どれだけ波乱に満たされようとも、時間はそれを気にしない。遠野志貴の日常は続いていく。
森から届く鳥の囀りに誘われて、今日も穏やかに起床した。既に控えていた翡翠に従って食堂へ。秋葉の小言と共に朝食を頂き、身支度を整える。つまりいつも通りの朝だった。
少なくとも、寝ている間に座敷牢送りという末路は回避出来たと見える。つつがない日々の有難みを噛み締めつつ、秋葉に呼ばれた翡翠を待たずに一人ホールに向かおうとしたところで――この遠野邸が擁する不審者の一人に捕まった。
殆ど下着と言ってもいいほど大胆に胸元を開いた上着とタイトなレジャースカート。さらにその上に、裏地が華やかにアレンジされた白衣を羽織っている。遠野槙久の知人を称する医師・阿良句寧子。自称阿良句博士。
「聞いたわよぉ~志貴チャンたら不良気たっぷりにオイタしてうっかり子供作っちゃったって?キャーもうお盛ん!迸る青少年のリビドーに促されるまま子犬から狼に大変身ってカンジ?オモシロ!」
アタシもパクっと食べられちゃうのカナー!などとさも可笑しそうに茶化してくる。
朝っぱらから飲んでいるのかと疑いたくなるような異常なテンションは相変わらず。せっかくの魅力的な容姿も、品のない言動のせいで台無しだ。
「お久しぶりです阿良句さん。最近見かけませんでしたが、お元気なようで良かったです。何処で何をされていたんですか」
遠野家においてはあくまで食客という身分である。つまり、彼女にとって活動の場はここだけではない。本人曰く、海外にも太いツテがあるらしい。
というか、見た目からして日本人離れしているので、むしろ本拠地は海の向こうである可能性の方が高い。この屋敷に出入りするのは、あくまで出張の範疇なのだろうか。
「イヤーちょっと欧州の方に同業の集まりでね。ここのところてんやわんやでもう大変なのよぉ。これでもアタシってばそれなりにおエライさんだから、目下のケツ持ってやるのも仕事ってワケ。あーヤダヤダめんどくさ。ガキ相手なら自分の身ぐらい自分で守れっての」
「よく分かりませんけど、やっぱり人命を救う業界は大変なんですね」
専ら助けられる側の立場の俺がその苦労を知る日は来そうにないが。
俺の適当な返しに、阿良句博士はその琥珀色の瞳を丸くする。
「よ、よりにもよって人を救うって本気!アタシたちが!?やっぱ志貴チャンは面白いわぁ!」
さっぱりポイントが掴めないが、どういうわけかツボに入ったようで、抱腹絶倒の四文字熟語そのままに阿良句博士は腹を抱えて笑う。夜勤明けとでもしか思えない情緒だった。
ひとしきり笑いを発散したのち、博士は俺を手招いた。近づいてみれば、白衣のポケットから取り出した注射器を構えられる。透明なアクリルのケースに収められたそれは、病院で一般的に使われている採決用のものだ。
俺にとっては慣れ親しんだものだが、それでもこんな立ち話のついでに向けられるようなものではない。もっともこの人のモラルに問題があるのは今更言うまでもないことなのだが。
「なんのつもりです」
「ナニって、恒例の健康診断よぉ。ホントならじっくりたっぷり熱を入れて志貴チャンのマニア垂涎な青い肉体を弄りたいところなんだけどぉ、もう始業まであまり時間もないみたいだし?博士も博士で忙しいから、搾れるもの搾ってあとは機械にでも投げた方がお互いコスパもタイパもマシマシでめでたしめでたしみたいな?」
「確かに、手早く終わらせてくれるのは助かりますけど……そういえば阿良句さん、耶校の保健室にも非常勤で出入りしてませんでしたっけ」
「新任の学校医がいけ好かない奴だからセルフ出禁中なのよ。一応アタシは無免許なモグリだからあれも裏バイトみたいなもんだしね」
こうも堂々と法律違反を宣言されても反応に困る。別に告発なんてする気はないものの、このような規範意識の相手に健康の一部を委ねるのはそれ自体がストレス要因でしかない。
こんな人をも追い払う新任とやらに思いを馳せて、他ならぬノエル先生その人だったことに気付く。
なるほど確かに反りが合わなそうだ。あの品行方正の化身のようなシエル先輩相手ですら噛みついてばかりなのだから、この博士のキャラに合わせられよう筈もない。
「ま、骨の一本を折ってでもいたら流石に手間暇かけたけどぉ。どうやら昨日は上手いこと切り抜けたようでなによりね」
「……なんのことです」
「もぉう志貴チャンってばホントに隠し事が下手っぴ。そんなんじゃあ部屋に大人の本隠しておけないわよ?それとも既に女体の味を知っちゃったんだから必要ない?もっとも、仮に志貴チャンが駆け引きの達人でも、天才医師アラク博士の診察眼を欺くなんて千年早いんだけど」
「秋葉はこのことについてなにか?」
「そもそも教えてないわよ。ただでさえ傷心で病み病みなんだから、そんなところにまたぞろ志貴チャンがイケナイことしたなんて知ったらいよいよ当主チャン命令で去勢待ったなしじゃない?もちろん執刀はアタシ。まぁ手堅くパイプカットでもいいんだけど、せっかくだから睾丸まで抜いちゃいましょうか。アタシってば可愛いオトコノコが好みだしぃ?」
「とりあえずそのまま黙っていてくれませんか。阿良句博士」
本人希望の肩書で呼んでみれば、博士は茹った表情で上機嫌に頷いた。
実際のところ、俺は一方的に襲われた側であって、つまり完全な被害者であるわけだが。それでも今の不安定なメンタルの秋葉を下手に刺激すれば大やけどしかねないという懸念には大いに同意する。いざとなれば、真っ先に矛先が向けられるのは俺だという事も含めて。
「ま、志貴チャンのココロとカラダの安全は当主チャンの最優先事項だから、どのみち手は打ってくると思うわよ。それなりに勘づいてはいるようだし。だからアタシのお仕事はあくまで健康管理だけってコト。んじゃそういうわけで、チクっといくわよ」
立て板に水にまくしたてながら、阿良句博士は一瞬で俺の首筋に注射器の針を挿入する。
言葉に反して、一切の痛みを伴わない、それどころか刺されたことすら察知出来ないあまりにも鮮やかな神業だった。
手慣れているなんてレベルじゃない。昔入院していた先の、ベテランの看護婦長でもこうはいかなかった。やはりこの医者、腕だけは確かなのだ。
血液はあっという間にシリンダーを満たし、博士は鼻歌交じりに止血を行う。赤黒い液体を収めた注射器を元通りケースにしまうと、用は済んだとばかりに背を向ける。
「ハイ今日のお仕事おしまぁい!それじゃアタシはお茶をしばいてくるから、志貴チャンも学生の本分を果たしてきなさい。くれぐれも寄り道はしないようにね」
最後の最後にようやく大人らしいことを語りつつ、ひらひらと手を振って食堂へと消えていった。さっき多忙とか言っていなかったか。
自由奔放な背中を見送っていたところ、二階からパタパタと忙しない足音が響く。中央階段を駆け下りてきたのは翡翠だった。
「お見送りが遅れてしまい、申し訳ございません。志貴さま」
「大丈夫だよ翡翠。結局間に合ってるわけだし、なにより秋葉に呼ばれてたんだろ」
「はい。せっかくのお披露目ということもあり、着付けに時間をかけてしまいました」
「着付け?今日は学校だろう」
まさか舞踏会に行くわけでもあるまい。今日は平日で、学生は登校する日だ。当然、秋葉も例外ではない。
ついさっきまで彼女の話をしていた矢先にこれである。胸騒ぎを覚えて立ち竦む俺の前に、ついにご当主様が現れた。
「えぇ、その通りです兄さん。学生の本分は学業。では、共に学び舎に参りましょうか」
一歩一歩、優雅な足取りでレッドカーペットの階段を降りてくる彼女。いつもの癖か、見せつけるように髪を梳くって靡かせる。
問題は、完璧に着こなしているその制服にある。秋葉の所属する全国屈指のお嬢様学園――浅上女学院のものではない。もっと見慣れた、都内屈指の老舗都立高校である我らが総耶高校のブレザーである。
男子のやや時代遅れなものとは違って、四年前に一新されたばかりの女子のそれは好評を博している。胸元に翻るリボンの色は、二年生であることを示す真紅。秋葉の学年とは矛盾しない。
「どうせ言うことを聞く兄さんではないでしょうから、護衛と監視を兼ねてこれからは私が一緒に登下校します。どうやら妙な輩も街に蔓延っているようですし。……ああ、そういえば一年前も、犬の遠吠えがどうのと訳の分からないことを仰っていましたね」
「いや、ちょっと待て。待ってくれ秋葉。お前、いつの間に転校なんかしたんだ!?」
「先月からですが。緘口令を敷いていたとはいえ、まさか兄さん、今日までお気付きにならなかったのですか。兄さんのご学友は皆とっくにご存知だというのに」
知らなかった。今の今まで。じゃあなにか、クラスメイトにまで秋葉の転入が知れ渡っている中、ドーナツ化現象よろしく肝心の俺だけが把握していなかったのか。
同居する兄妹なのだからわざわざ伝えるまでもなく知っていて当たり前だと思われていたのだろうが、だとしても話題として振られるものだと思うが……それを阻止するための緘口令か。
そもそもなんだ緘口令って。一学生が教師のみならず、常に噂に飢えているような高校生の口まで完全に防げるものなのか。遠野家当主ともなれば、そんな滅茶苦茶な芸当までこなせるのか。これは学びになる。
「ああ、兄さんのクラスに強権で籍を捩じ込んだ教会の女はご存知ないかもしれませんね。よほど切羽詰まっているのか、せいぜい三年生までしかリサーチが済んでいないようですから。本日、ご挨拶申し上げましょう。それから、あの軟弱な学校医にも」
「あ、あくまで俺の友人として、ってことだよな……?」
「お言葉ですが、殺し殺される関係を友人とは呼びませんよ。兄さん、日本語は正しく使うように」
「はい……」
完全に激怒しておられる。俺に対してではなく、シエル先輩たちに向ける怒りだろうが、だからこそたちが悪い。ノエル先生はさておくとして、先輩と秋葉がぶつかり合えば、せっかく修繕の目途が立ちつつある校舎がまたもや崩壊する予感しかないのである。
転校初日に先輩たちが実力行使に打って出た以上、秋葉としても大人しくしていられる段階ではないということだろう。
逆に言えば、これまでは潜伏に止めておく程度には気を遣ってくれていたのか。思えば確かに、今月に入って秋葉が登校の身支度をしたり、あるいは下校後の片づけをしたりといった場面を見たことがない。
俺も遅刻はしないにせよ、それほど時間にゆとりを持って屋敷を出ることもないので、調整にはそれなりに苦労したのではないだろうか。もっとも、それを涼しい顔でこなしてしまうのが女傑たる由縁なのだが。
「さぁ、行きますよ兄さん。始業までさほど猶予はありません。明日からは家を出る時刻もさらに早めましょうか。言うまでもなく、連動して起床時刻も」
さらりと無慈悲なルール改定を宣告しつつ、悠然とホールを横切り玄関へと向かう秋葉。当然、その背中を無視することは出来ない。
渋々ながら、彼女に続いて屋敷を後にする。「いってらっしゃいませ」と淡々とした翡翠の声が俺たちを見送った。
「おはようございます、遠野くん」
教室の自席に到着すると、既に登校していたシエル先輩がにこにこ笑顔で挨拶してくれた。不幸中の幸いというべきか、昨日の剣呑さはすっかり鳴りを潜め、何やらテスト用紙のようなものを精査している。転入試験のものだろうか。
前の席に有彦の姿はないものの、薄っぺらな学生鞄が机の横にかかっている。どうやら一時的に席を離れているだけらしい。
「乾くんなら今日は学校に来ていますよ。というより、これからは以前のように出席すると思います。"大人"に目をつけられたので」
「あぁ……」
教会から直に警告を受けたのだろう。
有彦はああ見えて鼻が利く。本当にヤバい案件からは素直に手を引く退き際の良さを備えるヤツだ。ノエル先生のような逃げ足の速さとはまた違い、そもそも逃げざるを得ないような状況に陥らない。
事態が事態なだけに、今回ばかりは有彦には泣いてもらう。ヴローヴのような災害相手に、機転だけで切り抜けようというのはあまりにも楽観的過ぎるから。
「だからといって毎日顔を出すとも限りませんけどね」
「おや、そこまでの不良さんだったと」
「いえ。俺たちは受験間近ですから、この時期になると授業よりも各生徒の志望校に合わせた自習にシフトが移るんですよ。学校自体がそれを推奨していますから」
「なるほど。分かっていたことですが、やはりわたしが学生生活を満喫するには遅すぎましたか」
先輩は残念そうに唇を尖らせる。別に完全に店仕舞いするわけでもないし、本格的に追い込みがかかるのはまだ先だ。カリキュラムもまだ続いてはいる。
昨今の受験スケジュールの加速化をみるに、制度によっては20年代には年内決着もあり得そうだが。少なくとも今年の日程では、今から飛ばしても息切れしてしまう。
「まぁ、先輩にとっては悩みの種ではありませんね。大学受験は」
「そうですね……どこまでいっても所詮は仮初の身分ですから」
おっと。俺としては若干の羨みを込めたつもりだったが、先輩にとっては本当に残念なことらしい。
彼女の過去については殆ど知らないが、俺とそう変わらない年齢であるからには、「普通の学校生活」そのものに縁がなかったと見て間違いない。
そのわりにはとても知的な人物だが、おおかた教会で教育されたか、独学で研鑽したか。一を聞いて十を知るシエル先輩にかかれば、高校の授業程度は地頭でどうとでもなるような気もする。
そもそも異国の高校に飛び入りで潜入しておきながら、学業で成果を挙げるのみならず全校生徒の快適なスクールライフのために手を回し、さらには生徒会の自治活動にまで介入出来る時点でだいぶ常軌を逸している。
一度は留学を試みた立場として身につまされる思いだった。同じく異国で激務な教職との掛け合いをこなすノエル先生といい、代行者はなんと過酷な道なのだろう。
そこに至るまでの努力と、シエル先輩の天才性を掛け合わせれば大学受験などなんの苦にもならない。そう考えると、羨むのはあまりに失礼だったと反省する。
「よく考えると、先輩は社会人ってわけですよね。自分で生活費を稼いでいるんでしょうから」
たぶん。きっと。生憎、聖職者が身近にいないので、どのようにして生計が成り立っているのかもよく知らない。俗な話だが、寺みたく寄進を募るとして、それだけで食べていけるのだろうか。
そもそも先輩の職業区分はシスターで良いのかも分からない。命を危険に晒す戦闘要員である以上、相応の手当が出るのが道理である。
しかしそんな俺の凡庸な想像を、先輩は曖昧な微笑みで一刀両断する。
「月3万ぐらいしかお給金として貰えませんけどね」
「安っ!それ明らかに搾取されてますって先輩」
「はあ。あ、でも任務遂行に必要なお金はちゃんと経費として落ちますから。食費とか住居とか通信費も。理論上最安値が原則ですけど」
それは当たり前のことだ。間違っても胸を張って誇るような話ではない、先輩。
「ノエルは教師としての給与の大半を、教会への寄進として天引きされていますからね。ですがそれにも高跳びさせないためという理由があります。もっとも、仮に蓄えたところで成功する確率は万が一にもありませんが」
寄進を強制するな。そして先輩、それは反社のタコ部屋労働となにも変わらない。教会が吸血鬼の次に厳しくあたっているのが、まさか自分の所の構成員とは。社会の闇を見た気がした。
あんまりにあんまりな待遇に突っ込むことすら出来ないでいると、先輩は小悪魔じみた所作で小首を傾げる。
「じゃあ、そんな可哀想なわたしを遠野くんが養ってくれますか」
「生憎と、俺だってそこまでお金を持ってるわけじゃないんですよ。財布の紐は完全に秋葉に握られていますし、受験期なのでバイトも当然禁止ですから」
「そんな、家族なのに非道いです」
よよよ、と先輩は袖で目頭を押さえるフリをしながら、もう片方の手で机上のプリントの名前欄を指し示す。
遠野シエル。そうだった。シエル先輩はこれで俺の縁者だと強弁するちょっと危ない人だった。ここで退いたら最後、確実にこの人は俺を獲る。この弱音は擬態なのだ。
「いや先輩。そんな名字揃えただけで無茶苦茶ですって。せめてもうちょっとこう、偽の戸籍を用意するぐらいの偽装はすべきなんじゃないですか」
「残念ながら支部の力が及びませんでした。ここがイタリアやフランスであれば、恐らくどうにか出来たのですが……」
試みたのか。そして場合によっては実現したのか。タコ部屋労働者どころか、シエル先輩は法にすら縛られない特権の所持者だったのだ。
そんな人が俺をモノにしようとしている現実に戦慄していると――突如として、凛とした声が俺と先輩の間に割って入った。
「なら、さっさと国へお帰りなさい、お山の大将。あなたに権力は過ぎたモノでしてよ」
総耶の支配者たる遠野家当主が厳かに告げる。
驚くことに秋葉のやつ、朝一番から仕掛けてきた。てっきり放課後の誰もいない時間か、せめてランチの場だと思っていた俺の見立てが甘かったのか。
即断即決を是とする女王にとって、
顎を上げてこちらを見下ろす視線の鋭さ。他を平伏させる迫力は、いつも遠野志貴を黙らせる際の一番の武器。
それでも俺は慣れているからまだマシな方で、クラスメイトは麗しい少女(それも二年生)の降臨にも関わらず、持ち前の煩悩を捨てて慄いている。
「ふ……」
猛獣の解き放たれた闘技場もかくやなこの教室において、唯一シエル先輩だけが平静を保っていた。
不敵な笑みを浮かべ、正面から秋葉の目を見据えている。
「久しぶりですね秋葉さん。一年前に“秘密”を明かしたことで多少は遠野くんと打ち解けられたかと思いましたが。そんな態度では、また遠野くんに怖がられてしまいますよ」
「余計なお世話。私たち兄妹の問題であって、あなたには関係のない話でしょう。兄さんも兄さんです。またしてもいかがわしい外人女を遠野に連れ込もうとしましたね」
「これは流石に俺を責めてもらっても困るぞ、秋葉」
昨日の怒りは秋葉の中で未だ燻っているらしい。学生生活が楽しいのだろう、やたらとご機嫌なシエル先輩とは対照的だ。
頭に血が上っているからか、普段の隙の無さが欠けている。こういう話題を衆目の集まる場でするのはやや不味いのではなかろうか。当主の逝去が紙面に載る程の名士であるなら特に。
そして、こんな俺でも思い当たる懸念を聡明なシエル先輩が見落とす筈もなく。余裕の微笑で秋葉を諭す。
「いいんですか秋葉さん。身内のおいたを堂々と教室で明かしてしまって。大変興味深いお話ですし、このまま拝聴し続けたいのは山々ですけどね」
「……本当に、どこまでも小賢しい女」
「いっそのこと、わたしの耳に届いていることも余さず披露してあげましょうか。一切の脚色も、一枚のオブラートもなく、ありのままを全て」
当然こんな脅迫は秋葉の怒りの火に油を注ぐだけだが、そこで感情に呑まれる彼女ではなかった。
これでもかと言わんばかりにシエル先輩を睨みながらも言葉が続かない。そして前提となる話を阻まれた以上、俺に対する先輩のアプローチについて質したところで、のらりくらりと躱されるだけだ。
「なるほどなるほど。庶民なわたしにはさっぱりですが、お貴族様も大変なんですねぇ」
拙速に走った秋葉を返り討ちにしたことで、なに不自由なく高校生活を満喫出来る――先輩は勝ち誇る笑みの裏でそんな筋書きを立てているのだろう。
だが、ここまで良いようにやられて大人しく退散する秋葉ではない。
「……いいでしょう。この話はまた後日、膝を突き合わせて話すとして……あなたがこの学び舎で好き勝手していることは、また別の問題です」
「はて。一体わたしがどのような罪を?」
「白々しい。購買には他と釣り合いの取れない高価なカレーパンの導入、学生食堂には日替わりランチの変わりに日替わりカレー。どちらも提携先はあなたが贔屓のカレーショップ。何もかも一ヶ月足らずで仕立て上げられた、一年前から残る負の遺産です。当然、全て撤廃しますからそのつもりで」
「っ……!?」
今度はシエル先輩がたじろぐ番だった。不敵に細められていた青い目が愕然と丸くなる。
それもその筈。特に購買の高級カレーパンは、先輩が暗示に外部人脈にとあらゆる手段をフル活用して運営陣に導入させた逸品なのだ。財務担当者の尊い犠牲の末に。
「あ……秋葉さんっ!天が許しませんよそんな横暴!この学校を私物化するつもりですか!」
「財政部門を私物化しておきながらどの口で。ええ、遠野家の力を以てすれば、学校ひとつ差配するなど造作もない」
寄付金で間接的に組織運営へと介入――というのはよく聞く話だが、ここは都立高校である。手段について俺にはさっぱり見当がつかないが、秋葉にはやると言ったら必ずやり通す凄味があった。
「当然、この程度では終わらせません。共犯者であり、あなたの寵愛を受けているカレーショップ……メシアンとか言いましたか?連帯責任として、あなたを出禁にするか、それとも関東圏から撤退するか選んでいただきましょう」
「なんと横暴な……。秋葉さん、あなたには失望しました」
慈悲の欠片もない、代行者シエルのカレー愛に向けられる猛攻。オーバーキルに片足を突っ込んだそれは、シエル先輩から動揺を上回る激憤を引き出した。
わなわなと肩を震わせる先輩。まるで親の仇のように秋葉を睨む。
「……あなたのような圧制者による極悪非道をこれ以上見逃すわけにはいきません。革命です革命!ああ、わたしに流れるフランスの血が煮えたぎるのが分かります!」
「あら、そのカレー臭からてっきりインド人かと。もっともあなたの祖国などどうでも良い話ですが。あの偽教師ともどもまとめて強制送還を働きかけるまで。……それから、兄さんが欧州、特にフランスには一生入国できないように取り計らないと」
シエル先輩の母国を初めて知った。ヨーロッパ出身だというのに、まるで不自由なく優等生をしている先輩はやはりスゴイ。
とはいえ、ひとり感心している場合ではない。両者譲れない領域に踏み入りつつあるこの戦いに一秒でも早く幕を閉じなければ、燃えるは先輩のフランス魂だけで済まない。
「先輩も秋葉ももういいでしょう。あくまで身内の話なのですから、朝っぱらからこんな教室でやり合わないでください」
「そうです身内の話なんです!遠野くんからもこの姉に歯向かう不届きな妹に言ってやってください!」
「誰が妹ですか!私には兄しかいません!そして兄さん、諸悪の根源でありながらよくも言えたものですね?」
「そ、そこまで言うか」
秋葉が総耶高校に転校して、さらにシエル先輩も参戦して二人が一触即発に陥っているこの状況。確かに俺の不始末が原因の一つではあるが、全ての責任を被らされるのも流石に違うと言いたくなる。
いや、それでも俺ひとりが泥を被れば丸く収まるならそれでもいい。辛いことに、俺が口を挟んだだけ二人の熱はますます増していくようだった。
互いを睨み合っていた視線は今や揃って俺に向けられている。シエル先輩も秋葉も系統こそ違えども呆れるほど端正な顔立ちだが、それだけに眦を吊り上げると本当に迫力がある。
思わず息を呑んだ瞬間、いよいよ粛清が始まった。
「「遠野くん(兄さん)はわたし(私)と秋葉さん(この女)のどっちの味方なんですか!?」」
「いや……」
その問い質しはあまりに容赦がない。なにしろ二人のうちどちらかを選ぶというのは、学校生活と私生活のうち片方を悪魔に売り渡すこととイコールである。そして話の転がり方次第では、両方の日常が地獄と化すだろう。
――それでも、反応に困ることは無かった。俺の答えは既に決まっている。
「どちらでもない。俺は、アルクェイドの味方だ」
「「なっ……!!」」
コンマ一秒のズレもなく喉を震わせ、目をまんまるに見開いて二人は素っ頓狂な声を上げる。
今の今まで、ここが公共の場でなければ殺し合い待ったなしだったとは思えない見事なシンクロだった。
◆
あの後、すっかり戦意喪失した秋葉は自分から教室に帰っていった。
同じく殺る気の失せたシエル先輩も、今日は終始大人しく授業を受けていた。有彦とランチをしている時も完全に上の空。それでも有彦のさりげないボディタッチを正確無比に打ち落として見せたのは流石だ。
「あれはパンチドランカーよ。ネジの外れた機械人形ほど見苦しいモノはないわよね」
とは、女医ノエル先生が下した診断である。処方箋はなかった。
こんな有様の先輩に相談を持ちかけても仕方がないので、放課後の茶道部はスルーする……決して、茶道室に殴り込みをかけんとする秋葉の姿を見かけて臆したからではない。
あそこなら一般人もいないし、先輩も自分の大切な城を壊さないよう立ち回るだろうから、とりあえず様子見でいこう。
下手に俺が突っ込めば、またあの二択のやり直しが来るのは目に見えているのだから。
とはいえ気になるにはなるので、校舎を出て庭から茶道室の窓を眺めていると、いきなり背後から肩を叩かれた。
「なにを呆けているのですか」
「……秋葉?」
どういうわけか、お茶会の場に斬り込んだ筈の妹が眉を下げて佇んでいる。
いや、普通の教室ならともかく、茶道室の小さな窓からは殆ど中の状況は分からない。せいぜい、戦闘が起きているか否かの判別ぐらいがいいところ。
意外にもシエル先輩との仕切り直しは穏便に、そして速やかに片が付き、そして下校しようと玄関から出てきたところで不審な兄を見つけたのだろう。
今朝、俺の登下校には必ず同行すると宣言していたわけだし。流石この状況でシエル先輩に会いに行くわけにもいかない以上、こちらも大人しく帰宅するだけなのでちょうどいい。
「行きましょう。季節も季節ですから、あと少しで日が完全に暮れてしまう」
今朝の激情が嘘のように、秋葉は穏やかな微笑みで俺を促した。