方程式の休息、湯気の向こうの家族
キヴォトスにおいて、山海経という場所は常に二つの顔を持っていた。
伝統的な瓦屋根が連なる古風な街並みと、絶え間なく鳴り響く爆音、そして近代的な利権や陰謀が渦巻く煤煙の街。申谷カイが引き起こした大規模な混乱は、その二つの顔を同時に引き裂き、租界全体を文字通りの戦場へと変貌させていた。
だが、嵐が去って数日が経過した現在、大通りの煤煙はすっかりと洗い流され、いつもの活気が戻りつつある。行き交う生徒たちの笑い声、露店から立ち上る美味そうな点心の匂い。一見すれば、あの夜の死闘などまるで幻だったかのようにすら思える。
しかし、アスファルトのあちこちに残る、真新しいコンクリートによる修繕跡――巨大な質量兵器が激突し、爆炎が穿った爪痕だけが、あの夜の戦いが紛れもない現実であったことを静かに物語っていた。
「……アカネの負傷の回復率、92パーセント。左半身の皮下出血もほぼ正常値へと回帰しています。ですが、まだ無茶な行動は許可できません。いいですね、アカネ」
玄武商会の広大な奥座敷へと続く長い廊下。その静けさの中で、セイカは手元のホログラムコンソールをパチリと閉じ、丁寧でありながらも、隠しきれない心配のトーンを多分に含んだ声音で告げた。
数日前、ソラノミでの治療に徹していたセイカ自身には傷一つない。その制服も、190cmの長身を包むロングコートも、何一つ汚れてはいない。だが、前線で文字通り身体を張って激戦をくぐり抜けた最愛の恋人――室笠アカネの容態には、いまだ神経質なほどに細心の注意を払っていた。
「ふふ、ご心配いただきありがとうございます、セイカさん。ですが、もう包帯もほとんど取れましたから、お掃除や給仕に戻る分には何の問題もありませんよ?」
アカネはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべ、自身の左手をそっと持ち上げてみせる。その動きに淀みはないが、セイカの目は誤魔化せない。
陽光が差し込む廊下で、アカネの左手薬指に嵌められた指輪が、キラリと静かな輝きを放った。精度高く設計されたその輝きは、廊下に差し込む陽光を反射して周囲を淡く照らし出す。
「仕事の話をしているのではありません。あなたの身体そのものの構造的安定性の話をしているのです。……あの時は私の演算の許容値を超える負荷が脳内にかかりました。あなたを失うなどというエラー、私の世界には存在してはならないのですから……」
セイカはふいっと前を向くと、自身の動揺を隠すように少しだけ歩調を早めた。
そんな大きな背中を見上げて、アカネの隣を歩いていたケイは、淡々と声を響かせた。同じく治療部隊として傷一つない彼女だが、お父さんの不器用な動揺は完全に計算通りといった様子である。
「お父さん。そのように感情に任せて歩行速度を上げる行為は、周囲の安全確認において計算上、不確定要素を増やすだけです。非論理的ではありませんか」
「おや、ケイ。セイカさんは怒っているのではないのですよ? 私たちのことが心配なだけです」
アカネから蜂蜜のように甘い声音でからかわれると、ケイは一瞬でそれまでの無機質なトーンを崩した。顔を瞬時に真っ赤に染め上げ、アカネのメイド服の裾をきゅっと握りしめる。
「お、お母さん……っ。私はただ、客観的な事実を並べたまでです。お母さんの言うことは絶対ですが、今の指摘は私の論理的思考の範疇を超えています……」
そんな愛娘の様子に、セイカはピタリと足を止めました。
そして、振り返ったその表情には、天上から理を記述する冷徹な観測者の面影はなく、ただ大切な家族へと向けられる、世界で一番柔らかい甘えの感情が滲んでいた。セイカは大きな手を伸ばし、ケイの頭をそっと撫でる。
「……ですが、ケイ。あなたの無事もまた、私の最優先事項でした。……不安にさせてしまったなら、私の演算ミスです。もう大丈夫ですからね」
「お、お父さん……っ! 私を子供扱いするのはやめてください……っ! い、嫌だとは言っていませんが、公の場でこのようなスキンシップを行うのは論理的ではありません!」
早口でキレ散らかしながらも、撫でられる手を拒もうとはしないケイ。そのファザコンでありマザコンでもある愛娘の微笑ましいリアクションを、すぐ後ろから眺めていたレナは、ツンとそっぽを向きながらぶっきらぼうに声を荒らげた。
「(……ッッッ、あああ待って無理美しすぎる!!! 何あの微笑み!? セイカさんのあの優しく微笑んだ顔、国宝!? 神仏!? 天上の聖母か何かなの!? ケイちゃんの頭を撫でるその指先の軌道すら芸術的すぎて私の脳の全細胞が限界突破して発狂しそうなのだけど!!? 嫌だ何考えてるの私! この尊さに焼き切れた脳内を絶対に表に出すわけにはいけないわ……!! 落ち着け、落ち着くのよ私……っ!!)」
「な、何よその目は……! べ、別に私は二人のやり取りなんてこれっぽっちも気にしてないんだからね! ほら、先生もニヤニヤしてないでさっさと歩きなさいよ!」
内心の限界オタク発狂を必死に隠そうとした結果、トーンが乱暴なツンツンモードになるレナ。先生が苦笑しながら"分かったよ、レナ"と答える。
そんな彼女の隣で、セイアが狐耳を小さく震わせ、達観した様子で優雅に微笑んだ。
「天上の理を統べる記述者も、家族の情愛の前には形無し、ということか。……だが、ケイ。君が無事で、こうしてまた同じ食卓へ向かえるというのは、私にとっても至上の喜びだよ」
「セイア……。……はい。私も、あなたたちの演算が無事に収束したことに、全幅の感謝を表明します」
「……同感。お腹が空いた」
エイミがいつも通りの抑揚のない声で呟いた。彼女はこの事件中、常に最前線で盾として戦闘していた。その分カロリーの消費は激しかったようだ。すでに目は廊下の先にある厨房へと向けられている。
"みんな、怪我の具合は大丈夫? 今日はルミが腕によりをかけて御馳走を作ってくれたみたいだから、たくさん食べようね"
先生が歩調を合わせながら全員に声をかける。前線で傷を負った生徒たちの痛みを少しでも和らげたいという、大人としての、そして先生としての優しい眼差しがそこにはあった。
先生の言葉に応じるように、通路の最奥にある巨大な漆塗りの座敷の扉が、内側からそっと、しかし小気味良い音を立てて開け放たれた。
「あ、みんな来たんだね。待ってたよ。特製の小籠包を一番美味しい温度で蒸し上げたとこだから、冷めちゃう前にさっさと席につきなよ」
溢れんばかりの白い湯気と共に姿を現したのはルミだった。
彼女の声と、濃厚な油、そして手間暇をかけて作られた極上のスープの香りが、廊下全体に一気に押し寄せてきた。その香りを嗅いだ瞬間、エイミの静かな瞳が一瞬だけ鋭く輝き、ケイとトキの親友コンビもまた、無意識にゴクリと息を呑んだのだった。
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案内された奥座敷は、山海経の伝統的な贅を尽くした見事な空間だった。磨き抜かれた床板、壁に掛けられた見事な水墨画、底冷えを防ぐ厚手の敷物、そして部屋の中央に鎮座する、特大の漆塗り円卓。
そこにはすでに、山海経の最高権力者である竜華キサキ、その忠実なる右腕であるミナ、玄武商会のスポンサーであるレイジョ、の3人が腰を下ろしていた。
「おお、先生、それにミレニアムの客人たちよ。よくぞ来てくれた」
キサキは手にした扇をゆるりと翻し、無傷の凛とした美しさを湛えた切れ長の瞳に、心からの歓迎の光を宿して微笑んだ。その佇まいには絶対的な王者の風格と、同時に年相応の生徒としての親しみが同居している。
その隣に座るミナは、前線で玄竜門の盾として文字通り死闘を演じたため、その右肩から胸元にかけて痛々しい包帯が幾重にも巻かれていた。しかし、先生たちの姿を見るや否や、背筋を真っ直ぐに伸ばして一礼する。
「先生、先日は私の不覚のせいで多大な負担をかけた。……だが、こうして再び同じ席で相見えることができて、玄竜門の次席としてこれ以上の喜びはない」
「ミナさん、あまり硬くならないでくださいな。今日は戦いの場ではありませんから。それにお怪我の具合も心配です。まずは座って、楽にしてください」
アカネが流れるような動作でケイの席を確保し、その隣にセイカを促しながら、ミナへと優しい言葉をかけた。前線で共に戦った戦友としての、細やかな気遣いだ。
円卓の配置は自然と決まっていく。
中央に先生。右側には山海経の面々――キサキ、ミナ、ルミ、レイジョ。
左側にはミレニアムおよびソラノミの混成部隊。
セイカ、アカネ、ケイの3人が並ぶ一角は、どこからどう見ても、仲睦まじい「お父さんとお母さん、そしてその子供」の構図そのものだった。その並びを見るだけで、レナの脳内は再び言語絶望の限界に達しそうになっていたが、それを必死に噛み殺している。
そしてケイの座る席のすぐ隣には、親友であるトキが静かに佇んでいた。前線でアビ・エシュフを限界まで酷使したトキは、ミナ同様、まだ痛々しい包帯が腕や首元に見え隠れしていたが、親友との食事会に、その顔を僅かに和らげた。
「ケイ。私の戦術ドクトリンにおける、あなたの最適化演算のサポートに感謝します。……ピース、ピース」
トキが細い指で小さくピースサインを作る。それが彼女なりの、親友への最大限の親愛の情の表現だった。
「トキ。あなたのその変わらない無機質な最適化行動を見て、私も安心しました。ですが、あなたのエネルギー残量は数日前、計算上の危険域に達していました。怪我人は大人しく座いてください」
ケイが前線で傷を負った親友を心から労うように視線を交わすと、トキは箸を両手に握りしめたまま、コクと小さく頷いた。
「……了解。これより、玄武商会最高級点心の迎撃任務を開始します。ケイ、連携を要求します」
「了解しました。ゲーム開発部、および空見観測研究部の名において、炭水化物の最速処理を遂行します」
「ちょっと、二人とも!? まだルミさんが料理を全部運び終えてないんだから、フライングはダメに決まってるでしょ! ほら、箸を置きなさいよ!」
レナが慌てて二人を制する。その乱暴な口調の裏には、「怪我をしているトキに無理をさせたくない」という、不器用な優しさが隠れていた。
「ふふ、いいよいいよ、元気が一番だね。レイジョ、奥の厨房から『玄武特製・高火力炒飯』の大皿持ってきて。今日は遠慮なんてしないで、みんなでたらふく食べようよ」
ルミが余裕のある微笑みを浮かべながら、手際よく大皿を並べていく。今回の騒動で厨房を荒らされ、自身も前線で戦ったレイジョは、まだ少し疲労の色を残しつつも、「はい、わかりました」と汗をかきながら、黄金色に輝く炒飯や麻婆豆腐、湯気立つ小籠包を次々と運んできた。
「さあ、お主たち。数日前の苦難を乗り越え、こうして新たな黎明を迎えることができた。この良き日に――乾杯じゃ!」
キサキが掲げた小さな杯に合わせ、12人の杯が一斉に中央でぶつかり合った。カチン、という小気味良い音が座敷に響き渡り、山海経の至高の宴が、ついにその幕を開けた。
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「……セイカさん、まずはこのフカヒレスープからいかがですか? 滋アミノ酸やコラーゲンが豊富で、滋養強壮に優れていますから」
宴が始まるや否や、アカネの手際よい給仕が始まった。怪我を感じさせない流れるような動作で、セイカの取り皿へと美しく料理を盛り付けていく。その一挙手一投足には、メイドとしてのプライドと、それ以上にセイカへの深い愛情が満ちていた。
「あ、アカネ……。何度も言っていますけれど、自分の取り分けくらい自分でできます。皿の配置から最短の軌道で料理を確保するアルゴリズムは、すでに構築されていますから」
「ふふ、そうおっしゃらずに。こうしてセイカさんのお世話をするのが、私の何よりのエネルギー補給なのですから」
アカネは優しく目を細め、取り分けたスープのスプーンをセイカの口元へと運んだ。完全に子供に対するそれ、あるいは最愛の夫に対するそれと同じ甘やかし方だった。山海経の門主や次席、さらには先生の目の前で行われるそのあまりにも熱烈な光景に、セイカの顔は一瞬で真っ赤に染まっていく。
「な……っ!? アカネ、周囲の観測者の視線を計算に入れてください……。全員がこちらの光景を視覚データとして受信しているのですよ? 非合理的、あまりにも非論理的です……ぅ」
完全に恥ずかしさでフニャついてしまうセイカ。その様子をすぐ隣で見ていた愛娘のケイは、すかさずお父さんへと正論のナイフを突き立てた。
「お父さん。公共の場において体表温度を無駄に上昇させ、取り乱す行為は非論理的です。ですが……お母さんの給仕は、脳内のストレス成分を最高効率でリラックスさせることが証明されています。ですからお父さん、大人しくお母さんのエネルギー供給を受け入れるべきです」
自身のマザコン的全幅の信頼を完璧なロジックとして並べるケイ。その純粋で生真面目な瞳に見つめられ、セイカは完全に反論のロジックを失った。
「……っ。ケイ、あなたまで私を包囲するのですか……。わかりました、食べればいいのでしょう、食べれば……」
観念したセイカが、アカネの差し出したスプーンから大人しくスープを口にする。大切な恋人からの給仕、および愛娘からの後押し。そのスープの温かさが染み渡るにつれ、セイカの張り詰めていた表情は、自然と柔らかく、甘えるような女の子のそれへと綻んでいった。
「お味はいかがですか、セイカさん?」
「…………。塩分濃度、およびアミノ酸の配合比率において、私の好む数値を正確にマークしています。……とっても、美味しいです…………」
恥ずかしそうに、でも愛おしそうに声を細めて、消え入りそうなトーンで甘えるように呟くセイカ。彼女は恥ずかしそうに自身の耳元のイヤリングをいじっていた。
「(……ッッッギャーーー!!! 尊い!! 尊すぎて無理!! 死ぬ、私が死ぬ!!! 何今の『とっても、美味しいです……』って声音!? 普段あんなに冷徹に数式並べてるセイカさんが、アカネさんの前でだけあんなに柔らかく甘える女の子になって着地してるの、破壊力が宇宙ビッグバン級なんですけど!!? しかもイヤリング!! 三日月のイヤリングを恥ずかしそうにいじってたわよ今!! 脳が溶ける、脳が焼き切れるゥゥウウウ!!!)」
レナの脳内モノローグは完全に限界を迎えていた。ワイルドハントの芸術的矜持などという防壁は、セイカの破壊的な尊さの前には塵同然だった。しかし、それを表に出すわけにはいけない彼女は、顔を真っ赤に染め上げたまま、手近にいた先生に八つ当たり気味にツンツンとキレ散らかした。
「な、なによニヤニヤして……っ! べ、別に私はフカヒレスープなんて羨ましくないんだからね! 勘違いしないでよね、先生!」
"お、お落ち着いてレナ。からかってないよ?"
先生が苦笑しながら「レナもスープ飲む? 熱いから気をつけてね」と尋ねると、彼女は一瞬で余裕をなくして大動揺した。
「な、なによそれ……っ! 私に子供みたいにフーフーして食べさせろって言いたいの!? そんなのただのインチキよ! 私は大人なんだから……って、シャーーッ!! こっち見ないでよバカ先生!!」
猫のように「シャーーッ!」と可愛らしく威嚇して、真っ赤な顔を両手で隠すレナ。その様子を、セイアもまた楽しそうに眺めていた。
「良いではないか、レナ。天上から冷徹に数式を記述していた観測者が、いまや地上の温かいスープ一杯で、もちろん無傷の愛娘の正論によっても陥落しているのだ。これほど美しい計算違いもそうそう見られるものではないね。私にとっても、その光景を眺める時間は心地よいものだよ。そして、君のその豊かなリアクションもまた、この円卓に華を添えているね」
「……セイア、あなたまで私をからかうのは論理的ではありません。……ですが、この小籠包の熱量は、計算上、口内粘膜を破壊する恐れがあります。……トキ、冷却の連携を」
「了解。フーフーを実行します。ケイちゃん、お待たせしました」
トキが至極真面目な顔で小籠包をフーフーと冷まし、それをケイの皿へと置く。
お堅いトーンで正論を並べながらも、お父さんとお母さんの甘い空間に寄り添い、親友のトキやセイアと平穏を噛み締めるケイの姿。そして内心で発狂しながらも必死にツンツンしているレナの姿。これこそが、紛れもない「ソラノミの日常」の完全なる正解の景色だった。
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そんなソラノミの空間のすぐ隣では、全く別の意味で凄まじい熱量を孕んだ光景が繰り広げられていた。
パチン、パチン、と箸のぶつかる小気味良い音を立てて、円卓の上の点心がつぎつぎと消えていく。トキの箸の動きは、まるでミリ秒単位で最適化された精密機械のようだった。餃子やシュウマイが、彼女の無表情な口のなかへと規則正しく、かつ恐るべき速度で消えていく。
「……玄武商会特製シュウマイ、完全に無力化。迅速に、次の皿の確保へ移行します。ピース、ピース」
「ふふ、いいね。信じられないスピードで皿が空になっていくじゃない。ほら先生、食事を抜かないこと、適当に済まさないこと。わかった? ちゃんと先生もトキちゃんたちのペースに負けないで食べなきゃダメだよ」
ルミが笑顔を浮かべ、からかうような余裕を見せながら先生の取り皿に点心をぽんと置いた。そして、中華鍋を鮮やかな手際でさらに振るい、追加の料理を完成させていく。レイジョが汗をかきながら、特大の炒飯をさらに三皿、トキの前に並べた。
「……感謝します、ルミさん。非常に、美味しいです。……迅速に、私を褒めてください、先生」
トキの頬がリスのようにぷっくりと膨らんでいる。包帯姿でありながらも、その食欲は全く衰えていない。
"トキ、よく食べるね。たくさんお代わりしていいからね。ルミさんの料理、本当に美味しいよね"
先生が優しく微笑んでトキの頭を撫でると、トキは心地よさそうに目を細め、小さく頷いた。
「はい、先生。先生のそのお言葉、および頭部への愛撫により、私の幸福度は最大値です。ピース、ピース」
「……私も、負けていられない」
隣のエイミが、いつも通りのローテンションのまま、ものすごいスピードで箸を伸ばし、トキとエビチリの争奪戦を始めだした。無言のまま繰り広げられる高速戦闘。その箸の軌道は、下手をすれば達人の剣劇のようすらあった。
「あはは、ミレニアムの生徒はみんな元気だね。ミナも負けてちゃダメだよ、ほら、特製薬膳スープ。手間をかけた分美味しくなるし、研究した分可能性が生まれる。今回のミナの頑張りにちょっと似てるかもね。さっさとそれ飲んで、体を労ってあげなよ」
ルミがミナの前に漢方の独特な香りが漂うスープの器を差し出した。ミナは「うっ……」と一瞬その独特な匂いに怯んだが、ぐっと拳を握りしめ、背筋を伸ばした。
「……問題ない。玄竜門の次席として、この程度の試練の前に屈することは許されぬ。……いただきます」
ミナが意を決してスープを口に運ぶ。その実直すぎる、生真面目すぎる姿を、キサキはふっと目を細めて、愛おしそうに見つめていた。
「ミナよ、無理をせずともよいのじゃぞ? お主のその実直さは我が庭の誇りじゃが、いまはただの食事の席。美味しいと思うものを、好きなように食べればよいわえ」
「門主様……。はっ、温きお言葉、恐悦至極に存じます。……ですが、このスープ、見た目に反して非常に深いコクがあって……、美味しいです」
ミナの張り詰めていた表情が、少しだけ和らぐ。
その様子を見ながら、レイジョもまたホッと胸を撫で下ろし、空いた皿を片付けながらしみじみと呟いた。
「本当、数日前は山海経全体がどうなることかと思いましたけど。……こうして、ミレニアムの皆さんや、ソラノミの皆さんと一緒に、一つの円卓で笑いながらご飯を食べてるなんて、夢みたいですね」
レイジョの言葉に、円卓の空気が一瞬だけ、静かで深い温かさに包まれる。戦いの厳しさを知る者たちだからこそ、この「何気ない、騒がしい食事の時間」が、どれほど壊れやすく、数々の奇跡の連鎖によって守られた尊いものかを知っているのだ。
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「――そういえば、先生。……申谷カイの様子は、その後いかがですか?」
円卓の賑やかさが少しだけ落ち着き、お茶の時間が始まった頃、セイカが中国茶の杯を口に運びながら、先生へと問いかけた。その紫の瞳には、かつて戦火を交えた「もう一人の記述者」に対する、純粋な知的好奇心と、どこか冷徹ではない複雑な光が灯っていた。全員の視線が自然と先生へと集まる。
"うん。昨日、更生室にいるカイのところに面会に行ってきたよ。……最初はね、やっぱり『何をしに来たんだ』って、すごく不機嫌そうに、あの切れ烈な瞳で睨んってきたんだ"
「ふん、あの傲慢な記述者が、まだ牙を剥くかえ。我が庭をあれほど乱しておきながら、相変わらず不遜な態度じゃな」
キサキが少しだけ声を低くして扇を閉じたが、先生は優しく首を横に振った。
"ううん、そうじゃないんだよ、キサキ。彼女は怒っているというより、ただ混乱していたんだ。どうして自分が許されているのか、どうして自分がパージされずにここにいるのかが、彼女の完璧な計算式ではどうしても理解できなくて、ただパニックを起こしているみたいだった"
「……当然の帰結です」
セイカが静かに杯を置いた。その動作には一点のブレもない。
「彼女の論理の世界において、敗者はすべてを失い、システムからパージされるのが『唯一の正解』。それなのに、先生がその過ちの数式を一緒に背負うと言い出し、山海経もまた、罪と向き合うための勉強というリソースを割いている。……彼女の知性にとって、現在の状況はすべての変数がエラーを起こしている、未知の領域なのです」
"そうだね、セイカの言う通りだと思う"
先生は頷き、話を続けた。
"だからね、私がカイの前に、山海経の新しい教科書と、ミレニアムの基本的なデータ記述の参考書を置いてあげたんだ。そうしたら彼女、『こんな幼稚な数式を、私に最初から解き直せというのかい?』って、すごく屈辱そうに言ったんだ。でもね、その目は、教科書から一瞬たりとも離れなかった"
先生の言葉に、生徒たちは静かに耳を傾けていた。ケイもまた、先生の言葉の意図を汲み取ろうとしている。
"だから私が、『君の計算は間違っていた。だったら、今度は間違えないように、私と一緒に最初から勉強を始めよう』って伝えたんだ。そうしたらカイ、文句を言いながらも、私が帰る時にはもう、その参考書の1ページ目を開いて、ものすごい勢いで数式を解き始めていたよ。……その切れ烈な瞳には、もう誰かを傷つけるための陰謀の影はなくて、ただの一人の『勉強熱心な生徒』の輪郭が、確かにそこにあったんだ"
「……はぁ。本当に、先生という大人は、デバッグの概念を根本から勘違いしています」
セイカが呆れたように額に手を当て、深いため息をついた。だが、その紫の瞳には、先生という存在に対する深い敬意と、そして世界で一番柔らかい光が灯っていた。
「バグをシステムから消去するのではなく、そのバグが正しい数式を記述できるようになるまで、大人が隣に居座り続けるだなんて……。論理的ではありませんけれど、……ええ、先生がその数式の添削を続けるというのなら、私からこれ以上の異論はありません」
「ふふ、さすがは先生です。……カイさんも、いつかこの玄武商会の美味しいご飯を、一緒に笑顔で食べられる日が来ると良いですね、セイカさん」
アカネがそっとセイカの肩に寄り添い、その薬指の指輪を優しく触れ合わせる。
「……ええ。彼女の知性が、私たちのソラノミの領域にまで達した暁には、その計算式の添削くらいは、私が直々にやってあげても構いませんよ?」
セイカは少しだけ誇らしげに胸を張り、隣の恋人へと、そしてその裾を握る我が子へと、世界で一番柔らかい、甘えるような眼差しを向けた。
「お父さん、また難しいお話ですか? ですが……私も、お父さんとお母さんと、そして先生と一緒に、その数式の最適化を手伝う準備はいつでもできています」
ケイがその小さな胸を張って告げた。
「はいはい、ケイ。お父さんもお母さんも、ずっとあなたの隣にいますからね。一緒にたくさん勉強しましょう」
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宴も終盤に差し掛かり、窓の外の山海経の美しい街並みには、静かに夕暮れの美しい朱色が差し込み始めていた。あれほど大量にあった料理は、一皿の例外もなく完全に平らげられていた。
「……玄武商会、全料理の無力化を完了。……先生、この任務は、C&Cの歴史において最も成功した作戦です。ピース、ピース」
「トキちゃん、いくら怪我の回復にカロリーが必要だからって、食べすぎよ! ほら、お腹壊しても知らないんだからね!」
「問題ありません、レナ。私の消化器官はすでに、すべての点心をエネルギーへと変換するプロセスを完了しています」
「な、なによそれ……。まぁ、あんたが元気なら、それでいいんだけどさ……」
レナがそっぽを向くと、トキは嬉しそうに目を細めた。
「……私も、満足。また、みんなで来たい。次はエビチリを、もっと多く」
エイミが心地よさそうに座椅子に背をもたれかける。その隣では、セイアが静かに中国茶を啜り、満足げな余韻に浸っていた。
「本当に、良い宴であったわ。先生、あるいはミレニアムの皆よ。此度の事件において、我ら山海経は多大なる恩義を被った。……竜華キサキの名において誓おう。今後、お主たちの進む方程式の行く手に暗雲が立ち込めることがあれば、我が玄竜門のすべてのリソースを以て、その行く道を等しく照らす正解の光となることを」
キサキが、一人の生徒としての心からの信頼を込めて言葉を贈った。ミナもまた深く頷く。
「はっ。玄竜門次席、ミナ。門主様の意志のままに。先生、いつでも我らを頼るが良い」
"キサキ、ミナ、ありがとう。……みんながこうして無事で、笑い合える場所を守ることができて、本当に本当によかった"
先生は、円卓の全員の顔を、もう一度愛おしそうに見つめた。
「みんなちょっと待ってて。 いや、なんかみんなでお土産に持って帰れるような冷めても美味しいお菓子でも、作ろっかなってね」
ルミがお茶を飲み終えた湯呑みを置きながら笑った。先生たちの喜ぶ顔が見たいという、彼女なりのフランクな愛情の形だった。
「……セイカさん、お口の横に、少し杏仁豆腐がついていますよ?」
「なっ……!? あ、アカネ、自分で拭きま……っ、んむ」
アカネが手際よくハンカチでセイカの口元を優しく拭う。セイカはまたしても反論のロジックを見失い、真っ赤な顔のまま大人しくその手を受け入れていた。
「お父さん、お母さん。公共の場でのそのような親密な行動は、観測者の脳内データに多大な影響を与えます。ですが……お母さん、私の口元も、その、少し汚れているかもしれません。拭いて、ください」
ケイが顔を少し赤くしながらも、甘えるようにアカネの服の裾を引いた。
「はいはい、ケイも綺麗にしましょうね。……ふふ、私とセイカさんと、可愛い子供ですから」
アカネはそう言って、ケイの小さな頭を優しく抱き寄せ、同時にセイカの左手をそっと包み込んだ。
二人の薬指で、対になる指輪が夕暮れの光を受けて、静かに輝き合っている。その様子をソラノミのレナたちも、先生も、温かい眼差しで見守っていた。
冷徹な論理の世界のなかに現れた、付き合っている二人の愛という名の最大のロジックエラー。
そして、その二人の元に集まったケイという名の愛おしい家族の輪郭。
大人が守り抜いたその方程式は、山海経の美味しい湯気と、生徒たちの最高の笑顔という完璧な答えを以て、ここに、美しく完全に記述されたのだった。