はらぺこあおむし
男が一人、己が領地たる森を駆ける。
日没から数時間が経過した今、闇を照らす灯りは天上に輝く満月のみ。
不思議と男には赤く染まって見えた。満月も、支配していた森もなにもかも。
今宵は
奇怪な事象。今にして思えば、一瞬で切れ目なく森を呑み込んだ、目に沁みるような深い霧が始まりだった。
あれから時計の長針が数周してなお、冷たい檻のように世界を閉ざしている。
濃霧。それは男にとって、あの忌まわしき十九世紀の倫敦の象徴に他ならない。
この星を穢す人類の罪深さの具現。視界にすら入れたくないから、永遠に地上を見限った。
星を称え、神秘の衰退した世を儚み、その元凶たる人間を蹂躙しながら、母なる自然の腕に抱かれつつ時を数える。それが男の在り方だった。
男は人狼だった。
死徒と同じく人間から転化し、人間社会に巣食い、人間を喰らう化け物。
伝承において、時には吸血鬼と交わることもありながら、それとは根本から異なる生命系統に連なる高等な神秘。
その中でも男は別格だった。噛まれた人間が転化した末路ではなく、最初からそのように作り出された星の端末。吸血鬼の世界において真祖に区分される精霊と同質の、三千年を数える星の雫である。
人狼は互換を含む身体能力に優れ、総じて戦闘行為に高い適性を誇る種族。
階梯に伴う存在規模の個体差が激しく、上級個体でも異能による性能が不安定な死徒と比べると、平均的な脅威度でいえば遥かに高い。
加えて種として安定しているため、その名に違わず群れを築く。これらの特性が、教会をして迂闊に手出しができない異端の一つたらしめている。
そんな人狼社会において、男は最大の派閥を率いる領袖だった。
それでいてこのような秘境に根を下ろすのは、ひとえに澱み腐った人の世の水が肌に合わないからだと男は信じていたし、配下にも常々そのように言い聞かせてきた。
世を追われたのではなく、見限ったのだと。断じて、我が身が没落したのではないのだと。
それは、時代に棄てられた大精霊が自身を慰撫する言葉でありながら、同時に事実でもある。
魔が人のみならず同じ魔をも喰らう中世の魔窟においてなお、比類のない強者として隆盛を謳歌した。挑んできた魔術師や代行者、神秘の尽くを返り討ちにしながら。
こうして黒い森に籠もる今でも、狩りは放棄していない。聖堂教会も魔術協会もその根城を掴んでいながら、手に負えず静観していた。
石の裏に潜む虫のように代行者の目を逃れ、手下の屍に隠れながら涙ぐましく血を集める死徒風情とは魔としての次元からして異なる。この森とて、元を辿ればとある祖の後継者を滅ぼして乗っ取ったものだ。
零落の憂き目に晒されてなお人の目を憚ることなく狩りがこなせる。その時点で、男は紛れもなく神秘の‘‘上澄み‘‘だった。
だから、目をつけられたのだ。
他と比べられる
思っていたより状況が悪いのではないかと、男が最初に考えたのはいつだったか。
いやに霧がかっていた黄昏。そして夕焼けの残滓が消える頃、領地の外縁を哨戒していた末端の配下の生体反応が消失した。
とりたてて騒ぐような事態ではない。随分と減ったとはいえ、魔術師や代行者による襲撃など、夜に生きる者共にとっては日常の一部である。
現に、男に取り入り、あまつさえその威光を我が手にせんとした魔術師が、ここのところ盛んに秋波を送ってきていたばかりだった。
身の丈に合わない野心を掲げるだけあって、それなりに腕は立つ方だったが、肝心の頭の出来は悲しいほどお粗末だったらしい。器を分からせてやってもまだ懲りず、愚かにも挑んできた──男がそう判断するのも無理からぬ状況ではあったといえよう。
もし、この時点で男が自ら誅しに出ていれば、件の魔術師の成れの果てを直にその目で確かめていただろう。
そして、それが目前に迫った己の末路にもそのまま当て嵌まるのだと、戦闘に長じた種族ならではの嗅覚から直感出来たに違いない。
しかし幸か不幸か、男は玉座から動くことはなく、命じられるまま狩りに向かった彼の一族がその運命の代わりを担うこととなった。
この世に生まれ落ちて幾星霜、欧州の地において繁栄を謳歌した人狼たち。今宵、永遠に狩人の座から転落したことを悟るのに、果たしてどれだけの犠牲を要したか知る者は既にいない。
僅かな生き残りは森に逃げ込んだ。隠れ里を見限り、人の世に逃れようとする者もいた。
それら全てが一つの胃袋に収まるまでに、然程の時間もかからなかった。
そして今、男の悉くを喰らい尽くした黒い鳥が、
最上位の人狼の全力疾走でも振り切れない。それどころか、徐々に背中からの距離が縮まっている。
優れた聴覚は、金切り声を上げる大気の向こうにある悠々とした足音を拾い続ける。草木を踏み分けるそれは子供のもの。信じ難いことに、歩いている。
無数の死線を潜り抜けた経験側から、躊躇わず闘争よりも逃走を選んだ。幼子相手に文字通り尻尾を巻く屈辱を、命の対価と受け入れて。にもかかわらず落ち延びることすら叶わないとは。
「──ふ」
深い森を芝刈りの如く均す乱気流の鋭利な刃。
大樹を根から巻き上げる暴風。磁場の乱れ。
一般的な代行者では十秒も生き残れない死地において、男には周囲に目を凝らすだけの余裕がある。
だから見えてしまう。薙ぎ払われた木々の残骸から幹を伸ばす、途方もなく巨大な原生植物の姿を。元々が森であるからおかしな言い回しではあるものの、自然そのものが大地を塗り潰す様は緑化としか表現のしようがない。
地球本来の植物の尺度で設定された、霊長たる知的生命体に合わせて軟弱化する以前の原生植物。
規模と強靭さにおいて現代とは比較にならないそれらは、貪欲に地表から酸素を吸い上げ、膨大な酸素消費は致命的な気圧差を引き起こす。
原始の植物に覆われた異界は、その異常なまでに活発な成長のため絶えず地形が変動していた。
終わりなく伸び続ける太い幹と幹の間から次々と新しい芽が顔を出し、編み物のように層を広げていく様は、原始の生命活動の基準においても暴走に他ならない。
酸素がない。
地面が熱い。
重力も狂っている。
今や地上は人間どころか、並みの死徒であっても死に筋だった。とはいえ仮に空を飛べたとしても、今度は暴風の渦に叩き墜とされて終わる。活路など存在しない。
男が規格外であるからこそ、辛うじて首の皮一枚繋がっているだけの状況。それすら切り落とさんとばかりに、古代樹の枝が鞭のように追われる獣を四方から打ち据える。
星の端末たる人狼に傅いてきた筈の黒い森。
既に忠誠は失われたことを男は身を以て理解する。
いつかの日、自身が奪い取ったのはあくまで土地の占有権に過ぎなかった。
これは違う。自然そのものが、自らの意思で真の主人に首を垂れている。粗悪な僭称者など一顧だにせず。
男が並みの幻獣だったなら、その事実に気付かずに済んだかもしれない。
己を滅ぼすのが、他ならぬ己を産み落とし、そして何よりも忠誠を捧げてきた星であること。それも、あれだけ憎み蔑んできた人間との産物であること。
あらゆる点において、男にとっては皮肉な結末となった。あるいはそれこそが、重ねてきたおびただしい罪業に対する報いなのか。
獲物の逃げ道を潰すように、棘に覆われた蔦が行く手を水平に薙ぎ払う。
絶命を覚悟した瞬間、霧を裂いて真横を通り過ぎた真空の刃が切り落とし、紙一重の差で男の命を繋いだ。
言うまでもなく、男を助けるための一手ではない。ろくに狙いすらつけずに放たれたのだろう。既に何度も、同じような幸運に救われていた。
もはや男には、己を差し置いて自然同士が鎬を削っているように思えてならない。氾濫した大河の衝突において、濁流に巻かれる木の葉の行く末を誰が気にかけよう。
この災害の特別なところは、ただの無秩序で予測不可能な力のうねりではなく、あくまで一つの頭脳の統率下にあるということだ。
舐められたものだと男は自嘲する。自然操作を使い熟すための、練習台として使われている。
狩人が満足したときに、この「訓練」は終わりを迎えるのだろう。無力な獲物の頸に縄をかけて。
それは、男の矜持に悖る。
どこまでも続く原生植物の森の只中で、遂に人狼は足を止めて振り返った。
この夜において初めて彼の怪物と正面から対峙する。
見据える濃霧の向こう、悠然とした歩みの末に姿を現す黒装束。
目を疑うほど美しい生き物だった。
足首にまで届く豊かな金髪。翻るそれは、朱い月光をそのまま吸い込んだような輝きを放つ。
白磁のように滑らかな肌。凪いだ碧い瞳孔が、無感情にこちらを射抜く。
およそこの世のものとは思えない、凄絶なまでの美貌。向かい合えば、思わず恥じ入るほどに。
完璧を体現した西洋人形のようでありながら、同時にこれを造り出すことは誰にも出来ないと断言できる。
コレと同じ存在を男は知っている。
夜に住まう眷属の神話。
星の内海に佇む、ただ一輪の月の花。
神秘の理に生きる者として、その名を口にすることすら憚られる。
同じ星の嬰児なれど、男は指先にすぎず、あれらは星の頭脳体だ。生き物としての次元からして異なる。
──それが何故、この森を襲撃したのか。
真祖の姫君が死徒や堕ちた同族を粛清していたのは知っている。
だが男は吸血鬼ではなく人狼だ。確かに数多の人間を喰らってきたが、そもそも真祖の王族は人間社会における惨事などに興味を持たない。
何を目的として起動したのか。目の前の真祖の行動原理は何処にあるのか。男にはまるで分からない。
夜の世界を謳歌するために最も重要なのは、何よりもこういったモノに手を出さないこと。
それを貫いてきたからこそ、男はここまで生き残ってきた。真祖の王族などと関わりを持ったことはない。持とうとしたことすらない。
むしろ徹底して遠ざけてきた。だというのに。
「……全く理解に苦しむな。何故我々なのか?」
問いかけに答えはなかった。
沈黙を保ったまま、吸血鬼はやおらその右腕を構える。
今宵、初めて見せた予備動作。
追う時は必要なかったもの。わざわざ腕を振るわずとも、敵意を向けるだけで世界の全てが手足となって男を殺しにかかる。
故に、その仕草には特別な意味がある。それが何かを、男はすぐに理解させられた。
蜃気楼のように、周囲の景色が揺らめく。
顕現するはこの地に似つかわしくない白亜の城壁。
城。人工物。男が心底忌み嫌う、文明の一端。
なのに不思議と、本心から美しいと思った。思ってしまった。
これは男へ向けられたものではない。踏み潰されるだけの羽虫に、力を誇る者などいない。
そもそも、森をまるごと真世界に塗り替える所業からして随分大袈裟な規模の権能行使である。
これらの示威が何を相手にしたものなのか、男は的確に理解していた。
「目立ちたがりが」
男への関心は既にない。
この夜を越えることを諦めた時点で価値は失われている。
なればこそ、最期に足掻くと男は決めた。
人狼は死徒と異なり魔術は得意としないのが常だが、男は特別な個体である。神代において魔術を会得し、研鑽を重ねてきた。
全てを費やして自分を見ない星の頭脳体に一太刀浴びせる。一度はこの地を統べた者の意地だった。
術式の展開と同時に跳躍。
蓄えた全ての資産を焚べた最大火力の魔弾と、極まった人狼の身体能力に任せた格闘による挟撃。
それらを爪で迎える黒い化身。
放たれた星の息吹は、無慈悲に男を呑み込んだ。
そうして、数千年にわたり欧州にその名を轟かせた人狼も被食者として狩られ最期を遂げた。
世を捨てたが故に、既に欧州の遍く神秘が黒い化身の牙に斃れている事実をついぞ知らぬまま。
とある、秋の入り頃の話である。
◆
引きずり出した心臓は、片手で掴むにはやや余る。
そまだ温かみの残るそれを開いた口の真上に掲げ、一息に握り潰した。
あっという間に口内を満たす血潮。一滴たりとも溢さず喉を鳴らして飲み下す。
永く生きた幻想種なだけあって、その味も格別だ。ねっとりとした舌触りは、あの下等な魔術師から齧った血肉の口直しに丁度いい。配下の連中もまぁ、前菜としては悪くはなかった。
そうして鮮血を絞り尽くせば、残るは薄っぺらに萎んだ心筋。一口に放り込んで、舌の上で何度か転がす。
狩りにおいて、この瞬間が好きだった。魔術師であれば妻子を質に入れてでも欲しがるであろう、貴重な幻想種の心臓を贅沢に消費する優越感。己の力で奪い取ったからこそ、得られるものがある。
物の本によると、熊は遡上する鮭を捕食するにあたって、栄養価が高い脳と卵だけを喰って残りは捨てるらしい。鮫を捕食する鯱も同様に、心臓と肝臓のみを齧るのだという。
弱肉強食の世界において放蕩とは強者の特権なのだ。もっとも私の場合は彼らと違って生存戦略ではなくただの嗜好だし、選り好みもしないのだが。
人狼315体と、魔術師を1人。その他愉快な仲間たち……数えてすらいない。
まるで食足りないので、肘から先も捥いで齧る。流石に頑強な種族なだけあって、肉は歯応えに富んでいる。脂肪は殆どない。骨まで噛み砕くと、独特の獣臭さが鼻腔を抜けた。
三口かけて飲み込む頃には、人狼の遺骸もすっかり私の影に沈んでいた。数分もすれば、影の中で完全に消化されて私に還元されるだろう。
心臓と右腕以外、髪の毛一本から血の一滴に至るまで、残りの部分も余さず喰らい尽くす。満足感に欠けるが、完璧かつ素早く獲物を糧とするには、結局このやり方が最適なのだ。
いま口にするのは、極上の部分だけでいい。こうも無粋に見られていては、腰を据えて食事を堪能することは出来ないのだから。
きっと、日本に渡ればゆっくりと全てを味わう機会も得られるだろう。人様の楽しみに不躾な視線を寄越す教会の手も、極東の無神論者の国ではやる気も出まい。少なくとも、最初のうちは。
「レン……おや、」
相棒の名を呼ぶ。大樹からするりと降り立った黒猫が、気遣うように足元で鳴く。
そこでようやく、器の罅に気が付いた。人狼を葬った一撃、爪を振るった腕から血が滲んでいる。
獲物の抵抗によるものではない。物理的に真祖を傷付けるには足りず、魔術には抗体が出来ている。そもそも、私に届いてすらいなかった。
おおかた星の息吹の反動だろう。空間に直接働きかける空想具現化と異なり、身体の動きを伴う自然操作は調整を誤るとリバウンドが生じる。
私はどうにも精密性に難がある。人間の血が悪さをしているらしい。
星から権限こそ与えられているが、筐体の出力工程に課題が残る。文字通り規格外の力なのだ。
肩を竦め、地面に滴ったモノも含めて戻そうとして──ふと、これを欲しがってる顔を思いついた。
お母様が語ったように、なるたけ関心を惹く必要がある。働き者の猟犬に褒美をくれてやろう。
ぴっぴと腕にまとわりついたものも払う。既に出血は止まっていた。
「出立しましょう。もうこの地域に目ぼしい神秘は残っていませんから」
あの手この手で情報を収集してきたが、欧州の地で語られるほど強力な個体はここの人狼で最後となる。
あと少しだけ、自分の足で探してみようか。
例の霊墓のように、思わぬ取りこぼしが無いとも限らない。
朱い月の下、鮮血に染め上げられた森を見渡す。
枯れている。見る影もない。
生命の消えた秘境はどこまでも寒々しい。
「次もビュッフェならいいですね」
次の狩りに思いを馳せつつひとりごちる。
膝下で黒猫がにゃあ、と合いの手を入れた。
He started to look for some food.
あおむしは、なにか食べ物を探し始めました。
On Monday he ate through one apple. But he was still hungry.
月曜日、りんごを1つ食べました。でも、まだおなかはぺっこぺこ。
On Tuesday he ate through two pears, but he was still hungry.
火曜日、なしを2つ食べました。でも、まだおなかはぺっこぺこ。
On Wednesday he ate through three plums, but he was still hungry.
水曜日、すももを3つ食べました。でも、まだおなかはぺっこぺこ。
On Thursday he ate through four strawberries, but he was still hungry.
木曜日、いちごを4つ食べました。でも、まだおなかはぺっこぺこ。
On Friday he ate through five oranges, but he was still hungry.
金曜日、オレンジを5つ食べました。でも、まだおなかはぺっこぺこ。
On Saturday he ate through one piece of chocolate cake, one ice-cream cone, one pickle, one slice of Swiss cheese, one slice of salami, one lollipop, one piece of cherry pie, one sausage, one cupcake, and one slice of watermelon.
土曜日には、チョコレートケーキと、アイスクリームと、ピクルスと、チーズと、サラミと、ペロペロキャンディーと、さくらんぼパイと、ソーセージと、カップケーキと、すいかを、ひとつずつ食べました。
──But he was still hungry.
──でも、まだおなかはぺっこぺこ。
◆
遠野くんは元気だろうか。
ふと彼の身を案じかけ、すぐに取り消す。
今は作戦の最中だ。二週間だけ後輩だった少年に思いを馳せている場合ではない。
彼は何か重要な事を知っているというのはただの直感だ。
確たる証拠なくして、またしてもわたしの身勝手で夜の世界に巻き込んでしまえば、今度こそ自分を許せなくなる。
改めて現場に目を凝らす。
およそ1km前方に広がる広大な森。
濃くなった霧のせいで、外からでは様子をまるで窺えない。
秘蹟で強化したわたしの視力すら届かない以上、どこまで中の状況を掴めるかは先んじて突入した先遣隊にかかっている。
最悪、一切の情報がないまま手探りで突入する事態も覚悟しなければならない。
既に一帯は封鎖しておいた。
森へ続く砂利道から少し脇に逸れたこの草原では、今も50人程のエージェントが各々の仕事に邁進している。
プロテクターの上から雨合羽のような防護服を纏い、対吸血鬼用のフルフェイスヘルメットで統一された彼等は、一見すると
わたし達とはだいぶ装いが異なるものの、紛れもなく教会の一員であり、今は代行者シエルの指揮下に置かれている機動部隊だ。
これは本来、あり得ない話だった。所詮使い捨ての駒に過ぎない代行者が、司祭のように多数の部下を指揮するなどあってはならない。
ましてやわたしは埋葬機関という、教会の権力構造から最も遠ざけられた部門に籍を置く身なのだ。組んで六年になる弟子の女ですら、部下以上同僚未満の枠を出ない。
異例中の異例の運用。それは即ち、慣例を大幅に覆さなければ立ち行かぬ程、教会が揺さぶられている証左でもある。
無理もない。対応を誤れば、わたしの首が飛ぶだけでは済まされない。かつてなく終末のリスクを孕んだ案件なのだから。
雪解けを迎える頃だった。
千年城について世界に警報が放たれた。曰く、何者かが地上に解き放たれた。
何者もなにもない。あの城にはアルクェイドしかいないのだから。とうとう吸血衝動に呑まれたと誰もが思ったことだろう。
それがどうやら違うらしいと判明したのは、一月ほど経過してからだった。
理由は至って単純。血に狂ったアルクェイド相手に手をこまねいて、世界が一月も無事な筈がないからだ。
実際は暴走するどころか、消息すらまともに掴めない。つまり、目に見えるだけの被害は
工場としての機能を終えた千年城だが、また新しい個体を創り出した可能性もある。
それはそれで問題だが、とりあえず最悪の事態は免れたと皆が胸を撫で下ろした。
それをいいことに、黒い鳥がのびのびと飛翔している現実を知らないまま。
異端の社会において、急激かつ現実離れした構造変化が生じていると、報告が持ち上がったのは夏の入り頃のこと。
起きている現象は極めて単純で、強力な神秘が次々に姿を眩ませていた。
最上位が一層されれば、さらにそのひとつ下のヒエラルキーと、まるでサラミをスライスするかのような神隠し。
偶然にしては、あまりにも時期が良すぎる。件の千年城からの来訪者が因子だと、ようやく皆が気付き始めた頃には、山火事のように事態は広がっていた。
神隠しの正体は捕食活動。いなくなった神秘たちの現在地は腹の中。
それを突き止めた魔女は、全てを明かした翌日に姿を消した。亡骸は、今も見つかっていない。
手のつけられない炎は、既存のあらゆる秩序を顧みず夜の世界を無差別に焼き払う。
まさしく世界全てを敵に回すような蛮行。それを押し通せるのは──それこそ最強の生物たる真祖、その中でも王族と呼ばれる最高傑作をおいて他にない。
例の「何者か」の正体は、アルクェイド・ブリュンスタッドとは別の個体であり、そして彼女に匹敵する新たな真祖の王族である。
そう結論が出されたことで、遂に教会における吸血鬼退治の第一人者、埋葬機関第七位の出番と相成った。
事態の解決──すなわち正体不明の真祖を滅ぼすか、首輪をつけるか、千年城に叩き返すか──を厳命され、この案件を専属として振られている。
年に数回しか出動がない筈の埋葬機関でありながら、かれこれ半年近くも働き詰め。
神出鬼没に出現する足跡を追いかけながら、不眠不休で欧州全土を駆けずり回っているのだった。
報告を待つ間、叩き込まれた指揮官としての戦術教練を頭の中で復習する。
基本となる動きはこれまでと変わらないが、今や多数の部下の命を預かる立場だ。ノエルのように、手厚くカバーしてやることも出来ない。
彼等が生きるも死ぬも、わたしの判断一つにかかっているということ。
数えるのも莫迦らしくなるほど捨て駒にされてきた身として、その重みは十分に理解している。
頭の中で、聖書に勝るとも劣らない早さで丸暗記した教本の頁をめくる。
自慢ではないが、色々なことをそつなくこなせる方なのだ。勉強も好きだし、得意だった。
座学で補える範疇なら、わたしに不足はない。戦場こそ代行者シエルの在るべき場所なのだから。
そうして半分ほど頁を進めた頃、調査班の若き主任がわたしの元に走ってきた。
その顔色で確信する。あぁ、思った通り最悪が転がり込んだ。
「先遣隊が発した状況報告の解読が成功しました。森に巣食う異端は主の人狼含め、
消滅。通常は、コロニーの維持が不可能なまでに破壊された段階を指すが、この案件では別の意味を成す。
文字通りこの世から消えてなくなったということだ。
あの森を根城としていた人狼は、教会と協会の連合軍すら幾度となく返り討ちにしたと聞いている。
本来ならば担当部署が違うが故に詳しくは知らないが、裏を返せば管轄外のわたしの耳にまでその名が届くほど力を持った魔だということだ。
それが一夜にて──否、僅か4時間足らずで真祖の牙に斃れた。配下共々、一つの森から一つの胃袋に身元が移ったということ。
まぁ、予想通りではある。
そして、これまた答えに予想がついてる照会を主任に投げる。
「突入します。先遣隊の現況は」
「
「緊急脱出に失敗したのでしょう。回収班を編成しなさい。現場制圧後に投入します」
「承知しました。父の導きがあらんことを」
この主任、能力はあるがキャリアはまだ短いのだろう。
悲痛と安堵が隠し切れていない。
先遣隊はわたしの直属ではない。この教区を管轄する司教から遣わされた要員だった。
真祖の王族の空想具現化は環境そのものを致命的に変化させる。おまけに、痕跡からして標的の真祖はまだ十全に使い熟せていない。
予見不可能なリスクが許容範囲を超えているので、まずは生体ドローン、その次に使い魔、それから部隊を派遣すべき──そんなわたしの提言を、功名心にはやった司教は拒絶した。
その結果がこれだ。無謀な作戦に投入された彼等は、ものの見事に壊滅した。
これだけやらかしても出世が確約されているというのだから呆れたものだ。
外れくじを引けば敵にも味方にも殺される。それがわたし達の戦場における真理の一つ。
つい先週まで件の司教直属の部下であったこの主任は、その現実を今まさに噛み締めているのだろう。
理解したならさっさと足を洗えばいい。わたし達と違って、あなた達は何処にでも行けるのだから。
さて、ようやくわたしの仕事だ。
やはり指揮所で腕組みするよりも体を動かす方が性に合う。第七聖典もちょうど一昨日仕上がったところだ。
今ごろ教会で必死に神に祈りを捧げているであろうバディの尻を叩くべく踵を返す。
最後に一度だけ、肩越しに森に目を向けると。
あたかもこちらを誘うかのように、楽しげに揺れる濃霧が彼方に見えた。