広々とした浴槽に肩まで浸かる。温もりが骨の芯まで沁みるようで、ほうと溜まらず息を吐いた。膝を抱いて、天井から注ぐ暖色の明かりを見上げる。
同じ三角座りでも、あの時のような世界に置き去りにされたような無力感はもう無い。振り返ればあの路地裏は、まるで行き止まりの迷路のようで、弓塚さつきという少女の人生をそのまま体現しているかのようだった。
視線を落とせば、水面に映ったわたしの顔が揺らいでいる。死徒は流水に弱いと教えてもらった。魔力がさらわれるからだとかなんとか。
しかし幸い、お風呂ぐらいでどうこうはならないようだった。まあ、湯浴みしただけで弱ってしまうようでは、吸血鬼の名が泣くだろう。
磨かれた、黒い大理石が靄の向こうで佇んでいる。街で見かけた不動産屋のチラシを思い出す。掲載されていた新築マンションのバスルームも、そういえばこんな内装だったな。
「うちのとは全然違うな……」
この家は広くて、とても快適。でも、本当に帰りたいのはやっぱり実家だ。でも、その望みはもう叶わない。
吸血鬼になったその夜、わたしは真っ先に自分の家に帰った。そして、迎えてくれたお父さんとお母さんを、この爪で傷付けてしまった。
殺さないで済んだのは、アルトリウスちゃん曰く本当に幸運なことだったらしい。転化直後の死徒はとりわけ暴走しがちで、肉親がその手にかかることが最も多いのだという。そして、一線を越えた死徒はもう二度と戻ってこられない。
死徒の活動が露見し難い要因の一つだという。そうやって共同体を皆殺しにしてしまえば、多少なりとも失踪が発覚する時間が遅れるからだ。侵略に特化するための意図的なデザインらしい。考案した奴は本当に趣味が悪い。
一度はどうにか出来た。でも、二度目を耐えられる自信はない。転化直後ではないものの、一つ屋根の下で暮らすなんてもってのほか。そもそも屍だというのなら、わたしは一年前に死んでいる存在なのだから、なおも生前のようにあろうということ自体が間違っている。
今のわたしは曲がりなりにも蘇った命。そして古今東西、死者があの世から帰ってくる逸話は決まってハッピーエンドで終わらない。
それが嫌なら、潔く太陽の下に身を投げるべきなのだ。そうすれば本来あるべき形に戻れるのだから。それが出来ないから、わたしはこんな現状に置かれている。
「そう考えると、やっぱりアルトリウスちゃんに拾われるのが最善だったのかも」
仮にわたしがおかしくなったとしても、彼女にとっての脅威にはならない。その強さこそ、わたしと同居するにあたって最も重要な要素なのだから。
膝を伸ばす。わたしの背丈では、向かいの縁には遠く届かない。こうやってのんびりと思考に浸ることすら、この体は忘れてしまっていたらしい。
ただ、少しやり浸り過ぎたかもしれない。お湯が少し冷めてしまった。入る前は遠慮していた癖に、実際がこうでは厚かましいと思われやしないだろうか。
そろそろ上がろう。せめて追い焚きぐらいはしておこうとも考えたが、やたらと機能が盛られたタッチパネルを前に断念する。選択肢が多すぎて、家主の好みを引き当てられそうになかった。
脱衣場に出ると、籠に入れてあった服は無くなっていて、代わりに室内着が丁寧に畳んで置かれていた。わたしが入浴している間に、アルトリウスちゃんが世話してくれたらしい。
至れり尽くせりである。ペット扱いはどこに行ったのだろう。ああ見えて、意外と面倒見はいいのかもしれない。同性といえども下着まで用意されているのはちょっと気恥ずかしいが、それはただの我儘だろう。
ピンク色の、もこもことした部屋着。ジェラートピケに似ているが、肌触りがまったく違う。見た目ほど暑苦しくなく、かといって冬が見えてきたこの時期でも十分に暖を取れるものだ。
風呂上がりの体温をただ閉じ込めるのではなく、最も快適な状態にまで逃がしてくれる。こんな良いものがあるならもっと早く知りたかったが、襟首にも裾にもブランドロゴは入っていない。
まぁ、とことん高級志向な彼女のことだから、庶民なわたしが知ったところで手が届かなかい可能性の方が高いだろう。それより気になることが一つ。
「どうしてサイズを知られてるのかなぁ……」
いや、どうしてというよりどうやってか。
首周り、バストウエストヒップ、手足の長さに至るまで一ミリの瑕疵もなく完璧に調整されている。
住人の顔触れからして、この服がわたしの来る前から存在していたとは考えられない。どういう手段を使ったかは皆目見当もつかないが、最初からわたしのために用意された物なのは間違いない。
強い吸血鬼なら目測だけでこうも人の形を正確に捉えられるのか。目が良いとか、そういう次元の話ではない。この邸宅は最先端で溢れているが、最も多機能かつ高性能なのは家主ということなのだろう。
タオルで水気を拭き取り、ぴかぴかの服に身を包んで脱衣所を出る。公園でこっそり洗濯するのも一苦労だったなぁなんて、辛い思い出を振り返りながら。
◆
リビングに戻ると、仕事を終えたアルトリウスちゃんが何やら厨房で忙しなくしていた。
居候の身として、せめてなにか手伝おうかと申し出たところすげなく断られてしまった。どうやら彼女にとってある種の聖域のようである。
わたしにとっては忌み地のようなものだが、そういった本心を見透かされたのだろうか。正直なところあまり近づきたくはないので、洒落たダイニングチェアにひとりぽつねんと腰掛けていると、目の前のテーブルに皿が置かれた。
クリームパスタである。お洒落に整えられた麺にはとろけるように真っ白なソースがたっぷりとかかっていて、その上に粉チーズがふんだんにまぶされている。しめじとまいたけ、薄くスライスしたベーコンが具材。アクセントの粉パセリが彩りを演出していた。
美味しそう。伊達にレストランに勝るとも劣らない設備を揃えているわけではないようだ。わたしもにアルバイト先で調理の経験はあるけど、この実力はちょっと手本にすら出来そうにない。
頭から丸かじりするしか能のないゾンビと違って、高貴な彼女は文明人らしく料理するだけの趣があるのだ。
ただ、どうしてこれが出現したのかが分からない。混乱するわたしにフォークが差し出された。
「どうぞ。夜食ついでのつまらないものですが。その有様ではどうせ死徒に成って以来、碌に飲み食いしていないのでしょう」
「えっ……う、うん」
なにも考えずに受け取って、その姿勢のまま固まってしまう。
それってつまり、わたしの為にわざわざ腕を振るっくれたということだ。その優しさと、彼女の怪物性の擦り合わせが成立しない。わたしは別にゲストでもなんでもないのに。
手料理を振る舞われるどころか、適当にカップ麺でも投げつけられる……いや、そもそも何も与えられない……いやいや、むしろお前が飯を作れと命令される立場が妥当ではないか。
「どうして、これを」
「乾麺ほか保存の利くものは須らく余りがちです。根菜類はどうにかやっつけたのですが、少々見通しが甘すぎたようで」
いや違う。何故パスタなのではなく、そもそもどうしてわたしにご馳走してくれたかなのだが。
意味が分からず呆けるわたしを前に、アルトリウスちゃんはコテンと首を傾げていたが、すぐに感心したように頷いた。
「ああ、敵から渡された物には口をつけない主義ですか。なるほど、伊達に夜の世界を生き抜いてきたわけではないのですね。その疑り深さは大事にするべきでしょう」
「あ……そうか」
この人は、警戒心が強い人なのだ。自分がどういう立場にあるかも分かっているし、これだけ強い存在でありながら、常に己に及ぶ危害を想定している。
そういう世界を生きてきた人なのだ。そして、そんな人がわたしに料理を振る舞ってくれた。冷静に考えれば、なんてことない。こういうものを本来おもてなしと呼ぶのではなかったか。
「ううん。ありがとう、アルトリウスちゃん。有難く頂きます。わたしのために作ってくれたものなら」
「そうですか、では、どうぞそのように」
わたしが頷くのを見届けつつ、アルトリウスちゃんはごろりと、大皿を対面に置いた。それには同じパスタが、あたかもバベルの塔の如く聳え立っている。おまけに立派な台車で運ばれた、同じものが10皿以上。
それだけではない。正体不明の、優に1000グラムは超えてそうな、血の滴るステーキが6枚重なった皿がパスタの手前に置かれて、脇には彩り豊かな野菜がぎっしりと詰め込まれたボウル。そしてこのセットがさらに二桁。
一つとっても、彼女の胃袋の容量とほぼ同じかオーバーしている。見ているだけで胸焼けしそうだ。それでも当然の如く、全てを食らい尽くすつもりらしい。
慌てて視線を外し、ひたすら自らに供さられたパスタだけに集中する。幸い、味は非の打ち所もない。
雨水で糊を凌いできたような一年を回顧する。はしたなくがっつくわたしを前にして、アルトリウスちゃんはまたもや感慨深そうに頷いた。
「なるほど。あなたには味覚も残っているのですね。さながら人間と死徒の間をおっかなびっくり彷徨い歩いている亡霊というところでしょうか」
「え……死徒って、味覚もないものなの」
「はい。本質は屍体ですからね。長じて力をつければその限りではありませんが、それには少なくとも世紀単位の月日がいる。あなたはそれを飛び越えた」
飛び級、というものでしょうと語りながら、アルトリウスちゃんは一枚目のお肉を苦もなく呑み込んだ。やはりあの胃袋は、容量が現実世界の物理法則を超越していると見て間違いない。
猫が液体とかいうミームは時折見た覚えがあるが、液体のように飲み込まれるステーキは初めて知った。
ナイフとフォークで流麗に切り分ける様は、本当に映画で見るヨーロッパの王侯貴族さながらで、それはそれは一流の作法に則った思わず見惚れるほどのものだったけども。
思えば、フォーク一本で済むパスタを振る舞ってくれたのも、彼女なりの気遣いなのか。こう見えて、相当に配慮できる気質なのかな。
「さて、そんな魅力的なあなただからこそ、お願いしたい仕事があります」
「あ、やっと本題なんだ。静観するとか言ってなかったっけ」
「役者が全て揃うまで、ですよさつき。言い換えれば彼女を手中に収めない限り我々は動くことが出来ず、故にその身柄を押さえることが最優先となる」
彼女、とアルトリウスちゃんは言った。どうやらわたしの仕事の最初の目標はその人らしい。
どう返したものか言葉を選ぶわたしを余所に、いつの間にかリビングにやってきた一匹の黒猫が、アルトリウスちゃんの細い肩に跳び乗る。
知った仲なのだろう。アルトリウスちゃんが気安げにその背に頬を寄せつつ、ナイフの先で正面のわたしを示す。それに従って、黒猫のルビーのような瞳がこちらを捉えた。
「標的の名前はシオン・エルトナム・アトラシア。詳しい情報共有は、また明日にいたしましょう。さつきももうお疲れでしょうから」
「まぁ……うん。今日は、ちょっと休みたいかも。元々、あなたと会う前の時点でパトロールは切り上げるつもりだったし」
「部屋なら好きなものを与えましょう。さらに仕事に際して、この夢魔も友軍として貸し与えます。それだけの相手ですから」
おっと、一気に話が穏やかではなくなった。
アルトリウスちゃんは2枚目のお肉をこれまたつるりと飲み込んだあと、どこかおぼつかなさげにナイフを揺らす。
「あなたにとって、これまで葬ってきた有象無象とは階梯がまるで異なりますから。ようは天才なのです。あなたも、そしてシオンも」
「それは……吸血鬼として、ということ?」
「その通りです。無論、死徒の才能を褒められて嬉しい人間などおりませんが。それでも、あなた方が原石であることは真実なのですよ、さつき」
その中身に反して、真祖の王族の口振りはまるでわたしを讃えるかのようだった。
結局、その後には全く追加情報もなく。
ただアルトリウスちゃんが黙々と何十人前の「夜食」を平らげるのを見届けて終わった。
総量は胃袋どころか彼女の質量すら上回る気もするが、苦しむ様子など微塵もなく、その長い睫毛に覆われた瞳は至って涼し気だった。
なるほどやはり物理法則を完全に超越している。肉食だ。まぁ、アルトリウスちゃんが無茶苦茶なのは今更なコトだし、もはや慄くこともない。
お風呂に部屋着を与えられ、さらに夕食までご馳走になった以上、せめて食器を洗うことだけはさせてもらった。といっても、これまた最先端な食洗機のお陰であまり苦労はしなかったのだけれども。
実家ではお母さんのお手伝いをしていたし、バイト先のファミレスではキッチン担当でもホール担当でも関係なく、手の空いた人が皿洗いをしていたから。もっともこんなもの、プロ意識を発揮するようなものでもないけれど。
「ふぅ……」
一通りの作業を終えて、アルトリウスちゃんがくれた、これまた謎にサイズがぴったりなエプロンの腰紐を結び直しながらリビングに戻る。
いつの間にやら、アースさんもこちらに来ていた。黒猫を侍らせながら、アルトリウスちゃんと二人でテレビゲームに興じている。
どうやら対戦型のジャンルらしい。対峙する二人とも物凄く強い。強いのだが。なんというか、所謂ゲーマー的な強さと違う。
磨き上げた技術とか、経験による勝負勘とか、そういったものが欠片もない。相手の攻撃に対処し、自身の攻めを通す鍵は、ただひたすら動体視力、反射神経、物理的な入力速度。ようするに。
「吸血鬼のフィジカルで戦ってる……」
道理でお互いのアバターがバグじみた挙動をしているわけだ。開発者の想定するプレイヤー――すなわち人間――を大幅にオーバーしたスペックで戦っているのだから。まさしく規格外。
それでもアルトリウスちゃんはまだいいよ。自分でちゃんとコントローラー握っているから。
アースさんはなんなんだろう。膝の上に両肘を置き、両手で頬杖をつきながら、ローテーブルの上に置きっぱなしのコントローラーを真剣に眺めている。
いや、置きっぱなしじゃない。近づいて見れば、機体がカタカタと振動しつつ、ボタンも凄まじい勢いで連打され、コントローラーがうごうごと暴れ倒している。これでアルトリウスちゃんの猛攻を凌いでいるのか。完全に人間の反射以上の動きをしている
「あの、アースさん。そのコントローラー、どうやって操作してるのかな」
「念動です」
「……そっか」
彼女が人間がましくなるには、まだまだ時間が必要らしい。
次に仲間になるらしいシオンちゃんがどんな人か知らないけど、わたしと同じような価値観だったら助かるなぁ……。
前回と分割したので少し文量が少なめに。
次回から視点が変わります。