こちらの反応を待たずして、法衣の少女はかつかつと石畳を歩き出す。俺の答えなんて聞かずとも分かっていると言わんばかりに。
風情を気取るかのように明滅する街灯が、そんな代行者の影を不気味に揺らす。定まらない輪郭は、その本質を誤魔化しているように思えてならない。幼い悪夢に出てくる、部屋の隅の暗がり潜む正体不明の怪物のような。
だが、具体的にどう危険なのか、俺は何を恐れているのかという肝心なところがまるで見えてこない。その危機感は正しいと勘が告げているが、少女のヴェールを捲くるに至らないのだ。
そもそも、代行者が正義の味方か否かはさておき危険人物であることは論を待たない。あの善人が服を着て歩いているシエル先輩だってそうだ。
不意討ちを受けたばかりなこともある。踏ん切りをつけられずにいる俺をよそ目にアルトルージュは自販機の前に立つと、微塵の躊躇いもなくボタンを押した。転がり出てきたうち一つを投げて寄越される。
反射的に受け取ったそれは、肌に張り付くような熱を纏ったブラックコーヒー。まだ夜更けには程遠い時刻だとしても、あまりに不適当なチョイスになんとも言い難い気分になった。
「あら、不満なら今から取り替えてもいいのよ。プリンをギトギトに煮詰めた奴とか、翼を授ける奴とか、あるいは甘酒におでんでも。好きなものを選びなさいな」
「子供連れ狙いで無駄にはっちゃけたパターンか。公園だからな、ここ」
「賭けてもいいけどあの自販機、救いようのない不良資産よ。王道が何故王道たるかをまるで履き違えてるもの」
知性も教養も無いわねと辛辣に切って捨てて、アルトルージュは噴水の縁に腰掛ける。カシュッと音を立ててプルタブを上げ、真っ黒な液体を一気に呷った。見ている方の胃が痛くなる。
切れ目の長いスリットが捲れるのを厭わず、はしたなく脚を組む。その染み一つない白い美脚が異性の目に晒されることにもまるで頓着していない。見た目の年齢にそぐわない、薔薇の如き妖艶さ。
「座るの、座らないの」
「座らない。そこまであんたのことは信用出来ない」
「ええ、だから前に立つんでしょう。分かりきったことをわざわざ言わせないで頂戴」
彼女の言う通りだった。半ば義務的に缶を開けながら、数歩の距離を挟んで正面に立つ。
ちょうどこの公園で、同じ形で話をした相手もマーリオゥだった。ただし、仮にも代行者ノエルという護衛を控えさせていたかの少年とは異なり、彼女は単身で戦場に姿を見せている。
よほど自身の力量に自信があるのだろうか。いや、あの場にはアルクェイドもいたのだからまた違う話かもしれない。
「アルクェイドについて詳しいのか、あんた」
「詳しいなんてもんじゃないわ。世界で私の右に出る奴はいないんじゃない? アイツじゃないけど真祖の王族と会敵しかねない事案で投入されたあたり、専任だって察して欲しかったけどな」
「そういうのはシエル先輩の専売特許だと思ってた」
「アレが教会の、というか人理の最高戦力ってのは認めるけど、私は実際にアルクェイドと殺し合ったことがある。戦場でのキャリアが違うのよ」
「とてもそうは見えないけどな」
「大人の女には毒がある。貴方も歳上狙いなら覚えておいて損はないわ」
回りくどい言い方だが、つまりは詮索するなということか。自分の提供する会話にだけ乗っかれと。これでは提案ではなく、ただの強要だ。
代行者なんて腹に一物ある奴しかいないと、他ならぬシエル先輩が断じていたのを思い出す。
「……正直、気乗りはしない」
「嫌っていうなら別にいいわよ。ここで「死者」が一つ出来上がるだけだから。散々あの女と手を切るよう忠告されていたのにこんな所まで来ちゃったやつ、教会だって流石に庇わない」
「いいのか。この案件はシエル先輩の所掌なんだろ。組織人として正しい選択とは思えない」
「急に知能が下がったのかしら。元々ベスティーノのお膝元だったこの国に、特任の肩書を引っ提げて殴り込んだのが弓のシエルよ。代行者が司祭代行に喧嘩売るなんて、長生きしてれば奇妙なこともあるものね」
どうやら秋葉は見事に真実を言い当てていたらしい。なんならその見通し以上に連携が乱れている可能性すらある。とはいえシエル先輩もマーリオゥも、己の権力の為に隙を作るような馬鹿ではないだろうが。
確実に言えるのは、今ここで俺がどうなろうと先輩とマーリオゥの駆け引きにはなんら波及しないということだった。教会という巨大組織にとって、遠野志貴という一個人の動向など良くも悪くも些事でしかない。
下手に目をつけられても厄介ではあるし、なんなら既にシエル先輩に個人的にマークされている身なので、俺みたいな小物には不干渉を貫いてくれたほうが助かったのだが、そうは問屋が卸さないらしい。このような現場の判断において、代行者には広範な裁量が与えられていると聞いている。
もっとも、仮に最悪の結果に終わったとしてもシエル先輩はもちろんマーリオゥも恨むつもりはない。アルトルージュが指摘する通り、吸血鬼から手を引くよう再三警告されていたにも関わらず、行くところまで行き着いてしまったのは俺の自己責任である。
なので、いま懸念しているのは教会の打つ手ではないのだ。
「いや、そうじゃなくて。シエル先輩は想像や想起がこの街に巣食う吸血鬼……タタリの器になると言っていた。なら、いまここでアルクェイドの話なんかしたら、本当にアルクェイドが実体化したっておかしくない」
「あら正解。なんだ、やっぱり頭はちゃんとしているようで安心したわ。ええそう、ここで噂を煮詰めたらタタリはアルクェイドの姿をとるかもしれない。で、それが何か問題?」
「は……?」
この女はなにを言っている。
タタリによる具現化とは、たんなる幻影の類ではない。どういう由来を持つものであれ、その行動原理は殺戮にあるという。代行者である彼女がそのことを知らない筈がないというのに。
「勿論、フルスペックの真祖の姫が顕現するなら脅威よ。でもズェピアは所詮、数百年かそこらのつまらない死徒でしかない。タタリなんておもちゃ箱をいくらひっくり返したところで、飛び出してくるのは本物と似ても似つかない紛い物のみ」
「だからって、わざわざ呼び出す必要もないだろう。この街はアルトリウスが掌握している。タタリは顕現できていない」
「そうね。とっくにフライヤーは撒かれているのに肝心の幕がいつまで経っても上がらないのよ。“始まりがないなら終わりもない”──まさか永遠にこの拮抗を続けるつもり?」
痛いところを突かれた。アルトリウスが時間を稼いでいる間に、タタリの縁者というシオンから打開策を得るつもりだったが、実際はそのシオンもまた俺の目をあてにしていると来た。タタリを不活性化したまま対処する芽は摘まれている。
もはや戦うほかないのだ。幸い、シエル先輩という強力な戦力がこちらについている。アルトルージュとて矢面に立つつもりだろう。あとはいつ、どのような形で矛を交えるかというだけ。ああ、つまり。
「出来る限り不完全なタタリをあえて顕現させて、それを滅ぼそうってことか。だからって別にアルクェイドじゃなくてもいいだろ。もっと弱いなにかでも」
「十把一絡げの輩なら完璧に模倣されるわ。むしろあまりに脆弱ならかえってズェピアに下駄を履かせられるでしょうね。結局、真祖の王族ぐらいがちょうどいいのよ。システムとしてのタタリは愚直に再現を試みるでしょうけど、どうせあちこちエラーを吐き出す羽目になる。オフコンで月にロケットを飛ばすようなものかしらね」
「……あんたはアルクェイドをよく知っていると言ってただろ。どうして俺の口からあいつのことを喋らせなきゃならない」
「私が知っているのは、感情を知らない冷酷な処刑人としてのあの子よ。戦闘にだけ特化されてもつまらない。あなたの記憶にある壊れたアルクェイドの方がずっと面白くなると思わない?」
「面白くなるって、お前」
あまりに緊張感を欠いた言い草。いくら所属が異なるとはいえ、同じ代行者でありながらここまでシエル先輩とどこまでもスタンスが嚙み合わない。どちらに命を賭けるかと言われれば、俺は迷うことなく先輩を選ぶだろう。
そしてなにより、一年前の出来事をダシにされるのは気に入らない。それなのに、感情ごと記憶に蓋をしようと試みるだけ、かえってアルクェイドとの思い出が蘇ってしまう。アルトルージュという少女は、言葉だけで俺だけが知るアルクェイド・ブリュンスタッドを引き出していた。共鳴するように、公園に漂う霧が微かにさざめく。
これも尋問だった。シエル先輩のような責め苦を与えるものではなく、そうとは悟らせずに対象の心を揺さぶる技法。年齢を偽っているというだけあって、熟達したものを感じる。
「ま、間違っても負けることはないんじゃない。なにしろそっちには、アルクェイドに特効の息子がついているわけだし」
「──待て。どういう意味だそれ」
「あら? シエルから何も聞かされてないの。というより、あの代行者自身もちゃんと理解していないのかしら。てっきりあれだけアルトリウスにご執心なのは、アルクェイドを殺すための鬼札にするためだと思っていたけどそうじゃないのね」
わざとらしく頬に手を当てながら、アルトルージュは軽薄な笑みを深くする。
それで察した。この話こそ、彼女が本当に語りたかった核心なのだと。
「殺すって、アルクェイドは自分から眠りについたんだろ。それをどうしてシエル先輩や……ましてやアルトリウスが殺さなくちゃいけない」
「いいわね、一番に要点を突いてくるじゃない。話が早い子は好きよ。まあ一言で言っちゃえばね、アルクェイドは梯子を外されたわけ。なにしろ信用ならないから」
「それは、誰に」
「真祖の”製造者”であると同時に、力の供給源でもあるこの星に。なまじ最高レベルの権限を与えたぶん、血に狂って濫用されると消費が馬鹿にならないし……いえ、星のリソースを好き放題しているのはむしろアルトリウスの方か。だから最大のリスクは朱い月のほう」
「朱い月?」
「そう。衛星からの
語りながら、アルトルージュは目を細める。上機嫌故ではなく、むしろ真逆の感情から来る仕草。
朱い月とやらに因縁じみたものでもあるのかもしれない。だとしたら、アルクェイドを敵視することも一応は納得がいく。
いや、同じ理由であいつを疎んでいるのはこの少女だけではなかったか。星が真祖を生み出すというのなら、アルトリウスの起源も星の意思が絡んでいるということになる。
アルクェイドへの特効、アルクェイドを殺すための鬼札──その意味が見えてきた。あいつが侵略者を宿すトロイの木馬だというのなら、その中身が解き放たれる前に火を点けにかかるのは当然。
「自己防衛だって、言いたいのか」
「妥当な運用じゃない? 元々真祖は手足を持たない星が人類に抗う為に必要とされた抗体。中でも星の代弁者、星の分身たる王族の役割なんて、突き詰めれば星の生存だから。その為なら母親だろうと殺すしかない。標的が人類からアルクェイド……ひいては侵略者たる朱い月に変わっただけで、在り方自体は星の触覚そのものよ」
「だからさっきも言っただろ。正気を失わない為にアルクェイドは眠りについた」
「ええ、
吸血衝動が抑えられなくなった時、自らの意思で永眠する。それが寿命のない真祖の活動限界。アルクェイドには、そんな終わり方すら許されないのか。
「もっともアルクェイド・ブリュンスタッドは最強の真祖。それを葬るには必然、より強力な真祖を用意しなければならない。でもブリュンスタッドなんてそう易々と造れるもんじゃない。案の定、リソースが足りなくなった。この一年の騒ぎはその埋め合わせよ。なんと見事な自転車操業のお手本かしら」
「足りない分の捕食……それが欧州で行われたと」
「そ。あくまで私の推測だけどね。しかもアルトリウスはまるで満ち足りていない。真祖っていうのは上品な精霊の筈なのに、これでは快楽を貪る獣と変わりない。人間さながらね」
アルクェイドとハンバーガーを食べた時の会話を思い出す。
食事をあくまで嗜好として捉えていたあいつと違って、アルトリウスにとってはより切実な問題らしい。エネルギーの補給が生命活動に結びついている点は、確かに人間寄りと言えるかもしれない。
「さっきの理屈だと、アルトリウスはアルクェイドよりもさらに強い吸血鬼なのか」
「まぁ……成長しきれば? どちらかというと純粋なカタログスペックよりも、吸血衝動の有無とか星のバックアップの優先度とか、そのあたりで差をつけるんでしょうけど。そもそもアルクェイド自身がハイエンドだから、それ以上の武装なんて星にとってもコストばかり高くついて持て余すのよね。こういうジレンマって人間社会だとなんて言うんだっけ。核開発競争……? 違うか」
「いや、その例えはある意味しっくりくる」
「そう? いずれにしても、欧州の黴の生えた連中はご愁傷様よね。真祖と同じく星から生み出された精霊もいたでしょうに、軒並み兵器鋳造の為の燃料として焚べられたんだから。人間みたく星から独立しとけばしぶとく生き延びられたでしょうに」
どこまでも他人事といった様子でアルトルージュは肩を竦める。教会も多分に振り回されていると聞いたが、彼女にとっては些事らしい。
随分と胸糞の悪い話だ。思えば真祖はその在り方からして残酷だった。生涯を吸血衝動の抑制に費やし、最期は自ら終わりを選ぶか、同胞に粛清される。後者を役目としていたアルクェイド自身が限界を迎えた時、その処刑を担うのが発端の吸血衝動を持たない真祖というのは、ループの終点としては理にかなっている。あとはアルトリウスさえ死ねば後腐れなしということか。
真祖の運用は徹底して合理的だ。そして生物として強すぎるが故に、いざ廃棄するとなれば身内で殺し合うしかない。あまねく神秘はそのための資源でしかない。
「悪趣味だと思った? 同感。別に星に自我なんてないけど、それでもアルクェイドの処刑人を他ならぬアルクェイド本人に産ませて育てさせるあたりとか。しかもあの子、そのことについてはどうせなんとも思ってないでしょうし。真祖ってそのあたりの価値観が根本から外れているから」
「あんたは違うんだな」
無意識にそんな言葉が口をついた。自覚すらしていなかった認識に、自分で吐いたにも関わらず困惑する。どうして俺はそんなことを思ったのか。
同じくアルトルージュも驚いたように瞠目したが、それも一瞬のことですぐに目を眇める。代行者が吸血鬼の同類呼ばわりされたのだから当然か。幸い、それ以上の追及はなかった。
「欧州の件にしてもそう。星の分身なんだから、地上をどれだけ荒そうと自分の体を好きにしただけ。理屈としては正しいけどね。アルトリウスの場合、そこに人間の血が混ざっているのが不気味だけど。いずれにせよ、あれらを同時に運用出来るほどこの星は広くないのよ」
「じゃあなんだ。親子で殺し合うことに躊躇いはないってのか、二人は」
「少なくとも、アルトリウスの方は窮屈に慣れているようには見えないわね。いずれにせよ人間のあなたにはどうしようもない話。出来ることといえばせいぜい、忌み子であることに意義を見出す程度じゃない?」
「意義……」
子が母を殺す。その結末に意味があるとするなら、介錯といったものになるのだろうか。
血に狂い、吸血衝動のままに世界を壊す魔王に堕ちる。それは死徒となんら変わりない災害であり、これ以上なくアルクェイドの尊厳を穢すもの。
鮮明に記憶している。夜の公園でアルクェイドから向けられた欲望。血に染まった路地裏で目の当たりにした、死者を粉砕する無慈悲で圧倒的な暴力と、朱く歪んだ瞳。認めたくないが、あのアルクェイドは紛うことなき怪物だった。
さらにその先へ行ってしまった時、引導を渡してやれるのはあいつに匹敵する吸血鬼ぐらい。まさしくそれこそがアルトリウスに与えられた使命なのだとすれば、母親殺しにも慈悲殺という意義が見出せるのか。
「馬鹿馬鹿しい。だいたいあんた、いまのアルクェイドを知らないんだろ」
頭を振って縁起でもない思考を否定する。慰めにもならない現実逃避だ。真祖がどのような生物であれ、殺しを希うなど間違っている。
何も与えられず、同胞にすら兵器として扱われていたアルクェイドのみを知るアルトルージュは、その認識から脱却出来ないのだろう。そうではなく、全てを把握した上での提案なら、目の前の少女は完全に倫理観がイカれている。
いずれにせよ、これ以上付き合うのは時間の無駄だ。そう結論を出すと同時に、あたかも先手を打たれるようなタイミングでアルトルージュが腰を上げた。
「ありがとう。そしてお疲れ様。
ぐしゃりと空になったコーヒー缶を握り潰すと、ついでといって俺の手からも抜き取る。気分を落ち着かせる為に口にしていたのだが、いつの間にか飲み干していた。
それもまた同じように握り潰すと、両手で包んで一つにまとめる。少女が振り返りもせず無造作に後ろへ放り投げ、綺麗な放物線を描いて自販機横の蓋が取れたリサイクルケースに吸い込まれた。
殆ど俺がアルトルージュの話を聞くだけだったが、彼女にとってはそれで満足らしく、法衣の裾を翻して繁華街へと歩き出す。
こちらとしても引き留める理由など一つたりともないのだが、あまりに潔いその様には流石に困惑する。
「いいのか?」
「ん? ああ、いいのいいの。だってもう手遅れだから」
軽薄にひらひらと手を振って、こちらの返事を待たずに代行者は跳躍する。いつぞやのノエル先生とは異なり、軽やかに街頭を飛び移ってあっという間に夜の闇へと溶けて消えた。
最後の言葉はどういう意味か。俺の警戒を解くことは不可能だと判断したのか、それとも──。
「いや、まずは先輩に電話しないと」
アルトルージュが何者で、どのような意図で動いているのであれ、教会が絡むのであれば絶対にシエル先輩と連携すべきだ。
ともすればマーリオゥの利を損なうことになるかもしれないが、そんなことまで気を遣っていられる状況ではない。そもそも、俺に配慮させるつもりなら他にやり方があった筈だろう。一年前にしてもそうだが、ああ見えて自分から現場に出てくる性格なのに。
一度消したシエル先輩の携帯番号は、改めてアドレス帳に登録しておいた。まだ日が落ちて間もないこともあり、ワンコールでやや不機嫌な声が呼び出しに応じる。
「遠野くん! いまどこにいるんですか? 部室にも顔を見せませんし。まさかとは思いますが、勝手に下校したわけではありませんよね。昨日の今日で」
「いや、学校にはもういなくて……今は総耶駅前の公園なんです」
「つまり一人で下校したってことじゃないですか! 秋葉さんだって今まさにこの場にいるんですから! ……ええ、貴女の気持ちがよくよく理解出来ましたよ」
後半は俺に向けてのものではない。声が遠ざかり、すぐ近くにいるのであろう秋葉と話している。合間合間に、ノエル先生の気怠げな声も微かに聞こえた。
「はぁ……で、そんなところで何しているんです。勝手に下校したのは百歩譲って目を瞑るとして、そのまま真っ直ぐ屋敷に帰らなかった理由について誠意ある説明を求める、と秋葉さんが言っています。ええ、私も同じ意見ですね」
「情けない話ですが、釣り出されたんです。例の錬金術師……シオンが秋葉に偽装して俺をここまで誘い出して、そのまま戦闘になって。そうしたら先輩の部下じゃない代行者が乱入してきて、シオンを撃退しました。そいつももういないけど」
「そうですか。エルトナムはもう尻尾を出したと。予想はしていましたが、よりにもよって遠野くんを狙うとは命知らずな」
呆れたように、若干の哀れみも交えて嘆息するシエル先輩。
俺の強さを評したものではなく、遠野志貴を取り巻く人間関係の複雑さを踏まえてのものだろう。主に秋葉を念頭に置いているようだ。代行者シエルもまた、敵に回してはいけない人物の筆頭格だという自覚があるのかは定かでない。
「それはそうと、代行者の名前は聞きましたか? わたしの指揮下にないというなら、十中八九マーリオゥ司祭代行の子飼いでしょうけど」
「同感です。そいつは”アルトルージュ”と名乗っていました。あくまで自称なので、偽名の可能性も当然ありますが」
「っ――!?ありえません! それを名乗る代行者などあってはならない……穢らわしき祖が主の威光を騙るなど、冒涜的にも程がある!」
「──祖!? 二十七祖って言ったのか、シエル先輩!」
俺の言葉尻に被せんばかりの勢いで、シエル先輩は捲し立てた。耳を疑うような内容だった。
先輩からの
アルトルージュ。確かに不気味なものを感じていたが、代行者どころか死徒……その頂点たる祖だとは流石に予想するにも無理がある。少女が身を眩ませた地点を見上げ、次いで噴水広場の隅々まで視線を巡らすが、法衣の姿はどこにもない。
「先輩。とりあえずアルトルージュはもうここにはいないみたいだ」
「死徒はその在り方として生者を害する。人間が人間を殺すにも、死徒が人間を生かすにも等しく特別な理由がある。かの悪名高き月蝕姫は貴方を見逃したのは、それが彼女に利益を齎すが故」
「心当たりはある。けど、俺には想像がつかない」
「ええ。その為のわたしです。とにかく、彼女となにがあったのか話して下さい。全てを……!」
電話越しに聞こえるのは高らかな靴音と風を切る音。通話を維持しつつ、先輩がこちらに向かっている。
その到着を待ち侘びながら、シオンとの一戦を交え今しがたの出来事を追憶した。
◆
自身の一部を現象化し総耶に蔓延させた触覚──通称”霧”に揺らぎが生じたのは、ちょうど貸し切りにしていたシュラスコの在庫を余さず平らげた直後だった。
「お客様。失礼ながら、当店にこれ以上はもう」
「左様ですか。丁度いい塩梅でしょう。腹八分目という言葉もございますから」
実際にはまるで満たされていないのだが、無いものは仕方がない。急遽解凍したらしき480枚目のアルカトラ500gを飲み下し、マルベックで口直し。
対面に座るさつきは、最初こそ肉に口をつけていたものの、今となっては死んだ魚のような目でライチのヨーグルトをちびちびと削っていた。この店の貯蔵は全て買い取ったのだから、遠慮することもないのだが。
一帯のテーブルには空いた皿が積まれている。それらの回収のため、ワゴンが途切れなく厨房とホールを行き来していた。
「まあ、なんと言いますか。次は店舗ごと購入するか、人を雇うことも考えるべきでしょう」
「これでも足りないの……。どう考えても食べた量、アルトリウスちゃんの胃袋どころか体積を超えてるよね。質量保存の法則とかどうなってるの」
「全て私のエネルギーに変換されました。星を回す熱量としては微々たるものですが」
牛の死体をいくら焚べたところで、真祖の維持コストにはまるで見合わない。あくまで栄養補給というより、人間の趣味嗜好を理解するための学びとするのが目的だった。
やおら席を立つ。膨大な勘定の手間賃も含め後日請求書を送らせることとし、さつきを伴い店を出る。都内ビルの3階から見える夜景は、さながらネオンの大海原といったところか。
日が暮れれば世界は闇に包まれ、昼行性の生物は活動を終える。そんな自然の摂理を文明の灯りで冒涜的に塗り替える都会は、まさしく人類種の醜さと強靭さの一端である。元人間であるヴローヴはどういうわけか、その在り方を嫌悪していたらしいが。
「でもいいの? 半日もここで潰しちゃって」
「日中はどうせ大した動きもないので構いませんよ。あったとしても教会に露払いさせればよいかと」
「そっか」
さつきの顔はどこか浮かない。地に足がついていないというか、やる気が前に出過ぎている。
今朝からこんな有り様だ。死徒として優れたさつきは、日中でも肌を覆えば活動自体は出来る。その特性を活かして調査を行いたいと申し出てきたが、私はそれを却下した。
理由は単純で、総耶中に現象化した私を霧散させている以上、街中で生じている事象はリアルタイムで把握出来るからだ。さつきを遣わしたところで、彼女が取ってくる情報は既に私も握っている。
例外は霧の立ち入れない屋内……遠野邸や総耶高校だが、前者は紛うことなき伏魔殿であり、後者も埋葬機関が陣を張っている。さつきを投入するのはリスクしかない。
下僕とするにあたっての本命はシエルだが、さつきもまた全人類を母数としても指折りの原石であることは間違いない。加えて戦士としてまだ未熟だ。やる必要もない仕事の過程で撃墜されたら笑い話にもならないだろう。
祖であれ代行者であれ、エースプレイヤーには私自身が打って出るべきだ。そう、ちょうど今さっきまで、お父様に仕掛けていたあの”叔母”のような。
全て見ていた。だが今は、それよりも優先して対処すべき懸念がある。総耶における私の封鎖監視体制が加速度的に破られつつあった──現時点で既に、一部の区画から霧が排除されてしまっている。
私がこれまでやってきたことと同じことをやり返された。この私の現象化すら退ける程の自己拡散を成し得るモノなど一つしかない。
「跳びますよ、さつき」
「え、いまなんて……きゃっ!?」
ちょうど表通りから死角となる踊り場に出るや否や、さつきの腰を抱えて跳躍する。100メートルかそこらなら、一度地面を蹴るだけで十分だ。
隣接するビルの屋上の端、落下防止ネットに着地して、呆然としたさつきを下ろす。雑居ビルの屋上が限界の彼女にはやや刺激が強すぎたかもしれない。
「お待ちかねの仕事ですよさつき。さあ、シオンの身柄を確保して下さい。言うまでもなく殺してはいけません。衰弱した今の彼女ならあなたでも十分に対処出来ましょう」
「腹ごなしだね。それで、場所は分かるの」
「好都合なことに、公園からあなたが寝蔵にしていた路地裏に向かっているようです」
屋上から該当するルートを指し示す。あえてここまで高度を確保したのは進路を視覚でさつきの頭に叩き込むためだ。土地勘なら当然さつきに分があるが、数々の追っ手の目を掻い潜ってきたシオンは隠密に長けている。
アルトルージュが負わせたダメージは大きい。捕捉さえすれば、戦闘経験に乏しいさつきでも遅れは取るまい。それにしても、窮状にある死徒は路地裏に集う法則がこの街にはあるのだろうか。
月光に照らされて伸びた足元の影に手を突っ込み、中で丸まっていたレンの首根っこを捕らえて引き摺り出す。流石に察しのいいレンは一声鳴いてさつきの肩に乗り移った。既にお互い紹介は済ませてある。
「ひとまずレンを預けます。それと忠告を一つ。シオンは相手の思考を読むので、そこだけは気をつけますよう」
「エスパーなんだね。ええっと、それでアルトリウスちゃん。ひょっとしてわたし……ここから飛び降りないといけなかったり?」
「今のあなたなら問題ないでしょう。それでは、お願いいたしますね。さつき」
「お、鬼っ……!」
雑居ビルからは頭から飛び降りれたのに、今更なにを躊躇しているのか。いつまでも人間の感覚を引き摺っていては生き残れまいと、千尋の谷に突き落とす心境で突き放す。
せめて手本ぐらいは見せてやるかと、落下防止ネットの縁を蹴り飛ばし空中に身を躍らせた。霧散して流れた方が若干早いが、現象化すると吸血鬼の生体反応が読み辛くなる。
80メートル程落下した途中に突き出た構造体を蹴り飛ばし、動きを縦から横へ。膂力にものを言わせ、目につくビルの壁を跳ねながら総耶の空を飛んだ。窓を割らないよう、音速を超えない限界まで巡航速度を抑制しながら。
都心のビル群、繁華街を滑空して静閑な住宅街へと。一戸建てが並ぶ地区は足場に乏しく見える。そこに到達する直前、一際頑丈そうなビルの外壁を足掛かりに上方へと射出。弾道弾の要領で、何もない夜空を超音速で横断する。大気が爆ぜ、その刃が前髪を揺らす。
今からの仕事は、顕現しつつあるタタリの特定だ。私の霧を破るのに力の大半を消費し、出涸らしのような実体しかないなら楽に済むだろう。
しかしそれは、あまりに楽観的な願望に過ぎないのだと──新たに現出した生体反応のありか、総耶で唯一霧の晴れた地点へ着地したと同時に知った。
「あは、もうやって来たんだ。アルトリウス」
夜道を優雅に闊歩する”それ”が振り返る。
月下に翻る金髪。毒々しく朱い瞳。凪いだ微笑は穏やかでありながら、どこか箍が外れた狂気を孕んでいる。
夜風に乗って波打つのは、紫色のロングスカート。一年前、この街を訪れた姿との明らかな違い。それは果たして何に由来するのか。
「お母様」
思わず歯噛みする。これだけは避けたかった。私が想定していた中でも最悪に近い展開。
当然だが、タタリにとっては形を成す器は強力な方が望ましい。条件さえ揃っているなら、アルクェイド・ブリュンスタッドという最強の吸血鬼は真っ先に候補として挙がるだろう。
とはいえ、それにも限度がある。祖の一角でこそあるものの、あくまで死徒に過ぎないタタリにとって真祖の王族の再現など無謀。顕現するのはオリジナルと比較することすら烏滸がましい贋作となる。その点でアルトルージュの教唆は的を射ている──通常ならば。
だが、今回のタタリは違う。私と拮抗し、行き場のないエネルギーを貯め込んだ結果……オリジナルには程遠くとも、それなりに見れる程度の造詣を具現してしまった。
こうした事態を避けるため、ベスティーノと結託し、警察の汚れ仕事を請け負ってまで噂の操作に努めてきた。『吸血鬼の少女』の都市伝説を梃子にして、あくまで管理出来る範囲で具現化させ「ガス抜き」したのだが。
「残念。もう時間切れってことよ」
「あり得べからざることです。アルトルージュが何を吹き込んだにしても、いまその姿を成すにはあまりに早すぎる」
「アルトルージュだけじゃないわ。やらなくてもいいことをやるような奴は世の中それなりにいるものよ」
一体何時、何処で。この街は今の今まで私が掌握していた。企てがあったとするなら、監視の目が及ばない屋内である。
この感情を持つ──壊れたアルクェイド・ブリュンスタッドの具現化において鍵となるのは遠野志貴だ。つまり遠野邸と総耶高校に容疑がかかる。代行者がタタリを起こす理由がないので、消去法で前者となろう。
私の目が及ばない遠野の屋敷で、お父様に仕掛けた不届き者がいる。阿良句とかいう自称医者。聞いていた姿とは異なるが、奴を”蜘蛛”と断定していい頃合いか。
魔法使いがそこまで情報を寄越せば先手を打たれずに済んだものを。この案件に深入りするのを世界が許さないにしてもだ。
そんなこちらの心情など素知らぬ顔で、月下のお母様は金髪をかきあげ、カリカリと伸びた爪を擦り合わせる。
「悪いけど、今はあなたの順番じゃないの。お礼をしなくちゃいけない人間に会いに行かないとね」
「おや、ヴローヴとの戦いで赦免されたのでは」
「ええ、志貴は罪を償ったわ。でもそれと、被害者であるわたしの気持ちは別の話。志貴にはまだまだ受け止めてもらわないと──ぐつぐつに煮え滾った、この吸血衝動をね」
言い終えると同時、風にさらわれるようにお母様の身体が崩れていく。
タタリは神出鬼没だ。意思を持つ怪奇現象であるからには、わざわざ肉体に固執することもない。白い化身は瞬きの間に粒子に還る。
「またね、アルトリウス」
目の前の実体を斃すこと自体は可能だ。多少は仕上がりが良いだけの、紛い物の王族に私が劣る道理はない。
しかしそれも無意味なことだ。紛い物とはいえ現象として一定の規模を成した以上、吸血姫は何度でも現れる。アルクェイド・ブリュンスタッドの虚像を完全に消去するには極まった殺害手段が必要となろう。
すなわち、私とタタリの目的地は同じである。互いに現象化に長けている以上、後から粒子化して飛ぶのはリスクが大きい。
代わりに星との同期を強め、器の強度を引き上げながら、私は公園目指して再び夜空を舞った。