水槽の外で息をする   作:シロヤユウ

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戦車道のない学校で
1話 まだ、死んでいない


砲声が、白を裂いた。

 

雪。

砲煙。

吐いた息。

 

何もかも白いのに、あの中にいる時だけは、よく見えた。

 

履帯がどこで噛むか。

次の一発がどこへ来るか。

どこまでなら受けていいか。

 

痛いはずなのに、輪郭だけは濃い。

 

車体が揺れる。

どこかで金属が鳴る。

頬を伝う温かいものがあっても、まだ保つと思えた。

 

そうだ、まだ。

 

――氷室澪さん。

 

いやだ。

 

――落ち着いて聞いてください。

 

だって、まだ。

 

――あなたはもう、以前のように戦車に乗ることはできません。

 

いつものように、そこで夢は切れた。

 

白い天井。

白いカーテン。

朝の光。

 

しばらく、そのまま動けなかった。

夢の中の白と、部屋の白が、頭の中でまだうまく分かれていない。

 

目を閉じずに、右から順に焦点を合わせる。

首を少しだけ回す。右が遅い。

肩は重い。吐き気はない。

 

立てる。

 

いつもの順番で、そう確認する。

それからようやく、布団を出た。

 

足の裏が床に触れる。少し冷たい。

机に手をついて、一拍だけ待つ。

 

机の隅には、飲みかけのスポーツドリンク。

湿布の箱。

昨夜のままの薬。

 

どれも、生活の中にもう馴染んでいた。

 

歯を磨く。

顔を洗う。

制服に袖を通す。

鏡の前で髪をまとめる。

 

右腕を上げる時だけ、ほんの少し角度を選ぶ。

違和感を避ける癖が、もう残っていた。

 

 

大洗は、悪い場所じゃない。

 

風がよく通る。

海の匂いがする。

 

穏やかだ。

平和だ。

 

きっと、それが普通なんだと思う。

それでも、やっぱりどこか空気が薄い。

 

教室に入る。

「おはよう」と言われて返す。

席に着く前に、落ちたプリントを拾う。

そのまま配る。

黒板の端が白いままなのが目について、ついでに消す。

 

「ありがと、氷室さん」

 

「ううん」

 

そう返してから、ようやく、まだ鞄を肩に掛けたままだと気づいた。

 

授業は、黒板を見ていればいい。

言われたことをノートに落とせばいい。

 

でも、休み時間は違う。

 

椅子の脚が鳴る。

誰かが筆箱を落とす。

笑い声が一段だけ大きくなる。

 

ひとつひとつは小さい。

小さいのに、昼前には喉の奥が少し狭い。

 

首元に指を入れて、シャツをわずかに引く。

それだけで治るほど軽くはないけれど、何もしないよりはましだった。

 

昼休み、前の席の子が振り向いた。

 

「氷室さん、一緒に食べる?」

 

澪は少し遅れて頷いた。

断る理由はなかった。

 

弁当を開ける。

話を聞く。

返す。

笑うところでは、ちゃんと笑う。

 

でも、少しずつ遅れる。

 

相槌が半拍。

笑うのが半拍。

箸を持ち直すのも半拍。

 

誰かが身振りを大きくした拍子に、肘が机に当たって、ペットボトルが転がった。

 

軽い音だった。

軽い音なのに、身体がそっちへ先に反応した。

 

反射的に伸ばしたつもりだった手は、相槌よりも、笑うのよりもはっきりと遅れて、ようやくぴくりと動いた。

 

「あ……ごめん」

 

澪が拾うより先に、隣の子が手を伸ばす。

 

「いいよいいよ、大丈夫」

 

大丈夫。

その言葉が、今は少し遠い。

 

向かいの子が笑って、別の話が始まる。

澪は頷く。頷ける。

 

でも、駄目だと思った。

 

「お茶、買ってくるね」

 

立ち上がる。

 

誰も止めなかった。

止めるほどの顔はしていなかった。

 

廊下に出る。

少し静かになる。

 

でも、楽にはならない。

 

窓際で立ち止まる。

風が入る。

遠くの海が光る。

 

足の裏から、艦の低い振動がじわじわ上がってきて、耳鳴りがした。

思わず、少しだけ眉を寄せる。

 

「澪」

 

呼ばれて、ゆっくり顔を上げる。

学校で名前を呼ぶ人は、あまりいない。

 

まず見えたのは、工具箱。

肘までまくったつなぎの袖。

最後に、小さい頃から何度か見た顔。

 

瀬良玲。

今は大洗の先輩で、それ以上でもそれ以下でもないはずなのに。

 

「澪、顔白いよ」

 

「平気です」

 

「そう?」

 

玲は、そこで終わらせなかった。

でも、急かしもしなかった。

 

顔色より先に、返事の遅さを見ている目だった。

 

「それで」

 

一歩だけ近づく。

 

「何がどう平気?」

 

澪は視線を逸らした。

 

「……授業戻るくらいなら」

 

「それ、戻れるだけって意味でしょ」

 

声は柔らかい。

でも、逃がさない。

 

「大丈夫です」

 

玲はため息もつかなかった。

 

「その大丈夫、あとで回収するから」

 

そう言って、先に歩いていく。

澪は少しだけ口を結んで、あとを見送った。

 

 

午後の授業は、終わった。

 

帰り際、担任に箱をひとつ頼まれる。

近いから、ついででいいから、と言われて、澪はそれを持った。

 

自動車部棟まで行ったのは、それだけの理由だった。

 

油の匂いがした。

金属の触れる乾いた音がした。

誰かが布で何かを拭く、ざらついた音もした。

 

教室より散らかっているのに、こっちの方が静かだった。

音が多いぶん、どれも役目がある。

 

そう思ってしまうのが、少し嫌だった。

 

「レイ先輩、いますか」

 

散らかった音に消されるより先に、近くの工具箱の影から、作業の手を止めた玲が顔を覗かせた。

 

「え、澪?」

 

「こんにちは。これ、先生から」

 

「ありがとう、そこ置いといて」

 

玲の声が飛ぶ。

箱を棚の脇へ置く。

 

その時、リフトの向こうから声がした。

 

「見ない顔だけど、後輩?」

 

つなぎの袖を腰で結んだ部員が、顔だけ出してこっちを見る。

玲は工具箱の中を覗いたまま答えた。

 

「そ。昔からちょっと知ってる子」

 

「へえ。知り合い?」

 

「まあね。今はふつうに後輩でいいよ」

 

「なんか興味ありそうじゃん。やってみる?」

 

玲がそこでやっと顔を上げる。

 

「やらない。あの子いま療養中だから。変に巻き込まないで。ほら、手止まってる」

 

「はーい」

 

軽い返事が返って、向こうはまた作業へ戻った。

 

澪は、そのやり取りを少し遅れて飲み込んだ。

人の声も、工具の音も、こっちではちゃんと場所を持っている。

 

「……賑やかだね」

 

澪の言葉に、玲が肩越しに振り返る。

 

「でしょ。いつもこんなもん」

 

その向こう、工具棚の奥で、澪の視線が止まった。

 

暗がりの隅。

半分だけカバーが掛かった、小さなナニカ。

 

埃をかぶっている。

履帯は少し沈んで見える。

長く動いていないものの気配が、そこに溜まっている。

 

それでも形だけは、まだはっきりと戦車だった。

 

Ⅱ号戦車F型。

 

澪はその場で足が止まった。

 

小さい。

端へ寄せられている。

もう使わないものみたいに、日常の風景へ押しやられている。

 

目が離せなかった。

 

似てる、と思った。

自分みたいだと思った。

 

声に出すつもりはなかったのに、口が先に動いた。

 

「……終わってる」

 

玲が振り向く。

 

「何が」

 

澪はⅡ号から目を離さなかった。

 

「私と、似てる」

 

言ってから、少しだけ笑おうとした。

うまくいかなかった。

 

玲は何も言わずにⅡ号の方へ行く。

履帯の辺りを軽く蹴る。

しゃがんで転輪を触る。

カバーを少しめくって、車体の脇に手を入れる。

 

立ち上がった。

 

「終わってないよ」

 

澪の喉がつまる。

 

玲は車体を見たまま言った。

 

「ちゃんと見れば、まだ走る」

 

一拍置いて、

 

「まだ死んでない」

 

自分に向けた言葉ではないと、わかっていても、

それでも、その言葉はまっすぐ入ってきた。

 

違う。

 

そんなわけがない。

終わっている方が楽だ。

終わったものに寄りかかっていれば、楽だ。

それ以上、測らなくて済む。

 

だから、先に出たのは言葉だった。

 

「違う」

 

自分でも驚くくらい、大きい声だった。

言い終わった瞬間、床が傾いた。

 

視界の端が遅れる。

焦点が一拍ずれる。

工具の触れる音が急に大きくなって、胃の底が持ち上がる。

 

一歩引こうとして、足が合わない。

 

「澪!」

 

玲の声が近い。

 

「座って」

 

「平気、です」

 

反射みたいに出た。

玲の声が少しだけ低くなる。

 

「平気じゃない」

 

返せない。

 

吐き気がある。

目が揺れている。

右が遅い。

分かっているのに、言葉にすると本当に終わりそうで、喉が閉まる。

 

玲が来る。

肩ではなく、肘を取る。

近くの折りたたみ椅子へ、そのまま座らされる。

 

抵抗する余裕はなかった。

 

玲はどこからか冷えたスポーツドリンクを持ってきて、キャップを緩めてから澪に渡した。

 

「飲める?」

 

澪は少し遅れて頷く。

 

ひと口だけ飲む。

冷たい。

 

喉を通る冷たさに、少しだけ焦点が戻る。

玲がしゃがみ込んだ。

 

「吐き気は?」

 

「……少し」

 

澪はボトルを握ったまま、Ⅱ号を見る。

 

さっきと同じ場所にいる。

動かないまま。

でも、さっきより輪郭が濃い。

 

死んでない。

 

その言葉が嫌だった。

嫌なのに、どこかで少しだけ息が合ってしまった。

 

終わっている方が楽だったのに。

 

玲は立ち上がって、カバーを戻しかけて、やめた。

半分だけ開けたまま、続ける。

 

「みんなごめん、今日上がる」

 

“大丈夫”が喉まで来る。

 

でも今それを言えば、たぶんまた揺れる。

だから言えない。

 

玲が、もう一度だけこっちを見る。

 

「ねえ、澪。帰る時、ひとりで歩けるなら歩いていい」

 

一拍置く。

 

「でも、無理ならそう言って」

 

その言い方だけ、少し昔に近かった。

澪は俯いたまま、ボトルを握る。

 

「……私、今ちょっと変ですか」

 

玲はすぐには答えなかった。

でも、その沈黙は放っておく沈黙じゃなかった。

 

「うん」

 

短く返る。

 

「ちょっと危ない」

 

それで十分だった。

 

艦の低い振動が、床の下をゆっくり流れていく。

どこかで工具が鳴る。

油の匂いがする。

 

教室より、ずっと静かなのに。

さっきより、少しだけ息がしやすい。

 

それが嫌だった。

 

半分だけ開いたカバーの向こうで、Ⅱ号はまだそこにいる。

 

終わったものだと思っていた。

そう思っている間だけ、少し楽だった。

 

でも、もう身体の方が先に、そうじゃないと知っていた。

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