某掲示板で連載中の話の前日譚。
そして本編『月姫』の後日譚。
好きだから、吸わない
そう彼に告げて、わたしはたった一人。
なにもない城へと帰ってきた。
大地には、主人を言祝ぐように、そよそよとさざめく純白のムーン・マーガレット。
さくりさくりと掻き分ける足取りは、身体の重さに反して軽い。
それは喜びに跳ねる少女の足取りではなく、長きに航る旅路を終えて、肩の荷が下りたが故の軽やかさ。
そよぐ風に金髪を揺らされて、わたしは天を仰ぐ。
壊れる前はこうして、風に目を細めることすらなかった。
星の内海。白い花園。
夜空には、地上のそれとは違う、大輪の華が咲き誇る。
あの満月が降りることはない。燦々と注がれる月光のもと、我が居城、千年城ブリュンスタッドはその威光を誇示していた。
もはや、それに畏怖する者も、既にここにはいないのだが。
この工場は失敗だった。
それをいつ、誰が言ったのかさえもう思い出せない。
わたしが生まれた時すでに、この城の真祖達は酷く衰退していて。
その真祖達もまた、わたしが一人残らず殺し尽くした。
本来、真祖への祝福であった月光。
それももう、誰をも照らすこともはく、ただただ廃城の城壁を青白く浮かび上がらせるのみ。
その蒼白さは死徒の肌色にも似ているな、とふと思った。
死体のようでいて、それを納める棺桶のようにも見える。
あながち、そのどちらも間違いではないのだろう。
事実、わたしは死に体で。
これから千年城という棺にて、永遠の眠りに就くのだから。
──それも悪くない、と今なら思える。
わたしは夢を見る真祖になった。
これから永遠の眠りにつくということは、これから永遠に、あの夢のような日々を思い返せるということ。
その事実に、悦びがなかったと言えば嘘になる。
”わたし”が決定的に壊れた瞬間。
あの運命の出会いから、ほんの十四日ばかり。
僅か二週間でここまで変わるものかと、我ながら呆れもしていた。
この星が死ぬまで、あの十四日間を何回繰り返せるだろうか。想像もつかない。
未来に心を踊らせるのは初めてだった。これこそ千年もの航海に対する報いなのだろうか。
あるいは本当のわたしはとっくに終わっていて、今際の際に幸福な夢を見たのかもしれない。
そのどちらでも良かった。
だから、思い残しがあるとすれば彼のことだった。
彼の儚げな眼差しが好きだった。
彼の穏やかな声色が好きだった。
彼の澄んだ微笑みが好きだった。
彼の不器用な優しさが好きだった。
彼のいうありふれた日々が、鮮明に思い出せる。
嘘を奏でたこと。
優しかったこと。
手を繋いだこと。
一緒に歩いたこと。
楽しかったこと。
手を離したこと──。
いつまでも、ずっとそばにいたかった。
だが、もう時間だ。
──彼は前向きに生きてくれるだろうか。
なんだかんだ、約束を守ってくれた人だ。
きっと、わたしの遺した残酷なお願いも聞いてくれるだろう。
ああまで彼の運命を変えておきながら、その先まで縛るとは。
つくづく酷い女だと我ながら思う。
わたし達の物語に『もしも』はなかった。
なにしろ始まりから終わっていた。
わたしの吸血衝動はとうに限界で、あれは今際の捨て身じみた旅の終わり。
壊れきったわたしにできることは、せめて彼の名誉と尊厳を守ることだけだった。
魔にとって愛することとは喰らうことだ。
触れ合うだけでは足りず、心を通わせてもまだ足りず。
その命ごと喰らい尽くし、己が一部とせねば満たされない。
わたしでは彼の運命にはなれても、番にはなれなかった。
この身に宿る魔の宿業は、遠からず彼の全てを喰い尽くす。
願わくは、彼の孤独な道行きに、その終わりまで付き添う誰かがいてくれたなら。
あの妹か、侍女とメイドか。
あるいはあの骨の髄から憎たらしい抜け殻でも、痛みにまみれた彼の人生の星ぐらいにはなれるだろうか。
わたしはそうはなれなかった。
だから、誰かが。
城門をくぐり、庭園を抜け、わたしは下へと降っていく。
月光すら届かない地下室。
その最奥に位置する、冷たい無機質な腰掛け。
それを取り巻く数千もの縛鎖。
真祖達から与えられた、わたしの玉座。
「──来たか」
その手前、わたしと玉座を遮るように立つ陽炎を視る。
わたしと同じ色、されど遥かに長い金髪。
愛想の欠片もない、心底退屈だと言いたげな瞳がこちらに向く。
誰何するまでもない。
この城に残された真祖など、
「おまえは何もかも放り投げると考えたが。あの人間を残して、ひとり戻るとはな」
「そうね。たくさん考えたわ……志貴と、一緒にいる方法」
それは……
「志貴を連れてこの城で暮らす。志貴の血を吸ってわたしの死徒にする」
……すごくイヤだった。
「志貴と別れるのはイヤ。でも縛り付けるのはもっとイヤ……志貴には自由に生きてて欲しい。笑っててほしいい」
自分は全てを持っていると思っていた。
必要ないから引き出さないだけで、己がそう望めば、なにもかもがその通りに叶うだろうと。
最後の旅路だってそうだった。きっと、その気になれば、運命だって手に入れられた。だけど。
「志貴のためなら我慢できる。こんなの初めて……」
「……そうあれと望まれた
我わたしは初めて、自らの口で呟いた。
呆れとも、無関心とも取れる愛想のなさで、拒むように目を閉じる。
「私はこれ以上付き合わん。城に戻ったなら眠りにつけ」
これがアーキタイプ・アース。
この星の魂、このわたしの原型。
もとより、こういう在り方だった。どうしようもないまでに、壊されて、怒って、恋して、変化したのはわたしのほう。
それを誰にも教えるつもりはないけれど。
「……そっか、こんな話もできないのよね。わたしが眠ったら。あ、でも大事な経験コトは秘密……」
──もう、陽炎の姿はない。
目の前には伽藍洞の玉座が佇むのみ。
蛇を殺す仕事以外は常にここに座していた。
それがどれだけ寂しい在り方か、そんなことすら識らないまま。
そうあれかしと教わったとおりに八百年もの間、ずっと。
「前はすぐ眠ったっけ」
何も考えず。
機械が電源を落とすように。
ただ真祖が眠るためだけの玉座。
豪華なパーティーも。
沢山の来賓も。
贈り物もない。
何もない。
何もいらない。
こんなのは無駄で無意味で、
でも志貴となら全部したい──
一緒に生きていく世界。
ああ、なんて──
いつかの日。
彼を待つ間、ふと目にした童話の終わりを思い出した。
「ふたりはいつまでも幸せに暮らしました」
おやすみ志貴。
目覚めはキスで起こしてね。