父をたずねて三千里   作:くまも

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物語から消された少女

 

 深夜の廃墟ほど陰気な物もないと思う。

 あちこち剥げた壁紙やら、黴臭く埃にまみれたリノリウムの床やら。付着したシミは何層にも重なっていて、もはや本来の色は想像もつかない有様。建物の死体とはまさにこういったものを言うのではないか。

 剥き出しの鉄骨や、あちこち散らばった鉄屑も煩わしい。吸血鬼の私にとってはなんら脅威ではないものの、歩きにくさだけは如何ともしがたい。

 率直に言って不愉快な場所である。元が病院だから猶更のことだ。未練がましくこの地に留まる不浄なものがひっきりなしに淨眼に映る。かつてここでは一体何が行われていたのだろう。

 

「あえて探るようなことはいたしませんが」

 

 あえて呟く。耳を澄ますが、反応するものは何もない。ここに巣食っていた死徒については殲滅しきったと見ていいだろう。

 こんな場所を根城にするだけあって下等な連中だったが、廃病院の吸血鬼というコンセプトは悪くない。惜しむらくは、到着した時点で既に生存者がいなかったため、噂の拡散に必要な目撃情報には繋がらなかったことか。

 日中のうちにここに来るべきだったかもしれない。また学習もせずにやってくるだろう度胸試しの輩が、派手に飛び散った血飛沫を見て想像を膨らませることを祈るとしよう。出来ることはせいぜいそのぐらいだ。

 

 ぐっと伸びをする。

 今宵も月が綺麗だ。秋ということもあって、都会にしては空気も心地よく澄んでいる。どちらも故郷のそれとは比べるべくもないが。

 一仕事終えたとはいえ、まだやることが残っている。タタリを滅ぼすという目的を踏まえれば、むしろここからが本題と言っていい。

 

「では、同業者に会いに行きましょうか」

 

 傍らに控えていた黒猫が、返事代わりにするりと私の影に潜っていくのを見届けて、誰もいなくなった廃病院を後にする。

 悠々とホールを抜けて、崩壊した正面玄関から夜の街へ。風雨に晒され続けた表札には、掠れた文字で『斎木記念病院』とだけ記されている。

 夜風を楽しみつつ、頬に飛んだ血をはしたなく舐め取る。不味い。多少力をつけたところで所詮は死体か。

 これと比べるのも馬鹿らしくなるほど、あの代行者(シエル)の血は極上だった。無理にでも吸っておくべきだったかと、何度目とも分からぬ後悔が首をもたげた。

 

 ◆

 

 総耶は今夜も霧に覆われている。それはわたしが一年前からねぐらにしている、この路地裏も例外じゃなかった。

 無骨に据えられた室外機の影に潜めば、太陽に焼かれることもない。加えて、この疼くような渇きを容赦なく刺激する、瑞々しい、血の通った人間もそうそう入ってこないから、化け物になったわたしが日々を凌ぐには最低限の条件が揃っている。

 それでも、もう終わりは遠くないだろうけど。衰弱が限界に近いことは自分でも分かっている。それでも、まともな人間だったあの頃には想像もつかなかった力を振るえるのだけれども、そのことを嬉しいと感じたことは一度もなかった。誇らしいとも思えなかった。

 

「…………はぁ」

 

 もぞもぞと、重ねた段ボールの山から這い出る。ふかふかのお布団の感触なんて、もう思い出せない。皮肉なことに、化け物の体のおかげで、この粗悪な寝床でも痛みを覚えることは無かった。

 霧に霞む月を見上げながら、しばしぼうっとする。やがて周囲に意識を戻して、そこでようやく路地裏の入り口に立つ女の子を認識した。わたしが気付くのを待っていたのか、いつも通りの気怠そうな足取りでこちらに歩み寄る。

 

「こんばんは。みおちゃん」

「……こんばんは。相変わらず不注意なんですね」

 

 不機嫌にも聞こえる声音。これまたいつも通りで、特に何かに対して怒っているわけでもなく、元から不愛想なのだと分かるぐらいには、それなりに付き合いも長かった。

 わたしとは真逆なタイプだけど、一緒にいて居心地が悪くなることは無い。物静かというか、あまり距離を詰めてこないからだろうか。

 斎木みお。わたし以外でこんな路地裏にたむろしている、きっとただ一人の女の子だろう。絶賛家出中とのことだけど、詳しい話はよく知らない。自分のことについてはあまり喋らないのだ。唯一知れたのは遠野くんの親戚だということぐらいだった。

 代わりにその遠野くんのことについて色々と教えてもらった。遠野くんのお家が特殊なところで、一年前もわたしみたいな化け物を退治していたらしい。

 わたしをこんな風にした奴も、遠野くんが始末したんだとか。あの倉庫での約束は守ってもらえなかったけど、仇を討ってもらえただけでもよしとしよう。結局、わたしが勝手に言っていたことだから。

 もう、わたしは遠野くんに関わるべきではない。乾くんもわたしのことを探してくれていることは聞いているけど、だからこそこうして絶対に見つからない、ビルとビルに囲まれた狭間に自分から身を隠している。石の裏で丸まっている虫みたいに。

 スカートの裾を払って立ち上がる。太陽が沈んでいる間は自由に動き回れる。夜が明けて再び眠りに落ちるまで、今宵もわたしは化け物を殺して回るのだ。

 みおちゃんはどこか呆れたように、そんなわたしを眺めている。実際、傍から見たわたしは滑稽なのだろう。それとも見苦しいのだろうか。

 

「一つだけ忠告してあげます。駅前の方向は避けた方がいいですよ。今日になってシスター服がうろついています」

「あー……吸血鬼退治のプロだっけ。教会って、そんなこともしてるんだね」

「仕事人というより狂信者ですね。見つかったら問答無用で殺されますから」

 

 きっと、わたしが一年前まで暢気に学生生活を謳歌出来たのも、遠野くんやシスターさんみたいな人たちが影で街を守っていてくれたからなのだ。

 街を脅かす存在になった今、本当なら自分から首を差し出すのが道理なのだろう。でも、わたしには自分で自分に引導を渡すだけの度胸はない。一年たっても、人間らしい日常を諦めきれないでいる。とっくに人間じゃない癖に。

 こうやって夜な夜な化け物を退治しているのだって、そうやっていればまだ人間らしくいられるんじゃないか、それを望むことを許されるんじゃないかという往生際の悪さから来るものだ。

 けど、この日課をやめるつもりはない。身体だけじゃなく心まで化け物になったらおしまいだから。

 

「そっか。教えてくれてありがとう。でも大丈夫だよ。こう見えてわたし、すごく強いから」

「……世の中、上には上がいます。せいぜい畑のカラス除けにならないことですね」

 

 とりたてて引き留めることもせず、みおちゃんはふらりと路地裏の出口へ消えていく。

 相変わらず掴めない子だ。お世辞にも友好的とは言い難いが、わたしが右も左も分からない夜の世界でこれまで生き抜いてこられたのは、彼女の助言によるところも大きい。

 なにより誰かと話せるのは、孤独な生活におけるこれ以上ない励みだった。どういうわけか、人間の血を吸いたいというわたしの衝動も、彼女の前ではあまり頭を上げないのだ。完全にないわけではないものの、自制できる範疇に収まっている。

 

 別れた手前、またばったり顔を合わせては気まずいので、みおちゃんの方向とは反対に路地裏を進む。忠告通り、今日は駅の方には行かないようにしよう。

 ここら一帯は、いくつもの通りが合流と分岐を交えて複雑に絡んでいる。奥に行けば、何事もなくまた別の出口に辿り着く筈だった……普段であれば。

 すっかり見慣れた、室外機と配管で彩られた湿っぽい通路。その暗さに溶け込むようにして、なにか得体の知れないものが蠢いている。

 

「! ……あれって……」

 

 人間でないことは、一目で分かった。

 確かに二本足で立っているけど、のっぺりと灰色をした、まるで樹皮のようになめらかな皮膚に覆われている。服も着ていないが、性別はまったく分からない。どこか昆虫じみていて、個人情報を識別出来る要素の一切が剥ぎ取られている。

 そんな奴らが三体。換気扇の下の一箇所に集まっている。経験で分かる。ああいう化け物が寄ってくる以上、必ず獲物が存在する。

 駆け寄ってみれば、案の定その異形の足の隙間から紅いパンプスが覗いている。考えるより先に、足が動いた。

 

「離れろ、化け物ッ……!」

 

 叫ぶと同時に地面を蹴り抜く。十五メートルはあろう距離はコンマ数秒で埋まり、こちらに振り返ることも許さず一息に爪を振り抜いた。

 一体の首と胴が泣き別れになる。樹木どころかコンクリのように硬いが、わたしの腕にかかれば豆腐も同然。勢いのまま、獲物しか目に入っていないもう一体の胴を蹴り飛ばす。吹き飛ぶことすら叶わないまま、それは呆気なく二つに分かれた。

 地面に落ちんとする片方を掴み、ようやくわたしの乱入に気付いた最後の化け物に投擲する。めり込んで、宙に浮きながらぐちゃぐちゃに混ざり合って、区別のつかない一つの塊となり絶命した。

 不意打ちさえ決まれば、この程度の数の差などなんの問題にもならない。正面からやり合ったところで結果は同じだっただろう。見下ろすわたしの前で、化け物の残骸はざらざらと砂のように崩れて風に流されていった。

 それにしても、見たことのないタイプである。一年前の燃える死体とか、ここ数か月の出たり消えたりするゾンビとか、そのあたりの変わり種ともさらに一線を画している。表現し辛いけど、すごく手が込んでいるような。

 

 考える時間ならたっぷりある。今は救助が先だ。化け物に襲われていた人に向き直る。

 三角座りになりながら、雨に打たれたみたいに震える女性。まるで縋るように両手で傘の柄を握りしめている。おかしいな、今日雨なんて降っていたっけ。

 いや、こんな夜中に、こんな場所で制服姿でいるわたしも十分おかしいか。どう声をかけたものか困っていると、突然腕を引っ張られて地面に引き摺り倒された。

 

 

 

「え──?」

「消えろっ!!」

 

 火事場の馬鹿力というものだろうか。意外なほど力が強い。ただそれ以上に、守ったつもりの相手に攻撃された驚きから、あえなく四つん這いになってしまう。

 膝立ちになった女性は、そんな不格好なわたしを見下ろしながら──力いっぱい、傘で目の前のわたしの頭を打ち据える。

 

「死ねっ! 死ねっ!! この化物! 化物ぉっ!」

「い、痛っ! やめ、やめて──」

 

 嘘だ。本当はちっとも痛くない。だってわたしは化け物だから。この人の言っていることは正しい。

 だから間違っているのは全部わたしの方だった。咄嗟に痛みを訴えて、人間がましい素振りをするのも。さんざん他を化け物と罵って、殺しておきながら、いざ自分が罵られれば一人前に傷つくのも。なにもかもが烏滸がましい。

 力の加減が怖くて、振り払うことも出来ない。惨めに這いつくばっていると、目と鼻の先に点々と染みが増えていく。

 ああ、本当に自分勝手だ。わたしに泣く権利なんてない。お父さんもお母さんも傷付けた、正真正銘の化け物の癖に。

 

「消えろ──っ!」

 

 何度も何度も力いっぱい叩きつけたせいで、ひしゃげて骨が折れた傘を最後に投げつけて女性は走り去る。

 出口とは逆方向。路地裏のさらに奥へと。なにを考えているのだろう。ただでさえ今の今まで、見たこともない化物に襲われていたばかりだというのに。

 

「待……って。そっちは、危ない……から」

 

 手を伸ばす。滲んだ視界の彼方で、人影が突き当りを曲がっていなくなる。

 追いかけなくちゃ。そう思いながらも、立ち上がることすら出来ない。鉛を飲み込んだかのように、なにもかも投げ出したくなる重たさが腸に沈み込む。

 世界が灰色に褪せて見えるようだった。気力を振り絞ろうとしたところで、出てくるのは溜息ばかり。

 ずるりと上半身をもたげて、どうにか尻餅をついてみる。そのまま膝を抱くように。今度はわたしが三角座りをする番だった。

 目の前には、ぼろぼろに壊れた傘がひとつ。きっと、わたしが眠っている間に小雨でも降ったのだろう。いっそのこと、今ここで土砂降りにでもなればいいのに。

 在る筈もない雨音を探して耳を澄ます──まるでそれを狙ったかのようなタイミングで、ばちゃんと、なにかの弾ける音が確かに聞こえた。

 なんだろう。水っぽいけど、間違いなく雨が地面を叩いたものではない。もし本物の雨だったら、いくら化け物の聴力でも聞き取れるわけない距離から届いた。空気の湿気る匂いもしない。その代わりに、無駄に鋭くなった嗅覚が捉えたのは、頭がくらくらするほど芳醇でねっとりとした、新鮮な血の臭い。

 

「あ……」

 

 間の抜けた声が漏れる。やや遅れて、錆びついた脳みそが、最悪の予想が当たってしまったことを理解した。

 やはり、あの角を折れた先にも別の化け物がいたのだ。あの人は、たった今そいつの犠牲になった。わたしが呆けていたせいで。

 そしてそのことを、対岸の火として見ることは許されない。ずるりずるり、引き摺るような音がゆっくりとこちらへ近づいてくる。その足取りは確かなものだ。既にわたしの存在は察知されていると覚悟する。

 足音は小さく、動きは鈍い。でもそれは、引き摺るものの重みに難儀するようなものとはまったく違う、ひどくのんびりとしたものだった。悠然と、とすら表現出来るかもしれない。

 まだ見ぬ化け物は、きっとわたしのことなど不幸にもこの街の裏側に迷い込んでしまった、哀れでか弱い女の子としか見ていないに違いない。でも万が一そうじゃなくて、わたしが吸血鬼であることを正しく認識したうえでこの余裕だとすれば──それは、とてつもなく強い奴だということ。

 萎えた足に力が戻る。直後に来る命のやり取りを予感して、心も体も一瞬で戦うためのものに切り替わっていた。気概ではなく、ただの生存本能だ。視界を霞ませる雫を腕で拭う。

 敵はもうすぐそこに。ゆらりと、小さく揺れる影を月が祝福するように照らし出す。あたかも露払いのように、一陣の風が路地裏の落ち葉をさらっていく。

 そしてついに、本体が姿を現した。霧が濃くてよく見えないけれど、まるで舞台袖から躍り出る演者のように、曲がり角から化け物が這い出てくる。それはこちらに転進すると、相対するわたしに向かって迷いなく近づいてくる。

 

「……すごい」

 

 向かい合って知覚させられる、そのあまりの威圧感に思わず畏怖を溢した。

 気迫とか、そういう類のものではない。だって霧の向こうの化け物は、まるで気負うところがないのだから。どこまでも自然体だった。ただそこに在るだけで、他の全てを平伏させる命。

 この一年間、幾つかの死線は潜り抜けてきたつもりだった。それでも、いくら記憶を探ったところで、これと比べられる脅威なんてわたしは知らない。たぶん、これまでわたしが戦ってきた敵がまとめてぶつかったところで、あの歩みを遅らせることすら出来ないだろう。

 わたしの知り得る最も強い存在は、わたしを吸血鬼なんかにしたヤツだった。そして今、恐らくは永遠に王座から陥落した。

 気圧されているうちに、彼我の距離はもう10メートルもなくなっている。固唾を飲むと同時、霧を割っていよいよ化け物はその全貌を明らかにした。

 両手にぶら下げた肉塊。引き裂かれたのか完全に別たれたそれらは、バケツをひっくり返したように溢れる鮮血で剥き出しの地面にぬらぬらと紅い軌跡を残す。まるでナメクジが這いずった後のよう。その凄惨な所業を成した怪物は、想像もしなかった容姿だった。

 

【挿絵表示】

 

「おんなの、こ……?」

 

 さらさらと靡く、足首まで届いた金髪。黒一色の衣装は、白磁のような肌を強調するかのようだった。

 女性を襲っていたあの異形には程遠く、それよりも人間に近い死者からもかけ離れている。あのような醜く、穢れ、間違った存在とは対極に位置するもの。この世のなによりも正しく、永遠なる完全を体現しているかのようだった。

 唯一同じところがあるとするなら、死の気配を隠そうともしていないところだろうか。造り物のようなという表現すら陳腐となる、すれ違えば十人が十人振り返るだろう美貌も、その身に纏う暴力的な圧力によって台無しだ。もはや疑いようもなく、わたしを殺すためにこの場に立っている。

 蛇に睨まれた蛙。まな板の上の鯉。今の弓塚さつきを言い表すならきっとそんな感じだ。濃厚な死の臭いにあてられて、世界が色を失くしていく。

 もったいないなぁ、なんてふと思った。こんな血生臭い夜の世界じゃなくて、精巧な西洋人形として街中のショーウィンドウで飾られていれば、きっと誰からも愛されていただろうに。

 人形──その単語が、命の危機に際したわたしからある記憶を呼び覚ます。この街に流れる噂。夜な夜な、悪い人を殺して回る可憐な大量殺人鬼。凍える唇を必死で動かす。

 

「その、それが……なにか、悪いことをしたの」

「さあ? ゴミの由来になど興味はございません」

 

 ぽいぽいっと、その言葉通りの無関心さでわたしのすぐ後ろ、乱雑に山積みにされたごみ袋の山に投げ捨てる。飲食店の廃棄物に埋もれたその有り様に尊厳もなにもない。

 認識の甘さを自覚する。見た目こそ幼い子供だろうが、目の前にいるのは正真正銘の化け物だ。肉体は言わずもがな、心まで人間離れしている。

 

「そっか……そうだよね。あなたみたいな生き物にとって、善人も悪人も関係ない。ただ殺すだけなんだから!」

 

 それが、この少女の罪だった。わたしはわたしの人間性を賭けて、この怪物を退治する。

 

 地面を蹴る。目指すは空。これ相手に真正面から挑むのは自殺と変わらない。室外機にボイラーにと、入り組んだ地形は立体的な機動を可能とする。地の利はわたしにあった。

 吸血鬼の身体能力で一息にビルの屋上のへりに指をかける。そのまま上下反転し、重力を味方につけて再び地上へ。真っ直ぐ突っ込む愚は侵さず、豊富な足場にものを言わせて、暴投したスーパーボールさながらの乱反射を実現する。

 天体に引き付けられる力に、わたし自身の体重も加わる。女子とはいえ、質量ではあの少女を確実に上回る。速度も申し分ない……筈だ。少なくともこの一年間、わたしに勝る機動力の相手に出会ったことは無い。

 これでもかと三次元的な動きを追求した一撃。蹴り抜く瞬間、興味深げにこちらを見上げる少女の青い瞳と目が合った。それがどうしてか、ひどく懐かしく思える。

 

「っ……」

 

 今だけは、人間らしい情けに蓋をする。手加減をして勝てる相手ではない。

 右足に衝撃。わたしの爪先は正確に少女の顔面を捉え──そして砕け散る。みしりと体内で厭な音が響いた。足の甲から脛にかけて、焼け付くような感触。

 少女が僅かにたたらを踏んだ。思わず歯噛みする。攻撃したこちらが重傷なんて理不尽極まりない。防がれてすらいないというのに、反動でむしろわたしが弾き飛ばされた。

 再生力にものを言わせて、無理やり壊れた足で壁に接地。それを軸足に反動をつけて、別の足を振り抜く。次の狙いは胴体。

 これも命中したものの、やはり異常なほど硬い。人間の身で電柱でも相手にしているかのよう。今度は体勢を崩すことすら叶わなかった。

 無意味な攻勢の末、両足が地面につく。右足から骨が抜けたようで、堪らずくの字になる。それでも視線だけは相手に向ければ、あたかも値踏みするような目でわたしを眺めていた。鼻血ひとつ流していない。

 ああ、分かっていたことだ。完全に見切っておきながら、あえて避けなかった。唇を噛むわたしの首を目掛けて、手袋に包まれた細い指をやおら伸ばす。

 

「ぐ、あっ……!」

 

 万力のように締め上げる片手。幼い手では完全に掴み切ることは出来ない。ただただ容赦なく、わたしの気道を握り潰す。

 なりふり構わず両手で振り解こうと足掻くが、少女の指一本動かせない。それどころか徐々に圧力が強くなっている。不味い。このままでは窒息より先に、首の骨を圧し折られる。

 じわり、じわりと。獲物を甚振る猛禽のように。先程の女性がどのような凶器で終わりを迎えたか、直接肉に教え込むように。

 痛い。辛い。苦しい。こんなところで、ひとりぼっちで死にたくない。まるで人間みたいな泣き言が、じわじわとわたしの心を冒していく。そんな弱者の心情などいざ知らず、無慈悲に絞首は遂行されるのみ。

 引っ込んだ筈の涙がまた視界を滲ませた。それが何に由来するものなのかも分からないまま、霞む視界で硝子のような青い瞳としばし見つめ合う。冷徹な捕食者の瞳。まるで深海のようなその深さと冷たさにあてられて──わたしはようやく、本当の意味で腹を括った。

 叶うなら二度と使いたくなかった、化け物としての異能。これまでずっと、向き合うことから逃げてきた。それでもどうにかやってこられた。

 だけど、それもここまでの話。自分なんか足元にも及ばないこの化け物と対峙している。殻を破れなければゲームオーバーだ。

 みおちゃんも言っていた。世の中、上には上がいるって。この少女はきっと、その天井だ。

 

 残酷に殺されたくないなら、弓塚さつきという少女の怪物性に向き合うしかない。ここに来て、わたしはようやくそのことを認めた。受け入れた。

 そんなわたしの覚悟に応えるように、世界がひび割れていく。干上がった湖のように、あちこち亀裂が走っていく。あくまでイメージだ。

 わたしにしか見えない、わたしだけの世界。そして影響を受けるのはわたし以外。砂と土塊だらけの地面に、ところどころ塗装の剥げかけた外壁に、ボロボロと剥がれるような線が迸る。

 

 そしてそれは──いまわたしを縊り殺さんとする金髪碧眼の少女にしても例外ではなかった。

 

 嘘。あり得ない。

 

 骨の髄から戦慄する。目の前の生き物について、その真実の一端を垣間見た気がした。

 この異能は、周囲に存在する生物を軒並み衰弱させる呪いのような何か。しかし働きかけ自体はあくまで世界に対して行われる。

 それを直に食らうということは、少女が異能にとって直接の対象にあたるということに他ならない。すなわち、世界そのものと同義と言える存在だということ。

 それをなんと定義するのかをわたしは知らない。神様、というのもまた違う気がする。たぶん、これに信仰を捧げること自体が間違いだ。

 そして、戦いを挑むことはもっと間違えている。とどのつまり、わたしは最初から選択を誤っていた。

 

 感覚的に鋭いものを持っているのだろう。まだ序の口だというのに、この時点でこれから起こる全てを察したらしく瞠目する。

 それでも、揺らぐ青い瞳孔に浮かぶのは恐怖でも焦燥でもなかった。まるでクリスマスイブの子供のように、あどけない期待を膨らませるのみ。化物め。何度目かも分からない文句を胸中で毒づく。

 首を絞める力は微塵も緩まない。それでも少女の中で、何かのラインが動いたのは間違いない。わたしの粛清はほんの少し猶予され、見返りに新たな演し物を期待されている──それだけで十分だった。

 

「離してっ!」

 

 どんな刃物よりも鋭利な爪を伸ばす。黒い化身の首筋に走る亀裂。半ば無意識になぞるように腕を振り抜く。

 世界に干渉しているためか、この少女の威光に翳りが差したことを直感出来た。何かが決定的に覆ったわけでもなく、殆ど悪足掻きと変わりない一閃。

 それが通ったことを理解したのは、少女の頭部が刎ね落とされ、地面に転がった瞬間だった。

 

「あっ……」

 

 数回転して、止まる。途中で帽子が脱げたせいで、金の長髪が冒涜的に冷たい土に投げ出された。偶然か否か、顔はこちらに向いていて、碧眼はわたしを見つめたまま。

 ……なにも動揺するものではない。今日まで街に蔓延るヒトガタの化物をたくさん退治してきた。それと同じことだ。違いがあるとすれば、加減なんて考えられない程に強かっただけ。

 そう頭では理解している癖に、心臓がはち切れそうな程に脈動している。脂汗が止まらない。退治、という言葉をなんの疑いもなく振りかざせるぶん、ゾンビの悍ましい外見に救われていたのだと思い知る。

 殺されかけたから殺し返した。そこに罪悪感など不要だ。今日はもうパトロールを切り上げて眠ってしまおう。

 そこまで考えて──未だに、拘束が解けていないことにようやく気付いた。

 慌てて生首から視線を戻せば、噴水のように鮮血を吹き出す首無し死体の細腕がわたしの首を捕らえている。指圧こそ止まったが、どれだけ爪を立ててもやはり振り解けない。

 

「死徒でありながら殺戮に酔っていない。殺されかけた相手にまで情を向ける有様では、吸血すらままならないのでは」

 

 慄くわたしに向けて、澄んだ声が囁いた。出所なんて一つしかない。

 語り口の最中、それを見やる。斬り落とされた少女の生首の、確かな生気の籠った瞳と目が合った。可憐な唇が言葉を紡ぐ。声帯が潰れ、肺から送られる呼吸もないだろうにどうやって。

 ああ、まるで悪趣味なスプラッター映画のようだ。銀幕ならさぞ映えただろう。作り物だから楽しめるのに。狭まった気道を振るわせて畏れを口にする。

 

「化物」

「たかが一年程度で超抜能力を会得しているあなたも大概でしょうに。稀有な才能だと思いますよ。赦免に値する程度には」

「なに、を……」

「あなたには私の仕事を手伝って頂きます。やるなら生かす。やらないなら殺す。考えるまでもないことだと思いますが」

 

 なにやら勝手に進められていく話を前に、せめて会話をさせろと締め上げる腕を叩く。この怪物と違って、わたしには息継ぎなしで流暢に語ることなど出来やしない。

 必死のジェスチャーを受けて、僅かにたおやかな指が緩んだ。最低限、口を利けるぐらいの酸素を取り込んで、率直に疑問を呈する。

 

「手伝うって、なんでわたしが」

「人様の首を落としておきながらその態度。不遜にも程がございましょう」

「だ、だって、そっちが殺しにきたから……」

 

 本来なら命乞いをすべき場面なのだろうが、そんな経験のないわたしには適切な言葉が思い当たらない。

 

「最初に仕掛けてきたのはあなたの方です」

「その前に、女の人を殺したでしょ! それを引き摺って投げ捨てて……」

「おや、まだ騙されておられるのですね。私は確かにゴミと申し上げた筈ですよ」

 

 首無しの体がおもむろに反転する。当然、捕まったままのわたしもそれに追従し、背後にあるあの廃棄場を見せつけられた。

 

「え……?」

 

 そこにはただ、何の変哲もない大小さまざまなゴミ袋が積まれるのみ。そこにあるべき女性の末路はどこにも見当たらない。

 消えたのだろうか。いや、よくよく記憶と照らし合わせてみれば、死体が放り込まれたあたりに、ちょうど二つぶんの袋がある。この通りに着いた時にはなかった筈だ。

 わけが分からず血の気の引くわたしに向けて、少女の体は揶揄するように肩を竦める。

 

「ゴミはゴミ箱へ。せっかく街を綺麗にしたというのに化物呼ばわりとは寂しゅうございます」

「あ……ごめんなさい……」

 

 咄嗟に謝ってしまう。化物と呼んだ理由としては、もっと根本的な部分が大きいのだが。

 そして寂しいというのも間違いなく嘘だ。生首はいい笑顔をしている。

 心身ともに人間離れしているという認識はやはり正しいのだろう。自分のためなら誰をも敵に回すことを恐れないエゴイズムの気配がする。

 これだけ強ければ、どこまでも自分の世界をひた走れるんだろうなぁと路地裏に隠れ住む身として羨ましく思う。

 

「でも、いったい何時から」

「遅くとも先月には生じていたでしょうね。そして今宵、またしても祖の小競り合いにいとも容易く利用された。あなたが女と呼んだゴミは、あなた自身の記憶や深層意識から編み上げられた偶像でございます」

「幻覚、ってこと……?」

「結果だけ見れば同じようなものかと。それにしても、恩を仇で返されるとは。自罰意識でもお持ちでしたか?」

「うぅ……」

 

 途中で聞き慣れぬ単語も出てきたが、結局のところわたしが体よく踊らされたという事実は変わらない。

 ついでに彼女についても完全に濡れ衣だったわけだ。今さっきの怪奇現象がこの街の噂そのものに関連しているとするなら、もしかしたら純粋な被害者の可能性すらある。

 その割には一切自分への嫌疑を晴らす行動をとっていないし、なんならこちらの不信を煽っている節すらあったが、それをわたしから言ったところで挑発でしかない。いくらなんでもそこまで馬鹿じゃないのだ。

 現実に被害者がいなかったことは素直に喜ばしいが、なによりも勝てない相手に喧嘩を売った自分の心配こそすべきだ。幸いなことに助命の条件は既に提示されている。

 

「えっと……その、どうしてわたしなのかな。吸血鬼になりたてでこの世界のこととか全然分かってないし、わたしよりも強くて、ものを知っている人は他にたくさんいると思うんだけど」

「その通りです。ですが、そういった方々も今はこの世におられない。あらかた私が食べてしまいましたから」

「ひえ」

 

 前言撤回。純粋な被害者などとんでもない。頭のてっぺんから爪の先まで、その装いさながらに真っ黒だ。

 一切の感情が込められていない、純然たる事実を告げるだけの淡々とした自白。洒落や冗談、あるいは己を誇示するための吹かしでないことは明らかである。あの生首は特級の危険人物……否、危険生物に他ならない。なんでこんなのに関わっちゃたんだろう。

 

「あなたにとっては吉報ですよ。他により見所のある協力者が残っていたなら、胃袋に収まっていたのはあなたなのですからね。もっとも、これからそうならないとも限りませんが」

「……その、二つだけ教えてほしいんだけど」

「二つとは言わずこれから必要なだけ教えて差し上げますよ。なんでしょう」

「あ、もう協力するのは確定なんだ……えっと、ひとつ目に、あなたの目的はさっきの怪現象とか、この街の化け物とかを解決すること?」

「まぁ、そうですね。あくまで吸血鬼としてですが」

 

 この子も本当に吸血鬼だったのか。

 やや含みを持たせながらも、黒い化身は頷く。動いたのは頭ではなくデュラハンの方だったが。

 これについては分かっていた。ここまで強い怪物がわざわざわたしに協力を強いるのは、相手もまた彼女の手に負えないぐらい強いか、一人では手を焼くほど厄介かのどちらかしかない。わたしとこの娘の実力差を勘案すれば、後者の可能性が極めて高い。

 こんなエゴの塊みたいな子が自ら動くような事態だ。絶対に楽な道ではないだろうけど、それ自体は問題ではない。今のわたしにとって、戦う理由は一つだけ。

 

「じゃあもうひとつ。こっちの方が重要なんだけど、あなたの手伝いをすることは、この街のためになるのかな」

「ためになる、どころの話ではございません。私の仕事が破綻すること即ちこの街の終わりと知りなさい」

「そっか」

 

 今度ははっきりとした肯定。それだけで、わたしにとっては十分だった。

 首が落ちたところで死ぬどころか怯むことすらなく、凶腕は依然としてわたしの首を捕らえている。遅効性の異能に頼ったところで、先にこちらが殺されるのは明白だった。

 こうも優位な形勢において、彼女が嘘を吐く理由はない。これは交渉ではなく、ただの慈悲……あるいはただの気まぐれだ。都合が悪いなら、答えなければいいだけのことなのだから。

 

「分かった。なら、わたしも協力するよ。身体は吸血鬼になっても、心まで化物になったらおしまいだもん」

 

 そう答えると同時に、わたしの首が解放された。こちらの真意などやはりお見通しだったらしい。

 わたしを放ったまま、首無しの体は飄々とした雰囲気で泣き別れた首の元へと歩いていく。両手で持ち上げて、切断面同士をくっつけると、ものの数秒で元通りに繋がった。予後を確かめるが如く首を捻るが、ぐらつくような気配はない。

 これ、わたしを片手で掴みながらでも出来たのではないだろうか。わざわざ生首のまま語りかけてきたのはあくまで演出なのかもしれない。少なくとも、わたしの反撃では致命傷に至るどころか、実質的になんら傷ついていないことは明白だった。

 改めて、規格外の怪物と縁が出来てしまったことを理解する。うっかり機嫌を損ねて食べられないためにも、被食者としてはいたって良好な関係を意識したい。

 

「ええと、まずは自己紹介だよね。わたしは──」

「弓塚さつき。昨年までお父様のクラスメイトだった、元総耶高校二年C組在籍の生徒。勝手ながら存じ上げております」

 

 とっくにこちらの面は割れていたらしい。やはり、初めからわたし目当てでここに来たのか。

 それにしても、お父様ときた。わたしと同い年で、この大きさの子供がいることは生物学的にあり得ないけれど、それは人間においての話。こうも奇怪な生物だから、成長速度だけ人間と同じな方がむしろ違和感があるとまで言える。

 わたしのクラスメイトで、こういう不可思議に馴染みがあって、不純異性交遊ぐらいならやってそうな男子。浮かんでくる顔は、どれだけ頭を捻っても一つだけ。

 

「もしかして、あなたのお父さんって遠野くん……遠野志貴くんだったりする?」

「! ほぅ……」

 

 わたしからの問いかけに、少女はあからさまに感心した反応を見せる。うん、これは当たりだ。

 

「発汗や心拍数の増加もない……シエルや秋葉と比べて、随分と落ち着いていますね。やはり、死徒の汚染に耐えるだけあって、特殊な精神構造の持ち主でしたか」

「いやぁ……どうだろ……わたしの場合、とっくに踏ん切りはついているから……」

 

 吸血鬼になった時点で、遠野くんとお近付きになるチャンスなんて完全に無くなってしまっている。

 それになんて言うか、この子の人智を超えた美貌にはあまり父親の面影はない。ハーフだってこと自体、言われなければ気付けないだろう。

 つまり大部分が母親譲りということだ。顔も名前も知らないが、既に勝てる気がしない……そうだ、名前。

 

「ねぇ、あなたの名前も教えてよ」

 

 わたしから求めたことが少し意外だっのか。

 少女はこちらを見透かすように、首を傾げながら名乗りを上げる。

 

「アルトリウス・ブリュンスタッド。長いのでアルトリウスで良いですよ。後ろはただの称号ですから」

「称号……」

 

 まるで王族とか貴族みたい。だけど、表に出るのが仕事みたいな集団にこんな綺麗な子がいたら、いくら異国でも少しは話題に上る筈だ。

 違う。それこそ人間社会の理屈でしかない。吸血鬼なのだから、当然、吸血鬼の世界における王族なのだ。そんな存在すら知らなかったのは、まだまだわたしがひよっこだからか。

 しかし言われてみれば腑に落ちる。この気位の高さ、不気味な程の実力とそれに裏付けられた傲慢さにはまさしく君臨という言葉が相応しい。

 

「じゃあ、これからよろしくね。アルトリウスちゃん」

「はい。では社交も済ませたことですし、そろそろ帰りましょうか。この路地裏は長居するにはあまりに辛気臭い」

 

 辛気臭い家で悪かったね……いや、そもそも家ですらないのだった。ごめんなさい。わたしはただの不法占拠者でした。

 

「家……って、アルトリウスちゃんの?」

「左様でございます。まさかこの私に路上生活を営めとでも?」

 

 この通りの物陰にもひっそりと備蓄してあった段ボールを目敏く見咎めて、アルトリウスちゃんは鼻を鳴らす。

 街の各所から地道に集めてきたあれらを地面に重ねて敷き詰めて寝転んで、さらに広げた何枚かを上に被ったのがわたしにとっての「家」だった。

 世の路上生活者を残らず掻き集めても、ここまで劣悪な例は無いのではないか。というより、吸血鬼じゃなかったら早晩に命を落としていた。

 王族とか関係なしに、好き好んでこんな生活をしたがる者は一人もいないと断言出来る。

 

「そ、そうだよね。いくら吸血鬼でも、女の子が二人で路上暮らしなんて不健全だもんね」

 

 もっとも暴漢に襲われたところで、わたしたちをどうこうするなんて不可能だけど。

 わたしは兎も角、アルトリウスちゃんに手を出すような輩はいっそのこと返り討ちにされたほうが世の中平和かもしれない。

 

 わたしの言葉に、アルトリウスちゃんは一瞬何か言いたげな素振りを見せたものの、結局無言で背中を向けた。ついてくるよう、肩越しにこちらへ視線を送る。

 人を見た目で判断するのはいけないことだが、それでも彼女の身なりの良さは、一般家庭出身のわたしでもはっきり分かる程だ。かなり裕福なのだろう。

 たとえそうじゃなくても、こんな路地裏の段ボール住まいよりは遥かに上等なことに変わりはない。転機への期待を胸に、小さな背中の後を追って夜の街へと繰り出した。

 

 

 

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