父をたずねて三千里   作:くまも

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初めて生成AIで画像作ってみました。
自分の手癖が出なくて良いですね。



異端審問①

 

 朝のHR(ホームルーム)の最中、なんとはなしに校庭を見る。

 白い姿はどこにもない。それを当たり前だと受け入れられるぐらいには、一年という時間は長かった。

 教室も、進級に伴って一つ上の階に。窓越しに同じ場所を眺めてみても、記憶の中の景色からは少しずれているような。

 

 季節は一巡し、総耶は再び秋めいている。

 完膚なきまでに破壊された駅前は、世界的にも類を見ない速さで復興を遂げていた。この街の名士たる遠野家が陣頭に立ったらしい。

 瓦礫とバリケードに囲まれた跡地は、まるで壁紙を張り替えたように影も形も無くなっていた。誰も惨たらしい爪痕なんていつまでも目に入れたくなかったのだろう。

 一夜にして燃え尽きたホテルの件も含めて、ヴローヴ・アルハンゲリという死徒が齎した犠牲は災害として語り継がれる。その陰で暗躍していたロアの所業も、歴史には残らないにせよ、都市伝説という形で刻まれるのだろう。

 それら全てを丸ごと飲み下して消化して、総耶の人々は今を生きている。

 休み時間の主役も、秋の新作がどうとか、ハロウィンの交通規制がなんのとか、そんな話題。この学び舎にいる大多数にとって、失踪した教師やクラスメイトのことも既に過去の一部となっていた。

 俺は、その大多数には含まれていない。

 総耶高校3年B組。一年前、親切な先輩が籍を置いていた教室は人数を欠いている。その証だった空っぽの机は、二年生の終業式で以て俺たちの学校生活から切り離されてしまった。

 目に見えないから、忘れてしまう。そのことについて、クラスメイトを薄情と責めるつもりはない。ただ、まるで弓塚さつきという少女の存在まであの教室に置き去りにしてしまったようで、それを思うたび胸を掻き毟りたくなるような後ろめたさにつつまれる。

 窓から視線を切り、前を向けば、一つ前にはこれまた持ち主不在の机。本来そこにいるべき悪友は、今日も弓塚を捜して街に繰り出している。有彦もまた、一年前の続きに生きる少数派の一人だった。

 弓塚は未だ消息不明。遺体が見つかり、死亡が確認されたわけではない。殆ど現実逃避だと分かっていながら、それでも乾有彦という男は諦めないのだろう。

 決して学業を疎かにはしないこと。それが捜索に際して遠野グループの助けを借りる絶対条件として当主直々に言い渡されていなければ、俺も同行していたのだが。

 強行するには、流石に時期が悪すぎる。高校三年の秋という学生時代の集大成にして生涯指折りの大勝負が待ち受ける中、完璧主義のご当主様からの圧力は過去最高を更新し続けている。昨晩の夕食後に設けられたティータイムもまた凄かった。

 

『遠野家の長男として、兄さんには相応の学識を収めて頂かなくては。学部学科の指定まではいたしませんが、将来の母校として名乗るに恥ずかしくないものを期待します。……海外……? 都内にも十分良い大学はありますし、ただでさえ生活態度が芳しくない兄さんを総耶から放つなど論外。どうしてもと言うのであれば、当家が用意した住居においてこの屋敷と同じ規則の下で暮らして頂きますから。ひとまず受験が終わるまで通信機器の所持は禁止。模試の結果は隠さず私に報告すること。不純異性交遊は言うまでもなく厳禁。一つでも違えればどうなるか……言うまでもありませんね、兄さん?』

 

 言ってくれなければ伝わるものも伝わらないのだが。なにしろ秋葉から飛び出してくる折檻の中身は、いつだって俺の予想の範疇を容易く凌駕する。

 あえて手札を伏せることで想像という名の枷を嵌めるのは、妹が最も得意とする人心掌握術の一つ。いかにして彼女の目を掻い潜るか考えれば考えるほど、かえってドツボにはまってしまう。

 弓塚の捜索と並んで俺の頭を悩ませているのが、そんな才媛を如何にして説き伏せて──あるいは欺いてでも、訪欧を成し遂げるかということだった。

 

 目的はただ一つ。

 あの日、夕焼けに溶けて消えたアルクェイドを迎えに行くこと。

 

 立ち塞がる壁はあまりに多い。

 そもそも俺はアルクェイドのことを知らなさすぎる。あいつがどういった吸血鬼で、どんな世界で生きてきたのか、一年前はその一端を垣間見たに過ぎない。アルクェイドが人間のしきたりに疎かったように、俺も吸血鬼への理解が浅いのだ。

 敵である死徒ばかりが頭を占めて、彼女自身のことを聞きそびれていた。教えたがりだったから、頼めば色々なことを聞かせてくれただろうに。

 

『──わたしはこれから眠り続けるけど、その間に志貴の夢を見る』

 

 アルクェイドはそう言っていた。お姫様だというからには、自分の城があるのだろう。だがそれはきっと、普通のやり方では絶対に辿り着けない場所に在る。

 だから知識がいる。それを与えてくれる人脈がいる。現状、唯一の頼みの綱が、まさにアルクェイドが本物のお姫様だということを教えてくれた張本人のシエル先輩である。

 他の教会の面々も吸血鬼には詳しそうだったが、話し合いの余地がない。ノエル先生は吸血鬼のみならず、吸血鬼と友好的な人間も敵視している。徹頭徹尾、俺にアルクェイドと手を切るように忠告していたマーリオゥもまた再会の手助けをするわけがない。押し切るだけの交渉材料も持ち合わせていなかった。

 だが、この学校で繰り広げられたロアとの決戦において俺を連れて来てくれた彼女なら、あるいは聞き届けてくれるかもしれない。

 

 問題は、ロアを仕留めて以来、シエル先輩が消息を絶っていること。

 仕事を終えて、ノエル先生と共に帰国したのだろう。今この瞬間にも吸血鬼と死闘を繰り広げているのだろう。

 苦しい事に、俺はアルクェイドと同じぐらい、先輩のこともまるで知らなかった。聖堂教会に所属する、吸血鬼のような化け物を退治する専門家──代行者と呼ばれるエージェントであること以外には何も。

 聖堂教会とやらの実態は皆目見当もつかないが、まず間違いなく真っ当な組織ではない。日曜にミサを開いて炊き出しを主催するような街の教会が、裏では正規軍すら遥かに及ばない武力を擁しているなど、実際にこの目で見なければ陰謀論と切って捨てている。

 導きが皆無である以上、足で情報を集める他ない。死徒を筆頭に非現実的な連中の足取りを追っていれば、何処かで教会と交わることもあるだろう。上手くいけば、先輩とも再会出来るかもしれない。

 いずれにせよ、総耶に収まっている限りなにも掴めない。欧州を目指すのはその為だ。

 

 

 ──そして、そんな俺の思惑を秋葉はしっかり見抜いている。

 名家としての体裁があるとしても、俺が純粋に学びを目的として渡欧を望むならここまで拒絶はしまい。せいぜい、週に一度は帰国して顔を見せろと言うぐらいだろう。そうではなく、おっかなびっくり夜の世界に足を踏み入れるつもりでいることと、その動機がアルクェイドにあること。どちらも読み切っているから、断固として阻止する構えを崩さないでいる。

 これは最悪ともいえる状況だった。吸血鬼や教会の諸々について、恐らく秋葉は自分以上に知識がある。いくらシラを切ったところで、いざ俺が動けばたちどころに尻尾を掴まれてしまう。

 ただでさえ遠野家に生活を依存している身だ。当主の許しがなくては自立も望めない。アルクェイドを探しに行くどころか、日本から……否、遠野が管理する総耶からすら脱出できずにいる。

 卒業まで残り半年もないというのに、旅立ちの見通しはいまだ五里霧中の只中にあった。

 

「霧、か」

 

 窓の向こうに広がる総耶の街並みは、今日も深い霧に包まれている。

 都心において珍しいこの現象は、先週から途切れなく続いている。天候に関わらず、どれだけ時間が経とうと晴れるどころかむしろ濃くなっているような。

 視界が悪いとはいえ、事故のきっかけとなる程ではないから、せいぜい区民に気味悪がれるぐらいで済んでいる。あとは自然保護の専門家とやらの顔をバラエティーでよく見かけるようになった程度か。大気汚染など、昨日今日でそう悪化するものではないと思うが。

 噂のきっかけか、いいとこ飯のタネ。それでも不思議と、アルクェイドの講義を思い出してしまう。吸血鬼は霧にもなれるのだったか。だとしても、街一つ覆い尽くす規模のものを週を越えて維持できるものなのだろうか。

 アルクェイドなら出来ても驚かない。あいつが吸血鬼の中でも飛び抜けて凄いやつだということは、流石に理解している。きっと俺の想像なんて、軽く飛び越えてくれる筈だ。

 

「えー……では最後に。今日から一人、この教室の仲間が増えます」

 

 ぱん、と担任が手を叩いた音で現実に引き戻される。

 仲間が増えるとは妙な話。ニュアンスからして転入生だろうが、高校三年生のこの時期とは常識的に考えておかしい。学生生活を謳歌している場合ではない。あと数か月もすれば登校自体しなくなる生徒だって出てくるだろう。それが過ぎればもう卒業なのに。

 教室が不穏にざわめく。俺の席は最後列なので、全員がいそいそと携帯端末を取り出すのが丸見えだった。

 無理もない。こういう半端な時期の転校は、往々にして前の学校で居場所を無くした末のもの。それがどういう経緯であるかも含めて、ただでさえ過敏な神経が激しく刺激されることとなる。

 

「先生どうして今なんですか。もう今週で十月迎えた受験生ですよ僕ら」

「一般的な転校とは少し事情が違って、色々とした手続きが長引いたんですよ。本当なら春からでしたがね。もっとも、事情と言っても悪いものではないので勘繰らないように」

 

 堪え性のない一人の追及に、平常運転の無気力で応じる担任。

 面倒臭い大人の事情を細やかに説明したくないのは分かるが、それで勘繰るなというのは無理があろう。

 他に倣って机の下でスマホを起こし、クラスのグループを開けば、呆れたことに既に書き込みが過熱している。情報化社会にどっぷり漬かった現代っ子でもそうそう真似出来ない早業である。

 

「はい、どうぞ入ってきてください」

 

 再度手が叩かれる。担任の配慮をよそに数多の憶測が乱れ飛ぶチャット。

 皆が固唾を飲んで見守る中、おもむろに教室の扉が開かれる。その先から敷居を跨いだのは、学生鞄を肩に提げ、我が校の制服を完璧に着こなした眼鏡の少女。

 

「え…………」

 

 肩より上で切り揃えられた青髪に、同じく青い色をした瞳。彫りの深い整った顔と併せて外国人と分かるが、容姿には和洋が混在して見える。

 アルクェイドとはまた系統の異なる美貌。その姿は見間違えようがない。

 

「……先、輩……?」

 

 俺が最も必要としている人。欧州に渡ってまで追い続けるつもりだった代行者。

 挨拶もなく霞の様に姿を消してしまった人が、どうして今になって目の前に。

 

 幸いなことに、迂闊な呟きは誰の耳にも拾われなかったらしい。俺の動揺など露程も知らず、降って湧いたような美少女の降臨に教室は一瞬で色めき立つ。

 数十もの好奇の目に微塵も臆することなく、悠然と黒板の前を横切った先輩は教壇の前に立つ。実に堂々とした所作は、隣の萎びかけた年配教師とのコントラストで途轍もなく頼もしい。

 一言も発しないまま、教室内の全員が分からされた。この人は群れの頂点に立つ器量だと。統率者(ボス)というより指導者(リーダー)気質。端的に言えば学級委員長タイプ。転入が一年早ければ生徒会長になっていたとこの教室にいる誰もが思っただろう。

 

「はじめまして。本日付で総耶高校に転入してまいりましたシエルと申します。みなさんとは短いお付き合いとなりますが、どうぞよろしくお願いします」

 

 淀みなく口上を終えて、先輩はにこりと微笑む。

 可愛らしさと頼もしさの同居した佇まい。あぁ、この人に任せれば安心だなぁ。なんならもう自分の人生を丸ごと預けたいなぁという甘えが、大学受験という過酷な試練で打ちひしがれた十八歳の心を優しく包み込む。

 どういうわけか転校生を受け入れる側が安心させられる不思議な図。シエル先輩の徳の高さがなせる業なのかもしれないが、見方によっては人を堕落させる悪魔ともとれないか。

 

 砂漠のオアシスに等しい施しを与えられて、チャットの勢いは最大瞬間風速を記録する。

 

『やっぱ受験やめるわ。大学なんか行かずにこの人ん家の飼育ケージに就職希望』

『☝️倍率がデカすぎる』

『あまりにも強い。もう遺伝子からして強い』

『最前列からでもめっちゃ美人でえろい。そんでめっちゃいい匂い。頭クラクラする』

『外国の人だよね? なんかどっかで見たことある気がする。知らんけど』

『ひょっとしてモデルとかかもね。養ってくれ』

『ハーフは美形ってマジなんだな』

『目が合ったので死んできます。これで思い残すことはない』

 

 流石、欲に溺れることにかけては右に出る者のいない我がクラス。進級で面子が変わったとはいえ、あのノエル先生にすら蔑まれただけはある。

 男子のみならず女子も熱を上げているため、当時よりも衝撃は大きい。男心を分かった上で弄ぶノエル病は女子の反感を招いたが、先輩の慈愛は誰に対しても平等に注がれる。そこに稀なる美貌が合わされば、もはや嫉妬する気も起きないのだろう。

 まさしくカリスマ。魔眼で即時制圧にかかる誰かさんとは比べるべくもない。

 

「出身はフランス。家業を継ぐにあたって見聞を広めるために日本人の母の伝手を頼って訪日しました。好きなものは雨に打たれた仔犬と香辛料の利いた料理。今はアパートに一人暮らしで、週末は隣町の教会でボランティアをしています」

 

 緊張の欠片もなく、教師さながらの流暢さで自己紹介を続けながら、先輩は手際よく黒板に名前を書き下ろす。

 

 Tohno Ciel

 遠野シエル

 

 

 んん? 

 

「遠野、あの美人さんお前の親戚?」

「は? シエル先輩が?」

 

 ──しまった。絶妙な不意を突かれて、今度こそはっきりと口走ってしまった。

 

 弓塚の机を挟んだ向こうから振り向いた野郎が、露骨に怪訝な顔をする。

 それだけ距離があるものだから、教室中に聞こえてしまう。当然、教壇で胸を張るあの人にも。対処に失敗した俺に代わって、余裕たっぷりにウインクを交えて答える。

 

「続柄が離れすぎているので、親戚というより幼馴染ですね。母からは、私生活でも学校生活でも、遠野くんを頼りにしろと」

「あの、先輩というのは」

「フランスからの出国手続きとか、日本のビザの取得とか。それから親戚との調整でもちょっとしたごたつきがありまして。年度に間に合わずやむなく留年という形になりました。なので、皆さんよりも一つだけ歳が上なんですよ。ですが気にせず名前で『シエル』と呼んで下さい」

「な、なるほど」

「はい、それではわたしの名前をみんなで復唱してみましょう! せーの!」

「「「シエル先輩」」」

 

 噛み砕く隙を与えない立て板に水の説明に流されて、教室中に納得が広がる。醸す余裕、いかにも仕事の出来る女といった印象が「先輩」というワードにこれ以上なく合致するのも大きい。

 みんな、一度冷静になって欲しい。「遠野」シエルさんが俺のことを遠野くんと呼ぶのはおかしい。あの女はシエル呼びを強いることで、その違和感に気付かせない腹積もりだ。

 先輩も先輩だ。名字なんて愛染でもなんでもいいじゃないか。百歩譲って遠野姓を名乗るのはいいとしても、あえて俺と紐づける必要があるのか。総耶では特別な意味を持つというだけで、世間一般的にはごくありふれた名字なのだから。

 みなさんよくできましたなんてにこにこ笑ってないで、自分が対峙している連中の目をちゃんと見ろ。迂闊に幼馴染なんて設定を付加したせいで、クラスの八割から俺に怨嗟が向けられている。残る二割も紳士ではなく、シエル先輩とお近づきになるきっかけとして期待を寄せられているに過ぎない。

 まさか社会の敵になるなんて朝起きた時には夢にも思わなかった。俺がいったい先輩に何をしたというのだろうか。

 

「えー。というわけで、遠野さんには」

「先生?」

「……シエルさんには遠野の後ろの席に座ってもらいます。その方がサポートも楽でしょうから」

 

 楽でしょうから、じゃないだろ。サポートさせるつもりなら事前に相談ぐらいすべきだろうが。

 遠野に遠野でややこしい。なにより一番の突っ込み所は先輩の席である。

 振り返る。窓際の最後列だった筈の俺の後ろには、ぴかぴかの机と椅子が仲良く揃って主の到着を待っていた。

 

「…………」

 

 もはやなにも言うまい。

 いくら俺が間抜けているといっても、朝来てこんなものが鎮座していたら気付かないわけが無い。

 なにしろ俺にとって、席が一つ増えるというのは、否応なしに弓塚の帰還を期待させる。たとえそれが、どれだけ薄い望みだったとしても。

 

 呆けていると、目の前の瑕一つなく磨かれた天板に、ごとん、と学生鞄が降ってきた。

 

 うん、早速おかしい。今のは間違っても、教科書に体操服と水筒を詰めればいっぱいいっぱいな学生鞄が出していいような音ではない。

 几帳面な先輩らしくなく中途半端に開いたファスナー。その口から俺だけに見えるように覗く、蛍光灯の光を鈍く反射するその筒状の金属塊は、俺の常識が正しければ世間一般に銃と呼称される殺人道具ではなかったか。

 先輩は見せつけるようにファスナーをゆっくりと絞っていく。その間、痛い程の視線を俺の後頭部に突き立てたまま。

 先輩は明らかに目を合わせることを求めているが、ここで屈して顔を上げるような本能しか持ち合わせていないなら、俺は一年前に死んでいただろう。故に、全力で無視して前に向き直った。

 やや遅れて椅子を引く音。椅子に腰掛ける衣擦れの音を背中で聞く。

 先輩は淑やかに座った。タイミングまで完璧に分かる。背中を射抜く視線がこれ以上なく雄弁に語っている。

 

「っ……」

 

 先輩の位置取りは、マズい。

 俺にとっては完全に死角になる一方、先輩からはごく自然に、尚且つ片時も目を離さず俺の一挙手一投足を観察出来てしまう。

 それが定番の隣の席ではなく、あえて後ろを選んだ理由。言い換えるなら、先輩は俺との対話には重きを置いていないということ。

 この学び舎に舞い戻った理由は定かではないが、間違っても俺との旧交を温めるつもりはない。なぜなら今の彼女にとって、俺は

 

「敵」

 

 ぼそりと、後ろの先輩が呟いた。

 敵……敵と言ったか。一体誰が、誰にとっての

 

「遠野くんが、全世界にとっての」

 

 そうか。俺は社会の敵どころか、シエル先輩の敵をも超えて、知らぬ間に全世界を敵に回してしまっていたらしい。

 当たり前だが、心当たりはまるでない。そもそも俺に世界そのものをどうこうする力なんてあるわけがない。そんな芸当が可能なのは、それこそアルクェイドぐらいではないか。しかし先輩は本気だ。

 そう結論付けた瞬間、無意識にポケットまで伸びかけた利き手を寸前で自制する。これは自殺行為だ。

 この一年間、失踪した弓塚を探す過程で幾度も危ない目を見てきた。よって、一度は私室の机の引き出しにしまい込んだ七つ夜を再び肌身離さず携帯している。昼は登校せざるを得ない以上、俺の主な担当は相対的により危険を孕む夜となるし、何度もあの不思議な黒豹の助けをあてにするわけにもいかないからだ。

 吸血鬼事件を境にそれなりに修羅場は潜っている。それなりに嗅覚は培われてきた。

 だからこそ、以前は感じ取れなかった代行者シエルの異常な強さが分かってしまう。アルクェイドが言っていたことだ。直死の魔眼は刃さえ届かなければ意味がない。

 死が視えてはいる。だが、そこにナイフを突き立てるまでに赤子の手をひねるように頭を潰されるだろう。俺が先輩に殺意を抱けるか以前の問題だ。

 牽制にすらままならない途方もない実力差がある。思い知る。あの夜自室で、先輩をベッドに押し倒したのがどれだけ命知らずだったのかを。

 

「なるほど成長しましたか。重畳です。おかげでわたしの仕事も多少は楽になる」

 

 内容に反して先輩の声音に喜びの色は一切なく、絶対零度の姿勢を頑として崩さない。

 ただ、俺の成長が朗報というからには、先輩の仕事とは遠野志貴を粛清することではないのだろう。少なくとも、現時点では。

 

「遠野くん。あなたはわたしのものであるべきです」

 

 背後の青い死が告げる。まったく意味が分からない、俺の延髄に銃口を突きつけるような宣告だった。

 HRから間を置かずに一限目の世界史が始まる。受験直前期ということもあって、内容は全範囲のおさらいだ。さらに個人の判断で他教科の自習も許されている。

 最前列から回されるプリント。後ろに手渡すのにかこつけて、クラスの大多数の視線はシエル先輩に向いていた。例外なく羨望と憧憬しかない。それは真に恐るべきことだった。

 先輩は、この教室において俺だけを対象に、なおかつ俺にしか察知出来ない形で精密に殺気を放っている。遠野志貴以外の生徒の目には、聖人の如き慈愛に満ちた微笑みが映っている。どうやら先輩の手に係れば、殺意と慈愛は完璧に両立させられるらしい。

 

「おい遠野。大丈夫か」

「あ……え、なにが」

「悪い、違った。どう見たって大丈夫じゃない。乾ならとっくに保健室に叩き込んでる」

「……あ……ああ。どうしても無理そうならそうする」

 

 机一つぶん身を乗り出して、前からプリントを寄越すクラスメイトが俺の顔色の悪さを指摘する。見ての通り、微塵も大丈夫ではない。彼らの心のオアシスは、どういうわけか俺にだけ牙を剥いている。

 それにしても圧が凄い。これと比べたら秋葉が天使にさえ思えてくる。ヴローヴと対峙した時だってここまでではなかった。その気になれば自分を羽虫の様に捻り潰せる強者、それも全力で殺意を向けてくる相手に背中を晒し続けなければならない恐怖。

 

「失礼ですね。あろうことか、代行者を祖と並べて語るなど」

 

 もはや何も考えまい。今更だが当たり前のように俺の思考を覗いてくるし、俺にだけ語り聞かせる発声術などお手の物なのだろう。

 これ以上シエル先輩を刺激すること即ち死だ。その思惑に全く見当がつかない以上、とにかく相手の出方を待つしかない。

 

 プリントを受け取り、ざっと眺める。背後の代行者に振り向くまでの時間を少しでも引き伸ばすために。

 今日は近世ヨーロッパについての復習らしい。魔女と認定された者に下された訴追や死刑、あるいはリンチなど──俗に魔狩りないしは魔女裁判と称される一連の迫害について記載されている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 中でも植民地アメリカで発生したセイレム魔女裁判については、男性の犠牲者が生じた一例として詳しくまとめられているようだ。

 

「……ん?」

 

 いや、あまりにも詳しすぎないか。

 全体的にどう考えても大学受験に必要な範疇を超えている。国立の難関大学で課される筆記でも、ここまでの知識は必要ない。せいぜい教科書で一行か二行程度触れられる程度の出来事なのだから、ここまで記憶の容量を割くのは明らかに間違っている。

 そもそも、これを作るのも一苦労だったはずだ。詳細でありながら、要点を的確にまとめて読みやすく分かりやすくまとめられた解説には、書き手の鋭い知性とキリスト教に関する深い理解及び膨大な知識が伺える。

 さらに言えば、教材としては些か……もとい、かなり不適切に見える。どうして拷問や処刑(あるいはその二つを兼ねたもの)の詳細な手順から各段階における被害者の状態、身体的・精神的な苦痛の態様及びその発生の機序に至るまで、解剖学的観点も交えて事細かく書き連ねる必要があるのだろうか。健全な青少年が知るべきものではないと同時に、筆者がこういった技術にも精通し、熟練と呼べるほど経験を積んだ凄腕であることが圧倒的な説得力で伝わってくる。

 問い①。筆者の気持ちを答えなさい──目の前の平和ボケ極まる一般男子高校生に、何一つ知らないであろう本物の拷問の何たるかを教育してやる。具体的なイメージが出来なければ、与えられる恐怖も片手落ちだから。

 

「正解」

 

 採点は即座に行われた。唯一幸いなのは、このプリントを渡すためにもう振り向く意味もなくなったことだろう。作成者には必要ないものだから。

 教室中を見渡す。動揺はない。俺以外に配布されたプリントはまともか、あるいはそう認識するように仕掛けが施されているようだった。

 心の底から読み飛ばしたい──もっと言えば、丸めてゴミ箱へ投げ込みたい衝動と戦いつつ、明日は我が身かもしれない凄惨な単語の羅列を熟読する。およそ日本に暮らしている限りはまず見ることはないだろうそれら。

 後ろの先輩の気配は教壇ではなく、ただひたすら俺だけを凝視していた。少しでも横着すれば、いま教え込まされている諸々が無慈悲に執行されるのだろう。観察ではなく、監視のためにその席を選んだのかもしれない。

 連日の秋葉とのティータイムなど比にならないほどに胃が痛む。ただでさえ貧弱な生き物をこうも酷く虐めて先輩はなにが楽しいのだろうか。ついHR前までは俺の中で天使に近い部分にあったシエル先輩の評価は、いよいよ秋葉を抜いて悪魔に最接近しつつある。

 

「不純。不浄。深夜の逢引き──遠野くんこそただしく悪魔そのもの。主の聖名のもと速やかに浄化しなければ」

 

 その浄化とやらは、たぶん遠野志貴の意思とか尊厳とか綺麗さっぱり漂白する類のものなのだろう。良くて洗脳、悪ければ処刑。

 そうして三十分ほど経過した頃。

 吐きそうなほどの胃のむかつきを乗り越え、長い長い授業もようやく終わり際。最後に俺を待っていたのは一つの質問。世界史にはそぐわない。これは数学……いや、この単純さだと算数の部類だろうか。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…………?」

 

 一応、辛うじて問題の体を成してはいるものの回答は不可能だ。

 先程までの胸のむかつくような文章は不快なだけで理解は(苦痛なまでに)出来たが、これは全くもって意味不明。禅問答だろうか。

 

「いえ、テストですよ」

 

 そうですか。

 無視すると後が怖すぎるので、仕方なく頭を捻ろうとして──ふと、微かなノイズが脳裏を横切る。

 なんだろうと、その正体に思考を巡らす。答えには直ぐに辿り着いた。この一年で自分なりに磨いてきたもの。つまり、生存本能。

 先輩の殺気に晒されて既に鳴りっぱなしだったものの、それに麻痺することなく新たな危険の萌芽を察知した。これはふざけているのではない。先輩はまさにこの瞬間、俺のことを試している。落第すれば、命か、人権か、尊厳か──とにかく、大きな(ペナルティ)が待っていると本能で理解する。

 きっといつまでも待ってくれない。逃げることもできない。まな板の上の鯉には解答を提出するより道はない。

 たぶん、解こうと思えば解ける。

 だが、こうもあからさまに不穏なものに、馬鹿正直に真正面から取り組むこと。それこそが平和ボケだと歴戦の先輩なら言うのではないか。

 こういう時に打つ手は一つだけ。眼鏡の蔓を少しずらし、死に溢れかえった世界を垣間見る。果たして、問題文の中心には、初めて見る禍々しい渦がとぐろを巻いていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 この世ならざるものを見通す眼が告げる。原理までは読み取れないが、これは極限まで凝縮された呪詛に他ならない。

 シエル先輩謹製なのだろう。果たしてどれだけの技術があれば、死の点すら変性させる呪いを生み出せるのか。これに嵌ればどのような結果が齎されるのかは定かではないが、間違いなくろくでもないものだ。

 この瞬間にも先輩の指先一つで発動する可能性もある。冷静に人差し指で点を突けば、用紙は瞬く間に塵と化した。

 

「合格です。やはりしっかり成長しているようでなにより。これなら追試の必要もありませんね」

 

 僅かに感心したように漏らす先輩。追試とやらが具体的になにを意味するのか想像したくもないが、おおかた俺の甘ったれた危機感を叩きなおすものだろう。

 見えている地雷を踏まない程度には、俺も周りが見えるようになった。アルクェイドの住む世界に殴り込むにはまだまだ未熟ではあるのだろうが。

 そしてそんな俺に、やはり先輩はなにかをさせようとしている。それこそ尻を蹴っ飛ばして強引に成長させてでも遂行しなければならない大きな仕事。でなければ、こんな不自然な形で戻ってきたりはしない。

 ずっと音信不通だった代行者の再訪に、今更ながらに胸騒ぎを感じるが、いまそこを追求するにはあまりにもシエル先輩の「授業」が苛烈すぎた。

 

 今はただ休みたい。幸い、俺には保健室という絶好の避難所がある。健康優良児なシエル先輩には縁のない世界。これからの高校生活において、先輩の魔の手から逃れられる安全地帯(セーフティゾーン)

 もともと中身のある授業をしているわけでもなかったので、体調不良を口実にすればあっさりと退室の許可は下りた。俺の顔色が本気で優れないのもあるだろうが。

 

「おや遠野くん。途中で倒れては大変です。ここはひとつわたしが送っていきましょうか」

「いえ、一人で行きます。行かせてください」

 

 倒しかけてるのは他ならぬお前だ。

 先輩の親切を装った申し出に再び教室中が殺気立ちかけるが、それ以上にこの怖い人から一刻も早く離れたい。

 ひとまず合格を与えたことで満足したのか、先輩も引き留めることはしない。無理についてくることもしない。そうですか、と呆気なく俺を見逃す。ただ、突き刺さる視線の痛さはそのままで、許したつもりでないのは明らかだった。

 首尾よくクラスに潜入出来た以上いくらでもマークできるわけだし、今のところはひとまず解放してやるか、ぐらいのノリ。それに甘えていそいそと教室を後にする。

 

 一先ず代行者の重圧からは逃れたものの、あくまでその場凌ぎに過ぎない。

 シエル先輩から逃れられないのは明らかなので、階段を降りる足取りも必然的に重くなる。一年前は先輩に会うために足繁く通ったわけだが、今や3年B組も茶道室も、俺にとっては命の危険がついて回るキルゾーンだ。

 

「なんでこんなことに……」

 

 教会の人間の中では穏健派だと思っていた。

 たとえ再会できたとして、相手にされないことこそ覚悟していたものの、まさか殺意を向けられるなどと露程も考えていなかったため、相当堪える。

 シエル先輩が善い人なのは知っているし、俺だって先輩になにかした覚えはない。実はひっそり恨まれていたとして、今更姿を現したのか理解に苦しむ。

 となるとやはりこの街で良くないことが起きているのだろうが、それと俺の命が脅かされることとどう関係があるのか分からないので、溜息しか出ない。

 

 あれがまだノエル先生ならぎりぎり納得できた。

 ただでさえ感情的だし、若干だが情緒不安定の気があるし、思い込みが激しくて、極端から極端へ振れがちなのは知っている。

 理性的なシエル先輩と比べて遥かに暴走の二文字が馴染むのだ。

 ようやく前にした保健室の扉を引きながら、やはり挨拶もなしに姿をくらましたもう一人の代行者の顔を思い出す。

 

「あら、それってもしかしてこんな顔かしらね」

 

 ……いた。目の前に。

 保健室の扉を挟んで真正面。まるで俺の来訪を予期していたかのように、やや赤みがかった茶髪の女が意味深に微笑む。記憶と同じ紺のスーツに袖を通しつつ、さらにその上から羽織るのは純白の白衣。

 

「ノエル、先生……?」

「はぁい志貴クン。一年ぶりの感動の再会に感極まっちゃいなさい」

 

 ひらひらと袖を振るノエル先生を前に、遅れて理解が追い付く。

 俺がここに逃げ込むなんてこと、シエル先輩は最初から見抜いていた。かつてノエル先生が担当していたのは英語と保健体育。保健医として忍び込ませるのは悪くない。

 教室と食堂、部活動ではシエル先輩が、そして保健室ではノエル先生が俺をマークする。総耶高校において、俺が代行者の魔の手から逃れられる場所などどこにもないことが確定した瞬間だった。

 

「馬鹿ね。シエルから逃げ切れるわけがないでしょう。執念深さにかけては並ぶものなし。殺されても追いかけてくるのがあの女なんだから」

「そうみたいですね……観念しますよ、もう」

「でもまぁ具合悪いのは事実みたいだし。よほどアイツに手酷くやられたみたいね。いい気味だわ」

 

 適当に座っていて頂戴と言い残し、ノエル先生は奥の給湯室に引っ込んでしまう。やがてカチャカチャと陶器がぶつかり合う音と共に、紅茶のすっきりとした香りが入り口近くまで漂ってきた。 

 突っ立っているのもなんなので、部屋中央に向かい合って並んだ丸椅子の片方に腰を下ろす。とりあえずこれからどうしようか。単位は足りている筈だから、あと一か月耐え忍べば遠野邸での籠城が望めるかもしれない。

 いよいよ総耶どころか屋敷の敷地内から出られないとなると、渡欧なんて夢のまた夢。シエル先輩という水先案内人も失って、アルクェイドと再会する日はますます遠ざかる一方である。

 もう何度目かも分からない計画の再修正について思案していると、ふんわりと湯気の立つ二人分の紅茶をお盆に載せたノエル先生が気怠そうに俺の向かいに腰かけた。

 俺達の脇の執務卓にカップを並べる。

 

「うーわ。まだあの真祖に未練タラタラとか。私やジャリガキがあんだけ懇切丁寧に忠告してやったってのに、まったく人の話を聞かないのねぇ」

「……どうして俺がアイツのことを考えていると?」

「あなたってほんと顔に出すぎ。さっきもそう。人を幽霊でも見たかのように」

 

 ノエル先生は可愛らしい苦笑を添えて肩を竦める。流石に先輩程の読心術は使えないようだが、先生もエージェントなだけあって相応の読みの強さは身に着けているらしい。

 少なくとも俺程度の人生経験では、手玉に取られるのがオチだろう。一年前のノエル病の罹患者のことも案外言えた義理ではないのかもしれない。

 

「幽霊とまでは思っていませんが、不審者な気はしていますよ。昨日までの前任者はどうしたんです。やたら備品も使い慣れていますし」

「簡単なことよ。あのオバサンなら私たちの仕事が終わり次第『発見』されるわ。そのまま病院に投げ込めば解離性遁走の診断が下りておしまい。そして私がこれを使い慣れているのはもっと簡単。私が持ち込んだ私物だから」

「あー、なるほど」

 

 どちらにもかかるなるほどだった。

 ヴローヴの虐殺すら隠蔽できるほどだし、教会にとって人一人を消すことなんてワケないということだ。まるでフィクションに出てくる悪の秘密結社。そんなのに目を付けられている現状がやはり恐ろしい。思えばあのアルクェイドすら関わりたがらない時点で相当なのだ。

 そしてノエル先生が私物の茶器をわざわざ持ち込むのもなんともそれらしい。かなり臆病というか、警戒心の高い先生のことだから、飲み物を保管し、直接口をつける器として備品を使うのは生理的に厭なのだろう。

 それなのに子供とはいえ異性の俺が使うことを許せるのがやや不思議だが、断るのも失礼なので進められるがまま口に含む。

 甘酸っぱさが基調の爽やかな風味。淡く透き通った色に反して、味も香りも中々に主張が強い。しかし決してくどくはなく、喉に流せばほんのりとした後引く甘さが舌を楽しませてくれる。

 流石に琥珀さんが淹れてくれるものとまではいかないものの、実に非の打ち所がない仕上がりで、シエル先輩に虐め抜かれた俺の胃と心を優しく癒してくれる。

 

「わっ。ノエル先生、凄く淹れるの上手ですね」

「どうも。あ、お茶請けもあるわよ」

 

 おもむろに立ち上がったノエル先生が、勝手知ったると言わんばかりに俺達の頭上にある両開きの棚を漁る。

 爪先立つこともなく、苦も無く手が届くのを見て改めて女性にしては上背があることを実感する。

 ハイヒールでも履けば俺とほぼ差がない。やはり西洋出身だと体格に恵まれるのだろうか。加えて戦闘員として鍛えてもいる。一年経った今でもまた殺しに来られたら厄介だなと、不意に穏やかではない想像が頭をよぎった。

 

 あったあったと、先生が紅茶の隣に広げたのは折り畳み式の白い箱。開けば、小さなカップケーキが六つ収まっている。

 ご丁寧に、全て種類が違った。元は先生一人で食べるつもりだったのだろうか。試しに訊ねてみたところ、先生は苦り切った顔で首肯する。

 

「ブルジョアで人生イージーな志貴クンと違ってねぇ……金もない彼氏もいない社会的地位もなければ人望もない。無い無い尽くしの私に許された雀の涙ばかりの癒やしなのよ。それを半分もあげるってんだから私ってばホント善人よね」

「そ、そうですね」

「なーんで持たざる者が持つ者に施さなきゃいけないのよ。逆ノブレス・オブリージュの精神を遂行出来る女なんて教会広しといえども片手で数えられるぐらいだっつの……あ、決めた。その三つは私のね」

 

 ひょいひょいと、ノエル先生はまるでずっと前から決めていたように自分の分を確保する。いずれもタルトやチーズケーキといったシンプルなものだった。

 対する俺のは三つともやたらと装飾過多で生地さえ見えない。しかもどれも微妙に形が崩れかけていた。

 ご馳走になっておいて何だが、明らかに食べにくそうな方を俺に押し付けたノエル先生。だったらそもそもどうして買ったのやら。

 

「で、そんな女神なノエル先生から志貴クンに提案なんだけど、ケーキのお礼も兼ねて遠野家で私を養ってみない? 才能は特にないうえ努力家でもなく経済力もなければ包容力もないアラサーって部分だけ目を瞑ればわりと可愛くって優良物件なお姉さんよ?」

「まあノエル先生、モテるといえばモテますよね」

「は? なにそれ。穴モテ女って言いたいわけ?」

「違いますよ……とにかくあり得ない話です。いくら当主を継げない身とはいえ、素性の分からない外国人とってのは流石に家が許しませんから

「へえぇ〜! うんうんそうよねそうよね~! それは大変ごもっとも!」

 

 どういうわけか、拒絶されたノエル先生は我が意を得たりとばかりに目を輝かせる。

 なにか喜ばせるようなことを言っただろうか。ノエル先生はプライドが低いとはいえ、苛まれて悦ぶような嗜好は持ち合わせていなかった筈だ。

 

「まぁでも、紅茶とケーキのお礼ってわけじゃないですけど、お喋りなら付き合いますよ」

 

 どうせシエル先輩の待ち構える教室には戻れない。少なくとも今日いっぱいは。

 たちまちご機嫌になったノエル先生は三口でタルトを平らげ豪快に紅茶で流し込んだあと、早速愚痴をぶちまけ始めた。

 

「あらそう。じゃあ可愛い可愛いお姉さんの憂さ晴らしに付き合って頂戴。この半年、向こうは地獄だったんだから」

「向こう……って、欧州ですか?」

「そうそう。といっても9500km離れた志貴クン達には関係のない話か」

 

 そんなことはない。俺が今すぐにでも渡りたくて仕方がない土地だ。そこでとんだ大惨事が起きているとなれば気が気でない。

 まさか、秋葉が俺の渡欧を頑なに拒んでいたのは、既に遠野グループ経由で何らかの情報を掴んでいたからか? 

 

「それで、一体なにが」

「うーん、端的に説明するのは難しいわね。あ、じゃあ例えを一つ。志貴クン。欧州全土に手当たり次第核爆弾をばら撒いたヤツがいたとしたら、そいつはどうなると思う?」

「はい?」

 

 まるで話が見えてこない。

 今のがなんの例えになっているというのか。

 

「核爆弾って……あの核爆弾ですか?」

「ゾンビウイルスと並んでポストアポカリプスの元凶に挙がる核融合反応とかを利用したアレよ。そんなものをパリだのロンドンだのベルリンだのローマだのウィーンだのにどっさりと」

 

 そんなことをしたらどうなるか。決まっている。見逃されるわけが無い。

 もはやテロリストにも収まるまい。聞いたばかりな気がする表現を借りるなら全世界の敵といったところか。

 

「そんなの死刑一択でしょう」

「そうそうそうよねそうなのよ」

 

 俺の答えにまたも満足そうに何度も頷くノエル先生。

 喜んでもらえるのは結構だが、如何せん物騒にも程がある。

 

「まさかノエル先生決行する気ですか? やめてくださいよ先生が死刑になったら俺悲しいです」

「なんで私が死ななきゃいけないのよ。あ、私は志貴クンが死刑になっても別に悲しくないから」

 

 酷い。

 流石にそこまで言い切られると傷付く。

 

「教師になったらなったで教え子の不良のあり得ないやらかしでしこたま怒られるしさぁ。てか私に性教育の責任押し付けんな罪人の分際で。あー下手に保健体育なんて受け持つんじゃなかったわほんと」

「そ、そんな問題児が……?」

 

 誰だろう。まるで心当たりがない。

 総耶高校の校風は概ね穏やかで、遺憾ながらイジメの類も皆無ではないがしっかり対応はされているし、そんな悪質な不良なんて聞いたこともない。

 有彦が良い例だ。見た目や言動こそ粗野だが、こうしている今でも弓塚を捜すほど根は善良だ。

 となると、この学び舎以外でもノエル先生は教鞭を取っていたのかもしれない。潜入任務の度に全く違う職種を選ぶのは負担が大きいので、ペルソナを絞っている可能性は普通にある。

 

「聞きたい? まだ学生の身で恋人と避妊せずヤッて孕ませた挙げ句に認知すらしていないケダモノについてのお話なんだけど」

「うわぁ、それは……」

 

 ここで性別を持ち出すのは本来正しくないのだろうが、それでも女性のノエル先生の心中は察して余りある。

 勿論、俺自身とて軽蔑と嫌悪が半々だ。死徒とはまた別の嫌らしさがある。

 なにしろ責任を取っていない。言い方からして、妊娠したや否や男がこっ酷く捨てたのだろう。いや、仮に責任を取るつもりでも、学生では自分自身すら養うのも厳しい身だ。無論、気概次第でやりようはあるが。

 学生の恋愛というからには、おおかた相手も同年代かそれに近い年頃だろう。人間社会の一般常識に疎い身なのかもしれない。まさかそれにかこつけて養育費も踏み倒すつもりなのだろうか。だとしたら全く以て救いがない。

 

「流石に、それは責任を取らせないと……」

「責任なんて生易しいこと言ってられるか! 魔女裁判よ魔女裁判! 結審閉廷即執行!」

 

「────え?」

 

 熱が入って立ち上がったノエル先生が、その勢いのまま俺の椅子の足を蹴り払う。

 流石、代行者なだけあって無駄のない一撃。スローモーションで傾く視界が九十度回転して、俺は保健室の床に転がる。

 

 愕然。突然の暴力にではない。受け身がまるで取れない程に、身体に力が入らない。

 ──盛られた。どちらにだ? ……両方か。味と香りの強い紅茶にゴテゴテと覆われて少し崩れかけたケーキ。

 

「最期の食事が安いケーキでごめんなさいね♡」

 

 開きっぱなしだった保健室の扉がひとりでに閉まる音を背中で聞く。

 

「あぁ…………あ」

「罪人は遠野志貴。罪状は姦淫並びに秩序と人理に対する罪。嫌疑──遠野志貴は一年前、真祖アルクェイド・ブリュンスタッドと堕落し、真祖を孕ませさらに一匹産ませた疑いがある! それじゃあ元気に審問第一審! やっていきましょう!」

 

 二人きりの保健室。

 ガチャンと、施錠の音が重く響いた。

 

 

 

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