「ワイルドハントの、規律……ねえ」
レナが必死に放った「規律」という言葉の響きが、ソラノミのあたたかい空気の中に消えていく。その瞬間、テーブルの空気が、まるで別の意味の「重力」を帯びたかのように、わずかに張り詰めた。
セイアは流れるような動作で湯呑みをテーブルに置き、その大きな狐耳を、楽しげにピクリと前に傾けた。
「ふふ。それはまた、ずいぶんとクラシカルで、短絡的な防壁を盾に選んだものだね、レナ」
「な、なによその目は……! 文句があるならハッキリ言いなさいよ! こっちは真面目に、自分の学園のルールの話をしてるのよ!?」
レナはさらに身を固くし、抱えた書類の束を胸元でぎゅっと握りしめた。
ツンツンと棘を逆立てて威嚇する彼女だったが、その内面は、すでに別の意味の過呼吸で限界を迎えつつあった。
「(ちょっと待って、今のセイアさんの『クラシカル』の言い方、めちゃくちゃ格好良くなかった!? いや違う、私のすぐ隣に座ってるセイカさんが、私の『規律』って言葉を聞いて、あの美しすぎる双眸をスッ……って少しだけ細めたのよ!! なにその完璧な視線の動き!! 美しい!! 美しすぎて直視できない!! ああ、もうあの涼やかな瞳に1秒でも射抜かれたら、私の心臓が爆発してチリになるわよ!! なんでみんなあんな平然とお茶飲んでるの!? 脳が、私の脳のリソースが尊さで蒸発する――っ!!!)」
心臓がバックバクに暴れ狂っているのを隠すため、レナの表面の口調は、より一層ぶっきらぼうで攻撃的なものへと変換される。
「私には、オカルト研究会の大事なフィールドワークや、怪異の調査予定だってたくさんあるのよ!? あっちの活動だって私にとっては絶対に譲れない大切なものなんだから、他校の部活に籍を置くなんて器用な真似、簡単にできるわけないじゃない……っ!!」
「ふむ。お主のオカルト研究会への愛着、そして手続きの整合性、か」
今度はキサキがゆっくりと扇を開き、その妖艶で気高い瞳をレナへと向けた。
「レナよ。お主の言う『ワイルドハントの学校規則』とやらは、トリニティ総合学園のティーパーティーの公式な承認と、山海経高級中学校の玄竜門門主の直接の署名――その二つが同時に並んだ公式な『特例兼部許可の共同要請書』が突きつけられてもなお、お主を縛り続けられるほど強固なものかえ?」
「え……?」
レナの思考が、一瞬、完全にフリーズした。
「おやおや、キサキ。君も同じことを考えていたのかい?」
セイアが上品にクスクスと笑い、コンソール席のセイカへと視線を送る。
「なあ、セイカ。もし仮に、トリニティと山海経のトップから、ワイルドハント生徒会に向けて――『貴校の衣斐レナ生徒の優秀な事務能力、および怪異観測の知見を、二大校の公式な共同観測員として、空見観測研究部に【特例兼部】させることを強く要望する。なお、拒否された場合は今後の外交・交易ルートの関税および通信プロトコルに、相応の『調整』が発生する可能性がある』――という形式の書類を提出した場合、彼女の言う『規律の不整合』はデバッグできるかい?」
「演算するまでもありませんね」
セイカは、淡々とホログラムキーボードを叩きながら、その涼やかで神々しい素顔を少しだけレナの方へと向け、表情一つ変えずに言いきった。
「トリニティと山海経という、キヴォトスにおける最大級の巨大資本・政治権力が同時に動くとなれば、ワイルドハント側の生徒会は、その圧力を処理しきれずに1秒でフリーズします。オカルト研究会の籍を100%維持したまま、我が空見観測研究部への所属を無条件で認めるという『超法規的特例パッチ』が一瞬で当たるでしょう。結論として、法規的な障害は完全に消滅します」
「ちょっとおおおおお!?!? 何をさらっと国家規模の脅迫を組み立ててるのよこのトップ二人――!!!」
レナの顔が、驚愕と混乱で一瞬にしてトマトのように真っ赤に染まった。あまりの理不尽な包囲網に、テーブルの端で椅子から飛び上がって叫ぶ。
「な、何よそれ、ただの職権乱用じゃない!! キサキさんも、門主の権力をそんな個人的なスカウトに流用しないでよ!! 私はただの、普通の1年生よ!? なんで私が、トリニティと山海経のトップから同時に直接兼部を強要されてるのよ!! 意味がわからないわよ!!」
「ふふ、人聞きが悪いな、レナ。これは強要ではなく、正当な『政治的アプローチ』だよ」
セイアが、どこまでも優しく、空間を凍りつかせるような笑顔でレナを追い詰める。
「君が『ワイルドハントの規律が……』と悲しそうに悩むから、私とキサキで、その障害を上から綺麗に踏み潰してあげようという、優しさの顕現さ。ねえ、キサキ?」
「うむ! まさにその通りじゃ!」
キサキは扇で口元を隠しながら、勝ち誇ったような愉快な笑い声を響かせた。
「レナよ、お主が『オカルト研究会も大事だが、ここにも……』と迷うのであれば、その規律ごと、妾たちの『圧力』で兼部を認めさせてやるのが筋というもの。退けば一つ、進めば二つ。そう分かっておるなら、答えは決まっておろう?」
「な、ななな……なによそれ……!!」
タジタジになったレナは、完全に余裕を失ってしどろもどろになった。言葉の代わりに、彼女の最大の武器(防衛本能)が爆発する。
「なによその目は……!! 揃いも揃って私を政治的おもちゃにして――!! もう、シャーーーッ!!!!」
_________
「(い、嫌だ、もう嫌だああああ!! カノエ先輩助けて!!)」
表面上はシャーシャーと威嚇し、ツンツンぶっきらぼうに身構えているレナだったが、その内面は、ついに真の限界値を迎えていた。
「(っていうか?! さっきセイカさんが、私の『シャーーッ!』って威嚇を見た瞬間、ほんの一瞬だけ、本当に微かに、フッ……ってその美しい素顔の口元を緩めて笑ったのよ!! 笑ったわよね!? いまセイカさんが、私を見て微笑んだわよね!?!? なにその破壊力!! 尊死!! 尊死する!! 尊すぎて脳細胞が数十億個単位でパチパチとショートして消滅していくんだけど!! 無理、このまま兼部として毎日顔を合わせるなんてことになったら、私の心臓が毎秒核爆発を起こして宇宙の塵になっちゃうわよ!! 規律のせいにして逃げるしか道はなかったのに、あのトップ二人が笑顔でその防壁を大砲で粉砕しちゃったじゃないの!! 逃げ場がない!! この宇宙戦艦、本当に逃げ場がどこにもないんだけど!!?)」
脳内では完全に発狂し、セイカへの信仰心で頭がどうにかなりそうになっていたレナ。そんな彼女のパニックを、別のベクトルの「あたたかさ」がそっと包み込んだ。
「レナちゃん。はい、新しいお茶と、温かいスープですよ」
いつの間につかつかと隣に寄り添っていたアカネがレナの目の前に湯気の立つカップをそっと置いた。
その隣では、ケイが赤い瞳をパチクリとさせてレナを見つめている。
「レナ、そんなに身をこわばらせなくても大丈夫です。お父さんのロジックも、セイアやキサキさんの『圧力』も、すべてはレナをこのテーブルの座席へ固定するための、最大効率の歓迎プロトコルです。……お母さんのスープは、精神のバグを鎮静化させる成分が100%充填されています。まずは、一口飲んでください」
「ケ、ケイちゃん……。アカネさん……」
レナはぶっきらぼうに視線を逸らした。本当はセイカさんの「お父さん」呼びやアカネさんの「お母さん」呼びの尊さにも脳が焼けそうになっていたが、差し出されたスープのカップを両手で受け取る。
手のひらから伝わってくる、じんわりとした温かさ。それは地上の重苦しい義務や規律、あるいはワイルドハントとしてのプライドでガチガチになっていた彼女の心を、内側から優しく、平熱の温度へと融かしていく感覚だった。
「別に、あんたたちのために飲むわけじゃないんだからね。……ただ、ちょっと喉が渇いただけだし……。勘違いしないでよね!」
精一杯のツンデレなセリフを吐き出しながら、レナはスープを一口、コクりと 飲み込んだ。
あたたかい。そして、あまりにも美味しい。
その瞬間、彼女が必死に張り防壁として掲げていた「部外者」としての境界線が、スープの温度とともにサラサラと解けて消えていくのを、彼女自身も認めざるを得なかった。
「……ふふ。どうやら、システムの再起動が完了したようですね、レナ」
セイカ部長が、すべての演算を終えたホログラムディスプレイをパチンと閉じ、そのどこまでも紫で美しい瞳でまっすぐにレナを見つめた。
「あなた自身の感情の記述式は、すでに『ここにいたい』という解を出しています。あとは、形式的な文字列を記述するだけです。ワイルドハント生徒会への『公式兼部・圧力文書』の送信準備は、ケイの指先一つでいつでも執行可能です。さあ――」
__________
大きなテーブルの上に、本日二枚目となるミレニアムの公式なホログラムウィンドウ――『空見観測研究部・部員追加申請書』が滑り込んできた。
次の空欄のスロットは、オカルト研究会の籍を維持したまま、まるで最初からそこにあるべきだった定数のように、衣斐レナの名前が書き込まれるのを静かに待っていた。
「――わ、わかったわよ! もう私の負けよ!! 規律でも何でも、あんたたちの巨大圧力でどうにでもしなさいよ!! 兼部でも何でもやってやるんだから!!」
レナがついに半ばヤケクソ気味に叫び、ケイから手渡されたデジタルペンをひったくるようにして、申請書に「衣斐レナ」の名前を力強く書き込んだ。
その瞬間、ソラノミの艦内ログが、彼女の生体データを「正式な部員」として完全に同期させた。
「(あ、あああ……っ!! 書いてしまった!! セイカさんが率いる、この『空見観測研究部』の正式な部員名簿に、私の名前が刻まれてしまったわ!! これで私は、オカルト研究会を続けながら、この神々しくて美しいセイカさんと同じ空間で、同じテーブルでお茶を飲む権利を手に入れてしまったのね……っ!? ど、どうしよう、明日からの私の心臓のバイタル、絶対にエラーコードしか出さないわよこれ……!!)」
脳内では尊さのあまり絶開発狂し、嬉しさと気恥ずかしさでトマトどころかリンゴのように真っ赤になっているレナだったが、表面上はふんっ、と鼻を鳴らしてペンをテーブルに置いた。
「勘違いしないでよね! 私はただ、あんたたちがこれ以上ワイルドハントに政治的圧力をかけて大問題を起こさないように、監視役として籍を置いてあげるだけなんだから! 文句があるならハッキリ言いなさいよ!」
「ふふ、文句などあろうはずがないさ。歓迎するよ、レナ。これで、この星海の余白に、また一つ美しい固有の命の座席が増えた」
セイアが満足そうに微笑み、狐耳をパタパタと揺らした。
「うむ! これで妾とお主は、同じ部活の『同僚』じゃな、レナ。地上では決して交わることのない者同士が、こうして一つのテーブルに名を連ねる……。ふふ、やはりこのソラノミの数式は、最高に愉快である」
キサキも嬉しそうに扇をパサリと開き、新入部員同士、レナへと親愛の情を込めた視線を送った。
先生はただその隣で、新しく刻まれたキサキとレナ、二人の少女の「座席」の誕生を、穏やかな眼差しで静かに見守っていた。
地上の政治、学園の規律、あるいは国家レベルの重荷。そのすべてを「圧力」と「数理」で軽々と飛び越え、ただ一人の少女としての願いと居場所を肯定する、完璧なる論理の天上。
「――システム、すべての部員データの同期を完了。これより、空見観測研究部は、新体制での通常巡航モードへと移行します」
ケイの淡々とした、しかしどこか誇らしげなアナウンスが、部室の中に心地よく響き渡る。
アカネが淹れてくれた新しいお茶のあたたかい湯気が、テーブルを囲む少女たちのヘイローを優しく照らしていた。
宇宙戦艦ソラノミは、地上のあらゆる重力を置き去りにしたまま、静かに、どこまでも深い星海の余白を航行し続ける。
窓の外で瞬く無数の銀河のグラデーションは、彼女たちが新しく手に入れた、さらに賑やかで、絶対に失われない「永久の方程式」を祝福するように、どこまでも清らかに、平熱の日常の向こう側で、優しく、優しく輝き続けるのだった。
他校から新入部員が2人入りました!
そう他校から……
次の話ではあの人がまた胃を痛めます。
お労しや会計