遠野家の門限は早い。
当主の目を盗む方法もないではないが、そもそも規則を破らなければまともに外に繰り出せないのは、それはそれで健全とは言い難い気も最近はしている。
有彦はじめ他の同級生曰く、通信機器の使用が禁じられており、テレビすら排除されている文化は生活空間としてあり得ず、そしてそのことに気付かない俺は輪をかけてまともではないらしい。普通の現代っ子なら一週間で気が狂うとかなんとか。
なにもかも親父……遠野槙久の保守的を越えた時代錯誤の残り香である。それでも秋葉に代替わりしたことで、徐々にだが開放的になりつつあった。
屋敷までは長い坂道が立ちはだかる。
肌寒い日が続いていた。コートの出番とまではいかないが、人によっては軽く一枚重ね着したくなる気温。そういえば、あいつは吸血鬼だからかこの季節にしては結構薄着だった。ヴローヴの炎に蒸されるホテルの最上階でもまるで頓着していなかった辺り、肌感覚そのものが違うのだろう。
冬服のブレザーを見るたびに、吸血鬼事件から季節が一巡したことを実感する。その象徴の一つであったシエル先輩との再会を受けて、少しずつ思い出になりつつあったあの二週間に一気に引き戻された一日だった。
この一年間、常に停滞感に囚われていた。それが跡形もなく消え去るほどの強烈な刺激だったが、そんな長い今日ももうすぐ終わりだ。この坂を登り切れば、平和な遠野邸に出迎えられて俺の一日はつつがなく幕を下ろす。
シエル先輩より、夜間に単独で出歩くのは強く禁じられている。極めて応用の幅が広いタタリの能力を踏まえたうえで、迂闊な行動により俺自身が命を落とすだけならまだしも、この地方に住むあらゆる人々の生死にまで直結しかねないのは看過できないとまで言われてしまえば、俺としても泣く泣く引き下がるしかない。
浅慮な自己犠牲は愚かな行為だ。ましてや赤の他人に不幸を招くようでは偽善ですらない。
それに、アルクェイドは俺に生きろと言っていた。命を投げ出せば、あいつの最後の願いを駄目にしてしまう。
日が短くなったこともあって、学校から寄り道せずの帰宅にも関わらず、既に辺り一帯は月光を頼れるほどに暗い。鬱蒼とした木々を見上げても、黒いシルエットしか映らない。
そして、それ以上に俺の道行を邪魔するものがあった。学校の敷地を出るや否や常に纏わりついてきた濃霧を利き手で払う。
目の前で切り裂かれた白い靄は何事もなかったように再び一つになると、ゆらゆらとつかず離れずの距離感を保ちつつ、凝縮と拡散を綯い交ぜに今度は狐火のような姿をとった。あろうことか、時たまぼんやりと発光すらしている。
シエル先輩に正体を暴露されて開き直ったのだろうか。自然現象にあるまじき自在性で霧は俺を翻弄する。率直に言って遊ばれていた。
「……いい加減やめろアルトリウス」
先輩から伝えられた名で叱責するも、可笑しそうにくるりと旋回するのみ。こちらをおちょくっているのがありありと見て取れる。
悪戯好きなのはアルクェイドと似ているものの、生意気なところがあいつと違う。アルクェイドが俺を怒らせるのは人間社会に疎い無邪気さ故だったが、これは明らかにこちらをわざと怒らせて楽しんでいる。
人の機微に理解があるからこそ出来る芸当だ。人間に好意的かはともかくとして、興味を持っているという先輩の評に賛意を送る。
早くも明日から放課後に茶道部への顔出しを命じられているが、土産話程度にはなるかもしれない。たぶん先輩はいい顔をしないだろうが。
それにしても、吸血鬼が人間への造詣など一体どうやって深めるのだろう。映画館でのチケットの渡し方のように、アルクェイドは人間社会の基本的な知識は備えていると聞いている。仕事をこなすには必要だからと。
つまりあいつに足りなかったのは経験だ。そして代行者の話を聞く限り、アルトリウスも同様にとてもではないが一般人と交流を深めるような経験があるとは思えない。
そこに至ってふと悟る。粒子化からの拡散なんて人間離れが出来るなら、いくらでもやりようなんてあるじゃないか。
「ひょっとしてお前、その姿で人間観察してきたのか。先週も……いや、この国に渡って来る前からずっと」
俺の問いかけに明確な答えはない。揺らめくのみでありながら、認める意思はすんなりと伝わってくる。そういえば、俺のことをずっと見ているとシエル先輩も言っていた。
噂を改竄するにあたって世間の印象を意のままに操るには、極めて高い次元で対象の思考を正確に読み取る鋭さと心理への造詣が求められる。霧として総耶に拡散するなかで、特定の範囲に存在するあらゆる人間を観測し、収集した膨大なデータを基に魅力的な形を出力したのかもしれない。
だとすれば、それは理解というよりも解析に近い在り方だ。直截に言って情緒がない。俺との交流でアルクェイドが見せた分かり合いとは程遠く、より怪物じみたものを感じる。現実にこなせてしまう能力の高さも含めて。
シエル先輩曰く、教会の総力を上げた追跡にも関わらず、アルトリウスの「本体」についてはついぞ捕捉できなかったという。ただ欲求のままに生きるだけの獣であれば楽だったのに、と歴戦の代行者はぼやいていた。
絡んでくる霧を相手にするのもほどほどに歩を進める。反応するだけ無駄どころか喜ばすだけなのもあるが、実のところ俺にとって邪魔なだけの存在ではなかった。
ポケットの上から眼鏡の感触を確かめる。この眼を得て以来はじめて俺は意味もなく眼鏡を外していた。両目を片手で覆い、掌を下ろす。あの目の奥を針で突き刺されたような頭痛も、むかつくような吐き気もない。
「……見えないな。やっぱり」
あれだけ死にまみれていた世界が、いまは白に包まれている。死の線が見えなくなったわけではない。アルトリウスの霧が世界と俺を隔てているのだ。
夜の自分は死が無くなるのだとアルクェイドが言っていた。吸血衝動の限界が近く、さらにロアに力を盗まれていて、そのうえで直死の魔眼に殺されていながら。そのような消耗が一切なく、尚且つ同じぐらい強力な吸血鬼が相手なら、俺が死を読み取れる道理はない。
それでも昨日までは流石に霧が薄すぎて、向こう側を見透かしてしまえたのだが。霧が俺の周りにだけ集まるなんて珍奇な現象による産物。いまこの街を空撮すれば、遠野の敷地の一点だけ異様に視界が悪いことに気付くだろう。
無論、これはただの魔眼の遮断……理屈としては魔眼殺しと変わらない。隔てる媒体がガラスから霧に代わっただけであり、俺自身には良くも悪くも変化などないのだが。それでも裸眼でまともに世界と向き合える体験は、俺の心を少しだけ浮き立たせる。
もっともそれは、足元の線すら視えない危険な状況を意味しているのだけども。誰かにこんな奇怪な姿を見られないよう(見られても誰かは分からないだろうが)、そして間違っても大事故に繋がらないよう、ここに至るまでなるべく人通りの少ないルートを選ぶ配慮は必要だった。
俺に限れば支障はない。方向さえ示せば霧が手を替え品を替え道筋を教えてくれるからだ。いまもぼんやりとしたまとまりが近くに現れたかと思えば、また彼方へ飛び去ったり、いくつかにくっついたり離れたりしながら前方を軽やかに浮遊している。あれについていけば濃霧でも迷わない。
夜の山で鬼火についていくと崖から落とされるという逸話は、こういうものから生み出されたりするのだろうか……いや、縁起でもない。アルトリウスは俺で遊びたいだけで危害を加えるつもりはないし、あの楽しそうな様子もそれこそ遊火と呼ばれる類のものだろう。
そんな道行きが終わりに差し掛かった頃。水先案内人を買って出ていた霧が唐突に静止する。
普段であれば、屋敷の門扉が見えてくる地点。白く濁った上空に、人工的な明かりがぼうっと浮かぶ。もはや輪郭すら朧げになった街灯を見上げていると、そこに立って俺を見下ろすあのノエル先生の姿が想起された。初めて教会の裏の姿に邂逅した瞬間。その直前、
俺はなにに襲われていたのだったか。
奴は遠野邸を囲む外壁の影に潜みながら俺を待ち構えていた。胸騒ぎを覚えて見やる。
ちょうどそのあたりにだけ線が蠢いていた。
「……!」
咄嗟にナイフを抜く。
ゾンビの様に線だけで形を成すものではないが、それでも多い。それにアルトリウスの霧を貫くほどに明瞭である。経験上、真っ当でないものほど……死してなお動くモノほど、その死は鮮烈に見える。
俺に察知されたことに勘付いたのか。動きを止めていたソレは、おもむろにこちらへ向かってくる。酷い視界のせいでまるで彼我の距離が掴めない。皮肉なことに、死を遮る濃霧が俺を窮地に陥れ、忌まわしい線だけが命綱となっている。
数秒向かい合って、ソレの線が相対的に少ないから形がおかしいのではなく、そもそも構造からして人間のものではないことに気付いた。人型でこそあるものの、それだけ。どこかが歪で、決定的に間違えている。まったく姿が見えていないにもかかわらず、ゾンビの方がまだしも正常だと理解出来てしまう。
「この霧をなんとかしてくれ、アルトリウス……っ!」
俺の呼びかけに、アルトリウスからの反応はない。遊火は俺とナニかの間で微動だにせず漂っている。
「くっ……」
説得している時間はない。動かないならそれでもいい。前を見据えたまま、出来るだけ距離をとろうと後ろへ飛び退く。
横に動ければ邪魔な遊火を動線から外せるのだが、生憎ここは一本道で、外壁とガードレールに挟まれている。道いっぱいに並ぶ形の塊たちを無視することは出来なかった。
そして、これはあまり良くない対処だった。俺が後退したことに機を見たらしく、着地と同時に正体不明の化物がこれまでの緩慢が嘘のように機敏な動きで真っ直ぐ突っ込んでくる。
このぶんだと、その全貌が露わになるのとナイフの刃が届くのはほぼ同時だ。全力で線を断つのみだが、どれを落とすかは完全に賭けになる。仮にアレが触手でも備えているとして、それを引き当てられなければ返す刀で俺は殺される。
単独行動は控えろとのシエル先輩の忠告を今更ながらに反芻する。死徒にとっては探索だろうが下校だろうが関係ない。既に夜に差し掛かっているのだ。これなら迷惑を承知で先輩に同行してもらうべきだった。
敵が迫る。
遊火を真正面から突破して、霧を泳ぐ鮫の様に俺の目前に飛び込んできたのは、どこかで見たような醜悪なクモじみた頭部
――その「下」は無かった。
「このっ……!」
極限まで精神を研ぎ澄ましていた賜物か。脊髄反射に等しい反応で正確に線をなぞる。胡桃のようにごつごつと硬く滑らかな球体はあっさりと両断され、慣性まで死んだ二つは揃ってアスファルトに落下する。その様で、似たような終わりを遂げたロアの「食堂」の化物を思い出した。
中身など知りたくもないので、ひたすら前だけを見据える。くっつき、膨らんだ遊火が絶えず形を変えながら、地に伏したなにかに被さっている。ぱきぱき、ばりばりとひどく硬いものを圧し折り、引き剥がす音。濃霧の向こうで行われているのは、解体と呼ばれる行為に違いない。
視界が良好であれば、蹂躙されている獲物の痛ましい姿が見えたかもしれないが、今は霧を隔てて聞くに堪えないほど悍ましく醜悪な呻き声が届くのみ。あの時は手早くバラしたので知らなかったが、そんな声を出せたのか。呻き声はやがて喘鳴へと変わり、苦し気にアスファルトを掻き毟る音が止む。
霧が徐々に晴れつつあった。それに伴い得体の知れないナニかの輪郭が辛うじて見えてくる。元は人型だったそれは、凄まじい力で小さく折り畳まれている。その様は、肉食バチが作る肉団子を彷彿とさせた。
その肉塊は俺の目の前で、ずるり、ずるりと引き摺られていく。再び霧の彼方に消えた直後、鈴を転がすような声が耳をくすぐる。
『頭は差し上げますお父様。私の趣味に合わないので』
声につられて足元に目を落とす。あまりに痛めつけられたためか、形すら留めず無残にも塵に還っていた。
まったく嬉しくない置き土産が無駄になったことに胸を撫で下ろしつつ、俺は今度こそ遠野邸の門に辿り着く。与えられた入館カードをかざせば、ピ、と短い電子音が薄くなった霧の世界に響いた。
◆
「"アルクェイド・ブリュンスタッド"――兄さんの『ご友人』に、このような名前の女性がおられましたね?」
その名前が秋葉の口から放たれたのは、普段と変わりなく翡翠に迎えられ、入浴を済ませ、琥珀さんが腕を振るった夕餉を頂き、そしてすっかり日課となった食後のティータイムのことだった。
懇談とは名ばかりの、その日の遠野志貴の学業成績やら生活態度やらについて当主様が直々に裁定を下す時間である。シエル先輩を信頼こそしているものの、最近は不気味なほど俺の学校生活について把握しているものだから、不可抗力とはいえ殆ど授業をサボった今日は特大の鞭が入ることも内心覚悟していた。
今日に限って、業務用のタブレットを脇に置いているのがより不穏当を醸し出す。彼女の性格上、仕事を仮にも家族団らんの場に持ち込むようなだらしのない真似はしない。まるで意図が読めないのだ。俺の知らないところで何かが進んでいるような。
だからこそ、開口一番にアルクェイドの名が飛び出したことには度肝を抜かされた。正直、秋葉はあいつのことを嫌っているものとばかり思っていたが。
「いる……けど、いきなりどうしたんだ」
「本日、その方の名義で手紙を拝受いたしました」
「なんだって!?」
思わず身を乗り出す。
アルクェイド自身が動けないとしても、手段さえあればメッセージを送ることは出来る。考えてみれば当たり前の話だが、今の今まで考えから抜け落ちていた。
「それは、秋葉宛になのか」
「ええ。残念ながら、兄さんに向けた言葉はありませんでした」
「……そう、か」
最後に教室で別れた時に、アルクェイドは全てを俺に伝えていた。
だから、それ以上はないというのは納得出来る。分かっていながら、それでも苦いものがあった。
「そんな顔をなさらずに。十中八九、あの手紙は偽物でしたから」
「偽物……?誰がどうしてそんなことを」
「さあ?ですが、夜分遅くに申し入れもなく押し掛けてくる常識知らずには到底似つかわしくない丁重な文面でしたので、まず間違いないかと」
「あー……いや、どうだろう……」
アルクェイドの行動が突飛なのは事実だが、だからと言ってあいつが野蛮で無教養なやつかというとそれは違うと思う。特に出会ったばかりの頃は顕著だったが、その本質は極めて論理的で、徹底した合理主義者だ。
だいたい俺の吸血鬼に対する理解のなさに比べれば、同じぐらいアルクェイドにとって理解の乏しい人間社会のシステムにも柔軟に適応していたし、純粋に頭の回転が速い。
即興かつ自分ひとりでの対応が求められる場面ならともかく、書面という形であればそつなくこなせるのではないか。なにより本物のお姫様だし、なんなら俺よりも秋葉と生きている世界が近そうですらある。
「ところで、その手紙を私に渡したのは青い髪の……そうですね、兄さんが昨年までいた有馬の娘と同じか少し年下位の外国人の少女だったのですが、こちらもご友人でして?」
「いや……悪いけど知らないな」
青い髪の外国人、と聞いて思い当たるのはシエル先輩だが、都古ちゃんからは歳がかけ離れている。そもそも先輩と秋葉は顔見知りだ。
他に付き合いのある外国人の女性は当のアルクェイドとノエル先生ぐらいか。秋葉の言うメッセンジャーは少なくとも俺の知り合いではない。
「兄さんですら知らない者を遣わすなんておかしいもの。やっぱりたちの悪い悪戯だったのね!」
なにが嬉しいのか、花の咲くような笑みを浮かべる秋葉。我が妹ながら、思わず見惚れる程に美しい。
ほっそりとした指先をカップに伸ばし、優雅な所作で紅茶を味わう。その唇が離れたあたりで、俺も同じように一口含む。
「念のための確認ですが。兄さんはあの女と性交されましたか?」
「ん”っ……!?」
突然の不意打ちに、噴き出すのを寸前で堪える。代償に気管支へ誤進入しかけた液体に噎せる最中でも、秋葉は笑みを崩さない。
ああ、駄目だ。完全にバレている。きっとアルクェイドからの手紙に示唆するものがあったのだ。この妹は本気で怒った時に笑うのだと知っている。
先輩の口止めには成功したものの、アルクェイド本人から伝えられたら意味がない。きっとあいつは、秋葉が手放しで歓迎すると無邪気に考えている。
ばかおんなと言いたいところだが、どれもこれも俺の至らなさが招いた結果。かくなる上は、素直に白状するのがせめてもの道義というもの。
「ああ、した。子供も出来ている。まだ見れていないけど、どうやら息子らしい」
かしゃん、と。
秋葉の手から滑り落ちたカップが、テーブルの角に当たって砕けた。
飛び散った飛沫が皺ひとつないブラウスを汚す。中身の大半は小さな滝となってロングスカートにシミを広げていった。
秋葉は動かない。笑顔は一瞬にしてかき消え、代わりにこの世の終わりか、遠野グループの破産でも目の当たりにしたかのような深い絶望に染まっている。
言葉なく口は開いたまま、見開かれた目の中心で揺らぐ光の消えた瞳は膨張している。
「鬼ですねぇ」
二の句の継げない主人を見て、後ろに控える琥珀さんが嘆息する。隣の翡翠はなにも語らず、凍てついた表情でこちらを見据えていた。
予め用意してあったらしき予備のカップに手際よくお代わりを注いだ琥白さん。どういう意図か溢れた紅茶と割れたカップには手を付けないまま、こちらを向いて右手を腰に、左手で人差し指を立てる。
「もう、分かっていますか志貴さん!これは立派なお家騒動ですよ。遠野家の長男ともあろうお方がどこの誰とも分からない、国籍すら不明な女性と行きずりなんて。このままでは家督も財産まとめて乗っ取られること待ったなしですよ?」
「あ、あいつはそんなこと……」
「やるやらないではなく、出来てしまうこと自体が問題なんです!いくらお盛んな年頃と言っても、脇が甘いにもほどがあります」
「いや、全く以て返す言葉もありません」
あまりの正論にぐうの音も出ない。従者に心構えを説かれるあまりの情けなさに打ちひしがれる。
本来説教すべき秋葉は、辿々しく新しいカップを持ち直すのが精一杯で視線すら定まらない。翡翠も翡翠で、虚ろな碧眼の見る先は虚空を彷徨っていた。
どうやら俺のしでかしは想像以上に大事だったらしい。所詮は偽の嫡男に過ぎないのだから、実際には乗っ取りなどまず不可能だと思うのだが。
そしてそんな中、普段と変わるところのない琥珀さんがかえって浮いている。
「俺は俺なりにきっちり責任は取るつもりです」
「ほう、してどのように?」
「えっと、万が一にもさっき琥珀さんが言ったようなことが起きないよう荷物を畳んでこの家を出ていきます。そしてもう二度とここには帰ってきません」
かしゃん。
聞いたばかりの陶器の割れる音がまたしても部屋に響いた。
さっきと違うのは、秋葉の据わった目がしっかり俺を捉えていることだ。死んだ魚のように濁ったものから一転して、あたかも人生を左右する重要な決断をしたかのように壮絶な決意に満ちている。
そんな秋葉を前にして、蛇に睨まれた蛙の如く固まる。どうやら俺はまた間違えてしまったらしい。
奇妙な膠着の最中、琥珀さんは今度こそ割れたカップの後始末に取り掛かる。先ほど無視していたのは直後に同じことが起きると予想していたからなのか?
俺の疑念などいざ知らず、ここにきてようやくご当主様が口火を切る。
「志貴」
「あ、はい」
「この期に及んでまさか逃げられるとでも?」
まさかの名前呼び。あの夜以来かもしれない。
残念ながら、ここにシエル先輩はいないのだが。結果論で言えば、今夜のうちに先輩から秋葉に接触するのを止めるべきではなかったのかもしれない。後悔してももう遅いが。
「えっと、どういう意味でしょう」
「生きてこの屋敷を出て、あの女の所へ行けると本気で思っているなら、私への理解が足りているとは言い難いという意味です」
そう告げられた瞬間、ぐらり、と世界が崩れた。
まるで糸の切られた操り人形のように脱力する。抗えず机上に倒れ伏せば、冷酷な瞳で見下ろす秋葉と目が合う。
「あき、は……」
「遠野志貴は、私なくしては生きてはいけない身。それを理解して頂けましたか?」
俺は一度死んでいて、秋葉から生命力を分け与えられて生かされている身だ。すなわち生殺与奪を彼女に握られている。
しかし、その優位を振り翳すことはこれが初めてのことだった。ようするに、秋葉にとって手段を選ぶ段階はとうに過ぎているということ。
「俺をどうしようと……」
「遠野家の財産として、より厳格に管理します。貴方には海外どころか総耶すら広すぎる。この屋敷の、一部屋で十分でしょう」
「が、学校は」
「遠野志貴は急病に伴い、明日より休学し自宅での静養に努めることとなります。来春まで面会謝絶で。幸い卒業単位は足りていますし、兄さんの学級の担任はお世辞にも熱心な教師ではない」
「卒業後は……?」
「既に手が離れた生徒のその後を誰が気にしますか?かくして兄さんは完全に社会から隔絶される」
恐ろしい計画を淡々と披露する秋葉。その一部屋というのも、今与えられている自室とは別のものという認識で間違いない。
秋葉からの供給が許されたのか、なんとか捻り出せるようになった力でどうにか上体を起こし、椅子の背にしなだれかかる。最低限動けるに過ぎず、鉛のように身体が重い。
こんな様では秋葉の魔の手から逃げ遂せるなど夢のまた夢。万策尽きた俺の前に、ひとつ救いの手が差し伸べられた。
「秋葉さま。最後ですから、志貴さまからアルクェイドさまとのいきさつについて伺ってはいかがでしょうか。まだ何か秘密にしておられることがあるかもしれませんから」
「……そうね。今後の根回しにも役に立つかもしれないわ。いいでしょう。兄さん、あの女との関係を全て白状なさい」
冷ややかな目は相変わらずだが、それでも翡翠は追い詰められた主人に白状という名の弁明のチャンス……蜘蛛の糸を与えてくれた。
正真正銘、俺の社会的生死のかかった最後の機会だが、悲しいかな有力な手札はない。なにしろ俺と秋葉の間に正すべき誤解が存在しないのだから。
なので俺が出来ることは、全てを正直に明かすことだけ。
「とりあえず、まずはあの女との馴れ初めについて話してもらいましょうか」
「ああ。……アルクェイドとの出会いは、俺があいつを殺してしまったのが始まりだった」
「殺っ……。え……っと、それはどういう」
「なんでそんな事をしたのかは自分でも分からない。たまたますれ違ったアルクェイドの後を尾けて、家に押し入ってバラバラにした。それでも次の日、あいつは蘇っていた」
俺の告白に、秋葉は頭痛を堪えるように眉間を抓る。
そりゃそうだ。男女の馴れ初めを聞いたら殺人事件が飛び出してきたのだから。
「あーなるほど。血がどうとか仰っていたのはそのことなんですねぇ」
「そういうことはちゃんと報告なさい琥珀。確かにあの化物なら殺しても死なないでしょうけど……ここからどうやって子供が出来るに至るのか、私にはさっぱり読めません」
「深夜徘徊に銃刀法違反。不法侵入。そして殺人……もしや志貴さま、婦女暴行もされておられるのでは」
「まさか……ねぇ」
三人分の視線を前にして、言葉に詰まる。思い出すのは、裏路地でアルクェイドの魔眼に囚われた時のこと。
揃いも揃って洞察力に長けているのか、それとも俺が分かり易すぎるのか。その反応だけで答えとしては十分だったらしい。
「秋葉さま秋葉さま。我々はむしろ、あのお方に賠償をしなければならない立場なのでは」
「黙らっしゃい。話は全てを聞いてからです。さあ兄さん、続きを」
「俺を捕まえたアルクェイドは、殺した責任を取らせるために、巷の吸血鬼退治の協力を――」
一年前の出来事。アルクェイドと駆け抜けた二週間の思い出を全て語る。
ホテルでの惨劇、ヴローヴとの戦い、学校での出来事、逢瀬から教会とのすれ違い、共に過ごした一夜、ロアとの決着、そして夕暮れの別離。
全てを明かした頃には、時計の長針が一周していた。
特に弁明のつもりもなかったが、俺とアルクェイドの話は想像以上に彼女たちに響いたらしい。
秋葉の渦巻くような怒りはなりを潜め、何処となくしんみりとした雰囲気を漂わせている。あれだけ冷ややかだった翡翠の目にも光るものが見えた気がした。
「はぁ……だからあんなにも欧州を。道理で言っても聞かないわけですね」
「ああ。そればっかりは、諦めるわけにはいかなかった。まぁ、手掛かりなんてないんだけど」
「そうでしょうね。やっぱり止めておいて正解でした。あの怪物が蹂躙している最中に飛び込むなんて正気の沙汰ではありませんから」
つい、と秋葉は視線を窓の外に向け、その向こうに漂う霧を睨む。
「やっぱり、秋葉は知っていたんだな。アルトリウスのこと」
「幾つかの筋から。もっとも当事者ではないので事細かくは聞いていませんが。逆に言えば、遠く離れたこの地まで耳に届くほど、それはもう暴れ倒したということです」
「それは、なんというか……凄いな」
「本当に節操のない。私にも、邪な目を向けているのが感じられます。兄さんの関係者だから手を出さないだけで、本来ならとっくに喰われていたかも」
恐ろしい話だ。そうなると、アルトリウスについての話も伝えておくべきかもしれない。
「ちょっとよく分かってないんだけど、秋葉ってそんなに強いのか」
「まぁ、この屋敷で迎え討つ前提であれば、あの教会の女ぐらいなら生け捕りに出来ます」
「そ、そうか。シエル先輩といえば、今日いろいろ話を聞いたんだけど」
さらりととんでもないことを言う妹に戦慄しながら、先輩とのあれこれについても語っておく。
五月雨式で情報を流し続ければ、俺の監禁計画も有耶無耶になるのではという期待もあったが……一応は功を奏したのか、秋葉はすっかりアルトリウスに頭がいった様子で、はじめて傍らのタブレットを立ち上げて操作を始める。
「当家なりに、アルクェイドさんのことは調べてあります。一年前からね。なにしろご自身より名乗られたものですから」
「……調べがつくものなのか?」
「ああ見えて、意外にも人間社会のルールには則っていたようです。免許証も所持していますし、住居の購入にあたってもきちんと書類を揃えています。流石に載せられている情報は偽造でしょうが」
それは驚いた。あの世間知らずの不思議生物がそのような事務的な書類を持っていたなんて。
アルクェイド自身が用意したのか、あるいは協力者のような者がいるのかもしれない。個人的には後者のような気がするが。
「資産は飛び抜けている。ですから、少なくとも金額面で問題が生じることはあまり懸念していません」
「自分でもお金持ちって言ってたもんな、あいつ」
「そこらの小金持ちとは次元が違います。例えば、彼女が一年前に入居した物件がこちらとなります」
秋葉が端末の画面を見せる。見慣れないデザインだが、どうやら不動産売買のサイトらしい。いくつも写真が並べられている。
地上から仰いだもの、反対にベランダから一帯を見下ろすもの、内装から玄関を開けた先の廊下に至るまで、アルクェイドの住んでいたあのマンションと同じものだ。
掲載された値段は、一般的な企業勤めの生涯賃金を軽く上回る。
「調べたところ、彼女はこちらの最上階を一括払いで買い占めていました」
「それはまた景気のいい。そういえばホテルでも最上階を貸し切りだったな」
「隣人のいる煩わしさを嫌ったのでしょう。資産家には有り触れた話です。ただ、真に着目すべきは金額ではありません。兄さん、この物件の最上階はつい先月これまた一括で売却されているんです」
「……なんだって?」
所有者の名義はアルクェイドだろう。
彼女が眠りについたとするなら、その遺産を処分出来るのはそれを引き継いだ者だけとなる。該当者は、言うまでもなく一人しかいない。
「なぁ、秋葉。俺も一応そのマンション……というかアルクェイドの部屋については調べてはいたんだけど、新しく売りに出されてるのは見たことないんだが」
「そうでしょうね。一般市場には公開されない、富裕層のみを対象とした取引に限定して取り扱われていますから。だいたいこういう物件は居住用というよりも、投機を目的としたものが多いんですよ」
「なるほど。だとすると余計にアルクェイドは目立っただろうな」
「ええ。もっともその辺りまで気を回せというのは、あの方にとって酷でしょうが」
その通りだ。俺ですら、一般に公開されないマンションがあるなんて今初めて知ったばかりである。
秋葉らしいアプローチだ。遠野家は数百年にわたってこの一帯を管理してきた。土地に紐づいた情報収集において右に出るものはいない。
「売却された以上、数十億は下らない額がアルトリウスの懐に転がり込んだわけだよな。それは辿れたのかな」
「……いえ。いかに遠野グループでも、全国の銀行に照会をかけるなんて無茶は出来ませんから」
「そっか。そもそもアルトリウスの立場なら、最低限の隠匿ぐらいはする。最悪、現金で持っていればいい」
「それより海外に送ったほうが楽だと思いますけどね。いずれにせよ、金に色はつかないのですから追跡なんて不毛なことはしません。着目すべきは、アルトリウスが母親の拠点を手放したという事実でしょう」
「そうか。となると今は根無し草か……あるいは別の拠点を確保している」
「ええ。私は後者と見ています。直近の不動産取引から、それらしい物件にもいくつか見当がついています」
住所を持たず、霧となって漂っているだけという可能性もなくはない。
だがなによりも、アルクェイドからのメッセンジャーという、件の青髪の少女の存在がある。立場からして、アルトリウスと行動を共にしている可能性が高い。
アルトリウス本人の容姿は、先輩曰く金髪碧眼の少年だという。明らかに食い違っているから、メッセンジャーと同一人物ということは無いだろう。であれば、協力者のためにも拠点は必要だろう。
「その候補、教えてくれないか」
「お断りします。そうしたら兄さん、絶対にそこを訪れるでしょう?そうなると、色々と厄介な輩に目をつけられるかもしれない」
「それは、教会の?」
「結論から言うとそうなるかと。いいですか兄さん。いま一度、例の都市伝説を思い出して下さい。アルトリウスは、罪に染まった人間のみを殺している。おかしいと思いませんか。彼はほんの数週間前に欧州から渡ってきたというのに」
秋葉はどこか神経質に、タブレットの液晶を二度三度と爪先で叩く。
「アルトリウスが粛清している咎人の罪状は、数年前……あるいは数十年前のものも多い。どう考えても、彼が全てを知り得る筈がないのです。いくら霧として拡散したといったところで、観測出来るのは現在生じている事象に限られる筈」
「……つまり、アルトリウスに情報を提供している誰かがいるってことか」
「過去の嫌疑まで洗いざらい、こうも緻密に把握している組織など、この国において一つしかないでしょう」
つまり、所業を把握しながら諸々の理由で検挙に踏み切れなかった連中を、これ幸いとアルトリウスに始末させていると。
タタリの噂の乗っ取りには、絶対に犠牲者が必要となる。生贄に差し出すなら、せめて相応しい人種をということか。イカれているが理屈は通る。アルトリウスとしても、あえて拒む理由はない。
ただ、そう仮定すると一つ引っかかるものがある。
「秋葉。シエル先輩はアルトリウスの件について指揮権を預けられていると言っていた。でも、先輩は噂の犠牲者についてよく把握していない」
「教会も一枚岩ではないのでしょう。兄さん、一年前の事件において、警察関係者が一人いたのではないですか」
「ああ……そういうことか」
そうだった。
アンドウ、とか言っていたか。警視庁所属の刑事。司祭代行……マーリオゥという少年の部下。
「マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノ。司祭代行でしたか。彼が本来、この国における教会の元締めです。当然それ相応の権力がある」
「そこにシエル先輩が割り込んできたのが気に入らないと?」
「内情までは知りませんが、私が司祭代行の立場なら指を咥えて眺めていることはしないでしょう。上に立ち続けるには、常に評価に値する実績が必要ですから」
「つまり、今この街には教会の勢力ひとつとっても、シエル先輩とマーリオゥの二つの頭があるってことか」
「こと政治闘争に於いては、ベスティーノに一日の長がある。既にアルトリウスとのコンタクトも済ませているのでしょう。そんな中に迂闊に割り込めば、これ幸いと骨の髄まで利用されて捨てられるだけです、兄さん」
ぱたん、と秋葉はタブレットを閉じ、そのまま伸びをする。この話はおしまいとでも言うように。
俺としても異存はない。組織的な話であれば、遠野家の長たる秋葉の判断に従うべきだ。
長話のおかげで八割程には力の戻った身体に鞭打って椅子から立ち上がる。気を利かせた翡翠が即座に、俺を自室へと案内する旨を秋葉に告げた。本当に長かった一日だが、これでやっと終わりだ。
「おやすみなさい兄さん。その利かん棒の始末については、追って沙汰を聞かせます」
「…………はい」
情け容赦ない宣告を背中に聞きつつ、俺は翡翠に従っていそいそと食堂を後にした。
◆
「なるほど。ありがとうございます遠野くん。あの霧にそこまでの殺傷能力があるとは知りませんでした」
自室に戻った後。
翡翠が即座に退室したのを見送って、秋葉がまだ食堂に残っているうちに急いでシエル先輩に電話をかける。
学校を後にしてから、つい先ほどまでに知り得たことを伝える。拙速な説明だったが、聡明な先輩は一度で全てを理解してくれた。
「遠野くん。学校の時はなるべく……主にノエルを混乱させないよう、伏せていた情報があるのですが」
「なんでしょう」
「アルトリウスは欧州を去る際、こう言っていたのです。聡耶にて二体の祖を狩ると」
「二体……?」
それはつまり、タタリ以外の祖がこの街にいるということだ。
「遠野くんの教えてくれた蜘蛛の怪物ですが、わたしも同じようなものを見ました。最後の夜、アルクェイドとあなたがロアと戦っている間、わたしもそのような化物と戦っていたのです。今の今まで、ロアの下僕かと思っていましたが」
「ロアは一年前に死んだ。つまりあの蜘蛛が、タタリではない祖の手下だと」
「恐らくは。現物があれば、もっと分かりやすかったのですが」
言われてしまったと唇を噛む。
きっとこれを見越してアルトリウスが譲ってくれたのだ。残念ながら、肝心の蜘蛛の耐久が覚束なかった。
そのことを伝えると、シエル先輩は少し遠慮するような口調で感想を述べる。
「遠野くん。……その、言い辛いのですが、例の化物がアルトリウスの下僕であり、自作自演という可能性も一応は頭に入れておいて下さい」
「アルトリウスが人の血を吸って、自分の死徒に変えていると?」
「吸血衝動がない以上、アルトリウスは幾らでも好きなように己の眷属を増やせるんです。事実、わたしもあと一歩間違えれば、彼の下僕にされていた」
「先輩。その、誰が血を吸うかで、やっぱり死徒の力も変わるんですか」
「個人の才能に依るところも大きいですが、概して親に左右されます。例として、アルクェイド直属の死徒であった最初のロアは……アルクェイドと同格の吸血鬼であり、最上位の死徒にあたる個体を破っています」
「………………」
「無論、ロアは非凡な人物でした。真祖の王族の下僕となった全てが全て、そんな規格外とは限りませんけどね」
だとしても、その脅威は並の吸血鬼を凌ぐだろう。そもそも二十七祖自体、真祖の下僕がはじまりではなかったか。
アルトリウスの下僕となったシエル先輩が、果たしてどれだけの怪物となるか想像しかけて慌てて首を振る。おやすみなさい、また明日とだけ告げて先輩との通話を切った。