父をたずねて三千里   作:くまも

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偽証と証明の支配者

 

 

「この噂はでっち上げの創作ではありません。とはいえ、その本質はかなり名状し難い」

 

むしろその方が現実らしいですかね、とシエル先輩は目を伏せる。俺への追及よりもまずは噂を噛み砕くことを優先したらしい。

 全てが完全に作り話だとまでは俺も思っていないが、どこまでが真実なのか雲を掴むように捉えどころのないのがこの話の厭らしいところだ。わざとらしいほどに現実感のない要素が各所に散らばる一方、根拠となる物証が確かに存在している。

 

「先輩は分かるんですか。この都市伝説の真相」

「ある程度までは察しがつきます。仮説止まりですが」

「やっぱり死徒絡みですか」

「ええ、恐らくは。繰り返しますが、現時点ではあくまで仮定の域を出ませんけどね」

 

 それでも十分助かる。なにしろ先輩は吸血鬼の専門家だ。ともすれば警察よりも信頼出来る。

 だからこそ、その重苦しい様子は不穏なものを俺に抱かせた。仮説と念押しするのは、彼女の誠実さの顕れという以上に、対応を誤ると大きな災いに繋がると予測しているからではないか。

 

「この都市伝説を考察するにあたって、まずは核心となる二体の吸血鬼について伝えましょう。この街に深くかかわる話ですから、遠野くんも知っておくべきです」

「お願いします」

「先に指摘したように、主役となる吸血鬼も二人いる。ただし主役と核心のうち被っている役は片方だけです。すなわち、都市伝説だけに限れば、舞台に立つ吸血鬼の頭数は三つとなります」

 

 先輩の言い回しがひっかかる。つまりはこの都市伝説だけに限らなければ、総耶にはそれ以上に吸血鬼が蔓延っていることにならないか。

 

「さて、ではその核心が一つ、噂の主役でもある吸血鬼についてまずは話しましょう。遠野くんが生み出してしまった新たな真祖。その名もアルトリウス・ブリュンスタッド(Artorius Brunestud)

 

 ──いきなり本命が来た。アルトリウス(Artorius)……命名したのはアルクェイドなのだろうか。

 ノエル先生も「息子」と呼んでいたことだから、名前の響き通り性別は男なのだろう。遠野志貴とアルクェイド・ブリュンスタッドの、息子。

 どんな姿なのだろう。アルクェイドに似ているとして、性別も年齢も違うとなるとあまり想像がつかない。あいつと親子としてどんな時間を過ごしたのだろう。どうして母親と別れてこの国に来たのだろう。

 

「一応触れておくと、アルクェイドの息子だからブリュンスタッドというわけではありません。これは人間でいう姓ではなく、真祖たちの社会における称号なんです」

「称号……ですか」

「一年前にも言ったことですが、真祖の社会には本来階級というものはなく、基本的には全ての個体が平等です。しかしながら、頭抜けた性能を持つごく一握りの傑作は王族として讃えられる」

 

 ヴローヴにより破壊された駅前の跡地で、確かに先輩はそんなことを教えてくれた。

 創作に出てくるお姫様さながらなアルクェイドが本当に王族なのだと初めて知った瞬間だった。

 

「それがブリュンスタッド。真祖の王族。星の頭脳体。この称号を継ぐことを許された真祖は歴代でも片手の指に収まる。星の触覚という精霊の枠に収まらない、正真正銘の規格外」

「つまりアルトリウスは、アルクェイドと同じぐらい強い吸血鬼だと」

「アルクェイドと完全に同等とまでは言えないでしょう。性能不足ではなく、まだまだ成長途中という意味で。それでもブリュンスタッドを名乗るだけの怪物であるということは疑いようもない。資格もないのに王族を僭称するなどという罪深い行為、いくら我が子でもあのアルクェイドが許すわけがありませんから」

 

 そういうものなのか。まあ確かに、平民が王族を偽るなんて無礼を働けば、場所や時代によっては処刑されてもおかしくない。

 

「待ってください先輩。成長の二文字で気付きましたが、そもそもどうして一年で独り立ちしてるんです。真祖ってそんなに早熟なんですか」

「今更ですか。そんなのわたしだって知りませんよ。そもそも真祖は性能が高ければ高いほどコストが重く、鋳造も遅い。アルクェイドは完成まで数世紀かけたと聞いています」

 

 そういえば、個体として弱い時期はずっと眠っていたと公園で言っていた。だからあいつには子供時代なんてものがない。

 となると、アルトリウスはあいつ以上に滅茶苦茶な奴なのか。ノエル先生の怯えようからして、まさか歳相応の肉体ではなかろう。

 

「話を戻しましょう。とにかくとても強い吸血鬼ということは頭に入れておいてください。ここで遠野くんにひとつ。アルクェイドを評価の尺度とするべきではありません」

「……あの時のあいつが、弱ってたからってことですか」

「確かにそれもあります。総耶での彼女は衰弱を通り越して壊れていた。ですが勘違いしないで下さい。たとえ万全でも、アルクェイドはアルトリウスに出力で劣る。アルトリウスが欧州で神秘を屠ってきたことはノエルから聞いていますね?」

「はい。教会が監視していた強力な異端のほぼ全てが殺されたと」

「真祖の王族をコスト度外視で、それも一年に満たない短時間で生み出したツケでしょう。リソースが足りなければ他から持ってくるしかない。故にアルトリウスは力のある獲物を捕食する。魔術師とはいえ、人間であっても例外なく──これの意味するところが分かりますか?」

「……まさか、吸血衝動が存在しないとでも言うんですか」

「証言は取れています。事実、アルトリウスの獲物となるのは神秘……すなわち吸血鬼や人狼、魔女等といった非現実的なものが対象です。吸血衝動の対象である人間に対しては、真祖自身は襲うどころかむしろ友好を匂わせていますし、都市を襲撃した記録もありません。もっともわたしは例外のようですが」

 

 捕食と吸血。意味合いこそ異なるものの、前者は後者を含むと考えるのが自然だ。血液だけでなく、犠牲者を丸ごと喰らう死徒もいると聞いたこともある。

 アルクェイドは人間を襲わなかった。血を吸うのが怖いからと。真祖に区分される吸血鬼は、吸血衝動を抑えるためにその力を使わなければならない。

 それが限界を迎えた時が寿命のない彼らの終わり。他ならぬ先輩が言っていたことだ。アルクェイドでさえ、その運命から逃れることは出来なかった。

 ノエル先生からはかなり濁した形でしか愚痴られなかったが、この衝動に係る以上はただ殺すのと餌食にするのではわけが違う。吸血行為と殺害行為は別物だと他ならぬアルクェイドが言っていた。

 勿論そんなことは代行者である先生の方が分かっているだろうから、恐らく機密にされているのだろう。

 

「なぜそうなったのかは教会も解明していません……普通に考えて、貴方の血が鍵でしょうが。そして、遠野くんはこの特性にあまり期待は出来ないと思います。まず間違いなくアルトリウスという真祖に固有のものです。元から存在しないのと、既に存在するものを取り除くのはまるで別物ですからね」

「そう、ですか。ひょっとして、神秘を狙って捕食するとなると、もし俺が渡欧していたら遭遇する可能性もあったと」

「貴方は神秘を追いたい。アルトリウスは神秘を喰らいたい。お互い目当てとするものが同じある以上、その可能性は大きいですね。まぁ、真祖が遠野くんに手を出すことは無いでしょうが、貴方の素性が割れれば息子のやらかしのツケで全勢力から命を狙われていたでしょうから、命拾いしましたね」

 

 つい今朝、その拾った命を刈り取られる寸前だったのだが。

 

「やだわ志貴クン。水に流すって約束したじゃない?」

「先生が勝手に流しただけでしょう」

「出力の話に戻りますが、アルトリウスのそれは同じく吸血衝動の抑制に力を割くことのない、わたし達の知らないアルクェイド……すなわち、ロアに誑かされる前の全盛期の彼女に匹敵する。ほとんど地球の現身と変わらない」

「あー……だからノエル先生は核爆弾に例えたと。言葉を選ばずに」

 

 先生を見上げると、だったら何だと言いたげに肩を竦める。

 両手に持ったトレイの醤油ラーメンは既に湯気を失っていた。集中していて気付かなかったが、食堂に残っているのは俺たち三人だけだった。時間割などに構うことなく、シエル先輩の講義は続く。

 

「まぁ、空想具現化なら核爆発を引き起こすなんて朝飯前です。むしろ真祖の取り得る攻撃手段の中では基礎的な方でしょう。誰にも制御出来ない、独自の意思と思考を持つ手足の生えた核弾頭が野放しにあるも同然。おまけにこの核弾頭は消滅せず、好きな時に好きな場所で好きなだけ爆発できる」

「これまでで一番分かりやすい例えですね……。しかし野放しということは、先輩でもアルトリウスがいまこの街のどこにいるか分からないんですか」

「いえ、対処出来ないというだけで所在は把握しています。というか、もうここにいます。ずっと遠野くんのことを見ている」

「え?」

「あれです。アルクェイドからなにも聞いていませんか」

 

 先輩が指さす向こう。開け放たれた食堂の窓の外には誰の姿もなく、抜けるような秋晴れを嘲笑うが如く霧だけが漂っている。

 ……霧。霧か。先輩に促されて、一年前に受けたアルクェイドの吸血鬼講座を振り返る。今はもうないホテルの最上階でホワイトボードを背に楽しそうに語っていたあいつ。その説明の中に、一つ心当たりがある。

 

「確か……吸血鬼って、霧にもなれるんでしたっけ。その多くが魔力で分身を作るだけの下等なもの。そして上等なものになると、現象そのものになると」

「あれはまさに後者の例です。自己を粒子化、拡散することでアルトリウスは総耶を支配下に置いている」

「なんのためにそんなことを……そうだ、そもそもこの街は先週から霧に覆われている。それだけの時間、現象として都市を丸ごと掌握するなんて、吸血鬼ってそんな馬鹿げたことも出来るんですか」

「ここからはわたしの推測ですが、目的はとある死徒に対抗するためではないかと見ています。アルトリウスを除けば唯一これだけの規模の霧化を引き起こせる、自身を現象に祭り上げた祖の成れの果て。そしてアルトリウスと並び総耶にまつわる都市伝説の核心となる二体の吸血鬼のもう片方──死徒二十七祖第十三位、通称『タタリ』」

 

 タタリ──『祟り』

 本当にその日本語に由来するのかは分からない。しかしこの被りは、発端が都市伝説というのも相まってあまりに不吉なものを俺に予感させる。

 あのヴローヴと同じ二十七祖。この街はまたも、その魔の手に落ちたのか。

 

「最初に発生した土地の名を冠して『ワラキアの夜』とも呼ばれる、実態を持たない吸血鬼。意志ある怪奇現象。特定の周期で、一つのコミュニティに蔓延する噂や恐怖、不安を増大、収束させ……それらの内容を元にしたイメージが十分に成長したとき、タタリはその姿を借りて具現化し、人々が思い描いた恐れそのものとして、コミュニティ内の住人を皆殺しにする」

「つまり、噂を広めて現実に出来るってことですか」

「ざっくり言えばそのようなものです。そして、タタリの具現化する噂には幾つかのルールがあります。具体的、共通的であるほどイメージがより早く、強力に成長する。噂の中で最も個性を持つ者が現実に呼び出される、どんな内容であれ最後には住人を殲滅する存在として具現化する──いずれも、遠野くんが教えてくれた都市伝説に顕著だと思いませんか」

「……確かに、そうですね」

 

 被害者の人となり、犯した罪、その死に様から最期に置かれた状況とに至るまでの過程。創作じみた具体性を帯びておりながら、物証があり、あまりにも多くの人が目撃している。ネットの世界では、殆どの人間が共通して持っている話題。

 主役となる『吸血鬼』についても個性が際立っている。それこそ、一つの界隈を成すぐらいには。この都市伝説が成長を遂げた時、顕現するのは彼女を置いて考えられない。

 そして成った時、ソレは悪人善人の別なく殺すのだろう。罪ある者のみ始末するなど、歓心を煽るための設定にすぎない。

 なにもかもがタタリの関与の可能性を示唆していた。哀れな獲物は、それが何かも知らぬままに少女の噂を広げて掘り下げて肉付けしながら、吸血鬼に敷かれた地獄への道を猛進している。

 

「都市伝説の正体はタタリが顕現するための下準備。この街は既に祖に蝕まれている」

「先輩。そのタタリって奴が出現すれば、またヴローヴの時みたいなことが起こるんですか」

「まさか。あんなもの(・・・・・)では済まないですよ。タタリは飲血鬼と呼ばれ、他の吸血鬼からすら蔑まれるほど節操がないんです。人間の血液を余さず吸い取って骨と皮にするだけでは飽き足らず、家畜の血から井戸水の最後の一滴に至るまで」

 

 支配下に置いた領域に在る水分の尽くを飲み干す悪鬼だとシエル先輩は断じる。

 

「三年前にイタリアに顕れた際には、たったひとりの生存者を残して村一つが干上がったと報告されています。教会が派遣した騎士団すら返り討ちに遭いました」

「逆に言えば、生き残りがいないでもないと?」

「いえ、状況的にあえて見逃されたというのが妥当でしょう。タタリの後継者と見込まれて」

「ようは吸血鬼の仲間入りってことよ志貴クン。死んだ方が遥かにマシな最期ってわけ」

 

 事務的にフォローを入れるノエル先生。

 なんでもないようなその口振りから、代行者にとってごく有り触れた末路なのだと分かってしまう。

 

「つまり、件の少女の噂が成長しきってしまえば、タタリが顕れて総耶の住人が例外なく犠牲になるってことですか」

「それもいいえです。思い出してください遠野くん。噂が流布している地域は何処ですか」

「……まさか、首都圏が対象だと」

「少なくとも東京都全域は危険地帯かと。タタリによる物的被害は特に予想が立て辛いとはいえ、たとえインフラストラクチャーそのものは無事で済んでも、都民が消滅すれば言うまでもなくこの国は……日本は終わりです」

 

 あまりの見立てに目眩がする。

 かくも極まると災害という表現すら生温い。先輩の言う通り、ヴローヴだって流石にここまででは無かった。

 

「いくら二十七祖といったって、そんな無茶苦茶が出来るものなんですか」

「当然、相当の無理はしているでしょう。ただ、かくも桁外れに膨張している原因として、元となる噂に存在規模を左右されるタタリの性質が深く関わっている。いいですか遠野くん。過去の例に照らし合わせれば、件の都市伝説の完成度からしてタタリはとっくに顕現していなければおかしいのです」

「なのに姿を見せず、街は表向き平穏なまま。……もしや、それにあの霧が……アルトリウスが関係していると?」

 

 タタリに対抗するためだと最初に言っていた。

 案の定、先輩はなにかを思案するように頷く。

 

「察しがいいですね。タタリそのものは一夜だけしか顕れないにせよ、その予兆は局地的な噂の実現という形で世に現れる。現時点においてそれが皆無なのは、タタリが目的とするこの総耶の街に、既にアルトリウスという『現象』が居座っているからだとわたしは推測しています」

「別の吸血鬼が現象として存在する以上、それを上書きすることは出来ないということですか」

「霊子という非常に不安定な存在をとっているが為に、別の霊子が混ざるとタタリという極めて高度な現象を成立させられないのだと睨んでいます。さらにアルトリウスはただ占拠しているわけではなく、現象と化した己を以て噂そのものに介入まで行っている」

「介入、ですか。それは噂を書き換えるとか……」

「まさしくその通りです。貴方は知らないでしょうが、あの真祖がこの国への渡りを終えたのはほんの半月前のこと。タタリが噂を流し始めた時期からは明確に遅れています」

 

 ああ、だからか。先輩が俺の偽りを見抜いたのは、そもそも時間設定からして矛盾していたからだったのか。本当に主役がアルトリウスだけなら数か月に渡って続いていない。思えばこの街が霧に覆われたのも先週のことだ。

 

「語られている西洋人の少女は、アルトリウスが元となっているとみて間違いない。ただし最初からそうだったわけではなく、総耶を手中に収めたと同時に力技で上書きしたのでしょう」

「待ってください先輩。タタリの出現を防ぎたいのなら、そもそも噂に手を加える必要があるんですか。ただ消してしまえばいいのでは」

「それが理想ですが、然しものアルトリウスでも噂そのものを塗り潰すことは流石に出来なかったのでしょう。同様に、自らの手で一から作ることも困難極まりない。なにしろ相手は祖の一角、それも現象であることに特化した吸血鬼ですから。むしろその分野で正面から出し抜けている真祖の方がどうにかしている」 

「なら、主役を自分に置き換えたのは次善の策だと」

「はい。そうすることで噂そのものをコントロールしやすくしたのでしょう。どれだけ悪性情報が深まったところで、総耶においては後からやってきて先に定着を果たしたアルトリウスの霊子が邪魔となって形を成せない。現状を打破するためにタタリが番外戦術を仕掛けた結果、首都圏にまで影響が広がっている」

 

 アルトリウスの遅滞戦術は総耶が惨劇に包まれることこそ防いでいるが、それによって行き場を失ったタタリは噂の深化に伴い力を増している。その結果が、この異常な規模の拡散ということか。

 

「ずっと拮抗したままというのも良くないですよね。タタリとかいう奴が、総耶の外で暴れないとも知れない。そもそも噂であっても死徒が蔓延ること自体が不味いような」

「もちろん。そして、この状況の終着点は二つしかない。タタリが滅びるか、さもなければこの国が滅びる」

「このまま膠着していればいずれ諦めませんか」

「あり得ません。タタリは予め定められた航海図と駆動式にのみ従って活動している。条件さえ揃えば必ず出現し、ただその性質の通りに動くのみ。意志こそあれどもその行動様式は能動的に変わらないのです。どこまでいっても現象に過ぎない」

「なんというか、台風みたいな奴ですね」

「まさしくそのようなものですよ。撤退という選択肢が許されているのはアルトリウスだけなんです。そしてそれは最悪の展開に他ならない。頭を抑えつけていた手が離れることで、より長い時間をかけて凶悪化したタタリが総耶のみならず東京全てに解放されるのですからね」

 

 窓の向こうの景色は凪いでいて、吸血鬼同士の縄張り争いの気配など欠片もない。揺蕩う霧はどこまでも穏やかなものだった。

 あの不可思議な現象が、惨劇を紙一重で食い止めている。しかしそれが何時までもつのか、もたせるつもりなのかは見えてこない。

 かなり高等な芸当だというから、そのぶんかかる負担も大きい筈だ。なら、どうしてわざわざそんな役目を引き受けているのかという疑問が生じる。

 

「そもそもアルトリウスはなんでタタリの邪魔をしているのでしょう。今の話を聞いているとまるで、この街を守っているみたいだ」

「……あれの行動原理については、断言出来るだけのものが掴めていません。祖を滅ぼすことが目的なのは確からしいですが、遠野くんの言う通り総耶を守護するつもりでいるのか、それともこの小康自体は狩りにおける副産物に過ぎないのかもまだ何も。貴方という父親の存在もありますし、一応は人間に対して好意的な認識を持っているようですが」

「はっ。吸血鬼が人間を守る? なに寝惚けてんのかしらシエル。口じゃあなんとでも言える。考えるまでもなく嘘に決まっているでしょうが」

 

 すかさず吐き捨てられたノエル先生の言葉に、シエル先輩はゆっくりと頭を振る。

 

「その認識を口にした時点で、アルトリウスはわたしを森から帰すつもりはなかった。教会への欺瞞を試みるのは不自然です。だいたいかくも派手に暴れておいて、今更こちらの顔色を伺う理由がない。どういう認知であるにせよ、あの真祖は人間を好いている……少なくとも興味を抱いているのは確かでしょう。だからこそたちが悪い」

「どういう意味ですか」

 

 映画館とか、公園とか。アルクェイドだって人間の営みに興味を示すことがあった。それがなにか良くない結果をもたらしたわけではない。ただただ見た目相応の少女のような在り方だった。

 

「真祖のような怪物が人間社会に関心を持ったとき、出てくる結果が必ずしも有益とは限らないということです。無益ならまだしも有害にすらなり得る。そして真祖の持つ力があまりにも強大であるが故に、その害の規模(スケール)もまた測り知れない。事実、彼が乗っ取った都市伝説では明確に被害が出ているじゃないですか」

 

 全てがでっち上げではない。犠牲者は現実のものとして存在している。

 

「悪人だから、罪があるから。そんな線引きなどいずれあやふやになる。ゆくゆくは微罪すら殺害条件に含まれるかもしれない。そうした暴走を防ぐために法は私刑を禁じているのに、アルトリウスはその秩序を顧みないまま人間社会に干渉している。何にも縛られず思うがまま振舞えるだけの暴力を備えながら。率直に言ってこれ以上ない危険因子です」

「それは──」

 

 この街を救うためには仕方のないことではないのか。咄嗟に擁護しかけた口を噤む。

 どんな理由があってもそれを肯定してはならない。認めてしまえば、それこそ先輩が言うように線引きが崩壊する。

 

「まぁ、噂を塗り替えるのは目撃者が必要なことを加味しても、善良な一般市民に手を出さない、巻き添えすら出さないという点では一線を引いていると評価します。最低限の倫理観を持っているのはせめてもの救いでしょうか」

「むしろ街ごと浄化する私たちの方がよっぽどかしらね」

 

 先輩も先生も、あくまで俯瞰的な立場に徹するようだ。

 死徒退治を生業とする代行者の世界は単純な正義の味方では務まらないのだろう。

 

「本人に聞ければ一番手っ取り早いのですが、教会所属のわたし達は勿論のこと、遠野くんにもアルトリウスは接触を控えるでしょう」

「それはまたどうして」

 

 いや、独り立ち出来る頃合いまで母親と一緒に暮らしていたなら、今の今まで自分の存在すら知らなかった父親など最早用なしと思われてもなにも言えないのだが。ただでさえ、男の子は男親にはあまり懐かないものだ。

 ただ、シエル先輩が言いたいのはどうもそういうことではないらしい。

 

「総耶の街は貴方と所縁の深い彼の霊子に覆われている。そして先ほども言った通り、この状態はとても不安定なのです。下手に関わることで、なにか良くないイメージを現実に呼び出す恐れがある。ただでさえ、遠野くんは一年前の渦中にいたのですから」

「あー……俺がイメージすることで、ロアとかヴローヴなんかが再現されかねないってことですか」

「はい。ですからあの真祖が慎重なのはいいことです。そんな配慮が出来るのは意外ですが。母親同様、狩りにおいては徹底して合理主義なのでしょうか」

「確かに、遊びはありませんでしたからね。あいつの戦い方」

「とはいえ、どこかの段階で遠野くんにはコンタクトを取ってもらいたいのですが……現状、あの暴れ馬の手綱を握れる望みがある存在は世界で貴方だけですから」

 

 俺がコントロールするのか。どうだろう。父親としてそのぐらいの義務は果たすべきというのは全くもってその通りだが、俺の知っている総耶でのアルクェイドよりさらに強力な吸血鬼の制御なんて、正直全く自信が持てない。

 

「ひょっとして、先輩が俺に協力させようっていうのはそのことですか」

「え? ああいえ、これぐらいは製造物責任として当然やってもらいます。むしろ遠野パパの情報を握り潰しているだけ感謝してほしいものです。わたしの裁量次第では、今夜にでも秋葉さんにタレこんだって構いませんが」

「すみませんそれだけは許してください」

 

 そうだ。ことアルトリウスの件についてシエル先輩はそれなりに偉い立場に就いているのだとノエル先生が愚痴っていた。

 先輩の気分一つで、今晩が俺にとって遠野家に、ひいてはこの世にいられる最後の時間であることが確定してしまう。

 

「むしろ二度と屋敷から出してもらえない心配こそすべきだと思いますけどね。そして、遠野くんになにをしてもらいたいかといえば、タタリ討伐に手を貸すことです」

「……意外ですね。一年前は、あれだけ俺を吸血鬼から遠ざけようとしていたのに」

「いくら特別な眼があるとはいえ、一般人に過ぎない貴方に助力を乞うのは本当に気が進まないのですが、今回ばかりは相手が悪すぎます。先ほど遠野くんが台風に例えたように、仮に顕現した吸血鬼を滅ぼしたとしていても、条件さえ揃えば何度でもタタリは再演される。台風が毎年発生するように、タタリという現象が滅びるわけではない」

「でも、俺の魔眼ならタタリそのものを殺せると?」

 

 それは例えになぞらえれば台風という自然現象そのものを殺すに等しい難題ということにならないか。

 

「……可能性でいえば、正直なところ極めて低いと言わざるを得ません。ですがわたしの知り得る限り、タタリの根絶にはロアをも滅ぼした直死の魔眼以外に取り得る方法がないのです。わたしの武装では魂までしか砕けませんから」

「分かりました。どのみち、先輩から何も言われなくても、黙って見ているだけなんてあり得ませんから」

 

 一年前と同じことだ。あの時だって、自分の意思でアルクェイドと共に戦った。

 あの日々と地続きに生きる俺にとって、こんな事態を傍観するなどという選択肢など最初から存在しない。先輩の言う通り、既に事件だって現実に起きている……そういえば。

 

「先輩。アルトリウスが噂を乗っ取るために繰り返している凶行は、そもそも本当に必要なものなのでしょうか」

「タタリが姿を成すには共通かつ具体的なイメージがいる。噂とは無から生じるものではなく、所謂元ネタと言えるものがあるべきです。特にアルトリウスの場合、部外者が後から力業で掌握するだけあって、相応の背景が必要だったのでしょう」

 

 そして、と先輩はいったん間を取る。

 ここからが本題とでもいうかのように。

 

「現在の噂はアルトリウスが上書きしたものであるとすれば、その前身にあたる噂が存在しなければおかしい。最初は主役も、行動も違った筈です。現に、遠野くんが語った中にもその残滓が読み取れる」

「例えば路地裏に頻出する癖に、直近の殺害現場が軒並みそこから程遠いところとかね」

「あとは少女の容貌について不自然に濁しているのも引っ掛かります」

 

 ノエル先生が俺の背後で先輩の尋問を支援する。

 二人ともとっくに見抜いているのだ。俺が重要な部分を知らないのではなく、知っていながら黙っていたことに。この噂の乗っ取りは認識の書き換えすら可能なのか、それとも本当に最初から今のものを伝え聞いていたのか、元のバージョンの全てを俺は把握していない。

 それでも先輩が言う通り残滓はある。俺にとって、代行者に知られたくない存在は一人しかいない。だが、彼女たち相手にこれ以上隠し通すのは不可能だった。

 

「……先輩が指摘した通り、都市伝説にはもう一つの姿が伝えられています。夜になると路地裏に現れる、制服を纏った、茶髪をツインテールでまとめた少女」

「弓塚さつき」

 

 俺が白状するや間髪入れず、ノエル先生がその名を口にする。

 思わず肩が跳ねる。それがなによりの証明だった。

 

「志貴クンのクラスメイト。確かそんな子だったわ。名前に弓が入っているのが気に入らなかったのよねー……で、シエル。弓塚さつきは教室にいた?」

「いえ。B組に限らず三年生にそのような名前の生徒は存在しません。日光を避ける都市伝説からして、どのような事態にあるかは明白ですが……それでもわたしたちに隠すあたり、遠野くんはまだ諦めていないようですね」

 

 先輩はゆっくりと首を振る。そうだ。タタリが死徒だと分かった今、その具現として選ばれるのは同じ存在が好ましいのではないかと、またひとつ合点がいってしまう。

 

「と言っても親基になれるレベルの吸血鬼なんて新顔のタタリと真祖ぐらいしかいないでしょ。ロアとヴローヴは一年前にくたばっているわけだし。だとするとあの子、たったの一年どころか半年足らずで自立したってことになるわねシエルさん」

「半年どころか、親の消滅に伴っていない時点で、ほぼ間違いなく最初から自立した個体として新生している。比類のない死徒の才能です」

「なにその世界一いらない才能。私には無さそうで良かったわ」

「……。それに、吸血鬼が都市伝説の三体だけとも限らないんです。例えば遠野くん、この少女に覚えがありますか」

 

 先輩は手際良く端末を立ち上げると、画面を上下逆さにしてこちらに差し出す。液晶には、俺と同じ年頃の少女の証明写真らしきものが映し出されていた。

 紫苑の瞳に、同じ色をした髪。長髪は三つ編みで束ねられており、軍服のような特徴的な装いをした美人。明らかにこの国の人間ではない。

 冷たくこちらを見据えた眼差しからは生真面目さがありありと窺える。身近な人間だと秋葉が思い浮かぶが、この娘にはより合理主義的な無感情さが顕著だった。何処となく、余裕のなさすら感じ取れる。

 ここまで個性的だと、いくら外国人など珍しくもない現代の東京でもやや浮くのではなかろうか。少なくとも、一度見かけたら絶対に忘れないだろう。

 

「……いえ、先輩。まったく心当たりがありません。この娘もまた吸血鬼で、今この街にいると」

「今度は隠し立てはないようですね……よろしい。彼女の名はシオン・エルトナム・アトラシア。魔術協会の一角であるアトラス院所属の錬金術師。そして先ほど紹介した、三年前のイタリアの惨劇における唯一の生存者」

「……そうか、先輩が後継者と言っていた」

「はい。そもそもタタリの原型となったとされる死徒は、彼女と同じアトラス院の元院長。出自も同じだと聞いています」

 

 タタリの原型。そういえば最初に成れの果てだと言っていた。噂を具現化するなんて馬鹿げた吸血鬼でも、死徒である以上かつては人間だったのか。

 それがなにをどう踏み外せばここまで変貌するのか、俺にはまるで想像がつかない。

 

「タタリは条件が揃わない限り発生しない。直近の三年前以降は今に至るまで世界に存在しないため、子であるシオン・エルトナムの死徒化の進行も緩慢だった。それを利用して、死徒から人間に戻る方法を探っていたようですが……いよいよ時間切れが迫って焦ったのか、先日アトラス院を出奔しました」

「それも研究成果を持ち出して、それを手土産に治療の手掛かりを追うなんていうアトラス院最大の禁忌を犯してね。ま、多少は同情するわ」

「加えて、彼女は次期院長という最高幹部の身。形振り構わなくなったアトラス院は、聖堂教会にまで逮捕の要請を寄越しました。つまり、その身柄の確保もわたし達の任務というわけです」

 

 話を聞いていて、どうしても弓塚のことを想像してしまう。このシオンという娘もまた、望まないまま死徒にされ、今も一人で彷徨っているのか。地位も名誉も全て奪われ、こんな異邦の地で。

 

「死徒から人間に戻るなんて、出来るんですか」

「あらぁ死徒クン。ちょうど目の前にその実例が座っているじゃない。ま、史上唯一の例だけど」

「……おおかた、完全に死徒に成る前に親たるタタリを滅ぼす。それで症状が止まることに、一縷の望みをかけたのでしょう。その心情は大いに察しますが」

 

 つまり、見込みはないということなのだろう。

 他ならぬ吸血鬼退治のエキスパートなシエル先輩がそう言うなら、たぶんその見立てに狂いはない。

 

「弓塚さつきの例からして、遠野くんをこの案件に関わらせるべきではないでしょう。叛意を持った身内などいない方が遥かにマシです」

「ありがとうございます。俺もそのほうがいい」

「一つだけ忠告ですが、貴方とて一年前の当事者である以上、シオン・エルトナムから何らかの接触があるかもしれません。彼女は対象の行動を"演算"します。くれぐれも見た目通りの少女と侮らぬよう」

「そっか。ありがとう先輩」

 

 演算とやらの具体的なことは見当つかないが、先輩がに見せた読心ともまた違うのだろう。計算しきるということは、未来予測のようなものかもしれない。

 殆ど手探りで戦ってきた俺にとって、戦闘経験豊富な先輩からの忠告は大いに為になる。

 

「今日はこんなところでしょうか。幸い、情報交換ならこれからさき教室でも出来ますから」

「教室……そうだった、とっくに授業が」

「ああ、出席ならわたしが幾らでも誤魔化しておくので遠野くんが気にする必要はありませんよ。どうせ大した授業も残っていないでしょうから」

 

 なんと頼もしい。

 ノエル先生という裏口を使わなくとも堂々と授業を抜け出せる。いや、暗示はコネ以上の裏口ルートかもしれないけども。

 

「それはそうと淫行の遠野くんと独断専行命令不服従のノエルには揃ってお仕置きが必要ですね。さあ、自分で頼んだものはしっかり完食しないと」

「……いや、志貴クンの冷や飯はともかく、私のラーメンもうスープが残ってないんだけど」

「こともあろうに食材を無駄にするつもりですかシスター・ノエル。大人たるもの学生には範を示しなさい。勿論立ったまま」

「ひどっ!」

 

 ぶうたれつつも、ノエル先生は器用に片手でトレイを支えながら箸を持つ。やはり代行者は凄い。

 そしてでろでろになった麺を言葉ほど嫌そうではなく啜りだしたのも凄い。半ば残飯なこれより酷い食事を経験してきたのだろうか。

 

「あの、シエル先輩。アルクェイドとの事は俺から秋葉に伝えるんで……準備が整った後に。なので、くれぐれも内密で頼みます。今日明日だと俺は粉々に磨り潰されてから飼料に混ぜられて豚の餌にされてしまう」

「あ、ミンチになる前に剥ぎ取りだけはさせてよね志貴クン。時計塔に売りつければ一生働かずに暮らせるわ」

「独り占めは駄目ですよノエル。ちょっきんする前に色々と遊ばなければ勿体ない」

「そうね。世界に一つだけの花だもの」

「そこは茎なのでは?」

 

 前後を挟んで繰り広げられる恐ろしい会話をなるべく聞かないようにして、来たるべき日に向けた算段を組み始める。

 そんな俺をじとりと睨みつつ、いつの間にかとっくにスパゲッティを完食していた先輩は重々しい溜め息をついた。

 

「……まぁ、今は徒に遠野家を引っ掻き廻すことはしませんが、いつまでも隠していられる話でもなし。爆弾は可能な限り速やかに解除しておくことをお勧めしますよ遠野くん」

 

 

 

 ◆

 

 

 ちょうどその頃、レンはひとり遠野邸の門扉の前に佇んでいた。

 いつもは主人の手足として東奔西走している彼女だが、今日は前のマスター(仮)から、ひとつ大事な仕事を預かっている。

 ここ遠野家の主人である遠野秋葉へ親書を届けること。すなわちメッセンジャーだ。

 

 どうしてアルクェイドがそんなものをしたためたかというと、彼女が正真正銘、本物の真祖の姫君であるからに他ならない。

 月に跳ねる兎のごとく天真爛漫なのはあくまで数ある側面のひとつ。王族に相応しい品位と教養を備える彼女にとって、義理の妹となる相手に礼の一つも示さないなど考えられないことだった。

 その使者であるレンもまた、自分の役目の重さをしっかりと理解している。だからこそ、苦手な風呂にも長々と浸かってまでしっかりと身繕いを整え、普段より少しだけ意匠の凝らされたコートの裾を翻しながらレンは今ここに立っている。

 ただ、あまりの門扉の重厚さを前にして、正面から乗り込んだところで本当に屋敷の主人たる遠野秋葉に目通り出来るかという不安がレンを立ち止まらせていた。

 猫の姿で侵入するというのも一つの手だが、それでも人間体に拘るのは人間の秋葉に礼を払ってのことである。

 

「……もし。当家に何か御用向きでも」

 

 どうにも踏ん切りのつかない逡巡は、思いがけない形で破られた。社内ミーティングに備え、急遽学業を切り上げ帰宅の途についた秋葉と鉢合わせたためだ。徒歩で帰るのは厳しい浅上女学院ではこうはならなかった。

 放蕩な兄を外堀を埋めるため、遠野家当主としての手練手管を駆使した結果、先月から秘密で総耶高校に転入する離れ業を果たしている。ちなみに志貴はまだそのことに気付いていない。

 無事に邂逅したのはいいものの、秋葉の想像以上の威圧感に堪らずレンは臆する。秋葉も秋葉で、目の前の少女が相当に力を持った魔であることが分かるからこそ、警戒を怠らない。

 

 束の間の見つめ合いを崩したのは、メッセンジャーとしての使命を思い出したレンの方だった。

 コートの袖から取り出した星の内海に咲く白い花……一輪のムーン・マーガレットを秋葉に差し出す。

 

「…………?」

 

 相手が見た目相応の童子であれば、礼と共に受け取ったであろう秋葉だが、相手が相手なだけになおも慎重さを崩さない。

 博識な秋葉で以て正体がまるで掴めない、この世のものとは思えないぐらいに美しい花もまた、感動より先に疑念を煽る。ただでさえこの頃の街は、秋葉の嫌いとする意味不明な出来事で溢れているというのに。

 それでも細心の注意を払いつつ、差し出された花を受け取ると、それは秋葉のたおやかな指の中で、あたかも糸が切れたようににはらりはらりと解けていった。

 そして解けた先から別の形に編まれていき──まるで御伽噺に出てくる魔法のような手品に秋葉が呆気に取られている間に、それは一つの封筒に姿を変えていた。

 宛名は達筆にThno Akihaとあった。海外の知人など、遠野家当主たる秋葉には山程いる。裏返す。差出人は──Arcueid Brunestud。

 

「……………………」

 

 知っている。遠野秋葉はこの名前を知っている。

 固められた封を切り、丁寧に折り畳まれた便箋を広げる。どういう仕組みか、元々手渡されたものと同じ花もまた一輪、皺一つなく同封されていた。

 

『拝啓

 

 仲秋の候、秋葉様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

 ご報告の遅れること大変恐縮ではございますが、秋葉様へ新しい家族の誕生をご報告したく、お手紙を差し上げました。

 昨年の12月24日、志貴との間に、無事に男の子が誕生いたしました。名前はアルトリウス・ブリュンスタッド(Artorius Brunestud)。秋葉様におかれましては、これから甥っ子として、末永く可愛がっていただけましたら幸いに存じます。いずれ機会がございましたら、今度はぜひ私の城にいらしてください。秋葉様にまたお会いできる日を心より楽しみにしております。

 まずは略儀ながら、書中をもちまして無事出産の報告とお礼を申し上げます。寒さ深まる折、どうぞご自愛くださいませ。

 最後となりますが、今後ともよろしくお願いしたく、心ばかりの品をお贈りいたします。城の庭園で咲いた、永遠に枯れない花でございます。ほんの気持ちではございますが、お近づきのしるしにご査収くださいませ。

 

 敬具』

 

 

 

 なんだ。これは。理解出来ない。

 いや違う。いっそ本当に愚かであったならまだそのような救いも得られたかもしれない。

 なまじ明晰なばかりに秋葉は一読で理解出来てしまう。故にこう言うべきだ。理解したくない。

 

 これは挑発か。いや宣戦布告か。

 違う。文面は至って誠実かつ真摯。ああ、尚の事酷い。

 

 秋葉は思い出す。

 

 

「あ の  おんな」

 

 

 ちょうど一年前のこと。

 アポも何もなく。

 完全に初対面でありながら。

 すっかり日の落ちた時間に。

 あろうことか兄さんのガールフレンドを自称して押しかけてきた、金髪の女。

 その非常識に違わず、知性がほんの一欠片も感じられない振る舞いを披露した、せいぜい胸の大きさぐらいしか取り柄の見当たらない白い女。

 ああいう手合いは、その無駄にデカい胸で男を引っ掛けるしか能がないのだろう。そんなのに引っ掛かる男も男で、上半身と下半身のペアでさぞお似合いだろうと秋葉はにべもなく切って捨てる。

 まさかそれが、そんな女に誑かされたのが、あろうことかあの兄だと? 

 いや、秋葉とて馬鹿ではない。こういう万が一に備えて、兄に寄る小蝿は遠野の力を駆使して執念的に叩き潰してきた。しかしあの女は、アルクェイド・ブリュンスタッドはその警戒網にかからなかった。恐らく、出会いから一ヶ月にも満たないだろう。

 まさかそんな、行きずり同等のお付き合いで、得体の知れない外人女と、遠野家長男が子供を……? いや、なによりそれには、絶対に欠かせない過程があった筈。

 

 つまり。

 

 

「兄さん。やはり、あの女と性交なされたのですね」

 

 

 口に出す。口に出してしまった。

 秋葉自身から漏れ出た声が、秋葉に最大の精神的一撃を与える。

 自覚のないまま、既に髪は完全に紅く染まっていた。真祖の姫君直筆の手紙という、この世のどんな宝にも勝るとも劣らない逸品は、その価値を誰にも知られないまま秋葉の掌で灰となる。

 幸い意識から外れていたおかげで、アルクェイドからのささやかな贈り物であるムーン・マーガレットは無事なまま。それでも親書を塵に帰すという、仮とはいえ己の前主人の顔に泥を塗るような蛮行にレンは両手を上げて抗議する。

 しかし秋葉の視界は既に、無口な少女の姿など全く捉えていない。いま自分が引き返しようのない行き止まりに突き当たったという自覚と、焦燥と絶望。そしてあまりに今更な後悔だけがぐるぐると頭を巡る。

 

「泥棒、猫」

 

 そうだ。あの女がどれだけおつむが足りてなかろうと、そんなことは本質的な問題じゃない。遠野の資産目当てだとしても、些細と言っていいだろう。

 母親が相手という点がやや問題だが、それでも遠野家の擁する日本最高峰の弁護士集団の手腕を以てすれば親権を獲得するのは難しい話じゃない。

 あとは養育費の放棄と、せいぜい百までしか数えられそうにない脳みそにお似合いな金額の手切れ金を渡して日本から追放、出禁にする。そして言うことを聞かないにも程がある兄に貞操帯でもつけて一件落着だ。

 どれもこれも秋葉にかかれば雑作もないこと。だから、そんなことは問題じゃない。

 

 問題は、アルクェイドが秋葉なんか遥かに及ばない化物であるということだった。

 血の繋がらないという以上に、遠野家が遠野志貴に対して負う罪以上に、自身が化物であるという自覚から秋葉は志貴を遠ざけていた。こんな自分が志貴と結ばれるのはあり得ないし、あってはならないと。

 そうしている内に、自分以上の化物が兄を攫っていった。なら、今までの秋葉の自制とは一体なんだったのか。

 アルクェイドでさえ受け入れられるなら、もし自分が素直になれてさえいれば、志貴は秋葉を受け入れてくれたのか。でもこんなの、どこまでいっても敗者の負け惜しみ。みっともないタラレバでしかない。

 秋葉の人生をかけたレースは、秋葉が勝手にもたついている間に終わってしまった。自分の遥か後方、周回遅れの怪物にぶっ千切られて。

 

 せっかく。

 せっかく一年前、血の繋がりがないことを明かせていたのに──! 

 

「うぇっ」

 

 堪えられずえずく。

 本当は、こんなの的外れな恨み節だと秋葉が一番よく理解していた。それでも心理的、精神的なストレスから来る生理的反応はどうしようもない。

 なにしろ秋葉は今この瞬間、都合よく夢想していた儚く甘い未来が露に消えた。代わりに家の為、遠野志貴ではない男性と、生涯をかけて添い遂げるもしもを幻視する。

 それさえ先祖代々の業を背負う自分にとっては勿体ない程の幸せであると全力で受け入れようとするものの、秋葉にとって度し難い悪夢であるという現実は変わらなかった。

 

「……!?」

 

 そんな秋葉を前にレンは狼狽える。

 アルクェイドと共に眠り続ける日々が殆どだったとはいえ、レンとて永きを生きた夢魔としてそこらの大人顔負けの機微を読み取る力を持っていた。秋葉がこうも取り乱す理由だけなら察している。

 ただ、それを踏まえたうえでもやはり異常だった。遠野秋葉が遠野志貴に向ける情念は常軌を逸している。それが分かる程度には、彼女は一般的な感性を持つ夢魔だった。

 狂気に侵された秋葉に主人への非礼を糾しても埒が明かないと矛を収める。いま考えるべきは自失した彼女を、この平穏を失った総耶の道端からどう屋敷に避難させるかだ。

 遠野秋葉が後れを取る可能性は文字通り万に一つとはいえ、見捨てるのは忍びない。しかしレンもレンとてメッセンジャーの役割を終えた以上、今のマスターを支援する仕事に取り掛かる必要がある。

 

「………………」

 

 熟考の末、レンはドアホンの写角に入る門扉の真ん前まで秋葉の袖を引いたあと、インターホンを鳴らして家人を呼び出してから全力でその場を去ることに(ピンポンダッシュ)した。

 

 

 

 

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