咄嗟にマーリオゥの表情を伺う。巻き込むなと言わんばかりに睨まれてしまった。
口を挟むつもりがないあたり、シエル先輩と既に織り込み済みというわけだ。先ほど述べていたこの邸宅の住人について調査する件にしても、なるほど住人の一人として潜伏するのが一番手っ取り早い。
「……つい今しがたのお話を勘案するなら」
苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰したような、それはもう塗炭の苦しみに塗れた声音で秋葉が口を開く。
「貴方もこの城における護衛の一員に甘んじるわけですか。
「おや、見縊られては困ります。わたしは遠野くんの騎士でこそあれ、城主については別の話。すわ主の聖名において騎士団が遣わされようとも、躊躇わず他の死徒を軒並み制圧し、内側から戸を開いて彼らを招き入れましょう。はい」
なにがはいなんだ先輩。やってることがトロイの木馬そのものじゃないか。
アルトリウスの寝首を掻くなどと言わないだけマシだが、そもそも肝心の家主である彼が代行者の逗留を認めるのかという問題がある。アルクェイドなら絶対に許さなかっただろうが。
「わたし強いので、遠野くんは大船に乗ったつもりでいてくれて結構。遠慮せず先輩の胸を借りちゃってください。秋葉さんも、お兄さんのことは気にせず身辺整理に専念していただければと」
「ひょっとして、その大荷物って」
「わたしの全ての私物です。今まで借りていた物件はもう解約しちゃいましたから」
ぱん、と両手を顔の前で合わせて、にっこりと小首を傾げる先輩。朗らかながら有無を言わさないその圧は、この決定を覆す余地はないと言外に語っている。
対する秋葉は憮然とした様子。表情筋こそ静の構えをとるものの、その内心は激情で荒れに荒れているのが気配だけで感じ取れた。たぶん、先輩を物理的に箱詰めにする工程を秒単位でその明晰な頭脳を駆使して組み立てている。
そもそも女性とは激昂しながら微笑むことが出来る生き物だ。とりわけこの当主様の場合、“絶対的な解決”を決断することそのものが快感として出力される気質らしく、いざ沙汰が下るとそれは晴れ晴れとした笑顔を見せてくれる。
一年間、遠野の屋敷で生き延びてきた経験に照らし合わせると、今の秋葉は点滅中の青信号だ。先輩だってその緊張は伝わっているだろうに、不敵な笑みを崩そうとしない。
「まあ、適材適所というやつです。母親の真祖が育児放棄したせいで、遠野くんが男手一つで面倒を見ないといけないわけでして。初めての子育てでそれは些か酷ではないかと。情操教育の面からもやはり女親役はあって困らないでしょう?」
「だとしても縁者ですらない先輩があえてその役割を担う理由などないのですけどね」
「縁者でないからこそでしょう。秋葉さんには叔母というポジションが既にあるわけですから」
「おばっ──いえ、母親代わりの実父の義妹など世の中珍しくもないでしょう!」
「はあ。でしたらその重責、是非ともこの義姉……もとい遠野シエルにお任せ頂ければと」
「貴方、本気でその無根拠な名乗り一本を押し通すつもりでして!?」
「おや、別にいいんですよ? これから籍を入れて根拠を用意しても。言わずもがな、相手が子連れだろうがわたしは全く気にしませんからね」
……一年前の秋葉の態度から薄々察していたが、やはり二人は相性が悪い。
そもそも異端審問官と魔の混血という時点で相容れないが、そういった部分を抜きにしても互いに譲り合わないだろう。
「な? ガキをブタごと隔離しといて正解だったろ。ここにいたら話のアタマからケツまで一々しょうもねぇ茶々を入れてきただろうからな」
「それについては同感だけど、本当によかったのか。このままじゃあいつには全て事後承諾になるだろ」
「いいんだよそれで。既にウチとそこの管理者の間で調整はかけたんだから、人間社会の仁義は切ってる。吸血鬼のご意見なんざ知るか。だいたいアイツはオレたちの利害なんざ毛ほども気にかけちゃいねぇんだから、こっちも同じように扱うだけだ」
相互主義だよと吐き捨てて、マーリオゥは音もたてずにソファから飛び降りる。
阿良句の件があるにしても、先程から妙に秋葉の攻めの歯切れが弱いと思っていたが、既に教会とは折り合いがついていたのか。今朝はただそれを伝えに来ただけだということ。
無論、楽な仕事ではなかっただろう。やたらと話を切り上げたがる少年の立ち振る舞いからその苦労が窺える。ようはさっさと手放したいのだ。
「行くぞトオノ。そこの雌犬さえ押し付けりゃあもうここに用はねぇ。真祖に首を縦に振らせさえすりゃいいんだ。もしガタガタうるせぇならおしゃぶりでも咥えさとけ」
ポケットに両手を突っ込み、肩を怒らせて廊下に繋がる扉を潜る。居間に入ってくる時のとはまた別のものだ。具体的には、弓塚やシオンの私室がある二階へ上がる為の階段に近い。みおも上階にいる筈だ。
ふと耳を澄ませてみるが、あれだけ玄関で騒ぎ立てたにもかかわらず、彼女たちの気配は一切感じられなかった。吸血鬼だから日の出ている間は動かないのか、それとも代行者を警戒して息を潜めているのか。
後者であれば災難なことだ。少年に続いてソファから立ち上がったシエル先輩──今日から新しく加わる住人はまるで透視するかのように、天井のさらに向こう側を感情の無い目で射抜いている。後ろの秋葉も臭いを辿る猟犬のように顔を巡らせたあと、端正な顔を僅かに顰めた。
「迷いがないな。初めてじゃないんだろ、この家に来たの」
「オマエが薄々察してる通りだよ。どうしても犠牲者の必要な案件で、なおかつ
「随分と割り切ってるな」
「甘えた気持ちでタタリの悪性情報をジャミング出来るかよ。そもそもウチは正義の味方なんかじゃねえ。だいたい祖の汚染が証明された街なんざ、都市制圧戦のついでに焼き払うのが常道なんだ。今回そうしないのは、真祖が邪魔をするからでしかない」
「けど、タタリは昨夜に顕現している。これからも街に流布する噂を上書きすることに意味はあるのか」
「ある。僅かなりともタタリの完成を遅らせられるからな。少なくともその期待は出来る。それだけで十分だ。在庫一掃は全てにカタがついてからだな……っと」
口を噤むマーリオゥ。その理由はすぐに分かった。
廊下を出た先にある分岐の一つ、位置的にガレージへと繋がる扉の向こうから甲高い女性の声が響いている。言わずもがな、ノエル先生のものだ。
「おう。トリュフでも見つけたか?」
悪態と共に司祭代行は大股で近づくと、半開きの戸を遠慮なく蹴破った。身長差のおかげで、真後ろの俺にも遮るものなくその先の光景が目に飛び込んでくる。
それは一言でいうと、玄関先での屈辱の焼き直しだった。すなわち床に顔を近づけ、反対に尻を高らかに掲げた代行者の痴態である。
違うのは、後頭部を上から押さえつけられていることと、打ちっ放しのコンクリートへの口づけを両腕で踏ん張ることで辛うじて免れている点だろうか。これまた言うまでもなく、押さえつけているのはアルトリウスだ。
傍目で見ると、八歳児に無理やり土下座させられている二十七歳(女性:独身)という酷い絵面。それも血管が千切れそうなほど顔を赤くし、腕どころか全身の筋肉を痙攣させて奮闘している女性と、それを汗一つかかずに片腕を添えるだけで制圧している幼児の対比が救いの無さに拍車をかけている。
ノエル先生の手中には、相変わらず例の黒い物体が握られていた。ガレージに連れ込まれた直後、無謀にも反撃を試み、当然の如く返り討ちにされたといったところだろう。
とはいえ、今回ばかりは先生が正しいのではないか。白に統一された床の中心にべっとりとこびりついたあの夥しい血痕と、犠牲者を拘束していたと思しき張り巡らされた巨大な鉄鎖──同じく血糊つき──を見せつけられて、危機感を抱けないならむしろそちらの方が無能である。脳みそが無いも同然という意味で。
「駄目だろアルトリウス。弱い者いじめなんかしたら」
「なら強い者いじめは許されるのですか?」
「いや、そういうわけじゃないが」
「であれば条件は同じでございましょう。その上で、先に手を出してきたのは二号です」
「ノエル、な」
ああ言えばこう言う。
あくまで対等だと言いたいのだろうが、たった三文字の名前すら憶えようとしない体たらくではあまりに説得力に欠ける。
「もとをただせば、お母様を棒で叩いて虐めたのもこの代行者ではございませんか。これにとっては新しいことを知る良い機会です。やったらやり返されるのが世の常だということを」
「うーん……」
これについては、下手に突っ込むと俺が誇張でなく死ぬほど酷い目に遭わされそうだ。
先生には悪いが庇ってあげられそうにない。
「ほら、ノブレス・オブリージュって言葉もあるじゃないか。王族なら模範となるように振る舞わないと」
「馬っ鹿じゃないの! 吸血鬼の分際で規範もクソもないわ。化け物は化け物らしく人間以外を相手にしていればいいのよ!」
意地になったノエル先生の叫びに俺の救い舟が撃沈される。閉ざされた空間にキンキンとした声が反響し、眉に皺を寄せたマーリォウが先生の尻を蹴り上げた。
「お父様、私は施しを与えております。ノエルに代行者の素質はございませんが、お犬様の才能はあるようですから四つ足としての振る舞いを手解きしているのです」
「犬だぁ? 待てもろくすっぽできねぇ無能には身に余る称号だな。豚は豚だろ。なぁ豚?」
「~~~っ! これだから、金髪のオスガキは嫌いなのよぉ!」
「青髪のメスゴリラは?」
「大っ嫌い!」
アルトリウスに乗せられたノエル先生のチョンボ。見かねて止めに入ろうとしていたシエル先輩が口を閉ざしてしまった。自分に向けられた救い舟を立て続けに沈める姿こそ、あるいはノエルという代行者の本質なのかもしれない。
「いい、雑魚には雑魚なりのプライドってものがあるの。アンタみたいな超越者ぶったガキに下げるアタマなんて持ってないのよ!」
「左様でございましたか」
啖呵を切るや否や、一段とノエル先生の頭の高度が下がる。それでも辛うじて数センチ地面からの距離を保っていた。明らかに甚振られているとはいえ、そもそも体勢的に無理があり、尚且つ先生とアルトリウスの間にある絶望的なまでの膂力の差を考慮すれば十分に快挙といっていい。
事実、シエル先輩のみならずマーリオゥまで僅かに感心したような素振りを見せているもしかすると、ノエル先生の代行者人生において最も底力を発揮している瞬間かもしれない。
「オイ王子様。今日からシエルをこの屋敷に常駐させる。文句ないよな」
「そうですか。ようやく私のものになることを決めたと。少々遅かった気もしますが、まあいいでしょう。約束通り、あなたは特別にⅷ階梯まで引き上げて差し上げます」
喉を鳴らし、二つ返事で承諾するアルトリウス。視線をノエル先生に落としたまま、謡うようにシエル先輩を自分の死徒にすると告げる。
──しかしそれは、本心であると同時に現実を弁えた響きでもあった。例えるなら、もし宝くじが当たったらとか、誰もが憧れるアイドルと付き合えたらとか、そんな叶うことを初めから期待していない理想の類。
以前、本気で血を吸われかけたとシエル先輩は言っていた。少なくとも先輩の首に牙を突き立てた実績がある以上、能力的に実現出来ない望みではない筈だ。となると、その成就の妨げになっているのは、まさに総耶が直面している状況を置いて他ならない。
言い換えるなら、なにもかも放り出してシエル先輩を手籠めにするほど理性が溶けていないということだ。祖との戦いにおいて最前線を張れる戦力を目先の欲求で弄ぶようなら本当に始末に負えなかったが、ひとまず耐えた。
先輩も先輩で、明確に口にこそ出さなかったものの、逗留を拒まれること以上に殺し合いに発展することこそを危惧していたのだろう。どこか肩の力が抜けた雰囲気で、アルトリウスに剣呑な目を向ける。
「面白い冗談ですね。事と次第によっては、さらに面白いものが拝めるかもしれませんよ。非常食に噛み殺される真祖みたいな」
「ふふ。私の子となることを拒みはしないと。良い兆候です」
「皮肉を皮肉とも汲み取れないとは嘆かわしい。その救い難い蒙昧こそが罪であることをまずは自覚しなさい」
なんというか、シエル先輩みたいな面倒見のいい美人な歳上にここまで言われると隣で聞いているだけでもかなり胸が痛くなる。
もっとも肝心のアルトリウスはというとまるで堪えた様子はなく、呑気に口を開いて大欠伸……というていでその鋭く長い牙を剥き出しにし、代行者に見せつける。
一瞬、先輩の指先がぴくりと動いたのを俺は見逃さない。四つの碧い瞳が睨み合う──二人だけの世界に入った、その瞬間。
「死ねクソガキッ!」
アルトリウスに組み伏せられていたノエル先生の体勢が崩れる。意地で保っていた床との僅かな空間を利用して上半身を捻転。
「しゃあおらァっ!」
腕の可動域を極限まで駆使した一撃。輪の形状を解き、口を開いた例の装備が、両腕で先生を抑え込んだままなアルトリウスの首に吸い込まれ──あえなく、上下の顎に挟まれる形で受け止められてしまった。
「はっ……えぇっ!?」
「……仏の顔も三度撫でれば腹立てるといいますが、私は仏ではないので二度が限界ですね。代行者ノエル」
いくら太く頑丈な犬歯といったところで咬合力は顎の筋肉に由来するのだから、常識的に考えるならそれだけでノエル先生の本気を捩じ伏せられるわけがない。
……もっとも真祖に常識など通用しないので、血管がはち切れそうなほど真っ赤な顔から一転して顔面蒼白になりつつも、首輪を死に物狂いで奪い返そうと虚しい抵抗を試みる先生の空回りだけがそこにはあった。
「あの、ノエル先生。もうこの際ですから取り返すのは諦めて、まずは命を大事にした方が」
「命が大事だからこそなのよ! このままじゃシエルに殺される!」
そこまで言って、ようやく目の前に師匠本人がいることに頭が追い付いたのか、ただでさえ血の気の失せた先生の顔がいっそう青くなる。赤くなったり青くなったり、信号機のようにせわしない人だった。
とうのシエル先輩はというと、冷ややかな目で先生を見下ろしている。手助けしてやろうという意思表示は一切ない。どうやら仏でないのはアルトリウスだけではなかったらしい。
「そもそも貴方の使用を許可した憶えはありませんが。指示内容はあくまで運搬のみ。これは明らかに越権行為です」
「それよりも先輩、あのままだと壊れちゃいますよ。あの首輪みたいなやつ」
「みたいな、ではなく首輪そのものですよ遠野くん。言うまでもなく真祖を拘束・制御するための。つまるとこと吸血鬼にとって劇物ですから、放っておけば自分からぺっします」
まるで生徒に諭す教師のように、人差し指を立てて教えてくれるシエル先輩。心なしか、触れて貰えて嬉しそうにも見える。
「私が保有する対吸血鬼用の切り札、最上位の聖遺物たる一角獣の祭壇。そこから新たに切り出して加工した最新の武装です。対吸血鬼武装車両において収容/運搬のプロトコルを担う死因。すなわち──」
「くどい」
道具いじりが趣味だというだけあって、まるで我が子を自慢するように自信作の解説に移っていた先輩。
最初こそ大人しく耳を傾けていたアルトリウスだが、秒で飽きたのか一言の内に切り捨てる。そのまま咥え込んだ「武装」を駄菓子のように咀嚼し始めた。鉱山を化物じみた掘削機で抉るようなどう考えても人体から出してはいけない音を背景に、シエル先輩の得意顔がみるみる崩れていく。
「なっ──!?」
「こら、アルトリウス。なんでも口に入れるな。ばっちいだろ」
「失礼な! 汚くなんかありません。むしろ不浄なるモノを正す為の第七聖典。真祖といえども、吸血種にとっては猛毒に他ならないのに──」
「ああ、あの時の。シエルの血が混ざっていなければ不味いだけでございますね。素体である守護精霊そのものは上等ですが」
「ていうか貴方にとっては親戚みたいなものじゃないですか。共食いですよ共食い」
「いまさらな指摘では?」
「開き直らない!」
黒い塊はいとも呆気なく吸血鬼の腹の中に消えていった。珍しく表情を歪めてまで嫌そうな顔をしているあたり本当に不味かったのだろう。
どう見ても取り返しのつかない結果に終わったと悟ったのか、亀のように丸くなるノエル先生。その怯えの矛先であるシエル先輩はというと「いいです別に。まだ残ってますから」とあまり気に病んではいないが。
先輩のことだ。本来のプランでは、アルトリウスの寝首を掻く形で首輪を嵌めるつもりだったのだろうか。ホテルで無警戒に寝込みを晒したアルクェイドの例を知っているので、あながち短絡的とも言い切れない。
そんなシエル先輩を押しのけるように、腕を組みながら静観していた秋葉がようやく前に進み出た。
「よろしいですかアルトリウス。二つ返事で先輩を迎え入れたように見えましたが。この女の生業をお忘れでないなら、慎重に検討すべきではなくて?」
それは普段、屋敷で俺に向けるような態度。すなわち支配者にして庇護者としての所作だった。どうやら秋葉の中ではアルトリウスをそのように扱うと決まったらしい。
らしくもなく様子を窺っていたのは、どう接したものか判断しあぐねていたからなのか。末の妹であり、今では数多の企業を束ねる遠野グループの代表である秋葉にとって、部下でも後輩でもない縁者というのはあまり相手にした経験のない属性だろう。さらに母親とは物心つかない時期に死別している。
年の離れた縁者となると、ちょうど都古ちゃんあたりか。これと同じように、歳上の保護者として対応しそうだ。……あれ、この理屈だと俺も秋葉にそういう括りで扱われていることになるのか?
「私、強いので平気ですよ。お気遣いありがとうございます。叔母様」
「そうですか。せいぜい、それが自己への過信でないことを祈りましょう」
砂でも噛んだような顔になる秋葉。それでも露骨に機嫌を損ねないのは、続柄においては正しいだけに許容せざるを得ない生真面目さ故か。
とはいえすぐに咳払いを挟んで仕切り直す。彼女にとって、言わずにいられない事はまだあるらしい。
「そもそも、この家は教育に悪すぎます。退廃がまるで隠せていませんね」
「なるほど。お父様の秘蔵本と同じであると仰るのですね」
「とんだ濡れ衣だな。おい、こっちを見ろアルトリウス」
「お黙りなさい」
俺たちをまとめて秋葉が制する。真冬の氷水のごときその声音は、アルトリウスはともかく俺の口を塞ぐには十分だった。
当主様はとっくに目をつけていたらしき備え付けの物置に向き直る。スライドドアに指をかけ限界まで開放すると──中には縋るような眼でこちらを見上げる、二人の男の姿があった。
ネクタイの乱れたスーツ姿の中年男性と、片側だけ伸ばした茶髪が特徴的な青年。背中合わせで一つに縛り上げられ、猿轡を噛まされている。
「一体なんですか、これは」
「勤め先で女児の水着に体液を付着させた教員と、電車で私に痴漢してきた大学生ですね」
「汚らわしいっ!」
一喝する秋葉。そのまま何も聞かなかったようにぴしゃりと扉を閉める。男らに救いの手は無かった。
ご当主様はさらに言葉を続けようとするものの、何か後ろめたいことを思い出したように口ごもる。ややあって、代わりと言わんばかりに重たい溜め息を一つ。
「……時間が出来たら、適当な物件を当家で見繕うべきかしら。帰ったら早速、琥珀にあたらせましょう」
「叔母様は働き者でございますね」
秋葉は総耶の大地主でもある。所有している物件は数多くあるだろうし、それ以外でも遠野家の資産で購入するだけだろう。以前、俺を自由にさせないため無人島をまるごと買い上げようとした一件を思い出す。
とりあえずの目標を作ったことで推進力を得たのか、迷いのない足取りで入ってきた扉へと進んでいく秋葉。一本の矢のように揺るぎないその背中をアルトリウスは暢気に見送る。
管理志向である彼女の言葉をそのまま受け取るなら、新しい住処──遠野家当主の徹底した監督つき──への強制的な移送にすらなりかねないが、いざそうなっても抗える自信があるのか、そもそも住む場所に大してこだわりがないのかもしれない。
こいつのことなのであえて喧嘩を売る魂胆もありそうだが、後者でも違和感はない。なにせアルクェイドがあのホテルを選定した理由にしても、付近で最も快適に過ごせる場所を自動的に選んだぐらいなものだろう。
自分のマンションが籠城に向いていないとは言っていたものの、その後に生じた惨劇からしてどこまで戦術的意図があったのかも不明だ。そう考えてみると、そもそもなんであいつがなんであのマンションを拠点に選んだのかがとても気になってきた。
「断っておきますが、兄さん。あの外人女との愛の巣を買い戻すつもりはございませんので。くれぐれもあり得ない期待など持たないように」
背筋が震える程のタイミングの良さで、背中を向けたまま俺に釘を刺す秋葉。言うまでもないことですよね? という気迫が揺るぎの無い立ち姿から伝わってくる。
「参ったな。秋葉、お前まで俺の思考を読めるようになったのか」
「生憎、私は
「も、もちろん。肝に銘じておくよ」
「口ではなんとでも言えます。真に誠実であるか否か、来週の模試の結果で証して頂きますから」
そう言い残して、さっさと廊下へと消えていく秋葉。会話というより殆ど警告だが、とりあえず波乱の芽が一つ無くなっただけでもよしとする。
そして流石と言うべきか、マーリオゥもいつの間にか姿を消していた。この邸宅の広さだと玄関の扉を開け閉めする音は家の中まで響かないので、これ幸いと火の粉が飛ぶ前に引き上げたのだろう。アルトリウスは気付いていただろうが、あえて引き留める理由もない。
後に残されたのは俺とアルトリウス、そして代行者師弟のみ。とりあえず言質の取れたシエル先輩が、いそいそと荷物を取りにリビングへと戻っていく。
「さて、まずは荷解きですね。部屋は勝手に使わせてもらいます。遠野くん、手伝ってくれますか」
「はい、喜んで」
荷解きといったところで、先輩の荷物は私物の全てにしてはあまりにも少ない。せいぜい衣服と貴重品、あとは必要最小限の消耗品とカトラリーを一式ぐらいがせいぜいだろう。つまり、男手を借りる必要はない。なんなら勝手を知らない俺が手を出したところで邪魔ですらある。
ようするにお誘いの方便だ。先輩にとっては俺から知るべきこと、あるいは俺に教えておくべきことがまだあるのだろう。こちらとしても、シエル先輩のような熟練の代行者から知見を得る意義は大きい。
そうして踵を返す先輩に倣う際、ノエル先生がにわかに顔を持ち上げた。あの威勢の良さはどこにいったのやら、虐げられし者特有の陰鬱な空気を漂わせている。
「志貴クン、なによその嬉しそうな顔? ……いえ、答えなくて結構です。悪かったわね、頼もしいシエルさんの十歩も百歩も後ろにいる雑魚代行者で」
「いえ、そこまで言うつもりは……ていうか、先生まで俺の心の中を覗かないでくれませんか」
「そもそも的外れな言いがかりですよお父様。この女は代行者としてシエルと同じ場所に立っています。周回遅れという意味で」
「ひんっ」
アルトリウスにいっそう強く押さえつけられ、再び丸くなる先生。もしや亀の真似ではなく、熊に遭遇した際の対処法を実践しているつもりだろうか。
「死んだふりで捕食者を誤魔化せるってのはデマらしいですよ、ノエル先生」
「熊は
「…………」
まさか擬死をフォローしているわけではなかろう。となると、生死に関わらずノエル先生はアルトリウスにとって獲物として文字通り歯牙にもかからないということである。
評価としては散々だが、殺されたくない先生にとっては僥倖なのかもしれない。丸くなったまま頑として動かない姿は、どことなく祈りの所作にも見えた。
◆
「こんなものですかね。ありがとうございました」
「いえいえ。俺、殆ど何もしてませんけど」
果たしてシエル先輩の荷解きはすぐに終わった。具体的には、ものの十五分もかからなかった。
先輩の几帳面な性格によるところも大きい。衣服は小さく折りたたまれた上に圧縮袋に押し込まれ、ほんの僅かな空間の無駄遣いを許さない緻密さでケースに収納されていた。それらも全て、整頓した張本人である先輩の手によってさっさとウォークインクローゼット展開されていく。
他の持ち物といえば、それこそ学用品のような替えの利かない物ぐらい。あとは歯ブラシとか化粧品とか。概ね、ビジネスマンが出張で持参する程度のもの。引っ越しというにはあまりにも簡易すぎる。昨今流行りのミニマリストを超えて、半ば夜逃げに片足突っ込んでないか。
「いま、なにか失礼な想像をしましたか?」
「いえなにも。ところで先輩、本当にここで暮らすんですか。あいつ、今でも先輩のこと諦めてませんよ」
「おや、心配してくれるんですか。でも大丈夫です。この部屋もちゃんとした工房に仕立て上げますし、何より敵地であることに意味がありますから」
「けど、ここじゃ何が起きても助けは来ないんじゃ」
「救援が望めないからこそ、ですよ。真祖と一対一が成立するなら”とっておき”をぶつけられます。いずれにせよ遠野くんはお構いなく」
物腰柔らかに、されど手応えなく距離を取られてしまった。どうやら遠慮しているわけではなく、本気で俺が邪魔らしい。
そこまで言われてしまえば引っ込むしかない。隠し玉が何であれ、シエル先輩とアルトリウスのどちらか(あるいはどちらも)が命を落とすような結果に至らないことを祈るのみである。
ついでに触れられた工房とやらも不穏な響きだが、あえて深入りすべきではないだろう。相手は一流のエージェント。迂闊に踏み込むと後悔する予感しかしない。
「にしても、どうして玄関脇の部屋を選んだんですか。他にも空きはあるのに。ここだと家への出入りが多くて落ち着かない」
「自明でしょう。わたしは仕事でここに来たんですから。本当は粗方予測がついているのでは」
「まぁ……はい。というか、今の答えで確信しました」
監視のつもりなのだろう。ただし外から敵を入れないためではなく、この城に住まう者共をいざというときに内から逃がさないための。
無論、この邸宅からの脱出口は玄関以外にいくらでもあるが、正規にあたる経路の要に陣取られるのはそれだけで圧力になる。あくまで心理的な抑止効果を狙った配置だ。
付け加えるなら、来訪者についてもいち早く察知できる。シエル先輩ぐらいになれば、気配だけでもおおよその素性を割り出せたっておかしくない。
さながら出入国審査官だ。教会において真祖アルトリウス・ブリュンスタッドにまつわる事案を一手に一手に引き受けるシエル先輩にとって、この家に関わる人物は須らく注意を払うべき対象なのだから合理的な選択だと言えよう。
「吸血鬼の城って言いますけど、これじゃあむしろ監獄ですね。先輩が看守で、この部屋が監視塔。パノプティコンからは程遠いですが」
「…………」
「先輩?」
俺の何気ない感想を受けて、クローゼットのドアに背を預けたまま押し黙る先輩。方便がどこまでいっても方便に過ぎず、まるで手伝えることのないまま備え付けの椅子に腰掛ける俺を見下ろす形で。
いや、こちらを向いてこそいるものの、先輩は俺を見ていない。遠野志貴という人間を介して、より遠くのものに目を凝らしているかのような。数分の間そうした後、張り詰めた面持ちで首を横に振る。
「やはり、どうしても腑に落ちません。城に代行者を招き入れるばかりか、ここまでの不羈を許すなど。上位種故の戯れにしてもあまりに度が過ぎる」
「そうですか……? あいつ、かなりいい加減というか、楽しみ優先で生きているようにも見えますけど」
「
アルトリウスもその一人でした、と付け加えられる。
法も道徳も存在しない生存競争。死徒社会一つとってみても、人間の争いなどとは比べ物にならないほど苛烈だと聞かされた。実力主義、弱肉強食と言えば聞こえは良いが、その無情さは蠱毒に他ならないと。
「もともと真祖の王族という存在自体、人類にとって比類のない脅威です。彼らにとって人類とは畑に湧いた害虫のようなもの。対話すら拒否するでしょう。ですが、わたしの知っているアルトリウスはさらに毛色が異なる」
「と、いうと」
「あれは関わった者全てを破滅させる災厄です。目をつけられた神秘は見境なく屠られ、不運にも鉢合わせてしまった魔術師も捕食され、巻き添えを喰らった騎士団はその存在すら認識されないまま空想具現化の前に露と消えた。以前アルクェイドを兵器に例えましたが、わたしが対峙したアルトリウスはそれにもあたらない──制御不可能な、天変地異そのものでした。まるで太陽を玩具にする子供のような」
いつも冷静な先輩らしくなく段々と語気が強くなる。途中で彼女自身が自覚し、胸を押さえたほどに。それだけ代行者シエルにとって、受け入れ難い脅威だったというわけだ。
それを否定することは、知識も経験も乏しい俺には出来ない。先輩が抱く危機感はたぶん本当に正しいのだろう。
なら考えるべきは、先輩の見た冷酷かつ無慈悲、苛烈極まりないアルトリウスと、俺の知る外交的で生意気な、どこか面倒見の良さもあるアルトリウスの違いは何かと言うことだ。
人格が変わったという点ではアルクェイドも同じだという。しかしそれは、他ならぬ俺の犯してしまった過ちの産物だ。
まず間違いなく、アルトリウスにそんな「きっかけ」はない。かといって弓塚やシオン達と価値観が変化するほどの交流を重ねたというのも、時系列的にほぼあり得ないだろう。となると、必然的に答えは一つ。身も蓋もない結論ではあるが。
「なら最初から、アルトリウスは極端な二面性の持ち主だったということじゃないんですか。きっと、俺も先輩も、それぞれ別の側面しか見えていなかった」
「論理的に考えればそうなりますが──やはり、アルクェイドとの差異が気になります。彼女、極端から極端に振れただけで、両立していた印象はありませんから。むしろとても不安定な情緒だったように思います」
「違いが出るのは当たり前じゃないですか。アルクェイドとアルトリウスは親子ですけど、コピーじゃない。あくまで他人なんですから」
「やっぱりただの性格の違い──っと」
目を見開き、言葉を打ち切るシエル先輩。
そのままぱちぱちと瞬きを挟みつつ、まじまじと俺の顔を見つめる。
「ははぁ。なるほど……遠野くんはまずそこでひとつ勘違いをしているのですね」
「勘違い、ですか?」
「ええ。最初に結論から言ってしまうと──」
碧い瞳が宙を彷徨う。
どのように出力すれば俺にも通じるか、慎重に思案しながら話を組み立てるように。
「──アルクェイドとアルトリウスは、あくまで同一個体となります。この星が二つとない以上、魂たる世界卵も一つしか存在しませんから」