「さあ、どうぞ」
ひたりと、杯の縁を下唇に添えられる。口づけの意味を理解して戦慄した。ここまできて、饗されている血液が誰のものか分からないほど馬鹿ではない。
試されている。本気ではない。だが、たとえ試し行為だとしても、そもそもこのような真似に及ぶ時点で手に負えない。
己の考えの甘さを自覚した。俗世に興味津々の、ただ可憐で淑やかな”だけ”の箱入りお姫様なわけがないというのに。だいたいこいつだって、月落としに近い真似をしでかしたと自分の口で言っていたじゃないか。
ふざけるな、俺は吸血鬼じゃない。思い通りにいかないどうにか舌を動かす。声帯が機能を取り戻していた。目の前のお姫様から、答えを強いられている。
「お、前……こんなことして、どうなるか分かってるのか」
「私のことなどどうでもよろしい。問うているのは、貴方自身の意思。渇望しているのでしょう? アルクェイドの眠る、本物の千年城に至る鍵を」
「これがそうだっていうのか」
「世界卵より零れしひとひら。貴方を星の内海へと導く、この上ない標となりましょう。代償として、人間としての遠野志貴はこれでおしまい。一切を捨てて、夜の住人として生きていくことになりますが……貴方にとっては瑣末事でしたね」
さあ、どうぞ。教会の口約束など端から信用ならないでしょう? アースは誘惑するように杯を回す。ぴちゃ、と中の液体が跳ね、その水面が唇を掠めた。
その瞬間、ぞわりと全身の毛穴が開く感覚。
真祖に血を吸われた人間は死徒になるという。では、真祖に血を与えられた人間はどうなる? きっと同じことだ。真祖という強大な生命と、血を融合させる点では変わらない。そして、人の身はそれに耐えられない。
抑えられない指先の震え。咄嗟に唾を飲む。そのどちらも見咎めて、アースは一度、その長い睫毛を下ろす。
「お前──」
『……約束、守れるよ』
『俺の血を吸え。そうすれば、何もかも解決じゃないか』
「──そうあれかしと、人から外れた身であれと添い遂げんと希ったのがお主ではなかったか。遠野志貴。あれの夢でまみえた以来であるな?」
それが次に開かれた時、姿を現したのは超然と耀く瞳。目と鼻の先で嬲るようにこちらを嘲笑う、凄絶な美貌。
牙を覗かせた微笑は、つい今しがたそこに座っていた筈の無垢な令嬢のものではない。人の心を解さない──解する意思すらない、冷酷無慈悲に支配する暴君の仕草。
──本性を露わにした、などという次元の話ではない。明らかに別物だ。安直に考えれば多重人格ということになるか。
もっと素直に、アースの同類という可能性も大きい。アルクェイドと同じ存在の、いわば「もしも」が彼女であるとするなら、そのもしもがたった一つしかないとどうして言い切れる?
存在すら匂わなかった……恐らく、アースがあえて隠していたものが目の前にいる。まるで獲物を組み敷いた獅子のように、今すぐにでもその喉笛を食い千切らんと、舌なめずりをしながら遠野志貴を見上げながら。
杯を持っていない方の、手袋に包まれたほそやかな指がそっと俺の頬にあてがわれた。繊細な指遣いでありながら、どこか女郎蜘蛛の狩りのような。
「俺を、仲間にするつもりなのか」
「いつぞやの逢瀬の続きよ。三度かように我が城にてまみえたとあれば、これも縁だ。お主が誓うなら、我が純血を与えよう」
ゆらり、と形の良い鼻先が近づく。
既に互いの吐息がかかる距離。ほんの気の迷いで唇まで届くだろう。身を引こうにも、頬を撫でる手の見えない力がそれを許さない。
ただしその意志だけは伝わったらしく、なんとも上機嫌だった吸血姫は一転して拗ねたように目を眇める。
「無粋な男め。行き着く処は同じであるとまだ分からぬか」
「どういう意味だ」
「私はあらゆる姫の原型。いかなる分岐を辿ろうとも地金は変わらぬ。貴様がこの先どう足掻こうと、魂まで奪われた以上──その終わりには必ずや我が物になるのだと、よもや気付いていなかったとはな」
「っ──!」
頬に引き攣るような痛みが走る。慌てて手をやるが、傷口はおろか血の一滴の感触もない。
しかし、その直前に引き抜かれた■い■の爪先には、確かに鮮血がこびりついていた。見せつけるように艶めかしい舌を這わせながら、彼女は目を細める。
「うむ。ねっとりと濃い、糖蜜の如き甘露よ。──否、僅かな苦味もあるが、これは魔を祓う血族故か? 趣はあるが、それだけに我が血で染め上げられるのがやや口惜しくもある」
官能的に蠢く赤い舌。
常人が真似すれば品がないと眉をひそめるであろうそれも、女の現実離れした美貌と王族の装束を以てすれば、高貴な人物があえて品を貶める背徳感で退廃を煽る。
その色香は、アースにも、■い■にも共通して──あるいは、二人が混じり合ったような。真祖の姫君の本領。縫い付けられたように目が離せない。
傾国の美女。稀代の毒婦。こんなものに求められて、抗える男など存在するのか。
「さて、次はお主の番であろう、遠野志貴。己が誰の物か、その根源まで刻め」
突きつけられる血の杯。
口づける未来を思い描くだけで、下腹部が焼けるように疼く程の甘美な毒杯。
──その誘惑に、身を引いて答える。
「生憎、その誘いには乗れない。俺にはまだ道があるから」
そのままで生きていけ、と俺に言い遺した女がいた。
拒めたのは、とっくの昔に狂わされていたからだ。ここにはいない、彼女と同じ誰かさんによって。
「……」
こちらを睨む女。
身の程知らずな虫だ。ならば譲歩も慈悲も不要──そう言外に告げる足取りで一歩踏み出す。しかしその直後、下から伸びてきた手に杯を掠め取られた。
「──操作系は先に操作した者の勝ち。常識ですね」
軽薄に嘯くと、注がれた血を一息に飲み干すアルトリウス。それだけに飽き足らず、杯そのものまでばりばりと音を立てて咀嚼すると一欠片残さず腹に収める。目測にして十秒足らずの早業。
居間での意趣返しのつもりだろうか。剣呑さを露わに見下ろす吸血姫の視線を、あろうことかその膝上に腰掛けつつ迎え撃つ。清々しいまでのふてぶてしさだった。
とっくに起きてはいたのだろう。この瞬間まで介入しなかったのは、俺が自分の意志で拒むのを待っていたのか。
「これ。はしたないぞ」
「お互い様でしょう。鬼の居ぬ間に洗濯とはまさにこのこと。いつかお母様に須らく報告させて頂きますので、何卒お覚悟の程を」
「そうか。好きにするがよい。いずれ貴様たちもまとめて私のものになるのだからな」
「悪霊退散!」
アルトリウスが虚空を掴むように片手を伸ばし、ぐっと握り込む。
その瞬間、ぱきんと空気の砕けるような音を聞いた。
ぴくりと、白い女の肩が跳ねる。それと同時に、アルトリウスの腰が太腿から椅子まですり抜けて落ちた。女の実体が消えたように。
吸血姫は俯いたまま、我が子をそのままに椅子から立ち上がる。その肉体は既に薄れていて、目を凝らせば向こう側が透けて見えるほどだった。
一瞬だけ焦りを抱いたものの、彼女にもアルトリウスにも特に切羽詰まる様子はない。霊のようなものというからには、消失すなわち死というわけでもないのだろう。
「定義が一つ見つかったようだな」
「はぁ……。いつもいつも、”あれ”が拙速なばかりにこうなるのです」
心底呆れたと言わんばかりに首を振る女は、すっかり元の──アースと名乗った彼女のようだった。どうやら悪霊の称号はもう一人の自分に押し付けたつもりらしい。
嘆息する様すら息を呑むほど美しいが、見惚れる暇すら許さずあっという間に玉体が透けていく。もはや触れることすら出来そうにない。
「待ってくれ。お前がいなくなったら、この城はどうなる? 消えるのか、俺たちまとめて」
「心配なさらず。この城は大半がアルトリウスの具現化したもので、私は仕上げを施したに過ぎませんから」
「そうか……だとしても、なんだってそんなことを」
「その子が途中で飽きて投げてしまったので」
「それで代わりにやってあげるのもどうかと思うぞ……」
甘いのだか厳しいのだかよく分からない。
アースは応えを返すこともなく、霞にように消えてしまった。後に残ったのは、居間の壁に立て掛けてあったあの豪奢な巨大剣のみ。
敷物があるとはいえ、なんとなく床に横たえておくのは憚られて柄を握るも、案の定ぴくりとも動かない。重厚な金属質の素材で拵えられている上に、刃渡りだけでも俺の背丈を遥かに上回る。到底、人間の身で取り扱える代物ではなかった。
「月光浴に興じず引き篭もるあたり、妙な予感がしていましたが、やはり混ざっていましたか。油断も隙もない。だとしても何時から……」
アルトリウスは何やら呟きつつも、椅子から立ち上がる気配はない。俺と違って使いこなせるであろう彼すら無関心なのだから、暫定的に放置で良いと判断を下す。
「はぁ……まあいいか。で、今は何時だ」
諦めて、外の満月を仰ぐ。ここに来てからそれなりの時間は経っている筈だが、全く動きは見られなかった。
薄々察しはついていたが、この世界において月が沈むことはなく、夜が明けることもないのだろう。それ自体はいいとしても、これでは時刻が分からない。
スマホを取り出して立ち上げる。ホーム画面に映し出された日時は──3000年1月1日、AM38:72。思わずため息が漏れた。
こんな異界に電波が届くわけもなし。分かり切った話ではあるが、こうも目に見える形で異常を突きつけられると流石に穏やかな気持ちにはなれない。この手の演出が、異世界に迷い込む系のホラーではお約束であるぶん尚更。
「まさか、OSまで壊れちゃいないだろうな」
「ただの電波の不具合でしょう。こちらまで来れば問題ございませんよ」
まだ寝惚けているのか、欠伸を噛み殺しながら神隠しの主犯は俺を招く。言われるがまま近づいてみるものの、これといった変化は見られない。
どうしたものかと思案していると、アルトリウスがちょいちょいと自分の頭を指さす。そこに乗っかった帽子にスマホをかざすと、驚くべきことに電波が立った。同時に正常な時刻も復活する。PM23:50……男子高校生としては、一日の終わりとしてギリギリ健全に含まれる時間だろうか。
「実は電波塔だったんだな、お前」
「それを言うなら中継局ですね。外界から受信した電波を変換して出力しております」
「そんなことも出来るのか」
「はい。真祖なので」
そうなのか。真祖って凄い。
早速ニュースサイトを立ち上げて、ざっと表題を漁る。あの公園での大事が世間でどのように扱われているか、把握しておかないことにはおちおち眠れない。
案の定、速報としてガス爆発の記事が幾つか見つかった。都心で地形が変わる程の大爆発ともなれば、やはり教会でも完全には隠蔽しきれなかったようだが、それでも都営地下鉄の大幅な運休と同じぐらいの比重に収めたのは大健闘だろう。
目撃者並びに死傷者が発生しなかったのも大きいため、それについてはアルトリウスの配慮が活きたと言える。途中、全ての国際観測所で同時障害が云々といった記事が目に入ったが、開く気にはなれなかった。
そうしてしばしザッピングしていたところ、チャットアプリから着信が入った。弓塚がグループを作ったらしく、既にシオンやみおが参加している。グループ名は──『路地裏同盟』。弓塚のセンスだろうか?
「意外だな。弓塚さん、まだ使えるスマホ持ってたのか」
「私が下賜しました。余っていたので」
「それ、真っ当なやり方で手に入れたものなのか? いや、そんなわけないよな。お前ひとりで契約出来るわけがない。さては魔眼を使ったな」
「いいえ? 警察からの貢ぎ物です」
確実に、かつ現在進行形で法の幾つかは犯しているであろうこの子にあろうことか金品授受とは。吸血鬼にとって人間社会の秩序など相容れないぶん、裏で手を握ることで動向ぐらいは把握しようという次善策かもしれないが。
なんにせよ、これまた秋葉の推理が的中したわけだ。そして思い返せば、最初に俺にコンタクトをとってきた教会の人間も警視庁の刑事を名乗っていた。裏で糸を引いているのは、その上司というかの少年に違いない。
招待に応じて入室すると、すかさず弓塚からのリプライがあった。なんでもこのグループ名は、彼女たちに所縁のある路地裏からそのままとってきたらしい。路地裏暮らしだった彼女に、同じく野外生活のみお。そして弓塚はアルトリウスに路地裏で戦いを挑み敗れてそのまま持ち帰られ、そして今日はその弓塚がシオンをこれまた路地裏でのしたと。……明日からは路地裏を重点的にパトロールするよう、先輩に進言してみるべきかもしれない。
アカウント自体はアルトリウスと交換済みらしいので、明日にでも自分から参加するだろう。なので、残るはあの二人となる。
「あー……一応聞くけど、レンとアースは使ってるのか、スマホ」
「使っていませんし、これから使う気もないようですね。あの剣の妖精は持ち運びすらままなりませんし」
「悪霊なのか妖精なのかどっちかにしてくれないか」
「どちらも大差ありませんよ。お父様も実物を目にすれば理解出来るでしょう」
「そうは言っても、西洋ならともかく、日本で妖精なんて言ってもな」
妖精。その単語を聞いて思い浮かぶのは、童話に出てくるような小人だ。羽が生えて、キノコの森の中に住むといった感じの。どうにも和の雰囲気にはそぐわない。
「国でも妖精の類には事欠かないかと。伝え聞く話は数多く、それなりに相まみえてまいりました」
「そして全て食べちゃったのか」
「美味しゅうございましたよ。星が由来のものも多いので、私の成長リソースの補填には最適でしたね」
懐かしむように、アルトリウスは碧眼を瞬かせる。踏んできた場数について詳しく聞きたい気持ちもあったが、彼と対峙した相手がどのような末路を遂げたかを既に聞いているので控えておく。この健啖の権化に見逃された弓塚はつくづく運が良かったのだ。
「ところで」
少しの間だけ記憶に浸っていたアルトリウスが、ふと思いついたように口を開く。
「きさらぎ駅、という都市伝説はご存知ですか」
「ん……ああ、まあ、聞いたことぐらいはある。というより読んだ、か。有名な話ではあるよな」
深夜に見知らぬ駅「きさらぎ駅」で降りてしまった主人公が、現実とは異なる不気味な世界へ迷い込み、脱出を試みる──おおよそこのようなたてつけの怪談だ。いつ誰が言い出したのかは定かではないが、ここ数年間はネットの掲示板で同じような体験談がいくつも投稿されており、ちょっとしたミームになりつつあるらしい。
「まさか、あれも本当に起きたことなのか」
「きさらぎ駅そのものが実在するか否かは存じ上げませんが、ごく普通に遭遇しうる超常現象でしょうね。まるで珍しくも目新しくもございません。この国でも昔から神隠しなる神秘がございましょう」
「だんだん話が見えてきたぞ。つまりそれが妖精の仕業ってことか」
「その通りです。魔術師の間では妖精郷とも称される異界こそ、かの存在しない鉄道駅の正体。妖精や、私のような精霊の構築する固有結界。外界から観測出来ず、外界との通信もまともに叶わない。故に、迷い込めば自力での脱出は困難を極めましょう。ちょうど、今のお父様のように」
こつこつと、帽子の上に乗っけられた俺のスマホを指先で小突くアルトリウス。
件の都市伝説では、電話こそ通じたもののまともに取り合ってもらえなかったのだったか。いや、こうなるとそもそも本当に外界と通じていたのかも疑わしくなる。いずれにせよ、異空間から出られず外部と連絡も取れないという点で、俺と都市伝説の女は同じだった。
「この城は、怪談なんておどろおどろしさからは程遠いけど」
「知識の有無の違いでしょうね。お父様とて、何の前触れもなく千年城に誘われればこうも平静を保てなかったかと。とはいえ、妖精如きの異界など私がいればいかなる心配にも及びませんよ」
「そうか。戦闘経験豊富なんだっけ」
「はい。私の近くなら不自由なく通信機器を使用出来ます」
「あくまで通信局に徹するつもりなのか」
そこは黒幕の息の根を止める方向を期待したいが。もっとも、そのような窮状に陥っても俺の目ならどうにか出来るかもしれない。試しに眼鏡の弦をずらして魔眼で世界を捉える。
しかし、線は視えなかった。限界まで集中すれば、ほんの微かにそれらしきものが視えなくもないが、事実上この城からは死期が読み取れない。それは主であるアルトリウスも同様である。夜に死期の無くなる命というアルクェイドの言をそのまま当てはめるなら、月の沈まないこの世界において彼は無敵だ。
死徒が代行者の討伐を恐れ、棺に隠れ潜むのとは本質からして異なる。誰の目も憚らず、自身に相応しい、快適な領域を作り上げているに過ぎない。ただそこに在るだけで、外敵の方が勝手に脱落していくだけの機構。
「真祖にとって、人間は畑の害虫と同じ」「真祖と二人きりなんて処刑台に放り込まれるのも同然」などというシエル先輩の脅しを思い返すと、獅子の檻に閉じ込められたような気にもなるが、アルトリウスは少なくとも俺に対しては敵意がない。
「その異世界に迷い込んだ人間はどうなるんだ。二度と生きて帰ってこられないのか」
「それこそ異界の主の胸三寸ですよ。妖精というのは気紛れですから、気分次第で迷い人を現世に送り返すこともありますし、場合によっては土産までくれてやることもあるのだとか。又聞きですが」
ではもし虫の居所が悪ければどうなるか。聞かない方がいいだろう。今のが最良の結末だとするなら、同じだけ振り切れた最悪も存在する筈だ。そうでなければ悪霊の同類呼ばわりされるわけもなし。
自分で切り出した話題ながら、既にアルトリウスの興味は失せつつあるようで、遠慮せず大きな欠伸をかましてくれる。ふと気になって、開いた口に指を挿し込んだ。
「…………?」
怪訝な視線をあえて無視して、上唇を捲り上げる。続いて下唇も同様に。何とも見事な、哺乳類にしてはあまりに太く鋭すぎる犬歯が対になって現れた。
「おお」
「……ろういうおつもりれすか(どういうおつもりですか)」
「いや、本当に牙が生えてるんだなって」
「ああいあえれしょう(当たり前でしょう)」
ばしんと手荒く叩き払われる。流石というべきか、舌での一撃すらとんでもなく重い。本気なら恐らく指が砕けていた。
幼い吸血鬼は仕切り直しとばかりに首を振る。せっかく綺麗な金髪が乱れるのを見て、整えてやろうと両手を伸ばすと、勘違いしたのか両の腕を広げて抱きついてきた。
「きっと疲れておられるのですね。お父様でなければ今ごろ活造りでしたが」
「例えがいちいちおっかないな」
「茹だった脳を落ち着かせるには眠るに限ります。天上の快楽、味わっていきますか?」
一見すると誘い文句だが、事実上の命令である。歩いて三歩の場所にあるベッドまで、抱えて運べとのお達しだ。
たったこれだけの距離を横抱きに持ち替える方が面倒なので、腕力に物を言わせて向かい合う形で椅子から抱き上げる。腰に腕を回して抱きかかえれば、ちょうどうなじに鼻を埋める形になった。
……吸血鬼の癖にお日様のような匂いがする。そこにほんのりと、あいつと同じ甘い香りも。さらに至近距離から見てみると、足首まで届く金髪には枝毛のひとつも見当たらない。ろくに気も遣っていないだろうにこれでは世の美容家の恨みを買うのではなかろうか。
「アルトリウス。お前、いま何歳なんだ」
「起動時間ですか? 288日と17時間38分53秒ですね」
「その秒数は言い終えた時点が基準なのか? まあいい。誕生日は何月何日だ」
「12月24日」
「ならこうしてなんでも言うことを聞くのは、お前が6歳になるまでだな。つまり2020年の12月24日までだ」
「さようでございますか。ところで何故6歳なのです」
「小学校の入学年齢を基準にした」
では何故小学校の入学年齢を基準に選んだのかというと、咄嗟に思いついたのがそれしかなかっただけである。
アルトリウスに近い年頃の知人として真っ先に思い当たるのは都古ちゃんだ。彼女と体格が殆ど同じであることを考えると、肉体年齢は10歳前後だろう。知能や精神年齢は正直よく分からない。この子の生態を完全に解明するには、最低でも国立科学博物館に預けるぐらいの措置は必要となろう。
足だけで靴を脱ぎ、当然の如く自分ではなにもしないアルトリウスの靴もどうにか脱がせる。巨大なベッドの上で膝立ちになり、どこかで見たヌーを引き摺るライオンさながらに真ん中まで引っ張っていく。最早ここまで来たら自分で動いた方が楽だろうに、頑としてされるがままだ。
どうにか枕元まで辿り着き、帽子を外して頭元に置く。仰向けに寝かしつけ、乱れたブロンドも手櫛で直してやった。どれだけ癖がついても、指で一度だけ梳けば元通りになる髪質らしい。なんかずるい。
一通りの身繕いをしてやってから、俺もその隣で仰向けになった。天上の快楽という言葉に偽りはなく、遠野家の非の打ち所がないベッドメイクにすら勝る極上の柔らかさ。それでいてしっかりとした反発もある。これならかえって身体を痛めることもない。
広々と開放的な寝所を包むのは、心地よく眠りを促すような仄暗さ。射し込む蒼白い月光はさざめき、秘境の湖に揺蕩っているかのようだ。野外との区切りはないものの、羽虫などという不快なものはなく、代わりに冷たく澄んだ夜風が肌を撫でる。
「真祖の城なのに、人間にも配慮があるのは不思議だな」
アルトリウスに話しかけたつもりだったが返事はない。横目で見れば、驚くほどの寝つきの良さで既に眠りに落ちている。
アルクェイドに瓜二つの寝顔。電源を落としたような静けさの中、微かに上下する胸がその生命活動を教えてくれる。夜風に乗ってきたのだろう。花園から舞い込んだ一片の白い花弁が、主に寄り添うように黒衣にとりついた。
「はぁ……」
一息入れると、どっと疲れが押し寄せてきた。この城から出られない以上、必然的に無断外泊となるが、明日は休日だから多少は大目に見てもらえる筈だ。いや、今からでもメッセージぐらい送っておけば、「無断」にはならないか。秋葉は事後承諾の代わりに罰をくれるだろうが。
スマホのメッセージアプリから、遠野家のグループトークを開く。新着メッセージ──315件。
「げ……」
翡翠と琥珀さんは、従者の身で主人に催促するのは出過ぎた真似だという認識らしく、いつも通り簡潔な安否確認が1件ずつ。つまりその他の313件は全て秋葉からのもの。
時刻からして、早くも彼女を装ったシオンに連れ出された頃からだった。穏やかな質問に始まり、やがて念押しから詰問するものへ。途中で返り討ちにしたらしきノエル先生を脅しの引き合いに出すものの、彼女に人質の意味がないことを理解するや不穏な沈黙が数十分。その後から現在に至るまでは、ただただ一方的な宣告が繰り返されていた。
全てに目を通し終えた瞬間、まるで既読がつくのを見ていたように新たな着信が一つ。『添い寝をされておられるのですか、兄さん?』──脇目も振らずルームを退出した。
早急に別の情報で上書きしようと、生まれたばかりのグループに脊髄反射で潜る。「路地裏同盟」では、さつきとシオンの会話が進んでいる最中だった。一つ屋根の下にいるのだから、直接顔を合わせた方が効率的ではないだろうか。
『男性名ですよ……アルトリウス→Artorius。著名な例としてはルキウス・アルトリウス・カストゥスでしょうか』
『誰それ。皇帝?』
『古代ローマの軍人です。一説にはアーサー王のモデルだとか』
『確かに女の子っぽくないとは思ってたけど!』
『女性名ではアルトリアですね→Artoria』
『でもあの見た目じゃふつう女の子だって思うじゃん?』
『見た目で性別を決めつけるのはいけないことです。ただあの齢ならまだ合法では』
『もし違ったら捕まるのわたしたちだからね(#・・)いいですー親戚のみおちゃんに入れてもらいますから!』
『彼女は真祖と親戚なんですか?』
『遠野くんの親戚って言ってたから、自動的にそういうことになるんじゃないの』
『そもそも真祖は一人で入れるのでは? それに同性の親がいますし……彼らはいまどこに』
『知らない。遠野くんはともかく、アルトリウスちゃんは毎晩いなくなるから』
いまいち要領が得られず、会話を遡って見返す。どうやら弓塚が豪邸の風呂事情について相談していたらしい。居間での顔合わせの直前、俺とアルトリウスを抱えて手早く汗を流しに行ったのを見て、今後同じようなバッティングが起きかねないと懸念したことが切っ掛けだった。
そして、弓塚はアルトリウスのことを今の今まで少女と勘違いしていた。俺が妙な誤解を抱かれずに済んだのは、あくまで幼児の入浴介助だと見なされたためだろう。ただしそのせいで、弓塚の世話焼きな部分が余計に刺激されてしまったのだが。
シオンもさつきも、俺が自分たちの後に入浴するのはやはり躊躇いがあるようで、とりあえず俺とアルトリウスの間で一番風呂を相談。あとは適宜順番に。今後住人が追加されたら臨機応変に対応するとして、なら洗濯は男女分けるべきか──等々。
そういえば、遠野の屋敷は風呂が二つあって、俺と秋葉で別々のものを使っていた。この豪邸にも余分はないか、明日にでも家主に尋ねてみるとしよう。
「寝るか、俺も」
タタリとの戦いで眼を酷使したためか、鈍く響く頭痛が未だ後を引いている。
アプリを閉じる。朝から使いっぱなしのせいで、いつの間にかスマホのバッテリーは10%を切っていた。これはまずい。自然放電を考慮すると、秋葉からのメッセージに対処しきるだけの時間が残されていない。
かといって、この真祖の城にコンセントなどという文明の利器が備わっている筈もなく。そもそも仮にあったところで充電コードを持っていないので意味がない。必要なものは全て外にあるが、わざわざスマホの充電の為だけに寝た子を起こすのも躊躇われた。
「いや……まさか」
どうしたものかと考え、ふと一つの仮説に思い至る。通信を意のままに出来るこの不思議生物のことだ。まだ他にも機能を隠し持っているのではないだろうか。
……いやいや、いくらこいつが奇想天外な生物だとしても流石に限度があるだろう……だとしても、試すだけの価値はあるのでは?
アルトリウスの穏やかに上下する胸の上に、スマホを表向きに乗せてみる。見守ること数秒、充電ランプが赤く灯った。
「おお」
自然が文明に勝利した瞬間である。
凄い。間違いなく凄いが──具体的に何がどう凄いのか、果たして如何様なメカニズムに基づく現象なのか、考えれば考えるほど怖くなってきたので俺は早々に目を閉じた。
◆
ふと、目が覚めた。
暗い夜。家の中にみんなはいない。
一人きりはこわいから、みんなにあいたくてにわにでた。
屋敷のにわはすごく広くて、わりは深い深い森に囲まれて。
森の木々はくろく・くろく。大きなカーテンのようだった。
それはまるでどこかの劇場みたい。
ざあと木々のカーテンが開いて、すぐに劇場が始まるのかとわくわくした。
黒い木々のカーテンのおく、みんなが楽しそうに騒いでいる。
木々のヴェールをぬけたあと、森の広場にはみんなそろって待っていた。
みんなふぞろいのかっこう。みんなばらばらのてあし。
一面まっかになっている森のひろば。
わからない。
バラバラにするために、見知らぬ人
よくわからない。
けれど誰かが前にやってきて、かわりにバラバラにされてくれた。
ボクは子供だからよくわからない。
ぴしゃりと暖かいものが顔にかかった。
あかいトマトみたいにあかい水。バラバラになった人。
そのおかあさんという人は、それっきりボクの名前を呼ばなくなった。
ほんとうによくわからないけれど。
ただ寒くて意味もなく泣いてしまいそうだった。
目にあたたかい緋色が混ざってくる。眼球の奥に染み込んでくる。
だけどぜんぜん気にならない。
夜空にはただ一人きりの月がある。
すごく不思議。どうしていままで気がつかなかったんだろう。
──その名
知らない人たちの向こう。森の中から、応えた月がやってきた。
それで、おしまい。見知らぬ人たちは、みんなぐちゃぐちゃに。ぐちゃぐちゃに。
あとには一人。あかくてまっしろで、うそみたいにきれいな月が佇んでいる。
「しき」
いつもみたいに、月はボクの名前をよんだ。
いつもみたいに、ぱちゃりぱちゃりと、あかい水であそびながらやってくる。
いつもみたいに、グチャグチャになった人たちを、枯れた落ち葉のように掃除しながら。
そうして目の前にきた月は。
いつもみたいに、ボクをあたたかく抱きしめた。
「迎えにきたよ、しき」
どこへ。答えるかわりに、月は森の彼方を指さした。
そこにはすごく大きなお城。
屋敷よりも、里を隔てる山よりも、空の月よりもずっと大きなお城がある。
「行きましょう。わたしの城なら、しきをずっと守ってあげられる」
広場へたくさんの誰かがやってくる。
ボクをばらばらにするために。そして、ボク以外がばらばらに。
次から次に。さくりさくりと死んでいく。
広がっていくのは温かい緋色。トマトみたいに、
あかい水。
広場は真っ赤になっていた。それはまるで■■の跡のような。
「あなただってこんな
あたたかい言葉。鈴みたいな声。春の陽ざしのような
どれも心地いいから、うん、と応えようとしたら猫が鳴いた。
「──ずっとここにいてもいいんだよ、しき」
誰かに肩をたたかれる。
それに気づかなかったふりをする気にもなれなくて、あと少しだな、なんて思いながら意思を言葉で遺す。
「 」
自分でも呆れるほど、拙い答えだったけれど。
「……そっか」
白い女の人は、残念そうに笑いながらボクに背を向けた。きっと、あのお城に帰るのだろう。
ついていっては怒られる気がしたから、ボクも彼女に背中を向けた。
お城から遠ざかるように森を歩く。どこに辿り着くのかはまだ分からない。
屋敷とは違う方向。この先には離れもない。
今日はこんなにも月がきれいだ。
夜の森なのにさんさんと明るくて、あたりにはもう誰もいない。
もっと青く、青く。あの月の光と同じ色を辿ってみると、見たこともない花園に出た。
月明りに照らされて、いつかどこかで見たような白い花が凪いでいる。
そよぐ花弁を眺めていると、夢の中なのに、不思議と頭がクリアになって──
「遅かったですね」
花園の真ん中で月を仰いでいた、白い少女が僕に視線を移す。
いつも通りの、白を基調としたワンピース。初めて会って以来、その装いは一度も変わっていない。着飾ることに興味がないというより、その発想がないのだとか。
「今日、君に似た人に会ったよ」
「それは私自身なのでは。多少は淑女がましかったのでしょう。少なくとも、アルクェイドよりは」
淡々とした口調。表情の変化は瞼を閉じるぐらいで、少女が笑っているところをこれまで一度も目にしたことがない。
それでも、冷血な印象はなかった。冷淡で無機質でこそあるものの、きちんと話をしてみれば、彼女が他人を気遣える人物であることはすぐに分かる。……僕以外にも同じなのかは知らないけども。
「うん。血を飲まされそうになった」
「……今の話の流れで、一つでも肯定する部分がありましたか?」
地の底にまで沈み込みそうな、重たい嘆息が一つ。気苦労に満ちた様は、僕と変わらない年頃の子がするものとはとても思えない。
最初は大人びていると感じたが、今はむしろ逆なのだろうと思っている。感情表現どころか、その発露すらまだ知らないのだ。なにしろ意図的に取り上げられてきた。
好きなものも、嫌いなものもまだ分からない。何かを得るたびに、まるで積み木を崩すように“無かった”ことにされてきたのだろう。愚かしくも、少女が親と呼んだ者たちの手によって。兵器として在るべき彼女に、パンの焼き方など不要だから。
彼女というキャンバスに一滴の色が落ちるたび、怯えるように白い絵の具で塗り潰される。偏執的なまでの白紙化。そんな漂白によって生み出された無垢だというなら、あの暴挙にも納得がいく。あまりにも奪われ続けて、それがどういう事なのかすら気付くことさえ奪われている。
「僕の記憶は、最初の経験としてちょっと刺激的すぎたのかな」
「あなたの過去と現在は私を含めた全てのアルクェイドに共有されているのですから、特別扱いの言い訳にはなりません。なので、次に会った時にはどうぞ容赦の無い鉄槌を。彼女もまた、一度痛い目を見なくては淑女になれないようですから」
「僕には殺すことしかできないよ。そしたらアルクェイドになっちゃう」
「はぁ……難儀ですね」
またしても溜息をついて、少女──アルクェイドはゆっくりとその場で割座する。ブリュンスタッドではない、ただのアルクェイド。それが今の彼女の名前らしい。
両膝をついて、僕を見上げる。いつも通りのお誘いの合図。ムーン・マーガレットを踏み分けて近づくと、両手を引かれて腕の中に閉じ込められる。僕とアルクェイドでは、彼女の方が少しだけ背が高い。本当に少しの違いだけど。
抗わずに身を委ね、アルクェイドに抱きしめられた勢いのまま二人そろって地面に倒れ込む。お互い向かい合う形で横向き寝となり、僕が彼女の胸に顔を埋める形となった。黒いリボンが少し邪魔だ。
服越しに、彼女の鼓動が聞こえる。包み込む体温は僕より高くて、その小さな体で燃える生命力が直に感じられる。甘い香りと密着した肌に伝わる柔らかな感触が、僕と違う性別なのだと教えてくれた。瞳だけを動かして見上げると、白磁のような頬にほんのりと朱が差している。
「離れて見てると人形みたいだけど、こうすればちゃんと温かいんだ」
「か、揶揄わないでください」
そんなつもりはなかったが、アルクェイドはしばし目を逸らしてしまう。それでもすぐにまた腕の中を覗き込んできた。お気に入りの宝物を眺めて愉しむような紅玉の瞳と間近で見つめ合う。
恋人にも夫婦のようにも見える距離感だが、実情は少し異なる。あえて例えるなら姉弟のような。どうにも彼女の認識において僕は庇護下にあるらしい。
殆ど背丈は変わらない筈なのに。それでも年の離れた弟をあやすように背中をさすられると、狂おしいまでに懐かしい感傷が胸を焦がす。母親の胎のような安心感。違う。もっと昔、この世に発生する前から、僕はこれを
「そういえば、君はいつ生まれたの?」
「年代ですか」
「ううん、生まれた日付。誕生日のこと」
「それは……」
アルクェイドは口を開きかけ──しかし答えを教えてくれることのないまま、拒むように噤んでしまう。
「覚えていません。生まれた日を、祝福されたことはありませんから」
「ふうん」
それが嘘であることぐらいすぐに分かったが、あえて追求するつもりにはなれなかった。
背中に回されていた彼女の両手が、ゆっくりと僕の頬に添えられる。優しい力で顔ごと上を向かせると、アルクェイドはその大きな瞳でしげしげと観察する。
「今日が最後かもしれませんね、志貴」
「どういうこと?」
「今度はもう帰ってこられないかもしれない、ということです。違う世界線の私まで狂わせたとあっては、遅かれ早かれ時間の問題と言えますが」
「そっか」
靄がかかった頭では、抗う気にもなれなかった。ただそういうものだと受け入れる。遠い異国の惨禍でも聞かされたかのように、どこまでも他人事として自身を俯瞰している。
侵食されることへの恐れはまだ僅かに残っているけれど、きっと次の
「異類婚姻譚など得てしてこのようなものです。星と番った貴方は、既にロッシュ限界の内側にあります。鶴かキツネか、せいぜい神程度なら魂の原型ぐらいは保てたかもしれませんが」
淡白な声音には、多分に呆れと同情が含まれている。それは僕と大人の彼女のどちらに向けられたものだろうか。両方かもしれない。
アルクェイドは僕の頬から手を放して、再び両腕をこちらの背中に回した。まるで力の籠められていない、その胸の中で彼女の穏やかな息遣いを感じていると、微睡むような安心感に包まれて何もかもがどうでもよくなってくる。こんなにも心地好いのだから、受け入れてしまえばいい。どうせ僕には何も出来ないのだから。
「このような小さな器では、自己崩壊に伴って熱を発することもないのですね。信じられない程に脆く、儚い。ただ抱き締めるだけで壊れてしまうのですから」
ざあ、と一陣の風が花を散らす。ちょっとだけ肌寒くもあるけれど、むしろそのぶんアルクェイドの体温が肌に沁みる。雪原の秘湯に浸かったみたいに、彼女の持つ熱が僕に流れ込んで、じんわりと体の芯から温まる。──まるで、彼女に染め上げられているような。
愛おしむように背中をさすられていると、やがて耐え難い睡魔に襲われた。夢の中なのに眠くなるなんておかしな話だけど、全てを投げ出したくなるような安心感の前にはあらゆる違和感が霧散する。
目を閉じると、ふわりと頭を引き寄せられた。指の先まで脱力し、弱い生き物の癖に笑ってしまうほどの無防備さで身を委ねてしまう。
「お気をつけて。次はもう、逃げられませんよ」
これでは姉弟というより、まるで──
◆
目が覚めた。
瞼を開ける前にそれを認識する。
あまりに澄み渡った覚醒。迷いなくこれまでの人生で最高だと断言出来る。
さざ波のような涼風が顔を撫でた。一枚の肌掛けもなく、全身をさらけ出したまま横たわっているというのに、不思議と肌寒さはない。満天の星空の下、地平線まで見渡せる大草原の真ん中で寝転んでいるかのような、筆舌に尽くしがたい開放感だけがこの身を包み込む。
ここは……そうだ。アルトリウスの城だ。王族なんだから自分の城を持っていて当たり前だろうし、それが真祖の居城ともなれば人類のそれとは一線を画すのだろう。城で力を蓄える、といつかどこかであいつが言っていたような気もするが、果たして人間である俺にもその回復効果は及ぶものなのだろうか。
涼やかな風に神経を研ぎ澄ませていると、顎のあたりに柔らかく温もりのある塊の存在を察知した。本能的に指を這わせてみれば、滑らかな手触りの下にしなやかな筋肉が蓄えられているのが分かる。
それが気になって目を開ける。柔らかさの正体は、黒い艶やかな毛並みの子猫だった。間近に顔を近づけながら、つぶらな紅い瞳で俺を覗き込んでいる。
「……レン」
その名を呼ぶと、みぃと小さな一声が返ってきた。どうしてかその鳴き声を今しがた聞いたばかりな気がして、心の中で首を傾げる。昨日の顔合わせをまだ引き摺っているのだろうか。
何かを確認するように、こちらの目の下を前足の肉球で2、3回踏みつけた後、レンはひらりと俺の上から飛び降りて視界から消えた。猫らしく気紛れな振る舞いを前に、引き留める気にもなれない。
遠野邸の敷地面積すら凌駕するであろう広さの寝所。観客席から見た舞台のように、遥か前方を一直線に横切る終わりの無い廊下兼テラスと、その吹き抜けの先に地平線まで広がる真っ白な花園。
レンが視野から外れた今、俺の視界に罅割れは存在しない。この城が──否、この世界そのものがアルトリウスと同じ位階のものであることのこれ以上ない証明である。いつしか、目覚めて一番に眼鏡をかけるというのがルーチン化していた。こうして裸眼で寝起きを噛み締めるのは、果たしていつ以来だろうか。
感慨に浸っていると、遅ればせながら左腕の柔らかな感触に気付いた。頭を向けると、目と鼻の先に金髪の美人のあどけない寝顔が。半ば俺にしがみつく形で熟睡している。
「うおっ」
思わず声が出た。朝起きたら隣で美女が寝ているというのは男の夢からもしれないが、いざ現実に自分事として遭遇してみると驚愕しかない。
咄嗟に目頭を押さえてもう一度見やる。──いったいなにが起きているのか、アースの姿は影も形もなく、代わりに巨大剣が柄を枕に横たわっていた。
ああ良かった、勘違いだった……などとなる筈もない。就寝前は床に置き去りにした筈だ。そもそも重すぎて物理的に動かせない以上、俺が寝ている間に剣が自ら添い寝してきたとしか考えられない。
百歩譲って、抜き身なのは勘弁してほしい。これは西洋剣、すなわち両刃である。そして構造上、片方の刃は必ず俺に向くことになるのだ。うっかり寝返りをかましていたら、ずんばらりんとなます切りになっていたのか。
相変わらず天高くにある月の光を受けて、長剣は己を誇示するように煌めいている。それがどうしてか俺の目を引こうとしているように思えてならず、少し怖くなって背を向けた。
巨大剣から見て俺を挟んだ反対側、すなわち右側にはアルトリウスの寝姿がある。
その胸の上には、満充電の緑ランプが灯ったスマホが微動だにせず乗っかったまま。どうやらアルクェイドと同じように、こいつにも寝返りという習性はないらしい。その枕元で丸まったレンが、ベレー帽を脱いだ頭に毛繕いを施していた。
「体内時計がおかしくなるな、ここは」
永遠に明けない夜。沈まず欠けることもない真円の月。思った通り、この世界が黎明を迎えることはないのだろう。
吸血鬼にはこの上ない環境だとしても、人間である俺にとっては少しばかり落ち着かない。目の前で電源の落ちたように眠る息子を見ていると、やはり自分たちとは違う生き物なのだと改めて突きつけられた気分になる。
「いや……本当に生きてるんだよな? これ……」
あまりに動きがない。まさかスマのバッテリーに生命力を吸い取られたか。
胸の中心、ちょうど心臓の真上に手を添える。幸い、鼓動や呼吸、体温といった生命活動の証が感じられた。その直後に、アルトリウスの瞼が無音で開く。
「悪い。起こしちまった」
「お気になさらず。私の眠りを妨げたのは別件ですので」
レンの毛繕いを意に介さず、なんとも億劫そうに上体を起こす。まだ寝足りないらしい。
スマホで時間を確かめると、ちょうど午前八時頃。確かに吸血鬼にとっては完全に活動時間外だが、人間の俺にとっては目覚めとじてちょうどいい頃合いである。
厳格を超えて旧態依然に踏み込んでいる遠野家での生活を基準にすれば、寝坊とすら言えるぐらいだ。
「城から出るのか」
「はい。どうやら来客のようですから」
「参ったな。心当たりしかない」
昨日の今日で、朝一番にアルトリウスの邸宅の門を叩く者。
厄介事の気配をひしひしと予感しつつ、俺たちは肩を並べてベッドから降りた。