水槽の外で息をする   作:シロヤユウ

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飽きるまでやりますので初投稿です(大嘘


プロローグ

砲声が、雪原をまっすぐ裂いた。

 

白い。

空も地面も、息も、全部が白い。

その真ん中を、黒森峰のパンターが噛みつくみたいに走っていた。

 

履帯が雪を噛む。

エンジンが唸る。

砲塔が回る。

その上で、彼女は半身をキューポラから外へ出していた。

車内から搭乗員の声が響く。

 

「車長、危険です! 中へ入ってください!!」

 

彼女は言う。

 

「大丈夫。西住隊長たちもやってる」

「そういう問題では……」

「それに、こっちの方がよく見える。……来るよ。掴まって」

「え?」

 

刹那、至近弾の衝撃でパンターが揺れる。

 

特殊カーボンは命を守る。

だからって、衝撃まで優しくなるわけじゃない。

 

照準器は大きく跳ね、

急な操作で車体が大きく振れ、

車内の誰もが小さく声をあげる。

 

ただ一人、車長の氷室澪(ひむろ みお)だけを除いて。

 

「今のは85ミリ、目的はたぶん時間稼ぎ。させない、行くよ」

 

叫ばない。

焦っていない。

むしろ、ひどく落ち着いている。

その落ち着き方が、車内の誰よりも怖い。

 

「そろそろ二射、これは受ける。合図まで右旋回」

 

操縦手が息を呑んだ。

 

「受けるって――」

 

言い終わる前に来た。

 

ガァンッ!! と、車体が鳴る。

砲塔の内側まで鈍い衝撃が突き抜ける。

砲手の歯が鳴って、視界が一瞬白む。

 

だがパンターは止まらない。

車体は言われた通り右へ、右へ、右へ食い込む。

澪の手はキューポラ縁から離れていない。

 

いや、違う。

離していないんじゃない。

離せる瞬間を待っていた。

 

「今」

 

短い一言。

砲手が反射で引き金を引く。

撃った。

撃ってから、自分がなぜこのタイミングで撃てたのか分からなくなる。

 

遠くで白旗が一本、跳ねるように上がった。

 

「……な」

 

砲手の喉から、間抜けな声が漏れる。

澪は振り返りもしない。

 

「次、左。林の手前に二輌」

 

言いながら、澪が額を手の甲で雑に拭う。

白い手袋に赤がついた。

 

それを見た装填手が血の気を失う。

 

「氷室さん、頭――」

 

「浅い」

 

即答だった。

 

「そんなの診ないと……!!」

 

「それよりも、さ」

 

ぴしゃり、と切るわけでもない。

あくまで、順番が違うだけみたいな言い方だ。

 

「やっぱり85ミリ、すごいね」

 

澪が笑う。

笑うな、と思った。砲手は本気でそう思った。

さっきの一発は笑うところじゃない。

砲塔を叩かれた衝撃が、まだ腕の骨の中に残っている。

 

なのに澪は、少しだけ感心したみたいな顔をしている。

 

「でもさ、パンターの白旗は上がってない」

 

その言葉が落ちた瞬間、車内の空気が変わる。

 

ああ、まただ。

 

そう思う。

 

この人の中では、たぶんもう決まっている。

白旗が上がっていない。

なら終わっていない。

終わっていないなら、まだいける。

 

それだけだ。

 

「近いけど、次も受ける。十五秒後。十四、十三――」

 

「待ってください!!」

 

装填手が珍しく声を張った。

珍しいどころじゃない。悲鳴に近かった。

 

澪はそこでやっと、ほんの少しだけ車内へ顔を戻す。

 

怒っていない。

苛立ってもいない。

むしろ、ひどく優しい目だった。

 

「大丈夫」

 

その“大丈夫”が一番大丈夫じゃない。

みんなもう知っている。

 

「でも揺れるから、掴まってていいよ」

 

言い終わると同時に、また外へ身を出す。

雪。砲煙。白。黒。金属。

そこに澪の横顔だけが、ひどく冴えていた。

 

「砲塔固定。合図で旋回、五、四、三、二――」

 

来る。

 

言葉より先に、全員がそう思う。

本当に来る。

何が、ではない。

いつもの、氷室澪の“ここから”が来る。

 

ドンッ!!

 

今度の衝撃は重かった。

パンターの車体全体が一瞬きしみ、砲手の肩が照準器に叩きつけられる。

装填手は後頭部を壁で打った。

運転手は舌を噛んで、口の中に鉄の味が広がる。

 

「――っ!」

 

声にならない音の中で、澪だけが生き物みたいに動いていた。

 

「射撃準備、肩蹴るよ。そしたら撃って」

 

「は?」

 

理解できない。

でも次の瞬間、本当に肩を蹴られる。

 

反射で撃つ。

 

砲が吼える。

パンターの砲身が吐いた火が雪を焼く。

向こうのT-34/85が、履帯を切られて斜めに沈む。

 

「……当たった」

 

砲手が呆然と呟く。

 

「うん」

 

澪はもう次を見ている。

 

「履帯切った85は放置。すぐには追えない」

 

「何でそんなの……!」

 

「わかるから」

 

わかるから。

 

その一言が、ひどく怖い。

 

みんな怖がっていた。

とっくに。

でも勝つ。

勝ってしまう。

それも、毎回ちゃんと。

 

最初は意味が分からなかった。

次に怖くなった。

今はもう、理解できないまま従っている。

 

氷室澪が「受ける」と言う弾は、本当にまだ受けきる。

「わかる」と言う時は、本当に自分たちに見えていないものを見ている。

 

パンターは雪原を切り裂く。

その中で澪は、敵の砲火と自分たちの猶予を、まるで呼吸みたいに数えている。

 

「つぎは左前、76ミリ。こっちの砲塔側面をあえて見せる」

 

「えっ」

 

「一瞬だけ。撃たせるよ」

 

「撃たせる!?」

 

「そう。撃たせたら勝ち」

 

「車長……!」

 

「大丈夫。受けないよ」

「偏差を前に滑らせる。合図で制動。タイミングは私が見る」

 

やめてくれ、と思った。

この人の“受けない”は、安全だという意味じゃない。

ただ、まともには当てさせない、というだけだ。

 

止める間もなく、パンターの鼻先がわずかに開く。

 

ほんの一瞬だけ晒された砲塔側面。

薄い。落としやすい。

だからこそ、撃つ側の意識はそこへ吸われる。

 

敵の照準が、薄い方へ滑った。

食いついた。

 

次の瞬間にはもう、澪が叫ぶでもなく低く言う。

 

「今」

 

短い制動。

敵弾は、予測点だけを撃ち抜いてきた。

 

防楯を、擦った。

 

金属が悲鳴みたいにひしゃげて裂ける、甲高い爆音。

砲塔のすぐ脇を、耳の奥へ直接ねじ込まれるみたいな音が走る。

 

誰も考える暇なんてなかった。

反射だった。

 

その一瞬だけ、誰も役割より先に耳を守った。

 

砲手が肩を竦める。

装填手は反射で両耳を塞ぐ。

操縦手まで首を引いて、肘で片耳を庇った。

 

 

でも澪だけは動いていた。

 

「ごめんね、擦らせるつもりじゃなかった」

 

本当に、少し申し訳なさそうに言う。

言いながらもう、次を見ている。

 

「相手装填中、落ち着いて撃って」

 

パンターが雪煙を割って鼻先を出す。

敵はまだ次弾に入れない。

照準の遅れより先に、こっちの砲が噛む。

パンターの砲撃が相手の側面を穿った。

 

白旗。

また一本。

 

「……敵、沈黙です」

 

装填手が呻くように言った。

澪はその声を聞いているのかいないのか、雪に濡れた頬のまま淡々と続ける。

 

「うん、軽くて助かった。次」

 

軽いわけがない。

 

さっきから車内はずっと鳴っている。

頭は痛い。

肩は痺れる。

装填手の口の端からは血がにじんでいる。

運転手は呼吸が浅い。

砲手は照準器にぶつけた目の上が腫れてきた。

 

なのに。

 

なのに澪だけ、どんどん研ぎ澄まされていく。

 

被弾のたびに。

揺れるたびに。

誰かが青ざめるたびに。

 

それが一番、理解できなかった。

 

「氷室!」

 

車外、無線越しに鋭い声が飛んだ。

逸見エリカだ。

 

「下がりなさい!」

 

澪は一瞬だけ、そちらを見る。

でも言葉は短い。

 

「まだ」

 

「まだじゃない!」

 

「まだ白旗が上がってない」

 

雪の中に、エリカの息が白く散った。

澪のパンターが前へ出る。

 

あえて一歩。

砲火を誘う。

 

受ける。

弾く。

食い込む。

撃つ。

 

最後の一輌が沈んだ。

 

白旗が、遅れて上がる。

 

静寂が落ちる。

いや、違う。静寂じゃない。

耳鳴りだ。

 

車内全員がしばらく何も言えない。

エンジン音だけが、妙に遠い。

 

そしてその中で、澪がようやく、ほんの少しだけ息を吐く。

 

「……ん」

 

小さく首を振る。

その拍子に、額から伝っていた血が頬を落ちる。

 

「終わり?」

 

誰にともなく聞く。

 

「お、終わり、です……本隊も、包囲に入ってます、状況終了、です……」

 

装填手の声が震える。

 

「そっか」

 

それだけ言って、澪はキューポラから身を引いた。

引いた瞬間、初めて、ほんの一瞬だけ顔が歪む。

 

「っ、」

 

短い。

本当に短い痛みの音。

 

でも次の瞬間には、もう元に戻っている。

 

「降りよっか」

 

なんでもないみたいに言うな、と砲手は思った。

なんでもないわけがない。

この車輌も、この中も、この人も、たぶん全部かなり無茶苦茶だ。

 

でも澪は、本気でそう思っていない顔をしていた。

それが何より怖かった。

 

パンターが軋みながら止まる。

ハッチが開く。

冷気が流れ込む。

 

澪が先に降りようとする。

 

「氷室――」

 

エリカの声が外から飛ぶ。

その直後だった。

 

澪の足が地面に着く。

一歩。

二歩目で、膝が少しだけ抜ける。

 

誰より先にそれを見たのは、たぶんエリカだった。

 

「……っ」

 

澪は少しだけ肋を押さえて、何でもない顔で立て直す。

 

立て直せてしまう。

手袋を外した指先が、赤い。

頬も。

額も。

唇の端も、切っている。

澪はその血を見て、ようやく少しだけ眉を寄せた。

 

「……結構いってるね」

 

他人事みたいに言う。

 

エリカが、そこで初めて怒鳴った。

 

「結構どころじゃないでしょう!」

「え」

「さっきから何回も!! 何発も!! 肩も頭も!! あなたのそれは――」

 

言葉が続かない。

怒っているのか、怯えているのか、自分でも分からなかった。

 

澪は一瞬だけ黙って、手袋の血を見て、

それから戦場を見た。

上がった白旗の列。

止まった敵車輌。

力なく座る搭乗員。

自分たちのパンター。

 

それを見て、ようやく。

 

「……でも」

 

小さく笑う。

 

誇らしげでもなく。

勝者らしくでもなく。

ただ、ひどく静かに。

 

「勝ったよ」

 

雪が降っていた。

白くて、冷たくて、音を吸う雪だった。

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