重力制御システムが微細な駆動音を響かせる宇宙戦艦ソラノミの艦内。その中心に位置する広大なテーブルには、アカネが淹れたお茶のあたたかい湯気と、どこか張り詰めた、しかし心地よい静寂が満ちていた。
先ほど、一人の少女として「秘密の願い」を告げ、室笠家のあたたかい肯定を受け取ったキサキは、手にした扇をパタパタと動かしながら、少しだけ平熱を取り戻した様子で椅子の背にもたれかかっていた。彼女の切れ長の瞳は、先ほどの涙の痕跡を感じさせないほどに、今は悪戯っぽい光を取り戻している。
そのキサキの目の前、大きなテーブルの上に滑り込んできたのは、ミレニアムサイエンススクールの公式なホログラムウィンドウ――『空見観測研究部・部員追加申請書』の記述ページであった。
「――キサキさん。先ほどから、申請書の氏名欄を指先でなぞったまま動きが止まっていますが、何か記述上の障害でもありますか?」
テーブルの上座に座るセイカは、眼鏡の奥から論理的で、しかし誰よりも深い慈愛を秘めた視線をキサキへと向けた。
この場所において、隣に座る先生はあくまで「観測のゲスト」に過ぎない。部としての意思決定、部員管理、そして戦艦の運行ログの整合性は、すべて部長であるセイカの一存で決まる。先生はただ微笑みながら、コーヒーを一口啜って、その静かな部長の仕切りを尊重していた。
「……ふむ。少しばかり、緊張しておるのじゃ、セイカ」
キサキは扇をパサリと閉じ、凛とした表情でデジタルペンを握りしめた。
「其方たちが、妾の存在のログをこの場所の方程式に永久の定数として刻むと、そう言ってくれたことは真に嬉しい。じゃが、山海経の玄竜門門主としてではなく、一人の『部員』として他校の学籍に名を刻む……この座席を確保するという行為が、地上の政治にどのような波紋を広げるか、さすがの妾も考えてしまってな」
「不確定な記憶や、その時々の感情の熱量に頼るよりも、もっと確実で論理的な方法がこれしかありません」
セイカは淡々と、しかし極めて明確な口調でキサキの懸念を切り捨てた。
「あなたがこの『空見観測研究部』の正式な部員として、ここに名前を記述する。人間の記憶は時として揮発し、セクタの劣化を起こす非論理的な記憶領域ですが、ミレニアムのデータベース、およびこのソラノミの保護セクタに刻まれた固有プロファイルは、そう簡単に消去されはしません。外の社会がそれをどう定義しようとも、この艦内においては『星を観測する固有の個』が一人増えただけ。数式としての美しさは、何一つ損なわれません。違うでしょうか、セイア?」
「ふふ、全くもって部長の言う通りだよ、キサキ」
すぐ隣の席で、大きな狐耳をパタパタと揺らしていたセイアが、上品にクスクスと笑い声を漏らした。夜間観測モードの深いネイビーの光のなかで、トリニティの賢者の瞳は、絶対的な余裕を湛えてきらめいている。
「現に、トリニティ総合学園の頂点たる『ティーパーティー』の一角であるこの私が、こうして平然と籍を置いているのだ。今さら山海経のトップがもう一人増えたところで、このソラノミの数式になんの不都合もない。同じ『世界の重荷に削られた者』同士、そのあたりのしがらみをすっ飛ばすことなど、この星海の余白においてはごく些細な誤差に過ぎないよ」
「なっ……!?!?!?!?!」
その二人のあまりにも平然とした、しかし国家の境界線を軽々と飛び越えるようなロジックに対し、テーブルの最も離れた端っこで、完全に「部外者」として縮こまっていたレナが、椅子を盛大にガタつかせて飛び上がった。抱え込んでいた「山海経事後処理報告書」の束が、危うく床に四散しかける。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、セイアさん、セイカさん!? 何を二人してさらっと恐ろしいこと言ってるのよ! 竜華キサキといえば、山海経高級中学校の最高権力者よ!? そんな他校の、しかも一国のトップに君臨するような生徒を、ミレニアムの、それもこんな完全に航空法規の枠外にいる私的な部活に籍を置かせるなんて、政治的にどれほど大問題になるか分かってるの!? ヴァルキューレや連邦生徒会、ひいては山海経の玄竜門幹部たちが黙ってないわよ!」
「ふふ、何を今さらそんな地上の些事に慌てる必要があるのかね、レナ。君はまだ、このソラノミという座席の持つ本当の『重力』を理解していないようだ」
セイアは流れるような動作で自身の湯呑みを置き、レナの狼狽を優しくいなした。
「お主たち……ふふ、あはははは!」
二人の絶対的な肯定のロジックと、それに振り回されるレナの対比を前に、キサキは堪えきれないといった様子で、手にした扇で口元を隠しながら、鈴を転がすような愉快な笑い声を上げた。
その笑顔は、門主としての冷徹な仮面ではなく、自分を無条件に受け入れてくれる空間を見つけた、一人の少女の純粋な歓びそのものだった。
「うむ! 確かにセイアの言う通りじゃな! トリニティの最高幹部が部員として居座っておるのなら、妾がそこに名を連ねたところで、地上の者どもに文句を言われる筋合いはないのじゃ。……セイカ、お主の論理、見事であるわ。喜んで、その座席をいただくとするかの」
キサキは迷いのない動作でペンを滑らせ、ミレニアムの書類に力強く「竜華キサキ」の名前を書き入れた。その瞬間、部室内のホログラムログが、キサキの生体データを「正式な部員」として完全に同期させた。
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「しかし、のう……」
キサキはペンを置き、新しく更新された部員名簿の画面を眺めながら、ふと、懐かしむように観測モニターの端へと視線を移した。そこには、かつて彼女がこの戦艦で極秘の集中治療を受けていた際に使用していた、今は綺麗に格納されている医療ベイスペースの隔壁が見えていた。
「こうして正式に部員として名を連ねてみると、あの治療の最中、お主たちと交わした言葉の数々が、より一層深い意味を持って思い出されるわえ、セイア。そして、セイカも」
「おや、君もあの『時計の針が止まったような夜』のことを考えていたのかい?」
セイアは狐耳を小さく前に傾け、懐かしそうに目を細めた。
地上の誰もが知らない、宇宙戦艦ソラノミの密室で行われていた、キヴォトス最高峰の権力者二人の対話。あの大気を引き裂く重力の檻を振り切り、轟音が完全に途絶えた瞬間、ソラノミを支配したのは、地上のあらゆる引力と怨嗟、あるいは申谷カイの陰謀すら逆立ちしても届かない絶対の聖域――大気圏外の完璧な「静寂」だった。
「あの時の妾は、己のヘイローがいつ消えるかも分からぬという恐怖だけでなく、『自分が不在の間の山海経』が瓦解していく妄想に、文字通り毎夜押しつぶされそうになっておった。ミナがどれほど必死に玄竜門を支えてくれておるかを知っていながらも、妾の脳裏には、裏切りと疑心暗鬼の数式ばかりが浮かんでおったのじゃ。……最高権力者というのは、一度その座から離れると、己がただの『無力な肉塊』に過ぎぬという現実を突きつけられる。お主も、あの夜、妾のベッドの傍らで同じような話をしていたな?」
「ええ、話したとも」
セイアは静かに頷き、キサキの隣に腰掛けた。
「あの時の君は、まるで今にも折れそうな細い竹のようだった。高濃度に充填されたルミナス・コアのエメラルドの霧のなかで、熱に浮かされながらも、『玄竜門の印章はどこじゃ』『ミナ、勝手な行動は許さぬ』と、うわ言でまで山海経の政治をコントロールしようとしていたね。私はそんな君の冷たい手を握りながら、こう言ったはずだよ。――『キサキ、今ここで君がどれほど学園の行く末を案じたところで、この宇宙の座標からは、君の命令の電波すら地上には届かない。今はただ、その重い冠を私の隣に置いて、一人の壊れかけた女の子として、静かに眠っておくれ』とね」
「うむ……。あの言葉を聞いた時、妾は最初、トリニティの賢者が山海経を無力化するための甘言を弄しておるのではないかと、本気で警戒したのじゃぞ」
キサキは自嘲気味に笑い、手にした湯呑みを包み込むように両手で持った。
「じゃが、お主の目は、政治のそれとは全く違っておった。ただただ、己と同じ『世界の重荷に削られた者』を憐れみ、数式の外側で救おうとする、どこまでも平熱の、しかし絶対的な連帯の光が宿っておった。お主が『私も、予知の夢を失った時は、自分がただの抜け殻になったと思ったよ。けれどね、記記号を失ったあとに残る剥き出しの自分こそが、本当に愛すべき固有の命なのだよ』と語ってくれたあの瞬間……妾のなかで、何かが静かに氷解したのじゃ」
「ふふ、君は本当に頑固だったからね。私がそこまで言葉を尽くしても、なお『妾は門主じゃ、弱音など吐かぬ』と言い張って、大変だったよ」
「そんな会話をしていたんですね、二人とも」
コンソール席から、セイカが静かに振り返った。
「あの時のあなたのバイタルデータは、精神的な圧迫によって深刻なエラー数式を描いていました。サヤさんの医学という既存の解は、バグを含んだプログラムの実行を一時的にフリーズさせていたに過ぎない。地上の記述者が書き込んだ劣悪なノイズなど1ミリグラムも届かない天上において、私が行ったのは、医学的な切開でも呪術的な調伏でもありません。あなたの体内で暴れていた『申谷カイの数式』を、私の一次元上のロジックによって直接上書きする『添削』でした」
「ふふ、そうじゃったな。『言語化され、数式として記述した時点で、それは私の添削対象です』と言い切ったお主の傲岸なまでの理に、妾は深い畏敬の念を抱かずにはいられなかった。あの時、お主が『あなたの意志そのものが、この数式を成立させるための定数として機能している。ともなれば私はあなたを呼び捨てにしましょう』と告げ、妾を『キサキ』と呼んだあの瞬間……脳の芯が凍るような聲音の奥にある、狂おしいほどの誠実さに、妾の魂は救われたのじゃ」
「お父さんの言う通りです」
ケイが、アカネのメイド服の裾をきゅっと握りしめたまま、小さな声を響かせた。
「あの時のキサキさんの生命維持ログは、私の最優先保護セクタに格納されています。お父さんの思考領域に全因果演算領域を委譲し、同期率99.8%で添削プロトコルを執行した瞬間、キサキさんの存在の定義は、あるべき美しい形へと戻りました。毎日、お母さんの淹れたスープの温度変化ログと、キサキさんのヘイローの出力波形を同期させていた時のデータは、私の家族愛パラメーターの初期値を大きく上昇させる要因となりました。キサキさんが今、こうして元気になって『部員』となってくれたことは、私のシステムにとっても最大効率の喜びとしてカウントされます」
「ふふ、ケイ、ありがとう」
アカネが蜂蜜のような甘い微笑みを浮かえ、ケイの頭を優しく撫で、あるいはキサキへと向き直った。
「キサキさん、あの時はまだ、毒により食事に集中できていない様子でしたからね。こうして今、ミレニアムの書類に力強くご署名されている姿を拝見できて、室笠家の者としても、これ以上の達成感はありません。さあ、新しいお茶をお淹れしました。今度はしっかりと、その喉を潤してくださいね」
「うむ、感謝する、アカネ」
キサキは差し出された新しい湯呑みを受け取り、その温かい湯気を嬉しそうに吸い込んだ。
地上のあらゆるしがらみを廃した、このソラノミという密室だからこそ成立した、壊れかけたトップ二人の救済の記憶。それが今、ただの過去の思い出ではなく、「空見観測研究部」という正式な日常の枠組みとして、完全にこの場所に定着したのだ。
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「……それにしても」
テーブルの最も離れた端っこで、小さくなってお茶を啜っていた衣斐レナは、完全に自分だけが「異界」に迷い込んでしまったかのような深い溜息をついた。
彼女の手元にあるのは、山海経の事件の報告書類。それを書きにこの戦艦に足を踏み入れただけのはずだった。それなのに、目の前で繰り広げられたのは、キヴォトスの勢力図を根底から書き換えるような、しかしあまりにも平熱で穏やかな「入部劇」だった。
「(なによこれ……。なによこの空間……。地上の誰もが絶望して、あのサヤさんですら進行を遅らせるしかなかった死の呪縛を、この人たちは宇宙の果てで『出来の悪いバグの添削』として平然と処理してのけたっていうの……? トリニティの最高幹部と、山海経の最高権力者が、ミレニアムのいち部活のテーブルで並んでお茶を飲んで、昔の病室の話なんかで笑い合ってる。誰もこんなこと、地上じゃ信じないわよ……)」
レナは、自分の抱える書類の重みと、この部屋に流れる「重力のなさ」のギャップに、めまいの予兆を覚えそうになっていた。彼女にとって、学園のルールや公式な手続き、義務や公務といった『境界線』は、自分のアイデンティティを守るための絶対的な防壁だった。
しかし、この空見観測研究部という場所は、そのすべての境界線を「ただの誤差」として笑い飛ばしてしまう。
「レナ。何をそうして、数式の外側で迷子になったような顔をしているんだい?」
セイアが、いたずらっぽく狐耳を揺らしながらレナを見つめる。
「迷子にもなるわよ! 私はただのワイルドハントの生徒なの! あなたたちみたいに、国を動かすような大きな記号なんて持ってないんだから! ……正直、ここにいるだけで頭が痛くなってくるわ」
「ふふ、記号など、ここには最初から存在しないよ、レナ」
キサキがゆっくりと湯呑みを置き、レナへと優しく微笑みかけた。
「妾も、セイアも、ここではただの『部員』じゃ。お主がどれほど地上の義務に縛られていようとも、このソラノミの余白は、お主の席を拒みはせぬ。お主がその重い書類を置いて、ただの『レナ』としてここに座る日を、妾はいつでも待っておるぞ」
「な……っ! だ、だから、何言ってるのよもう……!」
レナは顔を真っ赤に染め、抱え込んだ書類に顔を埋めるようにして視線を逸らした。
――本当は、羨ましかった。地上の重苦しい政治や義務をすべて置き去りにして、ただ一人の少女としてお茶を飲み、自分を無条件に肯定してくれるこのあたたかい座席が、どれほど愛おしいものか、レナだって心の底では気づいている。
そのレナの微かな揺らぎを、瞳でじっと見つめていたセイカが、静かにホログラムコンソールへと指先を滑らせる。
「――さて、キサキさんの処理は完了しました。では、レナ。次はあなたの番です。空見観測研究部の部員追加申請書、次のスロットはすでにあなたの生体データとの同期を待っています」
「えっ……!? ちょ、ちょっと待ってよセイカさん! 冗談じゃないわ、私が入部なんてできるわけないでしょう!?」
レナは弾かれたように顔を上げ、テーブルの上のホログラムを激しく手を振って拒絶した。
「なぜですか? あなたの感情の波形、およびこのソラノミへの滞在ログを演算する限り、あなたがこの座席を拒否する論理的理由は存在しないはずですが」
「理由なら大有りよ! 私はワイルドハント芸術学院の生徒なの! うちの学園の規律が他校の私的な部活に籍を置くことなんて絶対に許さないわ! 公務の整合性だってめちゃくちゃになるし、何より学園の規則を破るわけにはいかないの! 気持ちは……その、嬉しいけど、規律がある以上、私は絶対にここには入れないわ!」
必死に自分に言い聞かせるように、レナは「ワイルドハントの規律」という防壁を盾にして叫んだ。入りたい、けれど自分を縛るルールの境界線を越える勇気がない――その生真面目な拒絶が、部室の空気の中に響き渡る。
しかし、その「規律」という言葉を聞いた瞬間。
円卓を囲むトリニティの賢者と山海経の門主――二人の最高権力者の目が、同時に、実にあやしく、そして楽しげに細められたのだった。