ワイトもそう思います、今回までお付き合いください。
玲は手早く帰り支度を終えた。
工具箱の蓋を閉めながら、折りたたみ椅子に座ったままの澪を見る。
白い。
さっきよりは少し戻った。けれど、まだ白い。
頬の色は薄いし、目の端の焦点も、ほんの少し遅れている。
「歩ける?」
澪はスポーツドリンクを握ったまま、少し遅れて頷いた。
「……はい」
「じゃあ、私も上がるから」
向こうで部員が「おつかれさまでーす」と手を振る。玲は短く返し、つなぎのファスナーを喉元まで上げた。
澪が立ち上がる。
立てた。
でも、立てることと平気は違う。
玲はそれを口にしないまま、工具箱をロッカーへ押し込んだ。
自動車部棟を出ると、甲板を抜ける風が少し強かった。
夕方の艦上は、昼より人が少ない。遠くで誰かの笑い声がして、すぐに散る。下の方からは、艦体の低い振動がじわじわ伝わってくる。
大洗の普通。
けれど澪は、こういうものに時々足を取られる。
玲は歩幅を合わせすぎないよう、ほんの少しだけ前を歩いた。
「歩ける?」
「歩けます」
「うん」
返事は短い。
短いけれど、いつもより少し遠い。
横目で見る。
足元は大丈夫。けれど階段の手前で、ほんのわずかに間があった。
見て、降りるまで、一拍。
普段なら見落とすくらいの、小さな遅れだった。
玲は何でもない顔で先に一段降りる。
「手すり使って」
「そこまでじゃないです」
「そう?」
声は柔らかいまま返す。
「じゃあ約束して。帰ったらちゃんと連絡すること」
澪は少しだけ口を結んだ。
「……いります?」
「いる」
すぐ返す。
「倒れたか倒れてないかだけでいいから」
「倒れません」
「その返事が一番信用できない」
責めるつもりで言ったわけじゃない。
でも澪は、少しだけ黙った。
怒ったというより、誤魔化す場所をひとつ失った顔だった。
階段を降りきる。
人の流れがばらけ、通路の幅が急に広くなる。
澪は一度だけ、首元に指を入れてシャツを少し引いた。
息苦しい時の癖だと、玲は小さい頃から何となく知っている。
昔も、ああいうのがあった。
追い込まれるほど静かになる。
苦しいとも、辛いとも言わない。
言わないくせに、妙に一点だけはっきりしてくる。
クラブでも、その後のどこかでも、たぶんずっとこんなふうに保ってきたんだろう。
細かいことまでは知らない。
でもあの子は昔から、しんどい時ほど静かに、遠くなる。
「澪」
「はい」
「今日のこと、忘れていいからね」
澪が少しだけ顔を上げる。
「Ⅱ号のことも。私が言ったことも。今は考えなくていい」
一拍置いてから、澪は小さく頷いた。
その頷き方が、あまりにも素直で、玲は逆に嫌な感じがした。
考えなくていいと言われて、考えないで済む子じゃない。
分かれ道の手前で、玲は足を止めた。
「ここから一人で行けるなら行っていい」
澪も止まる。
「でも、無理なら言って」
「……はい」
「はい、じゃなくて」
玲は少しだけ目を細めた。
「無理なら、ちゃんと言う」
澪は視線を落として、それからほんの少しだけ困ったように笑った。
「努力します」
努力じゃない。
そう言いかけて、玲はやめた。
代わりに、短く言う。
「着いたら一言ね」
「わかりました」
今度は少しだけマシな返事だった。
澪が歩き出す。
背中は薄い。
けれど、さっき自動車部棟で見た時よりも、目だけはたしかに戻っていた。顔色は悪いままなのに、輪郭だけが少し濃い。
玲はその背中が角を曲がるまで見送ってから、ようやく踵を返した。
⸻
部屋に戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
制服の袖を抜きながら、玲は机の上に携帯を置く。
つなぎの匂いが、まだ少し残っている。
シャワーを浴びる前に澪へ一度連絡しておこうかと思ったのと同時に、携帯が震えた。
母からだった。
玲は少しだけ眉を寄せて通話を取る。
「もしもし」
『玲? 今いい?』
「うん。どうしたの」
向こうは一拍だけ黙った。
その間の悪さで、玲も少し姿勢を変える。
『あんた、澪ちゃんに会った?』
「会った」
『そう。どうだった?』
「……どうって、なにそれ」
『今日ね、向こうのお母さんと話したの。あの子、ただ療養でこっち来てるって話じゃなかったみたい』
玲は黙る。
『戦車道の試合で、頭をやったんだって。一回、戻そうともしたらしいけど、駄目で。お医者さんにも、もう乗せない方がいいって言われてるみたい』
「……そう」
『知らなかった?』
「うん。そこまでは」
向こうはまだ何か言っていた。
玲は最後まで聞いた。
けれど、頭に残ったのは説明の方じゃない。
まだ死んでない。
あれは車両に向けた言葉だった。
少なくとも、そのつもりだった。
でも澪は、あれを自分の方へ入れていた。
終わってる。
私と似てる。
あの顔を思い出す。
違う。
と返した時の、自分の声も。
あれは、ただ具合が悪くなっただけじゃない。
終わったことにしていた何かを、無理やり起こされた声だった。
通話を切ったあと、玲はしばらくそのまま立っていた。
部屋は静かだ。
艦の低い振動だけが、床の下をゆっくり流れていく。
携帯を置く。
もう一度持つ。
メッセージ画面を開いて、何も打たないまま閉じる。
「……最悪」
小さく漏らして、ようやくつなぎのファスナーに手をかけた。
⸻
その頃、澪は部屋に戻っていた。
靴を脱ぐ。
鞄を椅子の背に掛ける。
制服のまま机に手をついて、一拍だけ待つ。
いつもの順番で、今の状態を測る。
目はまだ少し揺れている。
右が遅い。
吐き気は少し。
歩けた。帰れた。
だから平気。
そう言い切れないところまで含めて、もう癖になっていた。
机の上には、朝のままの薬と湿布。
飲みかけのスポーツドリンク。
どれも生活の中にきちんと馴染んでいて、それが少し嫌だった。
澪は制服のリボンを緩めて、ベッドの端に腰を下ろす。
静かだ。
学校より静かで、通路より静かで、自動車部棟よりずっと音が少ない。
なのに、息は楽にならない。
手元に視線を落としたまま、さっきの言葉が戻ってくる。
まだ死んでない。
忘れていいと、玲は言った。
今は考えなくていい、とも。
でも、考えないで済むわけがない。
終わっているなら楽だった。
終わったものに寄りかかっていれば、それ以上、自分に聞かなくていい。
もう使えないと決まっているなら、それ以上、自分の身体に答えを聞かなくていい。
死んでない。
終わってない。
澪は右腕を少しだけ上げる。
途中で止まる。
痛いわけじゃない。
ただ、引っかかる。角度を選べばいける。選ばなければ少し嫌だ。
それが、余計に困る。
首をゆっくり回す。
右が遅い。
前に少しだけ屈む。
視界の端が一拍ずれる。
そこでやめるつもりだったのに、澪はもう一度だけ試した。ほんの少し深く。ほんの少しだけ。
その瞬間、胃の底が持ち上がる。
「……っ」
短く息を止めて、すぐに戻る。
戻れた。
戻れたけれど、視界の揺れはさっきより増えた。
ばかみたいだと思う。
でも、確認しないともっと気持ちが悪い。
どこまでなら保つのか。
何が駄目で、何がまだ残っているのか。
終わっているのか。
本当に終わっていないのか。
それを確かめる方が、もっとしんどい。
澪は湿布の箱を引き寄せて、一枚取り出した。
首の後ろへ貼る。
冷たさが皮膚を通って、じわじわ広がる。少しだけ楽になる。
でも、それで終わる種類のものじゃない。
薬を飲む。
水をひと口。
机に置いたスマホが目に入る。
着いたら一言。
玲に言われたことを思い出して、澪は少しだけ迷った。
連絡なんていらないと言ったのは自分だ。
でも、言われたからには返した方がいい。そういう種類の義務なら、まだ処理できる。
短く打つ。
【着きました。倒れてないです。】
送ってから、その文面が少しだけ嫌になった。
倒れてない。
それだけだ。
それ以上のことは、どこにも書いていない。
スマホを伏せる。
部屋はまた静かになる。
終わってる方が、楽だった。
そう思って目を閉じる。
終わっているなら、確かめなくていい。
終わっているなら、もう乗れない理由を、自分の身体に毎回聞かなくていい。
澪はもう一度だけ、右腕を上げる。
さっきより少しだけ上がる。
そこが、いちばん困る。
痛くて無理なら簡単だった。
動かないなら、もっと簡単だった。
でも、動く。
少しだけ戻る。
それでいて、前と同じには足りない。
「……なら、ちゃんと動いてよ」
小さく言って、腕を下ろす。
春先のぬるい風が頬を撫でた。
そこに、鉄と火薬の匂いはまだない。