「世界卵」
まるで知らない単語を鸚鵡返しする。単語の並びまでは当たりがつくが、その先まで読み取るにはあまりに突拍子がない。
「星の化身たる彼らにおいては宇宙卵にも相当──と、すみません。さっきも触れましたが、魂と同じようなものと思って頂ければ」
「まだ話が飛んでますよ先輩。魂ってつまりあれですか、人間が死んだ時に出ていくやつ」
それなら俺にも馴染みがある。なにしろ一年前に対峙した吸血鬼──ロアの不死身の絡繰りがまさにそこにあった。
「はい。ではその人間と比較してみましょうか。遠野くん、当たり前ですが人間の胎児は母親のお腹の中で育ちますね。酸素や熱量の補給から免疫の受け渡し、さらには老廃物の排出まで、ある段階までは生命活動の全てを胎盤との繋がりに依存している。肉体を共有しているとも言えます。ここまではいいですか」
「生き物として同一であると」
「まさにその通りです。では、少し哲学的な話に入りますね。先ほど貴方が言った通り、母親とその子は血の繋がりこそあれどもあくまで他人。となれば、単一の生物から別個体へと移る境目は何処でしょうか」
「それは……」
生物として、ひいてはヒトとして一人前と認められる条件は何かという問いでもある。
人間かそれ未満──未熟な肉の塊か。そこに線引きをつけるとなると、個々人の価値観や思想が多分に混ざる。それらを極力まで排するには、万人に共通する客観的な事実が最適と言えるだろうか。
「生まれた瞬間、とかですか。正確には、母親から肉体的に分離した時点とか」
「ほほう。それも法律的には一つの答えではありますね。ちなみに別解として、19世紀における神学者の中には、受精を以て人間の始まりとみなす一派もいましたが。──しかし残念ながら、魔術的にはどちらも不正解です。前者では遅すぎ、後者では早すぎる。たとえ肉体が同じであろうと、中身さえ異なるなら二つのモノは区別出来ると思いませんか」
「つまり、その色付けとなるのが魂だと。由来の違うものが子に宿れば、母親とは別の存在になる」
「そういうことです。もっとも、わたしたちの教義において転生は認められませんけどね」
苦笑もつかの間、先輩はすぐに表情を正す。ようやく前置きが終わったということだ。
「魂のラベリングは、きっと遠野くんが想像するより遥かに頑固なルールです。万が一、同じ魂を持つ者が二人も存在してしまえば──存在するとみなされてしまえば、片方が生きていると見なされる限りもう片方も決して
「アルクェイドとアルトリウスが同一だというのも、そのルールがあるからですか」
「そう理解せざるを得ません。星の分身である彼らの身に秘める魂は、必然的に星のものとなる……順序が逆でしたか。星の魂そのものを宿さない限り、星の分身――頭脳体といえる規格には絶対に届きません」
「世界卵とやらが、その星の魂だと」
「はい。そしてそれは唯一のものです。当然でしょう?我々が
「うぅん……んん?」
分かるような、分からないような。
ラベリングとやらが厳格であることと、魂が単一であることは確かに繋がる。
遠野志貴という人間とその魂は固く紐づいていて、遠野志貴の魂を持つ人間はこの世に俺しか存在し得ず、世界がそれを保証している。これもまあ、特に違和感はない。単純にこれまで生きてきてもう一人の自分とやらを見たことがないというのもあるが。
「だけど先輩。いくら魂が一つと言ったって、現にあいつらは別々に存在しているでしょう。二人は二人じゃないんですか」
アルトリウスがアルクェイドの生まれ変わりというほうがまだ納得はいく。少なくとも数字の上での辻褄は合っているわけで。
無論、アルトリウスがアルクェイドの腹から生まれた時点で破綻しているのだが。
「なにも難しい話ではないんですよ。元が単一なら切り分けてしまえばいいんです。アルトリウスの発生における最も特異な部分は、母体から
「分裂説……確か、月の誕生説でしたっけ」
物理の授業で触れられた覚えがある。親子説あるいは子供説ともいうらしい。
自転によって千切れた地球の一部が月の起源だとか。現在では有力視されていないと聞かされたこともあって、詳しい中身はほとんど憶えていない。
「もっとシンプルに、クローンとかの例えじゃ駄目なんですか。ようするにまるっきり同じ個体がもう一個生まれているんでしょう」
「違いますよ。確かに魔術的には同一個体とみなされますが、それは肉体と魂の起源が同じであるが故の定義です。組成という観点で見ると
「そういえばさっきも言いかけてましたね。性格の違いがあると」
「人間性と怪物性の両立。真祖本来の価値観からの乖離。成長性の獲得。それらに理由をつけるなら人間の血をおいてないでしょう。身も蓋もない言い方をするなら、相容れない種の因子を内包したことによる先天性のバグですね」
「あいつならもっと上手く付き合えたのかな」
「アルクェイドですか?まあ、ある程度のコントロールは出来たでしょうね。主星の周りを公転する衛星さながらに、アルトリウスは彼女の引力から逃れられませんから。先ほど分裂説……地球と月を引き合いに出したのは、まさに両者がそのような関係にあるからです」
「はっきりと断言しますね」
「ええ。一年前、わたしはとある理由で誰よりも──それこそアルクェイドよりも素早く、そして的確にロアの転生先を掴むことが出来ました。そこで鍵となったのが魂の“感応”です」
ぽつりぽつりと、慎重に言葉を選びながらシエル先輩は語る。
「魂は強固な結びつきだと言ったでしょう。通常あり得ませんが、もし同じ魂を有する二人が存在するならそれぞれ影響し合うことになる。互いに互いの居場所が分かる。どちらかが活発になればもう片方も同じく活性化する。あちらの意志がこちらの行動指針そのものになる。これはほんの一例ですが、重要なのは必ずしも対等な作用とは限らないということです。何事においても比べてしまえば強弱はつく」
「アルクェイドは強い方の魂だから、そうでないアルトリウスに強い影響を与えていると」
「強いなんてものじゃありません。彼らの場合、ただの二分の一ではない。大きなひとつの魂から一片が引き裂かれる形でふたつになった。双子ではなくまさしく親子の関係なんですよ」
それはある意味、この世で最も厳格な上下関係かもしれない。
「アルトリウスの躯体に閉じ込められた魂は、故郷であるアルクェイドの内へ還りたがっている。アルクェイドの宿す魂もまた、欠けた己の一部を懐かしんでいる。互いに同胞であったかつてを想いながら」
やけに詩的だな、と場違いな感想を抱く。シエル先輩にとって、望郷とは特別な意味を持つ情念なのかもしれない。
先輩の事情はともかく、いまの語りを踏まえれば、無秩序に思えたあいつの活動にもアルクェイドの意思が関わっているのだろうか。この話自体、もとをただせばアルトリウスの二面性がテーマだったわけだし。
いや、そもそもアルクェイドの意思って何だろう。あいつはこれから眠り続けると言っていたし、事実そうなったから代わりにアルトリウスがこの街に来たのではなかったか。
さっきの衛星の例えに倣うと、引力から解き放たれて好き放題に飛び回る遊星と化している可能性もなくはない。もっと言えば──
「そもそも論ですけど、魂がアルクェイドと同じだとしても、それだけでアルトリウスのパーソナリティを解析出来るわけじゃないでしょう。そりゃあ赤の他人と比べて似るところはあるんでしょうけど、それだけで全てを量るのはなんというか、血液型診断みたいな」
「む……」
「はっきり言って、ますます訳が分からなくなった」
肉体も魂もアルクェイドが起源。故に彼女の“引力”とやらも無視出来ないわけだが、だからといって、あいつをアルクェイドと同じように扱えるかと言われれば全くそんなことはない。
似るというのも、生まれて初めて接する他人が母親となる以上、人格形成において最も大きな影響を受けるだろうという推測だった。アゲハ蝶でもあるまいし、いくらなんでもその辺に産みっぱなしなんてことはない筈だ。
加えて観測する側のバイアスもある。ごく普遍的な特徴であっても、見方によってはアルクェイドの影響であるといくらでもこじつけられよう。そういう意味で、血液型診断と変わらないと言った。
血の繋がっただけの他人という認識が、この場合において必ずしも適切ではないということは分かった。先輩が話を脇道に逸らしてでも指摘せずにはいられない、極めて特異な関係にあることも。けどやはり、アルトリウスはアルクェイドの焼き直しでなければ操り人形でもないのだ。
だいたい、他ならぬ解説してくれたシエル先輩こそが、アルトリウスの気性の不可解を定義した張本人である。なまじ魂だの世界卵だのといった裏事情を把握しているばかりに、何を参照すればいいのか分からなくなっているのかもしれない。
だからこそ、あえて俺にも共有することで別の糸口を探したのだろう。適当にも程がある口実をでっちあげてでも、こうして二人きりで話せる場を設けたのはそのためか。生憎、こちらから有意義な成果を差し出せそうにない。
かくいう俺も俺で、確かに期待通りシエル先輩から新たな情報こそ得られたものの、ただでさえ謎生物だったアルトリウスにまた一つ規格外な生態が追加されただけである。あいつを生物学的に分類するなら果たしてどういう扱いになるのか、機会があるなら是非ともその道の泰斗から知見を借りてみたいところだ。
「はぁ……牙が抜けたのならわたしの仕事も楽に済むのですが。昨晩の傍若無人からしてそんなわけないですね。つまみ食い気分で森一つ焼き払う暴力装置なわけですし」
「たぶん俺たちがどれだけ知恵を絞ったって分かりませんよ。あいつとアルクェイドの間でどんなやり取りがあったのかもまるで知らないんですから。もう本人に直接確かめるのが一番手っ取り早くて正確なのでは」
生真面目なシエル先輩に代わって最短ルートを提示してみる。考えるのを放棄したともいう。
我ながらいささか安直が過ぎたかとも思ったが、煮え切らない面持ちのまま頷きで返された。先輩は現状、アルトリウスと交戦して生き延びた唯一の例だという。自分がかの真祖をどうにかしなければならないという気負いがあるのかもしれない。
「並みの死徒相手なら、とっくに体に尋ねているんですけどね。残念ながら、真祖に拷問など通用するわけもなし」
切なげに眉を顰め、ほぅと物憂げな溜息を零す先輩。
残念ながら、経験に裏打ちされた物騒な発言は、その色香を塗り潰すに余りあった。
「と、とりあえず協働してみてはどうでしょう。先輩だって、直接顔を合わせたのは命の獲り合いの最中だったんでしょう。ちゃんと話してみれば仲良く出来るかもしれませんし」
「吸血鬼と代行者な時点でどうあっても敵対関係ですけどね。死徒も真祖も同じことです」
語尾に被せんばかりに否定されてしまった。
さらに付け加えると、先輩にとってアルトリウスは二十七祖よりもたちが悪いのだという。まさにけんもほろろだ。
「まあ、観察してみる意義はあります。仕方ありませんね。ここは遠野くんの顔を立ててあげましょう」
「ありがとうございます」
「さしあたり、こちらの用事に付き合ってもらうことになりますが。つまり買い出しですね。なにぶん日本に入国して間がないので、備蓄も不足していますし」
顎に手をやりつつ、おもむろに動き出したシエル先輩。
中身を吐き出したキャリーケースをクローゼットにしまい込み扉を閉める。そのまま俺をどかし、バックパックの口を開いて空いた椅子に乗せた。到底リュック一つに収まる筈がない重厚な
「それは構いませんけど、その服で行かれるんですか。いくら東京でも目立つでしょう。確かに世の中、メイド服のまま買い出しに行く人間もいるにはいるけど」
「当然、私服に着替えるに決まっているでしょう。ほら、遠野くんはさっさと真祖を捕まえてきて下さい。今頃はノエル虐めにも飽きているでしょうから」
背中を押されて部屋から追い出されてしまった。即断即決、今すぐ着替えて街に繰り出すつもりらしい。ここから徒歩で向かえば、遅くとも9時を回るぐらいには街に着くだろう。
先輩の私服。思えば俺はシエルという女性について、学校における一学年上の先輩(今はクラスメイトだが)としての姿か、吸血鬼を狩る代行者としての姿しか知らない。だがいくら彼女がワーカホリックだったとしても、24時間365日制服か修道服しか身に着けていないわけではあるまい。
隙が無い人だから無難に固めるのか、意外にもこだわりを持っているのか。まだ見ぬオフのスタイルに想像を膨らませつつ、そそくさと部屋を後にする。
廊下に出たと同時、上の階から騒々しい気配が響いてきた。やはりというかなんというか、大人しくしていられるアルトリウスではなかった。
先輩の部屋にいたのはせいぜい一時間にも満たなかったが、ノエル先生が興味を惹き続けるには長すぎたようだ。人によってはまだ惰眠を貪っている頃合いだろうに、随分と規則正しい吸血鬼もいたものである。いや、吸血鬼の基準でいえばむしろ昼夜逆転か。
ストリップ階段を上がって正面には、予想に反して元気そうなノエル先生──いつぞやのハルバードを構えている──と、肩を並べて対峙するシオンに弓塚。逃げたのか寝ているのか、みおの姿はなかった。
そんな三人から等しく距離を取りつつ、こちらに背を向けてアルトリウスが立っていた。くるくると、暇を持て余すように金髪の毛先を弄っている。
「──つまるところ、今のさつきは才能の無駄遣いなのです。猫に小判ならぬ、さつきに超抜能力。机が友達の錬金術師も似たり寄ったりですが、経験不足なら経験を積めばいいだけのこと。簡単ですね」
「でもシオンと二対一っていうのは」
「勝てばよかろうですよ」
「いや、別に卑怯とか言うつもりはないけど。ただ先生だけだと先生役は務まらないんじゃないかな。たぶん」
あの弓塚からそんな言葉が飛び出すとは。
本人はあくまで事実を述べているだけのつもりだろうが。語尾につけられた遠慮がかえって痛い。
「シエルと組ませてもノエルの成長に繋がりませんから。すわその時に必ずシエルが庇ってくれると甘えているようでは、いつまで経っても雑魚狩り代行者のままですよ」
「ですが真祖。さつきの場合、経験不足故に手加減が苦手でしょう。どんな成長も死んでしまえばそこで打ち止めですよ」
「そうですね。ですが心配には及びません。埋葬して差し上げる程度の情は私にもございますので」
おかしい。
ここまで好き勝手言われながら、大人しく聞き役に徹しているのは全くノエル先生らしくない。
「……あの、ノエル先生?」
恐る恐る声をかける。
ややあって、おもむろに首だけ動かす先生。呼びかけに答えたというより、耳についた音の出処をとりあえず確認するかのような機械的な動き。
魂の抜けたような無表情。焦点の合わない瞳が数秒こちらを捉えたあと、無機質な所作で再び少女たちへと向き直る。
この異常な様子には覚えがあった。謎の外国人講師アル美先生の乱入事件である。あれと同じく、アルトリウスに魔眼で従わされている。
アルクェイド曰く吸血鬼の魔眼の基本は「束縛」「強制」「契約」「炎焼」「幻覚」「凶運」。
吸血鬼のきの字も知らない一般人であればともかく、仮にも代行者である先生が警戒していないわけもないだろうが、流石に相手が悪すぎた。
「逃亡あるいは降参、そして一切の手加減が出来ないように束縛しておきました。相手は腐っても代行者。あなた達にとっては吸血鬼の戦い方を学ぶ良い機会でしょう」
アルトリウスが言い終わると同時に、躊躇いのない足運びで距離を詰めるノエル先生。
シオンの端正な顔がにわかに強張った。彼女の強さは、超人的な演算能力に基づく状況判断と正確な対応力に由来する。魔眼によって縛られ、自由意志を剥奪された人間の行動について、計算式へと上手く代入出来ていないのかもしれない。
ただの狂人であれば、人並み外れた戦闘能力を備える上に半ば死徒へと転じつつある彼女の敵ではないだろう。だが、対目の前のノエル先生は訓練を積み、実戦を掻い潜ってきた本職の戦闘員だ。人間の軍隊とは次元異なる、化物退治の専門家である。
なるほど。あわよくば弓塚とシオンとノエル先生、三人を一度に成長させようという目論見らしい。上手く行けば得られるものは大きいだろうが、やや強欲にも思えるのは俺の気が小さいだけだろうか。
もっとも、アルトリウスが直ちに介入出来る状況で、代行者と戦闘経験を積めること自体は理想的な修行環境とも言える。
問題は、その真祖を捕まえてくるようシエル先輩に指示されているということだが。
「刻限は私達が帰宅するまで。──では、参りましょうかお父様」
「いやお前、見守るつもりもないのか」
どう声をかけたものか逡巡する俺を揶揄うように、吸血鬼は身を翻してとことことこちらに歩み寄ってくる。
あまりの放任主義に思わずツッコんでしまった。弓塚もシオンもだいたい俺と同じようなことを想像していたようで、まさかの自習に梯子を外されたような顔になってしまっている。
「これからシエルとお出かけなのでしょう」
「それはそうなんだが。というか何故知っている」
「この家において私に隠し事が出来るとでも?シエルもシエルです。結界ならなんでもいいわけではないでしょうに」
「そうか」
俺にはさっぱり分からなかったが、荷解きの最中にも先輩は最低限の守りを構築していたらしい。そして最低限故に、アルトリウスには全く通用しなかったと。
「こっちが優先なら俺の方から断っておくけど。ただの買い出しなら明日でもいいだろ、きっと」
「私がここにいたくないのです。なにぶんさつきの超抜能力とは相性が悪いので」
「お前でも?だったらノエル先生なんてひとたまりもないんじゃないか。流石に先生を本気を見殺しにするつもりはないぞ」
「であればご心配なく。人間にとっては最悪でない部類ですから。いえ、その意味だと私にも同じことが当てはめられますか……まあ、好ましくないという点では同じでしょう」
独り言ちながら、軽やかな足取りで階段を下りていく。思惑について説明する気すらないのだろう。やはりというか、心変わりの余地もまる見当たらない。
三人に心の中で謝りながら俺もその後に続く。俺の武器は殺すしか能の無いこの目だけだ。あまりに致死性が高すぎる故にこの状況ではどうしようもない。アルトリウスの魔眼の効果だけを殺すことも考えたが、加減を間違えれば取り返しがつかない。
頭のてっぺんと二階の床が平行に並んだあたりで、遠くから鈍い衝撃音が響く。壁越しにしては妙にくぐもっている。たぶん、二階の弓塚かシオンの部屋の窓から外に落下した。
「あれもお前がそうさせたのか?家を壊されたくないなら、最初から戦いに向いた庭に出させれば良かったろう。あれだけ広いんだから」
「ノエル自身の選択ですよ。屋内においてあの得物は明確に不利でございますから、正しい判断でしょうね。そして二つ目につきましては、僭越ながら愚問かと」
他人事のように評するアルトリウス。音の出処には一瞥もくれず、黒いコートの裾を膨らませる。
「正面から尋常に殺し合いを挑む死徒や魔術師や代行者がどこにおりますか。私とて、寝込みに嫌がらせを受けたことなど両手の指では足りないというのに」
「おおかた何もかも喰い尽くした後の更地で暢気に爆睡してたんだろ」
短時間での大量摂食に伴う血糖値スパイクから来る強烈な睡魔。こいつのことだから、持ち前の頑丈さにものを言わせて身一つで眠りこけても不思議ではない。
確実にありったけの殺意と覚悟の下で行われたであろう襲撃すら、嫌がらせ程度にしか認識していないらしいし。
アルトリウスは何も答えず、飄々と肩をすくめてみせた。まさか図星だったとは。
◆
数週間にわたって総耶を覆っている霧は、少しだけ薄くなっていた。
秋晴れの下、ジャケットを翻すシエル先輩。その下はタンクトップで、少し肌寒そうである。ポケットが幾つもついたミリタリーグリーンのズボンと、底の厚いタクティカルブーツの組み合わせは、女教官そのものである。
ついにお披露目された先輩の服装がこれだった。断じて私服ではないだろう。裏地やベルトに、どう考えてもこの国での携帯を法で禁じられているあれやこれを収納するための機能が見て取れるし。
さながら街に溶け込むエージェントとしての制服と言ったところか。それでも脇から二の腕を無防備に晒すあたり、やっぱりこの人は自分の魅力を自覚していない。
まあ、それはそれとして。
かくしてシエル先輩の買い出しに同行したのだが、結果から言うとこれまた荷解きと同じく呆気なく終わってしまった。
なにしろ立ち寄った先がたったの二つだけときた。総耶駅の北口を出て目の前にある大型ビルの一階をまるごとぶち抜いたドラッグストアと、その二つ上の階に同じくワンフロア使って設けられたホームセンター。建物をまたいですらいない。
「この国では質の良いものが手軽に買えて助かります。ノエル先生の言う通り、つい財布の紐が緩んじゃいました。今月は節約しないと」
とはシエル先輩の言である。そんな彼女が背負うバックパックに詰め込まれているのは、ダース単位の消毒液に各種サイズの包帯、ガーゼ、養生テープ、結束バンド、いくつかの空き瓶と大量のジップロック、剪定ばさみ、業務用の食塩25kg、軍手にドライバーセット、シンナー、工業用潤滑油エトセトラエトセトラ……。
用途について、その全てを俺は知らない。少なくとも、一般的な女子高生が財布の紐を緩くするものでないのは確実だろう。バックパックが背嚢のようにさえ見えてくる。
そしてその中で、たった一つだけ物騒げではない……なんというか、輪郭のまるい買い物は何かというと、先輩の右手にしっかりと握られた子供用ハーネスだった。
無論、先輩に子供がいるわけではない。手首に絡ませて強固にホールドされた紐の先には、当然というべきかアルトリウスの背中がある。
幼いとはいえ、アルトリウスは何事もつつがなく一人でこなせるだけの体格はある。加えて、昨晩のシャワーで丸洗いしたから憶えているが、骨格や肉付きそのものはしっかり男のものだった。流石に窮屈そうだ。
「先輩、対象年齢をだいぶ超過してますって。ちょっと可哀想ですよ」
「これでも文句あるんですか。遠野くんがどうしてもと言うから、犬用のリードから妥協してこれにしたんですよ。それにあの真祖の体積は可変ですから大丈夫です」
「えっ、そんな生態まであるんですか」
「”まで”とはなんです?」
流石、シエル先輩。
しっかり俺の失言を拾ってくれる。
「実はあいつ、スマホを近づけると勝手に充電してくれるんですよ」
「なんですかそれ。しょうもない。真祖に頼るぐらいなら素直にモバイルバッテリーを買いますよ」
「でも三十分で満充電まで届くらしいですよ。あとwifiにも繋がるそうです」
「む……」
シエル先輩の着替えを待ちつつ引き出した新情報だ。原理は企業秘密らしい。
寝ている間に充電コードを引っ掛けて、朝起きたらバッテリーが半分を切っていた時の友である。現代っ子の先輩には確かに魅力が伝わったようだが。
「それにブラックライトを当てると青緑に光るんだとか」
「そうですか。やっぱりしょうもないですね。とにかく、これは虐待ではありません。真祖がその気になれば、こんなもの一瞬で引き千切れるんですから」
「あ、特別な魔法とかかけてないんですね。だったら先輩、尚更そんなもの意味ないじゃないですか」
「あるに決まっているでしょう。だいたい今だって、貴方からは朧げにしか──」
そこで、はたと先輩は口を噤んだ。
澄んだ青の瞳が俺を瞠ったあと、何も言わずに前を歩く吸血鬼へと向けられる。つられてそちらを見た。
俺の鳩尾程しかない背丈が、人の波を悠々と割って進んでいく。都会の活気は無関心と表裏一体で、目をくれる者は誰一人としていなかった。今どき白人の子供などこの国でもそう珍しくない。
アルトリウスの姿を意識したためか、視界の片隅で、彼を模したようなデザインが時たま引っ掛かる。ああ、そういえばもうすぐハロウィンだったな。
「おかしいと思いませんか」
「どういう意味です、先輩」
「……いえ。分からないことが、分かればいいのです」
まるで禅問答のようだ。
ただ、俺をからかうような悪戯な気配は感じられない。先輩はいたって真剣だった。
その上で、俺の疑問に答えることはない……少なくとも今のところは。こちらに出来るのは、シエル先輩の心変わりを待つことだけである。
シエル先輩の買い出しが終わったいま、さしたる目的地もない。二人して、しばらくアルトリウスの背中を追い続ける。
金髪は燦々とした日光を浴びて、眩いほどに輝いている。まるで太陽の光を反射する月の如く、それ自体が光を纏っているかのよう。
──その進路がどうにも覚束なかった。
何かを目指してはいる。しかしそれは、雨後の筍のように湧き出た商業施設でもなければ、向こうに並ぶ飲食店の通りでもないのだろう。あっちへふらりこっちへふらりと、不規則な軌跡が続いていた。
「あれは地脈を辿っているんですよ。小さい点から大きな点、そこからさらに大きな点へと」
「なんの為に」
「無意識か、本能的なものでしょうね。どれだけ名残を辿ったところで、今更始まりに還れないことは彼も理解しているでしょうから」
始まり。真祖が生まれ落ちた世界。
あるいは城。あるいは墓標。そういえば、俺はそこを目指したけれど──あいつは一度だって、帰るとは口にしなかった。帰りたいとも、そして帰れるとも。
「まるで迷子みたい。どれだけ望もうと、帰るべき場所に帰れずにいるような」
どこか悼むように、シエル先輩がぽつりと呟いた。