後からセイアが痛ましげに声をかけ、その肩に手を伸ばそうとするが、静かにキレたセイカの耳にはもう、いかなる制止の声も届かなかった。彼女の脳内は今、アカネを傷つけた申谷カイという存在を、いかにして最も確実かつ、最も凄惨な方法でこの世から抹消するかという、ただ一つの復讐の演算で埋め尽くされていた。

 

 

「これより地上へ突入、対象の完全パージを執行します。ケイ、移動手段の選定を」

 

「了解」

 

 

 父の内に秘められた、爆発寸前の怒りに呼応するように、ケイの赤い瞳が淡々と、しかし鋭く発光する。彼女の指先がコンソールを流れるように叩き、医療室のシステムを、隣接する巨大兵装ハンガーへと直結させた。

 

 

「キサキ門主の治療フェーズ終了を以て、医療ユニットから主動力源『ルミナス・コア』を即時パージ。――これよりコアを突入兵装へと移送、ドッキングシーケンスを開始します。……『メテオストライカー』、コアの装填完了。全ロックをパージします」

 

 

 ゴゴゴゴゴ、とソラノミの堅牢な船体そのものを激しく震わせる、重厚な駆動音が鳴り響いた。医療室の前方に位置する隔壁が、左右へと轟音を立てて割れていく。

 暗黒のハンガーから、電磁カタパルトのレールに乗って姿を現したのは『メテオストライカー』だった。

 その中心部分では、先ほどまでキサキの命を繋ぎ、今度は絶対的な破壊の灯火へと再定義された『ルミナス・コア』が、眩いばかりの紫電を放って激しく脈動していた。

 

 彼女の背に背負われると同時に、メテオストライカーの全エネルギーラインが爆発的に臨界へと達した。

 

 

 

__________

 

 

 

 スラスターのハミングが機体を震わせる中、セイカはコントロールパネルの計器を見つめたまま、傍らに佇むキサキへと冷たく、しかし絶対の確信を込めて視線を向けた。その瞳は、すでに地上の大通り、申谷カイが位置する座標を狂いなくロックオンしている。

 

 

「キサキ、あなたは空を飛べない。通常の降下カプセルでは、到達前に焼き落とされて死ぬ。……ならば、私の背に乗りなさい。このメテオストライカーが、大気の摩擦熱も、地上の迎撃システムも、すべて『存在しない雑音』として叩き潰します。あなたは私の背中で、ただ地上のバグが消え去る瞬間を見ていなさい」

 

「――待て、セイカ」

 

 

 遮ったのは、キサキの声だった。

 その声音には、先ほどまで病床で生死の境を彷徨っていた弱々しさなど、微塵も残されていなかった。山海経のすべてを統べる者としての、圧倒的な威厳と慈愛、そして見る者を無条件で平伏させる、絶対的な「王の格」がそこにはあった。

 

 キサキは手にした豪奢な扇を静かに広げ、セイカの横顔を、正面から真っ向から見据えた。

 

 

「お主の怒り、そして我が身を案じてくれるその忠義……しかと、このキサキの胸に届いたわえ。アカネをあそこまでボロボロにされ、理性が怒りに焼き切れるのも無理はない。じゃがな、セイカよ」

 

 

 キサキは凛とした足取りで歩み寄り、後方からセイカの背中にその小さな身体を預けた。おんぶの形でセイカの背中にがっちりとホールドしながら、キサキの全身から放たれる万全の気が、メテオストライカーの中枢を満たす鋭利な殺意の波動を、優しく、しかし圧倒的な力で包み込み、中和していく。

 

 

「これは、我が山海経の租界で起きた不始末。そして、我が生徒たちを傷つけた、申谷カイとの因縁じゃ。山海経の門主たるこの妾が、お主の怒りに甘え、天上の特等席からただ眺めているだけなど、それこそ我が誇りが許さぬわえ」

 

「……しかし、それでは論理的な効率が――」

 

「効率など、王の矜持の前にはただの端数に過ぎぬ!」

 

 

 キサキの凛とした一喝が、医療室の空間を震わせ、セイカの脳内で暴走しかけていた冷徹な演算を力ずくで停止させた。キサキは不敵に、そしてこの上なく美しく、 shadow を完全に払いのける極上の微笑みを浮かべてみせる。

 

 

「セイカ。お主の創り出してくれたこの『完璧な正解』、これの使い所は、他でもないこの妾自身が決める。……あの申谷カイの歪んだ数式は、門主たるこの妾の手で、直々に木っ端微塵に叩き潰さねば、山海経の示しがつかぬ。――だから、ここは妾に任せてはくれぬか」

 

「……、……」

 

 

 セイカの思考が激しく火花を散らす。

 論理的には、自分がメテオストライカーの最大火力でカイを即座に消去するのが最も確実な正解だ。しかし、背中からダイレクトに伝わってくるキサキの鼓動と覇気にあるのは、絶対に退かない王の意志。そして、自分を救ってくれたセイカへの、絶対的な報恩の情だった。

 

 やがて、セイカはふっと、長く、冷たいため息を漏らした。その身体から尖っていた殺意が霧散し、元の、冷徹で理知的な観測士の温度へと戻っていく。

 

 

「……はぁ。不本意ですが、あなたのその『王のロジック』とやらは、私の数式でも完全に制御しきれない定数のようですね。分かりました、そこまで言うのであれば、地上のバグの添削は、あなたに一任します」

 

「うむ。聞き分けの良い臣下を持つと、門主としても鼻が高いわえ」

 

「勘違いしないでください。私は、あなたを地上の戦場という『正解の舞台』へ送り届けるための、ただの移動手段に徹すると言っているだけです。……キサキ、しっかりと掴まっていなさい。Gの負荷、大気摩擦の熱量、カイの迎撃予測、そのすべてをこのメテオストライカーが演算・相殺します」

 

「ふふ、天上の天才の背中、手心地は悪くなさそうじゃ。……お主の理、しかと我が身で体感させてもらおうぞ!」

 

 

 二人の意志が、天上と地上の理が、大型ユニットの中枢で完全に一つへと重なり合った。

 

 

__________

 

 

 

『警告、降下カタパルト開放。大気圏再突入シケインを固定。突入を開始します。――目標降下地点、カイの索敵網を迂回する租界外縁部・玄竜門防衛陣地』

 

 

 ケイの最終宣告とともに、ソラノミの底部巨大ハッチが、ゆっくりと左右へと開放された。

 激しい気圧の差とともに、宇宙の境界を流れる激しい真空の風がゴォォォと鳴り響き、二人の眼前に、青き地球の広大な輪郭が剥き出しとなって広がる。夜の帳に包まれた地上の、その一角で激しく明滅する戦火の輝きが、セイカの瞳に映る。

 

 

「変数の書き換えを始めます。――突入」

 

 

 セイカの声がコントロールラインを駆け抜けると同時に、メテオストライカーの背面、そして左右に広がる巨大なスラスターアームが、眩い紫電の爆光を放って大爆発を起こした。

 

 

ドォォォォォン!!

 

 

 宇宙の静寂を暴力的に置き去りにして、キサキを背負ったセイカを乗せた巨大ユニットが、天の階段を真っ逆さまに駆け下りるようにして、地上へと超音速で飛び降りた。

 

 大気圏への強行突入。

 時速数万キロという狂気的な速度で大気と激突し、美しい巨体が、一瞬にしてプラズマ化した燃え盛る激しい炎の衣に包まれる。摩擦熱が装甲を真っ赤に焼き、機体全体を引き裂かんばかりの猛烈なGと震動が二人を襲う。

 生身のセイカの顔に、凄まじい圧力がかかる。だが、ルミナス・コアの莫大なエネルギーを背景に、彼女の脳内は数億の数式をミリ秒単位で処理し、その負荷を完璧に相殺していた。背中のキサキを守る電磁防壁は、一点の揺らぎすらも見せない。

 

 白紫の巨体が炎の尾を引き、漆黒の夜空に巨大な一筋の亀裂を描きながら、絶対的な質量弾となって地上へと迫る。カイの迎撃システムが放つ光条が虚空を裂くが、セイカの天才的な回避演算の前には、それらすべてが「最初から当たらない雑音」でしかなかった。

 

 

ズズズズン……!!

 

 

 租界の外縁部、未だ健在だった玄竜門の防衛陣地へと、衝撃波を撒き散らしながらメテオストライカーが激しく着弾した。地面が大きく陥没し、砂塵が舞い上がる。

 だが、その衝撃すらも、ユニットの脚部構造が完璧に吸収していた。

 

 プシュー、と中枢のホールドシステムが解除され、シートから解放されたキサキが、万全の肉体で山海経の大地へと、静かに降り立つ。

 そこには、門主の帰還を信じ、ボロボロになりながらも陣地を死守していた、玄竜門の精鋭たちがいた。爆煙の向こうから現れた、かつてないほどの覇気を纏った主の姿を目にした瞬間、彼らの士気は一瞬で最高潮へと跳ね上がる。地鳴りのような歓声が、陣地を揺らした。

 

 

「待たせたな、お主たち。……これより、我が庭を荒らすバグの添削に向かうぞ」

 

 

 キサキは手にした扇を静かに翻した。その瞳は、傷ついた仲間たちの仇を討つため、そして大切な生徒たちを救うため、静かな怒りに燃えている。

 キサキは精鋭たちを背後に引き連れ、立ち込める濃い残骸と煤煙のなかを、一歩、また一歩と、カイの待つ中央大通りへと向かって、威風堂々と歩みを進めていった。

 

 

 

__________

 

 

 

 

 

「――そこまでにせよ、申谷カイ」

 

 

 凛とした、しかし絶対の威厳を孕んだ少女の声が、戦場を支配した。

 

 

「……おや」

 

 

 カイの口から、小さく、どこか怪訝そうな呟きが漏れた。

 だが、その眼鏡の奥の切れ烈な瞳は、わずかに見開かれ、眼前の光景をじっと睨みつけている。

 

 中央大通りの先を覆う濃い爆煙の向こう側から、一つの人影がゆっくりと姿を現した瞬間、申谷カイは無意識のうちに眉を顰めていた。

 戦場において未知の変数を警戒することは当然の行為だったが、その直後に視界へ飛び込んできた存在は、警戒や困惑といった生易しい言葉では到底説明できないほど致命的な異常だった。

 

 そこに立っていたのは、山海経の門主――竜華キサキ。

 

 本来ならば存在しているはずのない人物だった。

 

 カイ自身が仕掛けた毒は確実にその肉体を侵し、たとえ死に至らなかったとしても、数日どころか数週間は戦線復帰など不可能なはずであり、その前提があったからこそ彼は山海経そのものを掌の上で弄ぶように蹂躙し、玄竜門を追い詰め、生徒たちを傷つけ、すべてを計画通りに進めてきたのだ。

 

 だからこそ理解できない。

 

 爆煙を割って現れたキサキの足取りには一切の揺らぎがなく、その瞳には死の淵から帰還した者特有の弱々しさも見当たらず、むしろ以前よりも鋭く研ぎ澄まされた王としての威厳と覇気が宿っており、周囲を固める玄竜門の生徒たちまでもが、その背中を見た瞬間に失われていた闘志を取り戻している。

 

 まるで。

 

 まるで最初から何一つ傷ついていなかったかのように。

 

 その光景はカイの脳内に存在する常識と現実を激しく衝突させ、自らが積み上げてきた計算式の根幹へと巨大な亀裂を走らせていた。

 

 

「なぜだ……」

 

 

 思わず漏れた声にすら、自分自身が驚いていた。

 

 理解できない。あの毒は完璧だった。たとえ死に至らずとも数週間は床から起き上がれないはずであり、その前提の上で山海経という巨大な組織を切り崩してきたというのに、今目の前で起きている現実は、そのすべてを嘲笑うかのように成立している。

 

 

「毒の状態のまま無理をして出てきたのかい? ――それとも、私の計算を狂わせるどんな手品を使ったのかねえ」

 

「申谷カイ。お主の言う『因果』とやらは、随分と底が浅いようだな」

 

 

 キサキは手にした扇を静かに翻し、凍りつくような視線をカイへと真っ向から向けた。

 その背後には、完全に武装を整え、門主の降臨によって士気が最高潮に達した玄竜門の精鋭たちが、一糸乱れぬ隊列で控えている。

 

 キサキの瞳には、傷つき倒れたミナやルミたち、そしてボロボロになりながらも先生を守り抜いたアカネとトキの姿が映っていた。その小さな胸の奥にあるのは、自身の庭を荒らされ、大切な生徒たちを、友を傷つけられたことに対する、静かな怒りの炎。

 

 

「我が山海経において、これ以上の狼藉は容認できぬ。――お主の浅ましい計算も、我が門前においては、ただの雑音に過ぎぬと知れ」

 

 

 キサキの一言が、絶対の王命となって戦場を完全に圧殺する。

 だが、カイの理解は未だに追いつかない。あの毒は完璧だった。その前提の上で山海経という巨大な組織を切り崩してきたというのに、今目の前で起きている現実は、そのすべてを嘲笑うかのように成立している。

 

 脳が警鐘を鳴らす。

 どこかにいる。

 この異常を成立させた何者かが。

 

 そして次の瞬間、キサキの背後に控える玄竜門の生徒たちではなく、そのさらに向こう側――夜空そのものへと視線を向けたカイは、自らの背筋を凍りつかせる答えを見つけてしまった。

 

 そこには、巨大な水色の翼を広げた一人の少女が静かに浮かんでいた。

 

 十二基のフィンファンネル。

 

 夜空へと光の尾を描くメテオストライカー。

 

 そして何より、こちらを見下ろす紫色の瞳。

 

 その姿を認識した瞬間、カイの脳裏にはここ数時間で起きたすべての異常事態が一気に繋がった。

 

 キサキが生還した理由。

 毒が消滅した理由。

 山海経が未だ崩壊していない理由。

 もっと言えば、自らの計画がどこかで狂い始めていた理由。

 

 そのすべての中心にいる存在が誰なのかを、もはや認めたくなくとも理解するしかなかった。

 

 天野江セイカ。

 

 天上から降りてきた、あの観測者だ。

 

 カイの喉が無意識に鳴る。

 今まで彼は何度も彼女の情報を目にしてきた。

 未来を見る少女。あり得ない演算能力を持つ天才。ミレニアムの怪物。

 だが、それらは所詮データだった。報告書の中に存在する文字列であり、自分には関係のない遠い世界の話だった。

 

 しかし今、実際にその姿を目の当たりにしたことで理解してしまう。

 自分が相手にしていたのは一人の生徒ではない。

 自らの常識や計画や因果そのものを外側から書き換えてしまう、理解不能の観測者だったのだと。

 

 

 

 そして、その理解に意識を奪われた一瞬こそが致命的だった。

 なぜならセイカは最初から待っていたのだから。

 キサキという存在を戦場へ送り返し、自らの絶対だったはずの計算が崩壊した現実をカイ自身に認識させ、その精神が完全な動揺によって停止する瞬間を。

 

 天上から戦場を見下ろす紫の瞳が静かに細められる。

 その視線は獲物を見つけた捕食者のものではない。すでに答えの分かり切った数式を眺める観測者の視線だった。

 彼女は、背負ったメテオストライカーのホログラムコンソールを淡々とスライドさせる。

 

 

「……申谷カイ。あなたの解いた『完璧な正解』とやらは、あまりにも幼稚で不快な落書きに過ぎませんでした。揺らぎすら存在しない私の論理の世界に、これ以上あなたのバグが残ることを私は許しません」

 

 

 セイカの冷たい声が、地上への広域通信を通じて重低音となって轟く。

 

 

「バカな……あり得ない……! 私の計算は完璧だった……! 114番目の変数も、300を超える媒介変数も、あの毒の致死量も、すべて私が記述し、固定したはずなんだ……!! なぜ君たちが、それほど万全な状態でそこにいる……!? なぜ私の『正解』が、こんなゴミクズのように書き換えられているんだ……!!」

 

 

 カイが絶対の自信を持っていた「毒」という現実は、キサキの完治した肉体、そして上空から睨みを利かせるセイカの圧倒的な『正解の事実』の前に、跡形もなく消去されていく。

 己の知性そのものを根底から否定され、錯乱の極みに達したカイは、頭を掻きむしりながら後退りした。彼女の組み立てた世界は、今やただの雑音へと成り下がっていた。

 

 その天上の天才のバックアップを受け、キサキはバッと豪奢な扇を大きく翻した。

 一歩、前に踏み出す。その小さな足が地を踏みしめるたび、圧倒的な覇気が大通りを波となって駆け抜け、カイの絶望を物理的に押し潰していく。

 キサキは扇の切っ先を、恐怖に顔を歪ませ、無様に震えるカイの鼻先へと真っ直ぐに突きつけた。

 

 

「さあ、申谷カイ。お主の解いた『偽物の正解』、この妾自らが直々に、その顔面に叩きつけて木っ端微塵にしてくれようぞ!」

 

 

 満身創痍のアカネが、その光景を涙の浮かぶ瞳で見つめていた。自身の左手薬指の指輪を愛おしそうに、しかし確固たる救いの光として見つめながら、最愛の主がもたらした勝利の理に、静かに胸を撫で下ろす。

 トキが、静かにトリガーから指を離し、天上の正解を以て戦場を完全に支配したセイカへと、深い敬礼を送る。

 

 完璧な計算を誇った記述者の前に、絶対的な統治者と、天上から降りてきた天才が立ちはだかり――。

 今、山海経の不条理を全て記述から消し去る、真の「添削」の幕が上がった。

 

 

 

 

 

 

 

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