山海経を揺るがしたあの大騒動も、今や完全に過去のページへと綴じられていた。
アスファルトに刻まれた爆炎の痕跡はすっかり馴染み、生徒たちの記憶からも、あの夜の緊迫感は日常の喧騒の中へと溶けて消えている。だが、ここソラノミの艦内に流れる日常は、普通の学園のそれとは、その規模のベクトルの向きが最初から異なっていた。
ゴーーー……と、耳を澄まさなければ聞こえないほどの、極めて微細で安定した重低音が、鋼鉄の床を通じて伝わってくる。ミレニアムサイエンススクールの上空。現在、完全なるステルスモードを維持したまま、静かに雲海を切り裂いて飛行している超巨大構造物――それこそが、彼女たちの部室であり、拠点でもある「宇宙戦艦ソラノミ」であった。
艦内の一角に設けられた部室スペースには、いつもと全く変わらない、平熱の時間が流れている。
カチカチ、と小気味良いタイピング音だけが、静かな室内に響いていた。
セイカは、手元のホログラムコンソールに向かって淡々と数式を走らせている。その後方演算部隊としての知性は、今日もブレることなく駆動していた。その耳元では、彼女の規則的な動きに合わせて、両耳の白い三日月のイヤリングが静かに揺れている。
左手の薬指に嵌められたシンプルな指輪も、その耳元のイヤリングも、彼女にとってはもう、そこにあるのが当たり前となった日常の景色だった。だいぶ一緒にいる二人の間には、浮ついた照れなどはとっくに通り越し、生活の一部として深く馴染みきった、どっしりとした幸福な空気が流れている。
「セイカさん、お茶が入りましたよ。少し手を休めて、こちらをどうぞ」
アカネが、いつも通りの穏やかで蜂蜜のように甘い微笑みを浮かべ、完璧なタイミングで湯呑みを差し出した。彼女のメイドとしての手際、精度、そして何より恋人としての細やかな気遣いは、この飛行中の艦内でも最も安定したロジックとして機能している。アカネが差し出した手の左手薬指にも、セイカのものと全く同じデザインの指輪が、キラリと静かな輝きを放っていた。
「……ありがとうございます、アカネ。やはりあなたの淹れてくれるお茶は、私の演算を最も安定させる完璧な熱量です」
セイカは過剰に照れることもなく、しかし心の底から満たされた平熱の微笑みを浮かべてお茶を受け取った。その動作一つをとっても、二人が積み重ねてきた時間の長さと、熟成された信頼の深さがごく自然に滲み出ている。
「お父さん、お母さん。二人の空間の調和度は、本日も100パーセントをマークしています。……私もお父さんとお母さんと同じ、美味しいお茶を要求します」
二人のすぐ隣で、ケイが淡々と声を響かせた。
彼女は、いつも通りお母さんであるアカネのメイド服の裾をきゅっと握りしめている。だが、その視線はお父さんであるセイカの方にもじっと純粋に向けられていた。お堅い口調のなかに、お母さんに甘えるのと全く同じ温度の、お父さんに対する全幅の信頼と甘えが均等に滲んでいる。ケイにとって、二人は同じくらい大好きで、同じくらい大切な、当たり前の両親だった。
「はいはい、ケイ。あなたにも特製のお茶を淹れてあげますね」
「感謝します、お母さん。お父さんも、お茶の温度でログが乱れる前に早く摂取するべきです。……うん、美味しいです」
「ええ、大人しく従うとしましょう、ケイ」
セイカは愛娘の言葉に静かに微笑み、温かい湯呑みに口を運んだ。微笑ましい家族のやり取りを、大きな円卓の正面の席から眺めていたセイアは、狐耳を小さく震わせながら、上品にクスクスと笑い声を漏らした。
「ふふ、相変わらず調和が取れているね、君たちは。私の目にも、今の君たちの幸福な方程式は、とても美しく映るよ」
「セイア。現在のソラノミのメインシステムは安定稼働中です。先ほど巡航高度の微調整を行いましたが、共同演算の必要性はありますか?」
「いや、問題ないよ、ケイ。君の最適化アルゴリズムは、いつ見ても見事なものだね」
ケイは相棒に確認し、セイアもまた温かく、ごく自然にそれに応じる。かつて世界の重い理の中で交錯した二人が、今はこのソラノミの対等なバディとしてシステムを管理している。それもまた、この艦内において完全に定着した、平熱な日常の基礎であった。
__________
「……はぁ。ちょっと、あんたたち。公式な書類仕事の最中なんだから、少しは空気を引き締めなさいよ」
大きなテーブルの隅の席から、心底呆れたような、しかしどこか必死にトーンを整えたぶっきらぼうな声が響いた。
レナであった。
彼女の手元には、山海経の一連の事件に関する膨大な「事後処理報告書」の束が積まれている。本来、ワイルドハントは生徒の外出制限が極めて厳しいことで知られる学校だ。飛行中の宇宙戦艦に乗艦するなど、通常の手段では許されるはずがない。だが、そこには明確な大人のロジックが存在していた。
"ごめんごめん、レナ。ワイルドハントの厳しい外出制限を潜り抜けるために『シャーレの権限による公式な多校間事後処理公務』っていう名目を切ったのは私だからね。付き合わせちゃって申し訳ないな"
レナの隣で書類にペンを走らせていた先生が、苦笑しながら優しくフォローを入れる。先生という「シャーレ」の権限がこの場に介在しているからこそ、レナは公式な公務として、合法的にこのソラノミへ乗艦することができていた。
「べ、別に先生に謝ってほしいわけじゃないわよ! 学校の義務として、仕方なく来てあげてるだけなんだからねっ! ついでに言わせてもらえば、なんでステルスモードで空を飛んでる宇宙戦艦のなかで書類仕事させられてるのよ! スケールがおかしいでしょ!」
レナは顔を真っ赤にしながら書類を整えた。だが、その内心は完全に別の意味で大暴走を起こしていた。
「(……ッッッギャーーー!!! 始まったわよ、ソラノミの日常の尊さ大爆発空間が!!! セイカさんが耳元の白い三日月のイヤリングを自然に揺らしながら、アカネさんの前でだけあんなに柔らかい顔になるの、国宝を通り越して宇宙の神秘なんですけど!!? しかもケイちゃんが『お父さん、お母さん』って全く同じ温度で二人に純粋に甘えてるの、破壊力が完璧すぎて私の脳細胞が発狂しそうなのだけど!!? 落ち着け私……っ! ワイルドハントの矜持にかけて、この公務中に尊さに焼き切れるわけにはいかないわ……!!)」
「ほら、先生も手元が止ってる! 早くチェックを終わらせてよ!」
"はいはい、頑張るよ"
内心の限界オタク発狂を必死に隠そうとした結果、トーンが乱暴なツンツンモードになるレナを、先生は温かく見守っていた。
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だが、そのテーブルには、レナと同じ理由――先生の切った「山海経の公式な事後処理公務」という名目によって、全く同じようにこの戦艦に乗り込んでいる少女がいた。
上等な椅子に小さな体を静かに沈めながら、優雅に中国茶を啜っている彼女は、手にした扇をゆるりと翻す。
「――ふぅ。やはり、ミレニアムの茶葉も悪うないが、アカネの淹れる茶は格別じゃな」
山海経の最高権力者、玄竜門の門主――竜華キサキであった。
彼女もまた、此度の公式公務という完璧な通行証によって、この宇宙戦艦のなかにごく自然に馴染み、一人の少女としてお茶を楽しんでいる。
「お気に召して光栄です、キサキさん。ゆっくりしていってくださいね」
アカネがお茶を注ぐと、キサキは満足げに切れ長の瞳を細めた。
「うむ。ありがたいわえ。……それにしても、この戦艦のなかというものは、やはりこうして平熱のなかで過ごすのが一番じゃな。騒がしい眷属たちもおらぬし、ソラノミの空気は、どうにも心が落ち着くわえ」
「……キサキ、山海経の公務の方は本当によろしいのですか? ミナあたりが、今頃あなたの不在のログを処理している計算になりますが」
セイカが淡々とした声音で指摘すると、キサキは全く動じることなく扇をパチンと閉じる。
「おや、セイカ。これはサボりではない。妾とて、先生の要請に応じた公式な事後処理のために、こうしてわざわざ足を運んでおるのじゃ。トップとして、極めて高度な政治的リソースの割き方じゃよ。なぁ、先生?」
"あはは……ミナに後で怒られない程度にするんだよ、キサキ"
先生が苦笑すると、キサキは嬉しそうに目を細めた。
「(……ッッッ、ちょっと待ってなんで山海経のトップであるキサキさんまで私と同じ理由でこの戦艦に乗って、当然の顔してお茶啜ってるのよ!? 先生に頭を撫られて嬉そうなキサキさん、威厳と幼さのギャップが完璧すぎて、私のワイルドハント的芸術センサーが大爆発しそうなのだけど!!?)」
レナの内心の発狂レイヤーがさらに重なり、手元のペンが小刻みに震える。それ自体が、ソラノミの最高の日常の景色だった。
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静かにお茶の時間が流れていく。
キサキは湯呑みをそっと机に置き、大きな観測用モニターの向こう、その先に広がる空へと視線を向けた。
「――のう、先生。セイカよ」
キサキが、ぽつりと声を響かせた。
それは、門主としての凛としたトーンではなく、どこか遠い記憶を紐解くような、静かな声音だった。
「妾は……もう一度、あの『宇宙』とやらに行ってみたいのえ」
その唐突でスケールの大きな一言に、部室内の空気が揺れ動く。
「宇宙、ですか?」
セイカが即座にタイピングを止め、ホログラムコンソールをキサキの方へと向けた。
「宇宙旅行ですか! 素敵ですね、キサキさん」
アカネは楽しそうに手を合わせた。
「キサキさん。宇宙空間における環境維持システムは、私とセイアの共同演算を以てすれば、計算上98.4パーセントの確率で安定運用が可能です。お母さん、お父さん、私も宇宙へ同行します」
ケイも大真面目に参戦する。
「な、何よみんなして大真面目に……っ!」
レナが顔を真っ赤にしたまま、机を叩いた。
「宇宙なんてそんな簡単にいけるわけ……って、あ、そうか、この部活、そもそも自前の『宇宙戦艦』があるんだから、宇宙に行くのに予算も準備期間もいらないじゃないのよ! もう、なによこの規格外の部活は……っ!」
レナが自身の常識的なツッコミが戦艦のスペックによって無効化されたことに呆れ果てる。キサキはその姿をふっと見つめ、手にした扇を少しだけ開きながら、静かに言葉を続けた。
「ふふ、お主たちは相変わらず賑やかじゃな。……あの山海経の事件の最中、妾は身体の『治療』のために、宇宙に行っておったじゃろう?」
彼女が地上の邪魔が入らないよう、宇宙で治療を受けていたことは、この場にいる全員が知っていた。
「あの時の妾はのう……本当に、必死じゃった。山海経のトップとしての責任、己の身体を完璧な状態へと戻すこと。そのために全神経をただひたすらに治療のプロセスにだけ注ぎ込んでおった。地上の喧騒から隔絶された宇宙におったというのに……窓の外の星々の煌めきも、広大な銀河の美しさも、何一つ目に留める余裕すら無かったのじゃ。ただ治療のためだけに宇宙へ行き、それ以外のことに、全く気を向けられんかった」
キサキの切れ長の瞳が、モニターに映る空の先を見つめる。
「それが、今になって、こうしてお主たちと美味い茶を啜っておると……ふと、勿体ないことをしたな、と思ってのう。治療に専念するがあまり、妾は宇宙におりながら、宇宙を見ていなかったのじゃな。だからこそ、すべてが終わった今、今度は何の憂いもなく、ただ純粋に、あの美しい星々の海を眺めるためだけに、もう一度あの『宇宙』とやらに行ってみたい……。そんな他愛もない贅沢な余白をな、ふと考えてしまったのじゃよ」
キサキの言葉の真意を、ソラノミの面々が理解しないはずがなかった。
セイカは静かにコンソールを完全に閉じ、立ち上がった。
「……なるほど。キサキさん、あなたの言葉の論理性を完全に受信しました。システムが正常に稼働し、治療のプロセスが完全に終了したからこそ、プログラムには『余白』が生まれます。それを純粋なリソースとして再定義する。……ええ、これほど美しい数式の修正はありません」
セイカはふっと口元を緩め、メインスラスターの制御パネルへと手を伸ばした。
「それに、先ほどレナも言った通り、この『宇宙戦艦ソラノミ』は宇宙に行くのに長期間の準備も、手続きの時間も必要としません。私たちのシステムを以てすれば、そんなものは未来の計画にする必要すらなく――」
「ええ、その場ですぐに行けますよ、キサキさん」
アカネが優しく微笑みながら、セイカの言葉を引き継いだ。二人の薬指の指輪が、カチリと美しい音を立てて響き合う。
「今淹れたお茶が冷めないうちに、そのまま特等席から星を見に行きましょう。ね、先生?」
"うん。キサキが今度は笑顔で、純粋に星を綺麗だと思えるような、そんな宇宙旅行を……今からこのまま、すぐに始めよう"
先生が優しく微笑んでキサキの小さな頭を撫でると、キサキは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、すぐに嬉しそうに頷いた。
「う、うむ……。お主たちのフットワークの軽さには、妾も驚かされるわえ。だが、その言葉……甘えさせてもらおうかのう」
「了解しました。メインシステム、ステルス巡航モードから大気圏離脱モードへ移行。セイア、重力制御の同期演算を開始してください」
ケイが小さな胸を張り、迅速にコンソールを叩く。
「ああ、任せておくれ、ケイ。君との共同演算なら、大気圏脱出など一瞬の出来事だ」
セイアもまた、狐耳を嬉しそうに揺らしながら、ケイの隣で流れるようにシステムを駆動させ始めた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよあんたたち!!!」
レナが顔を真っ赤にしたまま立ち上がった。
「お茶を啜りながら『じゃあ今から宇宙行こうか』って、速度感がおかしいでしょ!? ほら先生、突入時の衝撃で書類が散らばらないように、早く固定するのを手伝いなさいよ! 安全管理のログは私が完璧に記述してあげるから!」
「(……ッッッ、あああもう無理最高に可愛い!!! 宇宙に目を向けられないくらい必死だったキサキさんのために、お茶の時間の空気のまま瞬時に宇宙へ舵を切るの、エモさのビッグバンなんですけど!!? しかもそれを当然のように支え合うセイカさんとアカネさん、そして『セイア』って呼び捨てにしながら完璧な連携を見せるケイちゃんのバディ感!! 私、この公務に就いて、本当に、本当に良かったわ……!!)」
内心の限界突破発狂モノローグを必死に噛み殺しながら、早口で書類を抱え込むレナ。その不器用な優しさと、ソラノミの圧倒的なテクノロジーが、ひとつの完璧な形として噛み合っていく。
先生はそれらを愛おしそうに見守りながら、隣で静かに微笑んでいた。
セイカは、手元のホログラムコンソールへ視線を戻すと、艦内の全システムが「宇宙航行モード」へ完全同期されたログを確認する。
「――それじゃあ、ソラノミ、発進します」
全体指揮官であるセイカの、凛とした、しかし深く満たされた平熱の声が艦内に響き渡る。
次の瞬間、宇宙戦艦ソラノミのメインスラスターが静かに駆動した。
お茶の湯気の向こう側、観測モニターに映る青空が、驚くほどの速度で、深く、静かな、美しい星々の煌めく「宇宙の青」へと書き換わっていく。
かつて必死だった時間の裏側を塗り替える、彼女たちだけの最高の贅沢な余白の旅が、今、この平熱の日常のまま、瞬時にして幕を開けるのだった。