秋葉と並んで正門を出る。彼女の言う通り、空は夜の昏さに包まれつつあった。
つい昨日、襲われたばかりなので自然と警戒心が刺激される。とはいえ、今は秋葉もいるのだ。二人でならそうそう後れを取ることはないだろう。
当の秋葉は、ただひたすら虚空を見上げ、のんびりと漂う霧を睨んでいる。朝の件について、普段であれば小言が飛んできて然るべきだろうに、妙に口数が少ない。
当てつけで無視されているようにも見えない。心ここにあらずといった様子。
「秋葉? 具合でも悪いのか」
流石に見かねて声をかけると、秋葉はこちらを向いて何度か瞬きしてからため息を吐いた。
「……ええ。少しばかり眩暈が。こうも空気が澱んでいては万全とはいきません」
沈みゆく太陽の光を腕で遮る秋葉。季節柄、陽射しは弱い上に霧に遮られているにもかかわらず、彼女の首筋はうっすらと汗ばんでいる。
眩しそうに、不快げに目を細める様子は尋常ではない。
「お前、熱があるんじゃないのか。この気温で汗かくのは普通じゃないだろ」
「あ……」
咄嗟に、秋葉の額に手の甲を当てる。意外にもそこまで熱くはない。俺よりは熱があるが、あくまで年頃の少女の平温である。
それでも、安心には至らなかった。朝は護衛とかどうとか言っていたが、明らかに弱っている秋葉に無理はさせられない。最悪、二人まとめて共倒れすらあり得る。
「先輩には悪いけど、今日は真っすぐ帰ろう。……いや、今日も、か。昨日だってちゃんと寄り道せずに帰ったわけだし」
「あなたからそんな殊勝な言葉を聞ける日が来るとは思いませんでした。ええ、こんなわけのわからない街で遊び歩きなど論外です」
なにかを誤魔化すように秋葉は俺の手をそっと退けると、不調を感じさせない足取りで通りを歩き出した。横に並ぶにはやや狭い歩道なので、俺は大人しくその後ろに続く。
今日は悪戯な霧のちょっかいもない。屋敷に帰れば無事に一日もおしまいだとあたりをつけて、昨日も同じことを考えていたことを思い出した。
そうやって油断した矢先に敵に襲われた。だから、今日もこのまま何事もなくとはいかないのではないかと、不穏な想像をした矢先──秋葉が、何かを見咎めて声を上げた。
「兄さん、あれは」
「ん……?」
その細い指が示す先には、夕焼けを背負い、長い影をアスファルトに落とした人の姿。
朧げに佇む容貌の殆どに陰が差している。それでも、特徴的な服装と、この国ではそうそう見ない髪色は、シエル先輩からの情報提供と完全に一致している。やはり嫌な予感ほど当たるものだ。
「シオン・エルトナム・アトラシア」
「……ええ」
俺に接触してくるかもしれないと、予め警告されていたこともあって然程驚きはない。事態は加速度的に悪化していて、彼女は自分からアプローチをかけないといけないよそ者である。
やはり余裕がないというのは確からしい。ただ、それでも秋葉を伴っているのは想定外だったのだろう。分が悪いと踏んだか、異邦の少女は身を翻して駆け出した。
「待てっ……!」
どうしたのか、珍しく躊躇する秋葉を追い越してその背中を追いかける。シオンが本当に俺にとって脅威なのかは分からない。だが、そうなり得る以上はこちらの有利を逃さず情報を獲るべきだ。
彼女の方針を知る必要がある。先輩の言う通り、タタリを滅ぼすことが目的なら手を取り合える余地は大きい。
軽快な足取りで通りを走る。有馬から遠野に帰った日になぞった、総耶駅から学校へ繋がるルートを逆さに辿る。
当然、赤信号なんかで止まらない。不幸中の幸いか、退勤と被る時間帯にも関わらず横切る車はなかった。まるでそういうタイミングを完璧に計算しているかのように。
『──彼女は対象の行動を"演算"します。くれぐれも見た目通りの少女と侮らぬよう』
先輩はそう忠告していた。錬金術師とやらが具体的になにをするのか知らないからこそ、一見優位に見えるこの状況が、その実シオンの掌の上という可能性も頭に置いておく必要がある。
死徒になりかけとの話だが、駆け足の速度は並大抵……それすら、俺を釣るためにわざと手を抜いているかもしれないのだ。安心など出来ない。
そもそも意図せず邂逅した相手を追いかけるという選択自体が正しいのか、シエル先輩と合流したうえで、万全の準備を整えて出直した方が正しいのではないか──そう迷いが生じた瞬間、まるでこちらの思考を読んだかのように、秋葉が俺を制止する。
「兄さん。あの女の向かっている先は公園で、その先は繁華街です。彼女が本当に死徒になりかけだというなら、雑踏に行かれるのは非常に不味い」
「最悪、あの『大火事』の二の舞ってことか……!」
総耶駅前は、ヴローヴという災禍を引き寄せてしまった曰く付きだ。流石に成りかけの吸血鬼が二十七祖に匹敵する災害だとは思わないが、それでも死徒という存在は油断ならない。
思えば、公園のアルクェイドを無視してヴローヴが駅前で暴れた理由も不明なのだ。それが単純に餌となる人間の数がより多いからというだけのことなら、シオンもまた同じ行動原理に基づいている可能性が高い。秋葉の焦りはもっともだった。
──公園。やはり、対峙するのであればそこしかない。動き回るのに十分な空間があり、尚且つ夜であれば人もまばらな場所。なにより戦闘においては極めて合理的なアルクェイドが戦場として選んだという実績がある。
いよいよ黄昏時も終わる頃。夜闇の帳が下りた世界において、眠らない総耶の摩天楼は煌びやかに我を誇示する。それを俯瞰する公園の中央、噴水広場にてシオンはようやく足を止めた。
「……はぁっ、は、あ──」
互いに随分と走り続けたものだ。全力疾走にはほど遠いとはいえ、流石に苦しい。一年前なら倒れていたかもしれない。肩を震わせ、全力で肺に酸素を送り込む。
眼鏡をポケットにしまい、目に沁みる汗を拭いながらシオンを見据える。
俺とは対照的に、明らかな疲労の色は無い。落ち着いた所作で、追ってきた俺と対峙する──振り向きざま、抜いた拳銃を右手で構えながら。
「……物騒、だな」
まぁ、古巣を裏切るも同然の形で飛び出し、単身この国に渡ってきたのだ。加えてシエル先輩をはじめとした追手に標的とされているのだから、護身のための備えはあって当然と言える。
あの先輩に拳銃が通用するとは到底考えられない。武装は幾つも用意しており、そのうち俺に対してはこの程度で事足りると判断したか。だとすれば、やや見込みが甘い。
こちらもナイフを構える。彼我の距離はおよそ二十メートル弱。集中すれば、十分に体術で詰められる距離だった。
しばし睨み合う。即座に発砲するほど剣呑ではないが、さりとて逮捕から免れるためにやむなく、という雰囲気でもない。
怯えや警戒の気配に代わるのは、暴力的ほどの威圧感。あの銃口が俺に手を引かせるためではなく、俺になにかを強制するための手段なのは明らかだ。
やはり、誘い込まれたのだろう。わざと姿を晒し、振り切らない程度の逃走を演じてこの公園に俺たちを釣ったのだ。俺と同じく、シオンもまたここを戦場として最適と判断したということ。
それならそれでいい。俺とて彼女のことを知りたいのだから。問題は、如何にして敵対を解除するかである。
紫で統一された怜悧な美貌は、退路を失くした者特有の覚悟を孕んでいる。限界まで膨らんだ風船のようなもので、下手に追い詰めれば容易く破裂するだろう。
窮鼠猫を嚙むというが、シオンが鼠である保証はどこにもない。少なくとも、彼女自身は俺より強者の認識でいる。
その体に走る線の数は、正常な人間のそれと変わらない。死徒化がまだそこまで進んでいないのだろうか。あるいは、そもそもの話として──目の前のあれは本当に、シオン・エルトナム・アトラシア本人なのか?
「あれ”は”紛れもなく本物ですよ。遠野志貴」
俺の背後。またしても思考を読んだように反応する”秋葉”。
──続く攻撃に対処出来たのは、ひとえに全てを疑っていたが故の功名だった。
「ッ……!」
考えるより先に上体を捻る。鼻先を掠めるハイキックの向こう、左足を振り抜いた”秋葉”の体に走る、シルエットすら浮かぶほどの夥しい数の線。
経験的に、直死の魔眼に人体がこう映るケースは大きく分けて二つある。蘇ったばかりの末端に近い死徒の配下か、そもそも最初から人間ではない偽物か。
前者に俺を欺くほどの秋葉の演技などまず不可能。後者だとすれば、呆れるほど巧妙な作品だが、この目を──世界を誤魔化すことは出来ない。
振り上げられた足の腿を横断する、一際大きな線をなぞる。切断面からの出血はない。まるでほどけるように、バラバラと束状の何かに変化し、さらに解れて左足だったものは風に流され散らばっていく。
「糸……?」
束の正体は、あまりに長い銀糸だった。ピアノ線のように細く、肉眼で全てを捉えるのは困難極まりない。
少なくとも両手の指の数はあろうそれらは、すぐに風に乗るのをやめて、一本一本が独自の意思を持ったように蠢き出す。
ぴっ、と風を切る音を頼りに、四方八方から殺到する糸をいなしていく。完全に躱しきれなかった一本に頬を斬り裂かれた。ぬるついた血の滴る感覚が首をなぞる。
人体を切断出来るだけの硬度を備えている。斬撃を主目的とした運用なら、その長さを生かして面で攻撃するのが合理的な筈だ。だが、糸はあたかも突き刺すような点の動きを見せていた。
完璧に秋葉を模ったことを筆頭に、その機能には底が見えない。それでも、あれに捕らえられてしまえばろくな結果にならないことだけは確実である。
よく観察すれば、糸は揃って俺の頭を狙っていた。牽制と本命の二種類を即座に見分けつつ、大きく斜め前方に膨らむ形で地面を蹴る。そう誘導された形であり、格好の隙となった。
「撃ってくるか……っ」
「人払いの魔術は敷設済みです。流れ弾の懸念はない」
引き金に躊躇はなかった。立て続けに響き渡る破裂音。
糸を躱しつつ接近を試みる俺の動きを正確に先読みする銃弾が、俺を掠めて地面のレンガに突き刺さる。やはり殺す気はないようだ。少なくとも今のところは。
止めを刺す気はない。となれば銃撃もまた牽制か誘導の手段に過ぎないが、あまりにも正確すぎる。こちらのフェイント、あるいは意図せぬ方向からの一撃に対する咄嗟の回避。その全てに最適解を繰り出してきた。
だんだん状況が見えてくる。俺を狙う糸の総数は最低でも百を超えていて、シオンはそれら一つ一つを個別にマニュアルで操作している。風向き、風力、気温、湿度、そしてなにより俺の動き。その全てを計算しながら。
それでも開く穴は、銃弾で塞いでいく。言うまでもなく、その弾道から着弾までに生じる一瞬の状況変化まで、彼女は完璧に答えを出す。出し続けている。
どのような脳みそをしていれば、こんなスパコンじみた演算を実現出来るのか。掠めた銃弾の余波で生じた耳鳴りに顔をしかめつつ、錬金術師を直視する。硝煙に霞むその表情には、一切の感情が浮かんでいない。
まるで検体の腹を開いて覗き込む研究者のようだった。凡百の死徒のように嗜虐心から獲物を嬲るようなものではなく、ひたすらに条件を変えながら対象について観察する。強いて言うなら愚直なまでの探求心。あらゆる意味で、俺の人生において初めて相手にする人種。
打開する手段なら一応ある。ロアを葬った際の、空間ごと殺す直死。激烈な後遺症を考えると、あれだけの規模の一撃を再びこなすのは極力避けなければならないが、あくまで足場を崩すだけなら求められる出力は抑えられるだろう。なら、あとは気合いの問題だ。
「……!」
俺がイメージした瞬間、シオンの動きが止まった。やはり、俺の思考そのものを読み取っていたのか。
たぶん、彼女にとって初めての計算違い。アルクェイドが御伽噺と称した直死の魔眼の性能について、やはり彼女も明るくないのだろう。俺以外に、こんな目を持っている人間を知らない限りは。
そしてなにより、動揺したがために、その狙いが通ると分かってしまう。だが──そもそも隙が生まれた以上、あえてハイリスクな戦法を取る理由など存在しない。
両者を隔てる糸の柱を一閃で断ち切る。
ナイフを逆手に持ち直し、獣のように四つ足で駆ける。ここまで頭を低くすれば、糸の長射程はかえって持て余すだろう。注意すべきは銃弾だが、単体ならヴローヴの氷柱と比べれば可愛いものである。
拳銃とナイフ。普通であれば中距離で勝負にもならないが、俺の場合はその限りではない。
俺の骨は鳥のそれに似ていて、筋肉共々軽さと瞬発力に特化しているとは阿良句博士の評価である。邪魔さえ無ければ、二十メートルはまだ俺の射程だ。
「しまっ……」
一瞬で懐に潜り込まれ、シオンは距離を稼ごうと飛び退く。近接戦闘向けの得物は持ち合わせていないのか、それとも……死徒の肉体で格闘すること、それ自体を忌避しているのか。
少女相手とはいえ、死徒化が進んでいれば力勝負で勝ち目はない。正面から組み伏せることはせず、すれ違って背後をとる。
空いた手を腰に回し、抱きつく形で押さえ込む。ナイフの刃先を、胸の中心部分に突きつけた。狙うは心臓ではなく、重なって視える死の点。その事実を瞬時に理解して、シオンは息を呑む。
生者らしい怯え。密着して感じる体温も温かい。それなりに死徒というものを見てきたが、彼女はそのどれとも一致しない。
とはいえ、吸血鬼容疑はかかっている。ノエル先生のように組み伏せるのではなく、いつでも距離を取れる余地を確保しておくべきだろう。
「破廉恥な。年頃の男女同士がいつまで抱き着いているつもりですか。遠野志貴」
「……この状況でよくそんな冗談を言えるな。正直、センスないぞ」
「だ、誰が冗談など」
少し耳を赤くしながら、シオンは抗議する。死への恐怖は年頃の少女の恥じらいに塗り潰されたらしい。
間違いなく頭はいいが、どこか抜けている。こういうのを天然と言うのだろうか。なんとなく、弓塚さんとは仲良くやっていけそうだと思う。
この窮地で羞恥が勝るあたり、戦闘経験は然程無いのだろう。同じ状況で秒で命乞いに走ったノエル先生の判断力を改めて評価する。あれでも代行者としてはそれなりに長生きらしいし。
仕切り直しとばかりに、シオンはコホンと咳払いをひとつ。
「ええ。私が戦士として不足していること、それ自体は認めざるを得ません。なにぶん穴倉で研究ばかりしていたもので」
「研究。そうか、錬金術の」
「噂に聞いていた以上の戦闘技能。あるいは、殺人技巧と称した方がより適切ですかね」
「……殺人鬼呼ばわりは嬉しくないな」
真祖のお姫様とはいえ、街ですれ違っただけの女性を解体してしまったことは事実なので、心外とまでは言えないのだが。
シオンは緊張こそしているものの、その声に震えはない。ここで冷静さを失うことが致命的だと理解していようとも、理性と感情は別物だろうに。研究職を自称する割には、妙に肝が据わっている。
「少なくとも、あの“秋葉”については君が殺させたわけだが」
「殺されたのではなく戻ったのですよ。偶像としての死を与えられた結果、構成要素としてのエーテライト……あなたが『糸』と呼んだ魔術礼装のカタチに解けてしまった」
死んだのではなく戻った。感覚としては納得がいく。まるであみぐるみをバラすかのような終わりだったからだろう。
エーテライト。聞いたこともないが、魔術礼装という単語には覚えがある。長い年月を重ねた神秘の力を持つ物。アルクェイドを傷付けられる手段の一つであると本人が言っていた。そんな常識外れの武装だからこそ、あのような超常現象を引き起こせたのかもしれない。
「いえ。あれは異能ではなく純粋な技術。エーテライトはあくまで情報伝達物質であり、私の並列演算・並列思考に従って0と1を媒介するのみ。これを直接、あなたの神経に繋げて思考を読み取らせてもらいました」
「俺の思考を、計算していたんじゃなかったのか」
「多少は。ですが他人を見るだけで、その頭の中を全て理解するなど出来るわけがないでしょう」
思わぬ正論で返された。梯子を外された気分だった。
それにしても、並列思考ときた。確かに先の戦闘の苦しさは集団戦にも似ていた気がする。糸……“エーテライト“の一本ずつが独立した思考を備えていたような。
「流石に、百以上も思考を分割出来るわけではありませんが。それでも集合知というのは、机上のみならず戦場でも役に立つ。多角的な視点があるにこしたことはない」
「なるほど。それで? どうしてわざわざここまで俺に教える」
いずれも彼女の戦闘の根本となる技能だ。隠しておくに越したことはない。
あえてそれを開示した理由。それが轡を並べるに向けた信頼関係構築の第一歩という可能性を期待する。しかし返ってきたのは敵意が無く、されどもどこまでも硬い声音だった。
「理由は二つ。一つ目に、シオン・エルトナムについて、あなたがかの悪名高き埋葬機関の"弓"から何を聞いているか──ひいては彼女自身がどこまで情報を握っているかを把握するため。あなたは埋葬機関の「協力者」なのですから。たとえそれが、無理強いによるものであったとしても。いえ、もとより喜んでアレに手を貸す人間がいる筈もない……故に、あなた自身の意思など関係ない」
「君にとって、俺は完全に敵だと?」
「それがもう二つ目の理由です。退魔に命を握られているこの状況で、確実に詰ますには隙が必要だった。残念ながら、それだけの話は出来ませんでしたが。首輪をつけられたといえども、七夜の血は健在ということですか」
「確実に詰ます」とシオンは言った。未熟な戦闘員にしては不釣り合いなこの余裕は、強靱な精神力だけが理由ではなく、もっと単純に、俺への優位をまだ失っていないからか?
そう疑念を抱いた瞬間、先ほどの彼女による説明が記憶から蘇る。
”これを直接、あなたの神経に繋げて思考を読み取らせてもらいました”
ああ、俺は本当に馬鹿だ。最初の最初から、エーテライトに囚われていた。
いや、そもそも最初とは何時だ? 公園での開戦時。違う。追っている時からエーテライトで編まれた偽物の秋葉が後ろに居て、アレは思えば不気味になほど察しが良かった。つまり──
「そう。学校で、あなたに声をかけた時です」
「が──っ!」
脳内に火花が散る。痛みはない。眼球を裏側から灼くような、酷烈な閃光。世界が白一色に染まる。
電撃が走ったように四肢が引き攣る。俺の身体が、俺のものでは無くなったかのように。そのまま糸を切られた操り人形のごとく崩れ落ちた。
地面に倒れ伏す寸前、頭からいかないよう腕を引いてくれたのは、シオンからのせめてもの情けだろうか。
「生体信号をハッキングしました。心配せずとも”エーテライトを正しく運用する限り”において、神経の損傷は起こり得ません」
月を背負ったシオンは、つい、と細い人差し指を見せつける。月光を反射する銀糸が、風に揺れながら絡んでいる。何と繋がっているかは言うまでもない。
これで脅迫を受けるのは昨日も含めて三回目だな、とどこか他人事のように思う。加えて、初手で命を獲りにきたノエル先生もいるわけで。
「直死の魔眼の弱点。それは死を視たところで、敵に届かなければ意味がないということ」
シオンが告げる通り、手足にまるで力が入らないのを確認しつつ口を開く。意図してか否か、舌だけは回るようだった。
「よく、学校まで。あそこには他ならなぬシエル先輩がいるのにね」
「それこそあなたの手柄ですよ。遠野秋葉という同等の規格外をぶつけてくれたおかげで、代行者はどちらも彼女にかかりきりとなっています。吸血鬼でこそないものの、混血の魔は聖堂教会にとって排斥すべき異端ですから」
「いや……そう、かな?」
シエル先輩と秋葉が噛み合わないのは確かにそうだが、シオンの言うように信仰や使命感、職業意識から来る謂わば聖戦じみた対立には見えない。
俺と彼女との間で、シエル先輩という人物への認識が大きく食い違っているようだ。
とはいえ、そのあたりの擦り合わせより先に、まず質すべきは俺への処遇だろう。
代行者シエルの協力者と見做して排除するつもりなら、こんな回りくどいことをするつもりはない。道中、俺を殺す機会は幾らでもあった。
そもそも今まさに生殺与奪を握られている。シオンがその気になれば、接続したエーテライトを介して俺の神経を破壊することも出来るはずだ。
「その通り。私の指先一つで呼吸中枢は停止する。窒息で死にたくなければ、あなたは私に従うしかない」
「……エーテライトってのも、便利だな。君にだけ負担がかかるが、俺にとっては会話にストレスがない」
「そ、そうでしょうか? アトラス院では忌み嫌われたものですが」
思わず漏らした感想に、脅迫を止めて律儀に応じるシオン。根っから生真面目で、誠実なのだろう。そして私的な会話に慣れていない。
虚を突かれたシオンは一瞬目を泳がせた後、咳払いを挟んで話を元に戻す。
「とにかく、あなたからの分かりきった問いかけを待つのは時間の無駄です。なのでこちらから言ってしまいますが、取り急ぎあなたに要請したいのは……真祖アルトリウス・ブリュンスタッドとの取り次ぎです」
「それは、なんの為に」
「既に代行者から聞いているでしょうが、私の最終的な目的は死徒化の治療です。これまで数多の仮説を立て、実証しましたが全て打ち砕かれた。もう私には時間がない。かくなる上は、死徒の大元たる真祖の血にアプローチをかけるしか」
「つまり消去法なんだろ。仮にアルトリウスの協力を取り付けたとして……その先に進むだけのプランはあるのか」
「……それ以前に、私にはアルトリウス・ブリュンスタッドにコンタクトを取るための手段がない。この街を覆う霧は父親にしか興味を抱いていないように見えます。事実、あなたは真祖に話しかけられた」
俺の問いかけは至極当然であり、シオンだって痛いほど理解している現実の筈だ。
確固たる治療計画に従ったものではなく、あるかも分からない「手がかり」を得るために、いかにも意味のありそうな真祖の血とやらを求める。宝くじで一等を当てるためにパワーストーンを買うようなものだ。
ようするに、彼女はそこまで追い詰められている。万策尽きた結果、それでも座して死を待つことを良しとせず、五里霧中の只中をひたすらに足掻いているのが現状だ。手段と目的が逆転しているとすら言ってもいい。
「タタリを滅ぼすことも目的なのか。少なくともシエル先輩は、それが君の目的だと考えている」
「ええ、勿論。死徒への転化の遅延にはなるでしょうし、何よりこれ以上身内の恥を看過するわけにはいきませんから。ですがタタリの討伐は困難極まる。実現にあたって必要なのは強力な戦力と、確実に滅ぼすための手段」
「先輩は俺の眼が必要だと言っていた。君が俺に求める協力には、タタリ討伐も含まれると」
「ご明察です。ですが、私とあなただけで成し遂げるのは不可能でしょう。その点でも、アルトリウス・ブリュンスタッドの協力が不可欠なのです……そのためならなんでもしますよ、私は」
なんでもするとシオンは言うが、初手で脅迫というのは如何なものか。
……いや、それはあくまでこちらの理屈か。彼女にとって俺は自身を狙うシエル先輩の協力者である以上、最初に優位な立場を確保しなければ安心出来ない。
おたずね者の彼女と、公権力側にある俺。協力すれば死ぬかもしれないが、協力を拒めば確実に死ぬという力関係に追い込んでようやく彼女は安心出来る。ならば、その不安の種を取り除くことは出来ないだろうか。
「シオン。俺から口添えするから、シエル先輩と手を組むってのは」
「あり得ません。私はともかく、あの埋葬機関が半端者とはいえ死徒と馴れ合うわけがない。あなたの知る『先輩』とはただのペルソナに過ぎません」
取り憑く島もない。シオンの端正な顔貌が苛立たしげに歪む。
「アルクェイド相手なら、多少の理解のようなものもあったように見えた」
「それが総耶高校の件であれば、一貫してあなたと真祖を囮に転生無限者を討つという策謀のためです。限界を迎えた真祖など、もとより眼中にすらなかったと推察できます」
「君は違うと?」
「放っておけば終わる運命の真祖と、放っておいたらいずれ死徒に転ずる女とくれば真逆でしょう。吸血鬼事件は起きてしまった時点で手遅れ。予め芽を摘む他無いのであれば──」
「──殺すしかないわよね。アトラシア」
シオンの弁を遮って、誰かがその答えを告げた。
澄み渡る凛とした声。かつん、と臆せず響く乱入者の靴音。どちらも出処は同じ俺の背後。
振り返る。暗闇を裂いて現れたのは、カソックに身を包み微笑を湛えた少女。
艷やかな黒髪と、紅い切れ長の瞳が目につく。胸元には十字架の嵌め込まれた聖書が一冊。一見、武装の類は見当たらない。
もっとも、この場に乱入した時点で、只者でないのは明らかだ。教会の尖兵、それも異端狩りに特化した戦闘員──代行者だと、俺とシオンが判断を下すのはほぼ同時だった。
「!! はあっ!」
飛び退くと同時、掛け声と共にシオンは噴水広場をまるごと制圧するだけのエーテライトを展開する。
俺を相手にした時とは気迫が異なる。相手が教会の擁する狂信者だと見て、本気でここで殺す気だ。
まるで津波のように雪崩込む無数の糸は──その全てが、代行者に届く寸前で灰に還った。
まるで、少女の表面に灼熱の膜でも張られているかのように。法衣に触れることなく、いとも呆気なく肉薄した片端から焼き切れていく。
「なっ……!」
「ごめんなさいね。半人前の相手をしている暇はないの」
目を見開くシオン。彼女にとって、エーテライトとはそれだけ信頼の厚い礼装らしい。
そして、そんな隙を見逃す代行者もいない。点の動きで距離を詰めると、携えたハードカバーの聖書を振りかぶり──鋲で留められた、やたらと厳つい背表紙の角で思い切り殴りつけた。
間一髪、シオンは左肘で受け止める。流れるように拳銃を代行者の胸に押し付け、容赦なく引き金を引いた。二発三発。代行者はまるで意に介さない。
「聖書に灼かれず、爪も振るえない。訂正。これじゃあ半人前未満の半端者か」
銃口は確実に押し付けられていた。ゼロ距離射撃だ。シオンの射撃の腕前からして、外すなど万が一にもあり得ない。
つまりあの代行者は、平気で銃弾を受け入れて──尚且つ、一滴の血も流していない。涼しい顔で肉迫しつつ、顔を歪めるシオンの顎を持ち上げる。
「もういいわ錬金術師。アレ風に言うなら無粋な演者はカット。出直しなさいな」
「ふざ、け──」
返答を待たずして、代行者はシオンの胸ぐらをネクタイごと捻り上げ、まるで飲み干したコーヒーのカップをゴミ箱に投げ入れるかの如き気安さで繁みへと放り捨てる。
都会に緑をというスローガンなだけあって、総耶の中心部にあってなおこの公園の森はそれなりに鬱蒼としている。木々の狭間に消えたシオンは、そのまま戻って来なかった。
死んだとは思えない。代行者の一撃には殺意がなかった。聡明なシオンの事だから、一時撤退を選んだのだろう。それが最適解だと素人目にも分かるほど、今の攻防は一方的だった。
──アルクェイドみたいだ、とふと思った。代行者と一緒にされるなんて、絶対にあいつは嫌がるだろうけど。でも、この黒髪の少女の傲慢な程に圧倒的な戦い方は、どうしても白い化身を彷彿とさせる。
「さて、と。お邪魔虫も去ったことですし。ようやくご挨拶出来そうね、遠野志貴」
いっそ不躾な程の俺の視線をものともせず、代行者は悠然とこちらに歩み寄る。
たった今、シオンを殴りつけたばかりの聖書を淑やかに抱え直しながら。教会についてはなにも知らないが、このような使い方は果たして聖職者として許されるのだろうか。
「本当はもうしばらく見守ってるつもりだったけどね。流石にピンチみたいだから、ちょっとだけ手助けしちゃった」
「……あなたは?」
失礼を承知で、前置きを遮り名前を問うた。
シエル先輩ともノエル先生とも違う、初めて見る代行者。その存在自体が不吉だ。仮に彼女が、ノエル先生の言うようなシエル先輩の部下であるなら、これは独断専行だろう。
俺の警戒などお見通しといった様子で、代行者の少女はふわりと微笑む。
「アルトルージュ。ひとまず、これだけ名乗っておきましょうか」
ベールとともに、そよぐ風に誘われて靡く濡羽色の髪。細められる紅い瞳が、余裕たっぷりに俺の頭の先から爪先までを一瞥する。
ともすれば、不愉快に感じられるほどの遠慮の無さだが、不思議と彼女に対してはそれがない。
土足で踏み入られるような押し付けがましさがないからだろうか。詮索ではなく観測に近い。遠大な視座で、遠野志貴という人間を測っている。
見た目だけなら殆ど同年代だが、纏う雰囲気は明らかに老成したものだ。このような、見た目と中身がそぐわない人間──とりわけ教会の関係者となると、どうしてもあの人物に思い当たる。
「──あんた、マーリオゥの関係者か。シエル先輩の部下じゃないんだろ」
「ん? ああ、流石に教会が一枚岩じゃないことぐらい知ってるか。えぇ、とりあえずそういう認識でいいわ」
「証拠は?」
「いやね。提示したところで貴方だけで真偽を見極めるなんて不可能でしょうが。……ま、とりあえずこれをあげましょう。”シエル先輩”にでも渡せば、その意味が理解出来るでしょう」
アルトルージュと名乗る少女は、胸に提げたペクトラルクロスを無造作にチェーンから引き千切ると俺に投げて寄越す。戸惑う俺に、裏返すよう指でジェスチャーを送る。十字架の背面には、9桁の番号が刻まれていた。
「代行者の識別番号ってこと。いくら私がベスティーノの側だとして、管理局が一つである以上はシエルでも照会出来る。まぁ、私の名前を出せばそれ以前の問題でしょうけど」
「そんなに偉いのか、あんた」
「偉くはないけど有名ね。そしてお金持ち。だからまぁ、飲み物ぐらいなら奢ってあげるわ」
俺の肩に馴れ馴れしくしなだれかかったアルトルージュは、サムズアップの親指で遠くに見える自販機を指し示す。その薄すぎず厚すぎず、形のいい唇が弧を描いた。
「こうして縁が出来たわけだし、少しだけお話しましょう。貴方の大好きなアルクェイド・ブリュンスタッドについて、ね?」