一話に収めるつもりでしたが、あまりにも長くなりすぎたので分割しました。
城や屋敷に暮らし、数多の従僕に守られながら堅牢な棺の中で眠る、というのは吸血鬼のステレオタイプだろう。そして現実に存在する吸血鬼──死徒も似たようなものであるらしい。だがしかし、アルクェイドはそうではなかった。
どうにも、彼女に籠城という観念があったとは思えない。一応、その単語自体は知っているようだったが、実践出来ていたかというと正直微妙なところだ。
ホテルにしてもマンションにしても、最上階をワンフロア全て占拠していたのは用心なのだろうが、そのわりには来訪者の素性をドアホンで確認もしなかったり、あまつさえ自身を殺した相手の隣で寝入ったりするのは不用心どころの話ではない。
俺のことを護衛として侍らせているつもりのようだったが、殆ど脅迫に屈した形で同行しているような相手をどうして信用出来るのか。繰り返すが、俺は一度あいつを殺しているのだ。
あの時は俺のことを、教会の要員にして歴戦の殺人鬼だと誤解していたらしいが、そもそもその認識が正しかった場合、アルクェイドにとって遠野志貴は敵そのものである。敵対勢力の構成員、それも前科のある奴を償いと称して手元に置く思考回路はどれだけ頭を捻っても理解に至らない。
……などといった前例があるので、アルクェイドと同じかそれ以上にぶっ飛んでいるアルトリウスについてもそのあたりの意識はかなり疑わしいのだが、果たしてどうだろうか。
「こちらです。間違っても私を見失わないように」
「もし見失ったらどうなる。まさか家の中で遭難でもするのか」
「少々痛い目を見るだけですよ。今は、まだ」
幼子といえども、脱力した体を抱いて運ぶのはそれなりに苦労するだろうに。片腕で軽々と抱えながら、微塵も体幹の揺らがない足取りには恐れ入る。
しかし思い返せば、アルトリウスは公園での一戦以来、まるで自分の足で立っていない。まさか、俺が気付いていないだけで、歩けないほど消耗しているのだろうか。
「実は無理してたりするのか、そいつ」
「この子が? まぁ、それなりに大掛かりな手品を披露したようですね。月でも落としましたか?」
「とても惜しい。正解は落ちてくる月を押し返した、だ」
「……なるほど。そのアプローチがありましたか。私も次はただ落とすのではなく、発想そのものを逆転させるべきでしょうか」
「……まさか、あんたも似たようなことをしでかした過去があるのか。そうかよ、真祖の王族ってのはどいつもこいつも頭が柔軟なんだな」
「いいえ、私が特別なのです。なにしろ”えんたーていなー”なので」
皮肉のつもりだったが、アースはいたく誇らしげに自らの肩書を謳う。誰が何を以て授けたのかは知らないが、その肩書もまた皮肉だろう。
「話を戻しますが、アルトリウスは単純に寝たいから寝ているだけです」
「自由だな」
「甘えられる相手にはどこまでも甘える気質なので、時間を割きたくないなら無視すれば良いだけですよ。最初はしつこく絡んできますが、そのうち拗ねるか飽きてどこかへ行きます」
「……そうか。見た通りだと」
「ええ。生まれたてほやほやならこのようなものかと」
言うだけなら容易いが、実行するのは簡単ではない。帰宅途中の傍若無人ぶりからしても、程々に相手をするのが無難だと考えてしまう自分は甘いのだろうか。
神秘的に煌めく金髪を揺らしつつ、アースは廊下を渡り終える。ここまで来れば、招かれたばかりの俺でも行先にあたりがつく。俺たちは玄関へと向かっていた。
……母屋とは別に、主人専用の離れでもあるのだろうか。しかし、この邸宅はこれだけ住人が増えても十分にゆとりがある。いや、仮に窮屈だったとしても、他人に母屋を譲り渡す性格とは到底思えない。
『おや、私室が欲しいと。それは僥倖ですね。
『妙な音や臭いが飛んでくるかもしれませんが、どうぞお気になさらず。スイートを期待していたわけでもないでしょうに』
『広々とした屋敷がご所望なら、いっそ遠野の門を叩いてみましょうか。私とて遠野家長男の息子。養育義務は当然にございますよね……お父様?』
まあ、おおよそこんなところだ。
王族(それも吸血鬼)の価値観など知る由もないが、高貴な身分というならアルクェイドと並んで連想されるのは秋葉だ。かの気位の高いご当主様が別邸で小さくまとまることをよしとするなど……うん、絶対にあり得ない。
一切足を止めることのないまま靴を履いていたアースが扉を開ける。その先に待っていたのは、純白の花がさざめく月下の花園──を、途方もない高みから一望する絶景。
「──城?」
外観ではなく、その内部。テラスと長廊が一体化したような奇妙な広間。劇的な様式と機能美の完璧な均衡で成り立った装飾。全貌は杳として知れないものの、五感で理解させられる。このような、客人に威容を示す構造物を人はそう称するのだ。
いつか、このようなものを目にした覚えがある。そうだ、学校での決戦でロアを一度殺したアルクェイドの奇跡。あの時、一瞬だけ顕現した廊下と同じものが、無限に長く続いている。
建築そのものには詳しくないが、装飾芸術なら習い事の一環として秋葉に叩きこまれている。その付け焼刃の知識をいくら漁っても、これを的確に表現する言葉が思いつかない。
強いて近いものを挙げるならローマ建築だろうか。ただしシルエットの、それも一部だけ。何か決定的に欠けているものがある気がして、見渡してすぐに理解した。この城には窓硝子がない──いや、豪奢な調度品の類を除けば、人間が快適に過ごすための、空調や照明といったものが一切存在しない。
唯一の光源は月光である。城内の雰囲気が蒼白いのはそのためだろう。だが、地上から見てあり得ない程に巨大なあの満月でも、城の隅々を照らすことは不可能だろうに一体どうなっているのか。
そこまで気付くと、如何にこの城が人智の及ばない存在であるか分かる。無数の素材を組み合わせるのではなく、あたかも一つの巨大な大理石を精巧に彫り抜いたような構造。それが人間業でないことは言うまでもない。基となった素材も、見たこともない物質──恐らくは、未だ人類が知り得ぬ元素で編まれている。
「如何ですか、我が月の城は」
「ちぐはぐな印象だな。人間を拒絶していながら、形だけは城──人間の創造物そのものだ。そして、人間には想像の及ばない力で創られている」
「見た目だけを取り繕ったものだと」
「そこまでは言わないけど、ちょっと意図が掴めないというか。なによりも、これだけ大きな城なのに……ここには活気がない。まるで棺だ」
言い終えて、我ながら散々な評価だと自覚する。もっとも、目の前の相手には世辞など通用しないだろう。そして求められていたのは、率直な感想である。
事実、前を行くアースが気を悪くしたような気配はない。淡々と歩みを進める後ろ姿は、どちらかと言えば、とうに分かっていたことを改めて認識させられたといった雰囲気だった。
「これを手掛けた真祖は、私が発生を待たずして消滅しました。故に仔細を知る術はありませんが、かつてこの城の真祖に死徒が仕えていたことも無関係ではないでしょう。彼らとて元は人間ですから、従わせるには相応の権威を示さなければなりません」
「その発想自体、だいぶ人間臭くないか」
「……なるほど。人間の姿かたちをした、人間とは相容れぬもの。それが真祖の一面であるとするなら、その居城が同じ本質を持つのも当然の帰結でしょうか」
なにやら一人で得心するアース。ここまでで既に、彼女も大概マイペースな性格であることは分かっている。言葉遣いこそ丁寧だが、それはアルトリウスにしたって同じことだ。真祖という生物は揃いも揃って我が強いのだろうか。
ただしアースの場合、本人は至って真面目ながら空回りしている気もあるが。案外本人なりに合理的に考えているつもりなのはアルクェイドもそうだったので、そこにお淑やかさを追加したようなパーソナリティとも言える。根っこが同じというか。
ちなみに、アルトリウスはいたって不真面目だ。霧として総耶の全住人を監視したり、自宅でいかがわしい人間観察に興じたりしているだけあって、たとえ分析による賜物に過ぎないとしても、認知そのものに大きな非人間性は見られない。その上で規範を無視するぶん、かえって性質が悪いのだが。
アースが現実に帰ってくるのを待ちつつ、物見台から外を望む。城壁はなく、地平線に連なる山稜がその代わりのようだった。遥か遠くには湖畔も見える。果てが見通せないので、ひょっとしたら海かもしれないが。
霊峰を一つの境界とするなら、その内側はさしずめ中庭だ。およそ日本ではお目にかかれないであろう、途方もない面積を誇るその平原はまるで雪が積もったように白く染まっている。夜風に吹かれてさざめくことで、それが花園だと分かった。きっと、邸宅の庭に咲き乱れていたものと同じ花だろう。
天高くに座す月は、公園で目の当たりしたものに輪をかけて大きい。長く見続けていると、俺というちっぽけな生命など容易く呑まれてしまう気がして目を逸らす。
正真正銘の秘境。御伽噺に語り継がれる桃源郷とは、きっとこういうものを指すのだろう──いや、違う。これが語られる筈がない。人間の想像で生み出せる限度を遥かに超えているのだから。
そよぐ風に目を細めた。さらりと髪を擽って、肌をひんやりと冷やす夜風。澄み切った空気の匂いが肺を満たす。人里離れた山中の晩夏、あるいは初秋にこれと同じものを──昔、着流しで楽しんだような。
硝子に遮られず、洞穴のように口を開けた窓は、およそ空間を区切る程度の役割しか果たしていない。ああ、我ながら洞穴とは的確な例えだ。結局のところ、この城は人間らしさの体を為した自然物に過ぎない。こんな吹き曝しの構造でありながら、この世のものとは思えない程に快適な時点で理屈に合わない。
在り方が人類の文明と真逆なのだ。環境をより過ごしやすいものに開発するのではなく、環境そのものを最良な条件に調整している。建造物など、本質的には大地に転がる石と変わらない。
「禁足地か。いつか聞いたことがある。人が逃げられない土地は、往々にして逃げる気すら起こらない程に蠱惑的だってな」
「ただのスケールの違いです。この城は、終の檻。ただ人の身では決して辿り着けず、そしていざ辿り着いてしまえば──永遠に、そこから逃げること能わない」
「その理屈だと、俺はもうこの世界から出られないということになるだろう」
「ですからそう言っています。嘘だと思うなら己の轍を顧みなさい」
「なに?」
ここに来てようやく、アースは足を止めてこちらに向き直った。腕の中のアルトリウスは彼女の胸に顔を埋めて寝入ったまま動かない。
言われるがまま振り返る。今まで前方に広がっていた景色と全く同じものがそこにはあった。一直線にも関わらず、終着点が点ほども掴めない。嘘みたいに長い廊下。
当然、そんな距離を歩いてきたわけがない。玄関の敷居を跨いだ時点で連れ込まれてしまったのだ。ただ諦めずに歩みを進めるだけでは永遠に至れず、そして脱出出来ない異界に。
ついこの間、有彦に見せられたモキュメンタリーホラーもこんな展開だったな、とふと思い出す。それでも不思議と、怯えの感情は湧かない。それ以上に、この絶界への畏怖を抱いているからだろう。
「そうか。これなら物理的な距離に意味はない。仮に邸宅に潜り込んだところで、玉座まで辿り着くこと自体が不可能だと」
「その見立ても間違いではありませんが、正確にはそれ以前の話です。城主の許しをなくして、抑止力、魔術、運命力その他ありとあらゆる干渉は成立しません。故に抑制も求められず──この地においては、真祖は何にも縛られない。そう、この子と同じように」
「ああ……成程。敵を遠ざける理由も、護衛を侍らせる必要もないってことか。自陣で迎え撃てば誰であれ殺せるんだから」
「理解が早くて助かります。この城は私の胎内。ここにおいて、人々が何を喜び、何で憤り、何と謀り、何に縋るか。身も心も、生きる望みも、死に臥せる権利すら私のもの」
「ようは真祖のホームグラウンドなんだろ。なら、この城に来ることを望む奴だっているんじゃないか。今のところ俺たち以外、誰もいないようだけど」
なにやら不穏な雰囲気を前に、やや強引に話を逸らす。
テラスから見える城の随所からして、いま俺たちがいる場所はおおよそ城の中腹あたり。それでも既に、総耶で最も高い建造物を縦に二つ重ねてなお届かない標高。こんな人工物が存在する筈もなく、比較に耐え得るのは山脈あたりとなろう。空間面積など想像もつかない。
規模だけなら一つの国にも匹敵する巨大な城を、果たしてどう維持するのかなんて野暮な疑問は捨てるにせよ、住人はおろか召使の一人もいないとは何とも空虚な話である。
死徒は健在だ。そしてシエル先輩曰く、「純度として及ばないものの、生命としての定義は真祖に該当する」吸血種なら、実は僅かながらも地上に残っているという。そういったモノに血を吸われて成り上がった上級死徒も存在するのだとか。
「当然、それが許されるのなら喜んで馳せ参じるでしょう。全ての真祖にとって、千年城ブリュンスタッドは象徴であり、起源である。この城で暮らせること、それ自体が名誉なのですから」
「なら、どうしてそうならない。拒む理由でもあるのか」
「それに値しないが故に。誰も彼も招いていては価値が無くなるでしょう。チョコレートのメダルではないのですから」
「なかなか手厳しいな」
「……これでも丸めたつもりでしたが。伝わらなかったようなのではっきりと言ってしまいましょう。彼らにそれだけの価値がないのです」
「いや、いい。十分伝わってる。その感覚も、まあ分かる」
奇しくも、遠野邸に執着する遠野の一族の構図と同じだ。もっとも話の規模が桁外れな上に、このお姫様はまるで容赦がないが。
……いや、無慈悲でいえば、うちのご当主様も大概だったか。なにしろ俺を手元に戻すにあたって、他の血族どころか翡翠と琥珀以外の使用人まで全て追放してしまったのだから。そんな聖域に(強制的にでも)留め置かれる経験をまたしても得るとは。
「ところで、このような問答に意味があるのですか。妙に察しのいい貴方ことですから、本当は気付いているのでしょう。この城はあくまで仮初に過ぎないことに」
すう、とこちらに向けられる紅の双眸が細められる。僅かに口角の下がった唇からは、若干の不機嫌が感じ取れた。
察しがいいのは彼女の方だと思うが。アルクェイドも時たま信じられない鋭さを見せるのは、あいつの場合は嬉々としてそこをつついて会話の糸口にしていた。対照的に、アースは無駄なことは好まない気質らしい。
一連の話も「本物の」真祖の城についての話で、その再現かなにかでしかないここで掘り下げても詮無きことだと言いたいのだ。そのわりにはやけに親身に説明してくれたような気もするが。
「そう言われてもな。アルクェイドにしてもアルトリウスにしてもやることなすこと滅茶苦茶で、俺の理解出来る限界なんてとっくに超えちまってる」
「嘘をおっしゃい。貴方が本当に現在地を星の内海の千年城と認識しているのであれば、真っ先にこう質していた筈です。「ここにアルクェイドがいるのか」と。違いますか」
「……お前は、あいつの、アルクェイドのなんなんだ」
「はぁ、ようやく素直になれましたね?」
一拍置くように溜息を溢し、アースはゆらりと歩き出す。今度は俺から見て、右手の方向へと。
テラスのようにも扱える通り、この階層は奥行きのみならず幅も広い。外の景色ばかりに気を取られていて見えていなかったが、アースの向かう先にはこれまた不釣り合いな程に巨大なベッドが鎮座していた。
洋画でしかお目にかかれないような、豪奢な天蓋をしつらえた寝所。カーテンは上がっているものの、薄いベールで覆われているため中の様子はよく見えない。ただ、外観から見積もった大きさからして、俺が片手の指ぐらい寝転んでも持て余すだけのスペースがある。
ベッドはアーチの如く緩やかに湾曲した壁を背に据えられていて、そこから窓までの距離は五十メートル程度。つまりこの空間は短辺がそのぐらいで、長辺は計り知れない極めて細長い長方形をしている、ということになるのだろうか。あらゆるスケールが常識外れで、あたかも四方に水平線しか見えない大海原に放り込まれたかのような気分になる。
ベッドの傍らには幾つかの椅子と、触らずとも極上の柔らかさだと分かる寝転べそうな深紅のクッション、そしてウォーターピッチャーの置かれたサイドテーブルが一つ。そのうち椅子の一つに腰掛けたアースは、天蓋の支柱に提げられたランタンに人差し指を向ける。手品のように、陶器の格子の中で灯がともった。
照らすは月光のみの夜、それも奥まった場所にあるため青く薄暗い。そこに現れた暖色の揺らめきが、彫りの深い顔にちらちらと影を作る。表情が黒に隠れる中、爛々とした赤い瞳だけが目を引いた。
そのまましばし、黙って腕の中に眠る幼子を見つめるアース。その光景は、切り取ればそのまま一つの絵画として完成するほどに神秘的だった。吸血鬼の彼女にとっては皮肉にしかならないが、あれこそが聖母子像の極致と言えるだろう。
それから少しして、言葉がまとまったのか彼女はおもむろに口を開く。
「私は、言わばアルクェイドの可能性の一つです。間違いを犯さず、壊れず、よって運命にも出会うことなく刻を数えてきた『わたし』。あくまで辿った経路が異なるだけで、彼女とは同一の個体となります」
「だから名前が違うのか。あいつがアルクェイドと名乗るそれが、お前にとってのアーキタイプ:アースだと」
「いいえ。それはあくまで星の頭脳体としての正式名称。私にも、アルクェイド達にも、そしてこの子にも共通する真名です」
「アルクェイド達? ひょっとして、他にもまだいるのか」
「……失礼。アルトリウスを二重にカウントしてしまいました。ただのうっかりです、はい」
どう頑張ってもケアレスには見えないが、アースは強引に無かったことにした。
「ともかく。私はアルクェイドのオルタナティブだとでも思ってください」
「つまり、お前もアルクェイドと同じぐらい強い吸血鬼なのか」
「本来であれば、そうですね。しかし残念ながら、今の私は活動に大きく制約がかかります。なにしろ魔剣・真世界をアルトリウスの悪食から守護するために召喚されただけの存在ですので」
「その子があの剣に何をしようとしたかはひとまず脇に置くとして、ようは守護霊みたいなものなのか」
「あるいは精霊、神霊、英霊……いけませんね。これを正しく定義する言葉を、私は一つとして知りません」
ふぅ、と儚げにアースは溜息をつく。形の良い眉を悩ましく歪める仕草は、まさしく深窓の令嬢そのものである。
それにしても、制限ではなく制約ときた。ただ力が衰えたのではなく、自由が束縛されているのかもしれない。今の話に照らせば、あの長剣の周囲……アルトリウスの邸宅に置かれている限りはその範囲内のみでしか行動出来ないといったような。
彼女がこちらの味方であることを前提として、フリーハンドで動ければこの上なく大きな戦力になってもらえただけに、多少歯がゆいものがある。タタリが頸木から放たれ、アルトルージュという不穏分子まで暗躍している現状、総耶とてアルトリウスの独壇場とはいかないだろうから。
「納得いきましたか? では、次は貴方の番ですね」
「……俺の?」
「先程述べた通り、この私は運命に出会えなかった存在です。故に如何なる色にも染まらず、霊長の世を裁定する為だけに存在する機構。この星の代行。人と自然の無垢なる調停者にして、人類の敵対者──それが私
自分で自分のことを無垢と称してしまう辺り、やはりどこか抜けている──と、普段の俺ならそんなことを思っただろう。だが、そう茶化せない得体の知れなさが、目の前の美女から漏れ出している。
我が子を撫でる手が止まり、その朱の瞳はこちらを頑として捉えたまま離さない。顔を上げて正面から目を離したことにより、はっきりと見えたその顔貌は、まるで電源を落としたような無表情。ランタンの灯りに照らされて不規則に揺らめく影が、微動だにしないかんばせを蛇の舌のように舐めた。
機構、という自認はあまりに的確だった。本来のアーキタイプ:アースは機械さながらに無謬。与えられた命題に沿って、愚直に稼働するシステムであり、その必要性が認められなければ、感情すら作動しない。本質において、機械仕掛けの舞台装置であると彼女は告げている。
だからこそ、どこかたどたどしい言葉選びで俺との対話を試みる異質さが際立つ。
洗練されたソースコードに打ち間違いが混ざるのと似て、緻密さの上で成り立っていた無謬さが一滴の余分により不具合を吐き出したかのような。向かい合うアースの、蛇のように切れ長の瞳孔が開いた。
「人類の敵対者、か。なら、俺のことも憎いのか」
「いいえ。私には人類を憎む気持ちも、ましてや滅ぼす気もありません。人類へのカウンターである以上、決して相容れない立ち位置にあるというだけです」
「ならどうしてここまで俺に付き合う。お前にとっては、七十億人の内の一人に過ぎないんじゃないか」
「無論、ただの人間を仮初とはいえ我が居城に招き入れるわけがない。そも、一個体など顔や名前からして認識するに値しない。私にとって、見るべきは霊長たる総体としての人類種ですから」
「だったら──」
「だというのに、そんな私の
見開かれたアースの瞳が、ビードロのようにオレンジの灯りを反射する。互いの吐息が感じられる距離で覗き込めば、その奥に俺の顔が映っているのが分かるだろう。
彼女は俺に、特別な関心を寄せている。その大半が警戒で、残りは恐らく、狂おしいまでの好奇心。冷徹な機械を気取っていながらその実、そんな自分を変え得るだけの“予想外”を希求している。一体それは──。
彼女との距離は、言葉を交わすには少し遠い。
それでも、その嘘みたいに美しい瞳を直視している限り、紡がれる声は余さずこちらに届く。まるで頭蓋へと流し込まれているかのよう。
「……■■……?」
「妙な小細工ありきとはいえ当人すら思い出せない過去まで掘り当てるとは……。いったいどれだけの再演を繰り返したんですか、アルクェイド」
呆れを含ませた声音で、アースは少しの間だけ目を瞑る。ようやく崩したその表情には、憐れみとも悼みとも知れない情が滲んでいた。
ややして、何かを振り払うように首を動かしたあと再びこちらを見据える。
「まったく。意味不明瞭な記憶……それもヒトの単一個体のものをインストールされるなど、私まで故障してしまいそうです。同じ器というのも考えものですね」
「待て。俺の記憶を覗いたのか。人の許可も取らずに」
「こ、これも得難い経験ですので。それに、貴方の人生は群を抜いて酸鼻なものでしたから。後学として鑑賞させて頂きました」
「アルクェイドかお前は。まさか、“おかしなもの”を見てはいないだろうな?」
「変な魔法使いとカレーの擬人化なら見ましたが。その、怒っていますか」
「そうだな。あまり気分のいいものじゃない」
「あ、あの……高校の入学試験ですが、貴方の得点はあの場で三番目でしたよ? 全員の解答を精査したので間違いないです。私、あいきゅー? とかたくさんありますから」
「いや、なんのフォローだそれ」
そしてどこで仕入れた知識だ。どこで弁明にも持ち上げにもなっていない。このお姫様、攻めるのは得意でも攻められるのは弱いらしい。よっぽどの箱入りなのか。
違う。思わず突っ込んでしまったものの、問題はそこではない。よくよく考えれば、アルクェイドを殺した件についてはアルトリウスから聞いていて然るべきなのだ。真に問うべきなのは、あまりに破綻した時系列についてだろう。
「今の話が本当だとして、どうしてそんなことをお前が知っている。アルクェイドが由来だとしても、俺があいつと出会ったのは高校受験よりずっと後のことだろ」
「だったらなんですか。“■■志貴”は“アルクェイド・ブリュンスタッド”に“出会った”。今や貴方の人生において、その事実だけが唯一にして絶対の意味を持つ。それが何時どこで、などまるで意味の無い話です──真祖の姫君による寵愛は、貴方というちっぽけな人間の秩序などあまりに容易く歪めてしまった」
「……怖いこと言うなよ」
「貴方はアルクェイドという運命と交わった。その結果、アルクェイドという吸血鬼は■■志貴を構成する要素総てと、そうですね……癒着したのです。根源にまで至る程に。時系列や因果関係など関係なしに、貴方の人生において真祖アルクェイド・ブリュンスタッドと繋がっていない瞬間などあってはならない。なにしろ世界がそれを許しませんから」
「じゃあ、なにか。俺が一年前、あいつと出会う前からずっと──」
「アルクェイドに奪われていた。遠野志貴が遠野志貴でなかった頃から、そうなるきっかけの夜も含めて、ずっと。貴方はただ彼女を知らなかっただけ。始点も終点も既に意味を為さず、あえて本当のはじまりを定義するなら、貴方が“最初”にアルクェイドとすれ違った秋の昼下がりとなるでしょうね──つまりは手遅れです」
鼻を鳴らすアース。ご愁傷様です、とでも言いたげな御姿。
降りかかった情報を懸命に咀嚼する。鶏が先か、卵が先かといった話だろうか。いや、そもそも理屈が破綻しているならジレンマだって成立しない。
「強い想念には、それ自体に現実を変える力を持ちます。
「永遠──」
──アルクェイドとの、最後の会話を思い出す。
『わたしはこれから眠り続けるけど、その間に志貴の夢を見る。あなたと過ごした時間はすごく楽しかった。だから、その時の夢をずっと見るの』
これがその一つの結実なのだとしたら。
愛は呪いと変わりないなどという、陳腐な言い回しがぴったりだ。なにしろこんな事実を突きつけられても、未だ残る古傷を掻き毟るような歓喜がこの胸を満たしているのだから。
「死がふたりを分かつまでとは言うものの、死んだ程度であのアルクェイドから逃れられるとは到底思えませんが……まぁ、星に見初められた人間の末路など、得てしてこのようなものなのでしょうね」
「まぁ、俺に限ってはそこまで大事じゃないわけだしな」
「そこで嬉しそうにするのが本当に救い難い──ええ、本当に。覚えていますか。貴方自身が語った、禁足地の曰くについて」
「ああ、確かに同じか。それでも俺は、アルクェイドを迎え行くことを諦めるつもりがないんだから」
人が逃げられない土地は、往々にして逃げる気すら起こらない程に蠱惑的だ──まさしく、アルクェイドの城は俺にとってそのようなものだ。あろうことか、教会と手を組み死徒との戦いに身を投じてまで、自らそこに踏み入れようとしてすらいる。
見方によっては、蜘蛛の巣を目指して羽ばたく蝶の如き愚かしさかもしれない。軽蔑したいならすればいい。因果がどうとか今更だろう。この罅割れた世界で一つ輝く、完璧な月を視たあの夜からずっと、俺はあいつにどうにかされている。
「理解に苦しみます。壊れた真祖と、それに壊された人間。貴方たちの爛れた機微を私は知りたい。随分と遠回りしましたが、これが貴方を閉じ込めた理由となります」
「あ──」
「言ったでしょう。ここは終の檻。逃れることは出来ないと。視覚で知らしめ、言葉で分からせ、我が身を侵食した貴方という人間の正体を暴こうと試みましたが──貴方に畏れは無いのですね。身の程知らずにも星に指を伸ばしただけの、覚悟も頭も足りていない愚者であればただ誅殺するのみですが。しかし貴方にとっては、それすら褒賞にしかならないでしょう」
「失礼だな。人を被虐趣味者のように。俺は命知らずかもしれないが、だからって自分の命が惜しくないわけじゃない」
「いま、動悸がしましたね? 聞こえる脈動も速くなりましたが、その身体反応は恐怖と期待のどちらによるものでしょうか」
「いや、どちらでもない。お前の勘違いだ。だいたいこんな距離で聞き取れるわけあるか」
俺の聞くに堪えない逃げ口上に、アースからの返しはない。僅かに眉間に皺が寄ったが、それは不愉快の表れではなく、一層意識を集中させている兆しだった。
アーキタイプ:アースはお世辞にも話の上手い人物ではない。向いているいない以前に、そもそも慣れていない。
だが、人嫌いともまた違う。慣れていないが故に避けることはあるにしても、根っこは陽気で退屈を好かない気質だろう。だからこそこうして、わけのわからないものを知りたがる。
箱入りなアースがここまで会話に挑戦したのは、それだけ遠野志貴に抱く興味が大きいから。アルクェイドにより観測された俺の記憶が、少なからず彼女をも侵食したことをきっかけとして。
先ほどの違和感の正体はこれか。どこまでも透明な彼女は、透明であるが故に、そこに混じる思いもよらない変化を無かったことには出来ない。
排除しても良いが、どうせならもっと知りたい。そんな好奇心を俺はこの目で見たことがある。
──わたしを■した責任、ちゃんととってもらうんだから。
「……ッ」
「動かないでください」
背筋の粟立つ感覚が走る。動物的な勘による警告。
本能は無駄と知りながら、来た道を戻ろうと信号を送る。だが、肝心の足が動かない。
まるで、肉体が一瞬にして石膏に置き換わり、その中で魂が藻掻いているような気持ち悪さ。精神が想定する動きと、現実における硬直の致命的な乖離が息苦しくて堪らない。このまま足掻き続ければ、そのうち心臓まで止まってしまう予感がした。
アースの視界にいては、即座に魅了の魔眼で囚われてしまう。とはいうものの、この超広大な空間で真祖の目を躱す術はなく、仮に直死で魅了そのものを殺せるとしても、先手を打たれては眼鏡を外せすらしない。
「まったく……一体ここからどう逃れようというのです。たとえ千年、いえ万年走ったところで、貴方が元いた世界には帰れないというのに」
「────!」
「さあ、どうぞ此方へ。口づけを許します」
彼女に誘われた。その事実を認めたと同時に、一歩、また一歩と金髪の女を目指して足が動き始める。遥かなる上位存在からの命令に、矮小な人の身は抗えない。
それとは逆に、唇はまるで塗り固められたように動かなかった。喋ることが、アースの望みに含まれていないからだ。
腕を伸ばせば、お互いの手に触れ合える距離で止まる。いつの間にか、アースの右手には黄金の杯が現れていた。見下ろす俺の反応を窺うように、それがゆっくりと掲げられる。
ランタンの火のおかげで、暗さのなかでもその中身がよく見えた。器の半分まで注がれているのは、目が痛くなるような深紅の液体──紛うことなき鮮血だった。