意図的に崩された霊子の集まり。拡散したアルトリウスという吸血鬼のからだ。
散々『霧』と例えられてきたし、事実として総耶の住人の大半はそのように認識しているのだろうが──いざそれが一つの意志の下に統括されれば、まるで違う現象だと理解出来るだろう。それこそたった今、目の前で起きているような。
ぶちぶち、ごりごりと瑞々しい肉体を砕き、抉り、削ぎ落す音。密集しせわしなくさざめく白い粒子の塊は、餌に集る羽虫の群れを彷彿とさせる。犠牲者の末路が見えないとはいえ……あるいは見えないからこそより正視に堪えない捕食であったが、酸鼻極まりない狂宴を前にしても、隣のお父様に動揺はない。
ホテルで虐殺に直面した時から随分と変わったものだ。それが良いか悪いかは別として。
「……やったか?」
「駄目ですね。タタリの本体にはまるで届いておりません。もっともそんなものが存在するならば、の話ですが」
当たり前だが、喰らったモノは残らず私に還元される。故に、得られる熱量の乏しさも感覚として理解出来る。まるでぬいぐるみの腹を裂き、中の綿をむしるかの如き手応えの無さ。
幾度となく口にしてきた人間の血肉でこそあるものの、存在としての意味がない。ただの唯物論的な肉の塊。それ以上でもそれ以下でもなかった。獲物の魂を取り込む真祖の捕食の観点から照らせば、率直に言って搾り滓も同然である。
いくら吸血鬼とはいえ、肉体を損なえば多少なりとも存在規模に影響は生じる。兵士として血を集める最底辺の死者や屍鬼などは、神秘に拘らずとも肉体を徹底的に破壊さえすれば滅ぼせるし、高位の死徒であっても魔力の消費は避けられない。
タタリの成した所業、自己の放棄は昇華と同義だ。元より二十七祖など変わり者の集まりとはいえ、ここまで奇怪な生態を獲得した死徒はいまい。一つ確かなのは、自然を操作し物理現象で戦う真祖の基本戦術とはあまりに相性が悪いということである。
そうこうしているうちに、獲物を残らず貪りつくした霧が消える。血の一滴も獲り溢さない捕食が終わった後には、白い化身の名残は一つとしてない。
しかし、それも一瞬のことだった。文字通り瞬きの間に、お母様は何事もなかったかのように再びそこに現れる。あたかも映写機のスイッチを入れたかのような唐突感と、現実感の無さ。復元呪詛とも、かつてのシエルのバグともまるで異なる「不死」のアプローチ。
「なるほど。治癒でも蘇生でもなく、あくまで再現だと。まさしく怪奇現象ですね」
「全身食われても問題ないのか、あれは。損耗させるとか言ってたが本当に出来るのか」
「タタリに限らず、死徒にとっての損耗とは貯蓄の枯渇です。あれも今宵に全てを出し尽くすつもりはないでしょうから、あまりに出費が嵩めばお母様のカタチを捨てざるを得ない」
もっともその前に、紛い物の器が出力に耐え切れず破損する可能性が高いだろうが。なんにせよ、私の抑圧からようやく顔を出せたばかりの、まだ総耶を掌握出来ていないタタリは大人しく一時撤退を選ぶだろう。
その時に逃げを許さず、直死の魔眼で殺すことに成功すれば、タタリは少なくとも狂気に堕ちたアルクェイド・ブリュンスタッドとして現れることはない。
「ひとまずお父様はお退き下さいませ。特に合図は飛ばしませんので、殺せそうな時に殺して頂ければと。気負わずとも、ヴローヴの時と同じようになされば問題ございません」
「簡単に言ってくれるなぁ!」
「……ねぇ、二人とも」
私たちの様子を腕組みしながら眺めていたお母様が、しびれを切らしたように口を挟む。
先ほどの高揚どこへ行ったのやら、すっかり不機嫌な様子。どうやら生きながら食い殺されるよりも、蚊帳の外にされることの方が遥かに堪えるらしい。
「そろそろお別れも済んだかしら。親子水入らずを台無しにするのは少しだけ心苦しいけど、あれだけ食い散らかしてくれたんだもの。真っ当に死ねるなんて期待してないわよね?」
「そのような無価値な肉、むしろ完食したご褒美が欲しいものです。グラム10円でも買い手のつかない屑肉。無駄に脂肪に富んでいてまだ胸焼けがいたします」
「ふふ……そう。なら、まずはその胃袋から摘出してあげる、アルトリウス。遠慮しないで。息子の病気を治すのは母親の役目だもの──!」
嗜虐的な笑みをますます深くしつつ、ぐ、と腰を落とした。深さにして十メートルを優に超える
ここで警告が必要なほどお父様は鈍い人間ではない。退避を丸投げして、私は構えも取らずに最高速度で吸血姫へと強襲する。
「なんとぉ!?」
またもや出鼻を挫かれ、お母様は目を丸くする。今まさに突撃を敢行せんとする真祖の姫君を相手にして、真正面から突っ込んでくる敵などただの一人もいなかったのだろう。
勢いをそのままに振るった爪先は、前腕によって的確に防がれる。その守りの堅さはかつて「教育」をつけられた本物のお母様と遜色ない。この死徒──いまこの瞬間にも、一体どれだけの資産を浪費しているのか。
「んー……ちょっと軽すぎるかな? アルトリウス、ちゃんと食べてる?」
「ええ。そしてこれは腹ごなしです」
人間の格闘技は重さで区分されているらしいが、私たちぐらいになると個体としての体重差など殆ど誤差だ。大きな違いがあるとするなら、体格差から生じるリーチと小回りである。
殆ど密着する間合いで畳みかける。肘鉄からの裏拳。爪による斬撃よりも、打撃の方が幾分相手の強度を分析しやすい。相変わらず手応えは薄かった。
真に脅威たるは再現の精緻さよりも、それを可能とするだけの途方もない貯蓄だろうか。並みの死徒が同じ異能を得たところで破産への一本道だ。飲血鬼の異名は聞いているが、果たしてどれだけの血を啜ってきたのだろうか。
「──あぁもう、うざったい!」
反撃はおろか、間合いを見計らうことすら満足にいかない状況にお母様は焦れる。見切り発車のまま、既に戦闘開始から十秒以上は経過しているというのに、有効打を与えているのはこちらだけ。仮にこれが本物相手なら、恐らく圧倒されていたのは私の方だ。
ただ外皮を固めるだけならまだしも、肉弾戦ともなれば流石に再現度も落ちるのだろうか。それとも性能だけを与えられたところで十全に扱いきれないのか。どこか拍子抜けした瞬間、襟首を掴まれる。
「捕まえた」
そーれっ! と掛け声とともに広場の端まで投げ飛ばされる。重力に引かれるまま馬鹿正直に落下してみれば、ようやく反撃の端を開けた白い化身が嬉々として飛び込んできた──そう誘導されたとも知らずに。
着地と同時、胴回し回転蹴りで迎え撃つ。狙い通り綺麗に顔へ入ったが、それも本命ではない。反動を利用して再び空中へと舞い上がり、そこに留まった。
投げられてからここまで、客観的時間にしてようやく一秒。ここまでの攻撃の応酬は全て真祖だからこそ見切れたものだ。人間の動体視力ではせいぜい閃光程度にしか捉えられない以上、立ち会うのは自殺行為と変わらない。
吸血姫の突進により吹き荒ぶ砂塵に顔を覆うお父様は、こちらから反対側の端に立っている。安全圏とは到底言えないものの、事故死にはまず繋がらないだろう。これなら精度の粗い私の空想具現化でも気を遣わずに戦える。
「窮屈は御免です」
体勢を崩したままこちらを見上げるお母様に目掛けて真空弾を掃射する。肉弾戦を好むオリジナルの真似をするのは勝手だが、それに私が律儀に付き合う義理はない。
いくつかは弾かれるが、大半は虚飾の器を削った。血煙を纏った赤い大気の残滓を一つに束ねて、すかさず追撃の竜巻を創造する。その中心部にいるお母様を擦り潰しながら、私を始点に広場の大半の範囲に刻まれた傷痕を見る影もなく上書きした。
暴風に巻き上げられた瓦礫が、土砂崩れさながらに大地に振り注ぐ。宙に浮かびながら眺めていると、それを吹き飛ばした虹色の衝撃波がこちらに飛来する──星の息吹か。
「紛い物の分際で」
片腕で振り払う。懲りずに殺到する第二波を前に、引き上げた星のバックアップに物を言わせ同じ攻撃を叩きつける。相殺すら許されず、地面のクレーターを一層掘り下げる結果だけが残った。
実力の差は誰の目にも明らかだったが、贋作には分不相応な負けん気まで発露したお母様はそれでも退かない。膨大な資産と引き換えに肉体を再構築し、矢継ぎ早に星の息吹を連射する。当然、この身には届かない。
肉弾戦に拘り、いざ空想具現化を解禁したところで繰り出す手はあまりにワンパターン。文字通り「空想」をよすがとする権能を完全に腐らせているが、あれが『瀕死手前まで機能の低下したお母様』しか知らぬお父様の想念から生み出された存在である以上、本来のアルクェイド・ブリュンスタッドの基準で測るのも酷だろうか。
攻撃した矢先からその倍以上の反撃で叩き潰される。その繰り返しが続く中、お母様が唇を尖らせる。
「つまらない。飽きた」
「ええ、興醒めです。せめて失望だけはさせないで頂きたかったものですが」
細やかな調整をこなす為の集中力を切らしたのか、お母様の出力向上は止まる気配がない。こちらも挑発で応じながら、星からの供給を青天井に引き上げていく。
これでいい、と心中で笑う。
タタリが獲得した真祖の特性とは、クレーターから脱出した直後に見せつけた植物の活性化に止まらない。そもそも、お母様が成す現象の規模があまりに規格外なだけで、自然干渉は地球の生み出した精霊にとって特別な力とは言えない。
それではなく、真祖を真祖たらしめる権能──星のバックアップをも、タタリは完璧と言ってよい程の再現に成功している。原理血戒ありきとはいえ素直に称賛すべき偉業だが、その対象に私を置いてしまったのが致命的な誤りだった。
常に相手の性能を一段階上回る真祖の能力は、真祖同士の戦いにおいても適用される。すなわち互いが互いを凌駕せんとするわけだが、その競り合いの勝敗を分けるのが、どれだけ星から汲み上げることを許されているかという権限の差だ。真祖としての性能差と言い換えてもいい。
下位の個体は、上位の個体に絶対に勝てない。なにせ終局に至れば必ず自身より強くなるのだから。性能で劣る真祖は、他の全ての生物と全く同じ理不尽を押し付けられる側に成り下がる。かつて真祖が尽くアルクェイド・ブリュンスタッドに斃れた理由がこれだ。
これから私は、全力で出力を引き上げ続ける。タタリは対抗するのだろうが──その果てが権限の限界にせよ、過剰供給による器の自壊にせよ、本物の王族たる私に適う道理はない。上手いこと後者を引き当てれば、直死の魔眼が通せるだろう。
かといって、今さら肉弾戦に立ち返ったところで勝機はあるまい。ただでさえ性能では雲泥の差がある上に、空想具現化まで縛ったら話にならない。最初、曲がりなりにも戦いの
最も手間が省けるタタリの自壊か、多少手間がかかる削り壊しか。いずれにせよ私の負けはなくなったと確信して──だからこそ、得体の知れない胸騒ぎが鎮まらない。
「あははっ」
狙い通り、眼下のお母様は苦しそうだ。私の空想具現化によるものだけではない。外側ではなく、内から炙られた結果として、その鼻孔と口の端から血を流している。血を流しながら──嗤っている。
逃れられない死を目前に笑う者なら、これまでにも多く見てきた。挑発、意地、自棄、諦観、現実逃避、そして媚び。あれは何れでもない。まだ勝負を投げていない者の目だ。代償を顧みず、何かを為そうとしている者の目。
「何か笑い何処でもございましたか」
「えぇ。だって、アルトリウスったらまだ見えてないんだもの。いけないわ。いくら敵でも人の話はちゃんと聞かないと」
「なるほど。それで、他に何か言葉を遺されますか?」
虚勢やハッタリの類ではない、と勘と経験で判断を下す。このまま息継ぎも出来ず星の息吹で圧し潰される前に、どう一矢報いる。まさかとは思うが、星の過剰供給を元手に自爆でもするつもりか。
論理的に考えて、この場における私の弱みはお父様しかない。わざわざ遠ざけるまで空想具現化を封じていたのだ。そして現状、タタリそのものを滅ぼし得る最大の鬼札でもある。
意趣返しとして道連れにするにはうってつけだ。この私の護りを搔い潜って実現可能かはまた別として。
滞空を解除する。雷霆で敵を牽制しつつお父様の隣に滑り込んだ。最初と異なり相手との距離が大きく離れているこの配置なら、少なくとも私の攻撃には巻き込まない。
素直にお母様が突っ込んでくるなら、距離を詰められる前に大火力で焼き払うだけだが、どういうわけか腰に手を当ててこちらを眺めながら佇んだまま。
「座して死を待つと。殊勝なことでございます」
「なわけないじゃない。たんに、戯曲の定石に倣っているだけよ。伏線回収のないまま終わる脚本なんて三流未満でしょう」
「そうですね。目の前で呆けておられる大根役者の次くらいには」
「そう言うあなたはとても立派に道化を演じたものね。未だに自分を騎士と信じている愚かさは可愛いけれど、あまりに狂言回しの察しが悪いと退屈よ。最近は何事も手早く済ますのが流行りらしいし、そろそろネタバラシしてあげたらどう? 志貴」
「……お父様?」
目線はそのまま、隣に立つお父様に呼びかける。動く気配はない。
一体何が見えているのか。視線はそのまま、隣に立つお父様に呼びかける。空を見上げたまま動く気配がない。
一体何が見えているのか。宙に浮かぶ私を見ていたものとばかり思っていたが、既に私は地に足をつけている。そもそも接続を強めている今、この星に存在するあらゆる事象は木の葉の一枚に至るまで知覚出来るが、今この地上において見るべきものなど何もない──
「月が」
「月?」
お父様の呟きに、最大限の警戒を維持しつつ敵から目を逸らして私も空を仰ぐ。
少なくとも言葉の上では、タタリは再度距離を詰めこちらの空想具現化を封じる機を捨ててでも、私にそれを見せたいらしい。
「あれは……」
地上から見て、先程までの私が背負う形だった月。恐らくお父様が本当に見据えていたそれが──禍々しい朱色に染まり、明らかに見間違いでは済まない大きさでこちらを見下ろしていた。
かつて月の城から見えた天蓋にも見劣りしない。そして、星の内海ではなく地上から観測する以上、天体の見え方が変わる理由など物理法則以外に存在しない。なんとも受け入れ難いが、今この瞬間、確かにそこに在る現実だった。
「月が、落下している」
「ああ、とうとう俺の目が壊れたってわけじゃないんだな。むしろそうであって欲しかったよ。二十七祖ってのはそんなことも出来るのか」
意外にもお父様の声音に恐慌の色はない。現実に実感が伴わないのか、まるで映画でも見ているかのような他人事さが垣間見える。
なんにせよ、ようやくタタリの余裕が腑に落ちた。道理で何も感じ取れなかった筈だ。特に縁の深い月には力こそ及ぶものの、あくまで違う体であるから、
ただし、今の今まで見落としていたのはそれ以前の話だった。お父様の溢した通り、いくら二十七祖とはいえ流石にこれは常軌を逸している。衛星とはいえ、星の力に直接干渉出来るのは、ごく一握りの極まった真祖だけだろう。死徒に過ぎないあれが成し得たことに、どうにか理屈を立てるならば。
「……やはり、原理血戒でしょうか。なにしろ月の王の原液ですから、かの星へ干渉するにあたっては最上の触媒となる」
加えて、タタリの存在濃度が通常より桁外れであること、虚構とはいえお母様の姿を成していること、私とのせめぎ合いで星から力を汲み上げていること……だが、それにしたってどうかしている。他にもタネがあるだろうが、確かめるだけの余裕はない。
地球の力を強め、月を招き寄せているならとっくに私が察知出来ていた。つまり、あれは月の力に働きかけ、自ら軌道を変化させた。
「繊細な操作は流石に不可能な筈。となると、力技で月を動かし、あとは地球の引力に委ねているのでしょうが。いずれにせよこのままでは、夜明けを待たずして回帰不能点に到達いたしましょう。そして、事実上残された時間はさらに少ない」
「そうだよな。潮力も電波もおかしくなる……いや、実際はそれだけじゃ済まないんだろうけども」
「物理的な衝突そのものは、私が月に逆さの力を働きかければ回避出来ます。問題は、それまで人類文明が生き残れるかということ。一刻の猶予もございません」
「信じられない、あの大馬鹿──!」
人間一人一人の行く末に興味はないが、人類と、人類が創造するモノが消えて無くなるのは御免被る。誰もいない星を生きていくのは嫌だし、何より現状をそれなりに気に入っているのだ。
再びお母様に目を向ける。特に手出しすることもなく、どこか得意げにこちらの反応を堪能していた。言葉通り、とっておきの演出を披露することを優先したのか。
「わたしの“とっておき”は満足いただけて? なら良かったわ。やっぱり演劇には観客がいなくちゃ。いくら地球の分身であるあなたでも、”本体”を潰せば流石に死ぬでしょ」
「そも、月が落ちれば当たり前ですが人類は滅亡いたします。必然、人間の血を無くして生きられない死徒も例外なく滅び去るわけですが。自滅を厭わず破滅を撒き散らす無節操さは、流石に死徒の親玉といったところでしょうね」
「このわたしに言われてもね。『月落とし』は確定したシナリオで、わたしは与えられた
不気味な沈黙を保っていたお母様が猛然と駆け出した。身の丈に合わない力の行使の反動を一手に引き受け続けた故か、その速度は目に見えて衰えている。
黄金に染まった両の瞳からは、滂沱の血涙が溢れている。思わず陶器のカップを連想した。白い玉体は焼き物で、割れてしまえば中身の液体が零れ出す。そして、その液体こそがあれの本質なのだ。啜りに啜った、底なしにすら思える血液の煮凝り。
「っ……」
想定通り、空想具現化で叩き返すのが最善手である。距離さえ詰めさせなければ、完封するのは難しくない。そうして衰弱しきったが最後、直死の魔眼で止めを刺す。
──それこそがタタリの本当の狙いだ。あれの対処に力を割いただけ、月を元の軌道に戻すのが遅くなる。というより、月を動かすという正攻法で無事に完遂するには、直ちにその作業に全神経を注がなければならない。不完全とはいえ、祖の一角を相手取りながら。
逡巡のうちに、お母様は目と鼻の先まで迫っていた。反応が遅れた私を庇い、間に割り込んだお父様がナイフの刃で爪を弾く。
「この、馬鹿女ァ──!」
「おっとぉ!?」
目をまん丸に見開いたお母様は、反射的に身を引いた。結果として突進の勢いが殆ど無駄になり、辛うじてお父様は命を拾う。
いくら紛い物、それも自壊寸前とはいえその衝撃は凄まじい。拙い動きでナイフを持ち替えたところを見るに、一撃で感覚が麻痺したらしい。
「もう、危ないったら。駄目よ志貴、簡単に命を投げるなんて。お人形遊びの前にうっかり壊したりなんかしたら、それこそ興醒めじゃないの」
ひらひらとおどけたように弾かれた手を振って見せるお母様を前に、お父様は一歩も引く気配を見せない。むしろ、さらに一歩踏み込んで私との間に壁を作る。
正義感や矜持ではなく、私が動けないことを的確に察した上での動きだった。
「お父様。文明と引き換えにあれを滅ぼすか、地上の安寧の対価としてここで命を差し出すか。どちらがお好みですか」
「既に答えを言ってるようなもんだろ。お前には何も捨てずに解決する為の算段がついてる」
「残念ながら、世の中そこまで虫の良い話はございませんよ。万事須らく等価交換。支払いはお父様の頑張りと──教会の面子です」
両腕を大きく広げる。
開いた掌、その空間の中に、私が汲み上げた全て──天体を動かすほどの熱量を集約させる。この空想具現化を成すには、軍艦の主砲発射に匹敵するだけの作業の全工程を一人でこなさなければならない。精密操作の不得手な私にはあまり向いていない手段だが、それでも「破壊」の一点を突き詰めるだけならやりようはある。
平行世界から無限に魔力を持ってくるなんて魔法は必要ない。きちんと工程を踏みさえすれば、衛星を打ち返す火力を用意するのはそれほど難しい話ではないのだ。
「ほらほら、頑張る頑張る!」
私が何かをしようとしていることは分かっているだろうに、タタリは時間稼ぎの方針を続けるようだ。こちらを無視して、玩具と見定めた方に食らいつく。
対するお父様は凌ぐので精一杯といったところ。健気な抵抗を前にして、お母様の貌が凶相に歪む。
弱者を嬲る快楽に瞳を蕩けさせ、穴という穴から鮮血を滴らせる有り様からは正気など欠片も見て取れない。狂気に酔い痴れた吸血姫は、この遊びを少しでも長く楽しまんとあえて緩慢な動きで運命の番に爪を振るう。
「あっはははははは! 今度はあなたの番よ志貴! わたしと同じように、バラバラになってから蘇ってみせてよね……!」
「こ、のォ……!」
だが、お父様の目はただ狩られるだけの獲物のそれではない。たとえこれが遊びであっても──己が弄ばれるだけの玩具であろうとも、時間を稼ぐという役割は果たせているのだから。
自分の仕事に集中する。両掌の上で臨界まで到達し、周囲の大気を吸い込みながら青白い光が放たれる。真空の只中にあって、世界の軋む音が聞こえた。
炉心の正体は、それぞれ基底状態と励起状態に固定した極小の真世界。存在の前提からして相反する二つの秩序。決して在ってはならないそれらを、受け入れ難い不条理を排除すべく世界が修正を試みる。それはそのまま、膨大なエネルギーとして両手に蓄積された。
特異点として、掌にただ具現化するだけでこの熱量。ましてや二つをぶつけ合わせ、矛盾による自己崩壊と共に生み出される火力に指向性を持たせれば──十分に求める結果が得られるだろう。
「お父様!」
こちらの一声に、お父様は鋭く反応して横へ跳ねる。すかさずこちらに向けて飛び退こうとして──死角から放たれた鎖に、両腕ごと上半身を捕らわれた。
「お前っ……!」
「させない。お遊びはもうおしまい。そろそろ──」
直死の魔眼の行使には、必ずしもナイフは必須ではない。線をなぞらせなければ良いだけだ。
拘束を解く唯一の手段を封じられ、お父様は再び引き戻される。三日月に裂けた唇を舐め、白い吸血鬼はぐわりと牙を見せつけた。
「あなたを貰うわ、志貴」
「…………っ!」
出力は落とせない。あわよくばタタリも巻き込む算段だったが、それも諦めてさらに照準を絞りかけたその瞬間、何かが空気を切り裂いて飛来する。
赤い十字の柄に、それとはアンバランスな長い刃。斬撃よりも刺突に重点の置かれた長剣。
黒鍵と呼ばれるその武装は、目を見張る程の精度のもと、一射にしてお父様を縛る鎖を残らず断ち切る。そのままお母様の血に塗れた地面に突き刺さると同時に、凄まじい爆炎を撒き散らした。
「火葬式典……」
こちらまで届く衝撃波に晒されて、お父様が遠くに弾き飛ばされる。この回避手段は、以前に欧州の森で彼女が見せたものと同じだ。
なんにせよ、これで同士討ちの懸念はない。さらに好都合なことに、足元の爆発を回避すべく、お母様が直上に飛び上がった。ちょうど、私と月を結ぶ射線に、完璧に重なる座標。
それすら彼女が意図していたかは定かでないが、利用しない手はない。空を仰ぎ、照準を迫りつつある月に合わせ──両手を、顔の前で叩きつけた。
おん、と世界の揺らぐ音。
衝突し、干渉し合う異秩序。どちらも認めない現実世界の正しい秩序。三つが交じり合い、反発し、帰結として脆弱な二つが崩壊する。
正しく世界の創造と破壊。そこから生まれた行き場のない「余り物」を、残らずエネルギー砲として射出する。
極光は、お母様を白く塗り潰した。出力は衰えることなく夜空を光速で一閃し、数秒の余韻を残して光の筋は消えていく。
後に残るのは、射線の直下にある炭化した石畳の残骸に、ぽっかりと穴の開いた夜雲だけ。もし今の一撃を観測していた者がいたなら、地上から正体不明のレーザーが照射されたように見えただろう。
そして月面に目を向ければ、今まさに生まれたばかりの極大のクレーターが分かる筈だ。惜しいことに、この国から見える月の兎は永遠に餅を付くのを止めてしまった。
引き換えに、月の軌道をだいぶ逸らせた。これで、地上に影響が出るまでの時間は大きく稼げたということだ。
月面に撃ち込んだ私の魔力も利用しつつ、衛星の動きに働きかける。既に、お母様からの
「今宵の舞踏会は、もうお開きということですか」
「……え、え。その通りよ」
ぽつりと呟いた独り言に、予期せぬ反応。視線を落とすと、上半身だけになったお母様が、腕だけで這いずりながらこちらに寄ってきていた。
言葉を交えるに丁度いい距離。ここまで近づかれなければ気配すら読み取れない程、衰弱している。既に溢すだけの貯蓄もないのか、血の涙は引いて元の綺麗な赤色の瞳が輝いていた。
衛星を弾くほどの一撃は流石に効いたらしい。これなら直死すら要さずこの手で葬れるかと、爪を伸ばして一歩進めばお母様は苦笑する。
「いくら力技が最適解だからって、物理的に月を動かすなんて馬鹿じゃないの。ちょっとでも出力を間違えてたら砕けてたかもしれないのに。そしたらそれこそ、人類の滅亡よ」
「物理的に星同士をぶつけ合わせようとした馬鹿が何をおっしゃいますか。今の言葉、丸めて顔面に投げつけて差し上げますよ。……それで、まだ続けられますか」
「言ったでしょう。これが『このわたし』の──暴走したアルクェイド・ブリュンスタッドの役割だって。殺されない限り、わたしは止まることは許されない」
「左様ですか」
分かりきっていた答えではある。システムであるタタリが具現化した存在である以上、与えられた役割に従うだけの存在だ。そもそもタタリ自体、自己の保存を目的としたものではないだろう。
所詮は紛い物だ。こんなもの、
「駄目だ。お前にはやらせない」
とん、と。
上体だけのお母様の点を、お父様が貫いた。
「お父様」
「──こいつを殺すのは、俺の役割だ。そう決まっているだろう?」
僅かに俯いた顔。月光を背にしたそれは、私からはよく見えない。
だが、地に伏せるお母様にとってはまた違ったらしい。顔だけを向けて見上げる赤色の瞳が、息を呑むように揺れる。
「アルトリウスに殺される為のアルクェイド。俺がそう想像して、その通りに生まれた存在だとしても、その通りにはさせてやれない。俺は、お前の役割ごとお前を殺す」
「志──貴」
どこか夢見心地にその名を呼んだお母様の口から、ごぼりと血が噴き出した。
バラバラになった白い身体。いつかの日と同じ、目に焼きつくような血の海に沈む。
紫のスカートも、踵の高い靴も無くなってしまったその姿は、本当にあの瞬間の焼き直しのようで。
「……どうだったかな、『わたし』──ほんとうの、志貴の大好きなわたしみたいだったかな」
「なわけないだろ。あいつは最後まで俺の血を吸わなかったし、ましてや月を地球に落とすなんて馬鹿みたいな真似、するわけがない」
その馬鹿馬鹿しさは懐かしかったけどさ、と眼鏡をかけたお父様は少し笑う。
応えるように、血に塗れたお母様の口元が僅かに綻ぶ。それは、記憶にある『お母様』の表情の中で、一番無垢で透き通った色に見えた。
「いつか必ず、本物のお前を迎えに行く。それまで待っていろ、アルクェイド」
あえて聞くまでもない、お父様の誓い。
その言葉を噛みしめるように、お母様はふわりと目を細め、そのまま眠るように目蓋を閉じる。
「ふふ……うん。また、ね――しき」
「ああ、またな」
きっと夕暮れの続きを夢見ながら、一時の別れを告げて。
アルクェイド・ブリュンスタッドだったモノは、白い粒子に崩れて消え去った。