シエル先輩曰く、アルトリウスの徘徊を辿るのもそれはそれで有意義とのこと。
なんでも星の触覚である彼の場合、土地の力の流れを読み取る感覚が人間の比ではないらしい。好きに歩かせるだけで、面倒なマッピングの手間が省けるのだとか。
存在の維持に血肉を必要とする死徒にとって、魔力の消費は常に頭の痛い問題だという。
主な回復手段は言うまでもなく生者を食らうことだが、代行者に追い詰められるなど潜伏を徹底せざるを得ない場合や、ただ人を襲うだけでは足りない──長きを生きた強力な個体である場合、土地から補填する方が効率的である。
故に、強力な霊地とその支脈には往々にして死徒が群がるという。無論、一度手中に収めた穴場には死に物狂いで隠蔽を施すわけだが、星の分身である真祖の前には形無しもいいところ。死徒を狩る先輩にとって至上のセンサーである。
『トリュフを探す豚』などという、ついさっき誰かが吐いたばかりの悪態が頭をよぎる。まさか先輩まで意識してはいないと信じたい。
「死徒だけじゃなくて、人間にとっても貴重なんですよね。だから全国の主な霊地には管理者がいるって」
「活かせるかどうかはまた別の話ですけどね。特に金脈と呼べるものほど、容易に人の手が届かない深度にありますから」
あえて例えるなら油田のようなものです、と先輩は言う。
「それにここ一帯は開発され尽くしているので、せっかくいい土地を見つけても既に権利者がいます」
「それこそ遠野家とか。教会でもどうにもならないんでしょうね」
「妹さんは資産家で大地主。そして異能の血筋ですから。教会による交渉など突き詰めれば金か暴力の応酬ですし、むしろ逆効果にすらなり得ます」
警察を動かして規制線を張るぐらいならまだしも、権利関係にまで介入するのは現実として無理筋なのだろう。取引である以上、相手の持つ手札が多ければ多いほどに難易度が上がるわけだし。
そしてその相手が秋葉ときた。脅しや懐柔が通る筈もなく、教会に対する心象までもが悪いときた。かといって、口先で丸め込もうとすれば死ぬほど後悔する羽目になる。
「うちだって全ての土地を持っているわけじゃないですけど。それに見た感じ、デベロッパーも価値に気付いていないでしょうし」
「まあ、全ての案件に魔術師が携わっているわけでもありませんから。大手や行政の都市整備部門なら諮問のアテぐらいはあるでしょうが、立案し実行するのはあくまで一般人。土地の力を頼るといっても、方角の吉凶禍福で幸先を占うぐらいがせいぜいでしょう」
「つまり風水のようなものだと」
「それはそれで怒られちゃいますよ。あれも立派な学問なんですから」
ようはそれ未満、素人の願掛け程度に過ぎないと。手厳しいがその通りだろう。
かくいう俺自身、アルクェイドに出会うまで吸血鬼の実在なんて欠片も信じちゃいなかった。吸血鬼事件の見出しをただの流行り狙いだと受け取っていたうちの一人でもある。
故に、先輩の語る世間一般の道理というのもよく分かる。たとえ魔術のあれこれに精通していたとしても、都市開発において優先すべきは機能性や収益だ。いくら土地の力が強いといっても、駅から車で数十分の田園施設に公園を作ったところで人は訪れない。
それにしても、改めてアルトリウスの後を追ってみれば、文明がいかに星を冒涜的に上塗りしているかをまざまざと見せつけられる。
なにしろ統一感がない。大型複合商業施設のごった返した中庭に出た時には、まだ運気とやらにも思いを馳せられた。商売繁盛の吉兆とやらが、実在すると仮定して。
だというのに、次に彼が引き寄せられたのは、高層ビルの狭間に埋もれた、人がすれ違うのもやっとの抜け道である。側溝の蓋の隙間にくしゃくしゃになって挟まっていたのは、安っぽい風俗店の掠れたチラシ。元々それが封入されていたポケットティッシュは見当たらなかった。
その後に辿り着いたあらゆる場所に、特筆すべきものは何もなかった。水が高きから低きに向かって流れるように、土地の力の流れにも法則と呼べるものがあっただろうが、アスファルトの瘡蓋はそんなものなど斟酌しない。
そういえば、東京には河が埋まっていると聞いたことがある。都民が大地と思い込んでいる人工物の下で流れ続けているのだそうだ。俺たちが都市という外殻で覆い隠し、いつしか存在すら忘却してしまったものは、きっとそれより遥かに遠大なのだろう。
「真祖は星から力を汲み上げているんでしたよね。これだけ開発され尽くしている総耶だと、アルトリウスの活動にも支障が出るんじゃないんですか」
「あり得ませんね。他の衰退しきった真祖であればまだしも、あれは星そのものですよ。厚さ五十キロメートルの地殻すらリンゴの皮より遥かに薄い。テクスチャの話ならさておき、単純な物質の次元において文明が星を侵食するなど有り得べからざることです」
「もしそうなったら?」
「星は息絶え、人間もまた滅ぶでしょう。さもなくば、錆びた鋼の如く臨終を遂げた大地を枕に、死んだように生き続けるのみ。ある意味、最悪の末路でしょうね」
「ぞっとしない話ですね。なら、あいつが元気なうちはまだ希望があるってわけだ」
「せいぜい消える寸前の蝋燭でないことを祈りましょう。この星の資産運用がどんぶり勘定で成り立っているのは、真祖の運用からして自明ですから」
俺たちが話している間にも、アルトリウスの歩みは止まらない。繁華街から駅へ戻り、南口へ出て公園へ向かい、住宅街を突き抜けたあとにオフィス街を半周。それから高架に沿って流しつつ、気付けば再び繁華街へと繋がる道に出ていた。
最近めっきり数を減らした公衆電話が佇む裏通り。等間隔で並んだマンホールの手前で立ち止まる。これまでとは異なり、強い集中が見て取れた。
猫の散歩を尾けているような気分だったが、どうやらここが終着らしい。
足下の一点を見つめたまま動かない様子も、どことなく気紛れな猫に近い。後ろから肩に手を添えて揺すってみる。吸血鬼はされるがままで、豊かな金糸の長髪だけが応えるようにさざめいた。
「怖いもの知らずですねぇ。相変わらず」
一瞬ぎょっとしたように俺の顔を窺ってから、先輩は呆れたように溜息をつく。
「そりゃあ親子ですし」
「一等親でも食い殺す怪物が吸血鬼ですよ」
「縁起でもないこと言わないで下さい。……で、アルトリウス。一時間弱かけて何を見つけたんだ。そこに死徒の根城でもあるのか」
シエル先輩は本能的なものだと言っていたものの、たぶんそれはきっかけに過ぎない。
こいつの足取りは段々と推測を交えたものに変化していた……ように見えた。先輩も訂正しないあたり、この認識は的外れではない筈だ。
「間違いないかと。土地に直接聞くことは叶いませんでしたが、マナの流れは誤魔化せません。凡百の魔術師ならいざ知らず、このような小細工が私に通用する筈もなし」
「土地に聞く、か。アルクェイドもやっていたな」
主に自分を殺した俺を捜し出すために。
俺たちと同様、土地もまた記憶を持つのだという。この地上に在る限り逃れる術はない、完璧な証人だとアルトリウスは言った。
「それが出来ないのはつまり、追跡を撒くためのセキュリティがかかっているのか」
「極めて高度な暗示です。惜しむらくは、隠蔽工作それ自体が死徒の存在証明に他ならないということ。とはいえ生半可な魔術師では気付けない以上、完全な墓穴とまでは言えないでしょうが」
「真祖に目をつけられたのが運の尽きってわけか。お前がこの街に来た直後なら逃げおおせることも出来たんじゃないか」
「事実、殆どもぬけの殻のようです。所詮は枝葉に過ぎませんから、退き際を弁えた死徒であれば放棄を躊躇わないでしょうね」
つまりここに潜んでいたのは、損切りを的確に見極められる判断力と、多少の資産を手放したぐらいでは痛手にもならない程には蓄えのある死徒だということだ。
アルトリウスはあくまで淡々としているが、俺としては楽観的な気分になれない。マンホールの蓋を挟んで俺たちの向かいに回り込んだシエル先輩もまた、苦々しそうに眉間に皺を寄せている。
「それについては同意しますが、拠点を失った死徒は街にとって直接的な脅威となります。来日以来、夜属を処理した覚えはありませんが?」
「当然でございましょう。私が残らず粛清いたしましたから。これまでも、これからも、シエルに残すのは一山いくらのゴミだけです」
「狩りを愉しんでいるのは貴方だけでしょう。選り好みしてないで、自分から手をつけたならちゃんと最後までやり遂げなさい」
「それではシエルの仕事がなくなってしまいますから。人間は暇を持て余すと駄目になるので、生き甲斐のお裾分けをしてあげています」
「今のはシエル先輩が正しいと思うぞ、アルトリウス」
「おや、まるでわたしが正しくない時があるみたいな言い方ですね遠野くん?」
「今のは言葉の綾です」
いくら相手が吸血鬼とはいえ、首輪を嵌めるのは如何なものかという本音を固く心の奥底にしまっておく。俺自身、真祖を生み出した咎で処刑されかけた身であることを忘れていない。
シエル先輩の糾弾が途切れたのをいいことに、アルトリウスはマンホールの穴に人差し指を差し込んだ。そのまま親指と挟んで捻ると、金属の破断する音と共に剥がされる。顕われたのは、かなり直径の大きい、成人男性でも余裕を持って侵入出来る穴だった。
不慮の事故や悪質な悪戯が万が一にも起こらないよう、あるいはいかがわしい輩が住み着くのを避けるため、それは固く閉ざされていただろうに。縁に目を凝らすと、分厚い金具が溶けた飴細工のように捻じ切られている。
「深さも相当だな。底が見えない。少なくとも水道管には繋がってないだろ」
「通りで消火栓が見当たらないわけですね。何かしらの法には触れているでしょうが、ひとまず下水路に出ないだけでもよしとしましょう」
「あっ、おい」
アルトリウスには大体の構造が掴めているのだろう。上から覗き込むだけの俺を尻目に、迷いなく縦穴へと身を投げた。
溶接された梯子になど目もくれず、重力に任せて降下していく吸血鬼。黒衣は一瞬で暗闇に溶け込み、少しして軽やかな着地音が反響する。
一秒にも満たない刹那でリードは焼き切れていた。炭化した繊維の名残を手で払うシエル先輩。
「ふむ。落下時間はおおよそ1.5秒。距離にして約11メートル。工材は打放しコンクリートですね。わたしならともかく、貴方が真祖と同じことをしては骨折どころでは済まないでしょうね」
ヴローヴとの戦いでは、それ以上の無茶をやらかした気もするがどうだろう。
当たり前だが無傷では済まなかったわけだし、何の意味もないこの状況で試すつもりは微塵もないが。
「さて、遠野くん。飛び降りは論外として、他に警戒すべきことは?」
「酸欠や有毒ガス、それに梯子の腐食でしょうか。あと敵の罠とか待ち伏せも」
「よろしい。というわけでわたしが先行するので、貴方は合図を待ってください。人間から逸脱した化け物では炭鉱のカナリアにもなりませんから」
こちらの返事を待たず、梯子を伝ってシエル先輩も穴の中に消えていく。俺を背負ってビルとビルの間を跳べるぐらいだから、この程度の高さなど屁でもないだろうに。
途中で良からぬものがないか、身を挺して確認してくれている。完全に先輩の厄介になってしまっているが、ここで待っていろと言われないだけマシだろうか。
待つこと十秒足らず、穴の奥深くでスマホのライトが蛍の光のように振られるのが見えた。
「遠野くん。”ここには”何もないようです。降りても大丈夫ですよ。あ、何も無理しろと言ってるわけじゃなくてですね──」
「無理してませんから。待っててくださいって先輩。アルトリウスも」
あちらの気が変わらないうちに手早く梯子を降りる。所々に塗装が剥げてささくれだった部分があるものの、まだまだ建て付けはしっかりしている。
少なくとも、完成直後に放置されたわけではない。最低限の管理がなされていなければ朽ちていた筈だ。
かんかんかん、と靴底で金属を叩く甲高い音がいやに五月蠅く聞こえた。暗さで視認が覚束ないぶん、耳が敏感になっているのかもしれない。
真昼の太陽の下から地下施設に潜ればこうなる。前は夜中にしか探索しなかったから、こんな当たり前のことにも気づかなかった。昼という日常に非日常が侵食を始めたような、得も言われぬ据わりの悪さがある。
それでも、底に足をつける頃にはだいぶ目が慣れてきた。
縦横十メートルを超える巨大な地下道。人の活動している痕跡は見当たらず、全方位を剥き出しのコンクリートが覆っているのみ。照明すらなく、そもそも電気が通っているかも怪しい。
たった今降りてきたばかりのチープな鉄梯子だけが、地上へ繋がる唯一の道となる。マンホールの蓋を閉めてしまえばここは暗闇に呑まれるだろう。光源もなしに外へ出るのは簡単ではない筈だ。あるいは、そもそもここから出ることを想定していないのか。
「表向きは豪雨に備えた排水施設、もしくは災害用の貯水槽といったとこか」
「ともすれば本当にそのような機能を擁しているのかもしれません。壁面に水没の痕がございますから」
アルトリウスが天井付近を指してみせるが、生憎と人間の目はそんな遠くの痕跡を拾えない。穴から射し込む日光だけが頼りの暗さにおいては尚更である。
ただ、黴臭く湿った臭いは俺にも感知出来る。換気の行き届いていない空間であることを加味しても、全体的に湿気ている。人間が快適に過ごせる環境でないことは明らかだった。
俺の肘を掴んで抱き寄せながら、シエル先輩がスマホのライトで壁面をなぞる。俺に何かを見せようとしているようだ。
「あるいは災害対応ではなく、掃除だったのかもしれませんね。ほら、ちょうど排水溝のようにも見えるでしょう、この構造物」
「溜まったものを一気に洗い流したと。死徒が衛生に気を遣うものですかね」
「防臭、防虫の魔術も絶対ではありませんから。とはいえ全てを無かったことには出来ませんけどね。あのように」
「あれは、血と……うわ」
地面の一部から、高いところでは天井付近に至るまで、不規則に錆色のシミがべっとりとこびりついていた。歪な地図状のそれらは細い筋を幾つも引いていて、一目で血痕と理解出来た。
そしてそれ以上に目を引くのが、壁のあちこちから垂れ下がった髪の毛である。血痕を接着剤代わりに張り付いているのか、細かい亀裂に敷き詰められているのか。岩場に絡んだ藻のようにへばりついたそれらは、理解より先に生理的な嫌悪感を惹起させる。
あまり見ていて気分の良いものではない。誤魔化すように背後も確認する。梯子を挟んだ向こう側も同様に、空っぽなコンクリートの地下トンネルが延々と続いているようだ。
そこで初めて、シエル先輩とアルトリウスが揃って同じ方向を向いていることに気が付いた。
そう易々と不意打ちを許す彼らではないだろうが、せっかく二人いるのだからお互い背中合わせの方がいい。それでも一方向だけを見据えているのは、そちらに注視すべき何かがあるからだ。俺がそれを察したことに気付いてか否か、アルトリウスは地上の光に背を向けつつ数歩踏み出した……と思えば、憮然たる面持ちで振り返る。
「大した豆電球でございますね、シエル」
「元々こういったものでしょう。遠野くんはわたしがエスコートするので問題ありません。文句があるなら貴方が照らしてみては如何です?」
「仕方ありませんね。調整いたしましょう」
シエル先輩にあしらわれ、つまらなそうに鼻を鳴らす。直後、地下道が目の届く範囲まで白い灯りに包まれた。
目と鼻の先のアルトリウスが光源だった。スマホのライトを完全に塗り潰す光量が全身から放射されている。呼吸に伴って仄かに明滅していた。今さら突っ込む気にもなれない。
「目に痛いな」
「暖色系にも切り替えられますが」
「色の問題じゃなくて強さの問題だ。あと距離の問題でもある」
「注文が多いですね」
仕方なくといった様子で、少しだけ光が落ち着く。
具体的にはハイビームから懐中電灯ぐらいに。まあ、これだけあれば暗がりに乗じた奇襲の心配はいらない。
ひとまず視界を確保出来ただけでもよしとして行軍を始める。
俺とシエル先輩の一歩先を歩くアルトリウスの輪郭は光でぼやけている。試しに触ってみると仄かに温かい。
「核融合の温かみですよ」
「それは太陽の発熱原理だろ。そのぐらいは知っている。いつの間に恒星になったんだお前は」
否定したのは、そうであって欲しいという願望込みでもあった。何が悲しくて原子炉と行動を共にしなくてはならないのか。
「二人とも気を引き締め下さい。ただでさえ異常の只中だというのに」
「何かいるんですか先輩」
「逆です遠野くん。不自然な程に何もいないんですよ。常識的に考えて、暗く湿っていて管理が杜撰な場所には虫が湧くものでしょう。酸素濃度が保たれている以上、換気と排水は行われているわけですし。外界から侵入する経路だってあるんですから」
わたしたちのようにですね、とシエル先輩は続ける。
言われてみればその通りで、照らされたトンネル内にはカマドウマの一匹もいない。這い回る音も羽音もなく、どれだけ耳を澄ませても拾えるのは俺たちの靴音のみ。
静かだった。だがそれは静謐とは根本的に異なるものだ。生きとし生けるものが残らず排斥された末の静寂。自らの鼓動すら後ろめたくなりそうな感覚が気持ち悪くて、自然と足早になる。
地下道はゆるやかに湾曲こそしていたものの、思っていたほどの奥行はなかった。ともすれば廃棄された地下路線にも見えたかもしれない面積なだけあって、こんなものを何キロも忍ばせておくことは不可能だろう。それこそ昨晩アルトリウスが語ったような、妖精が創り出す異界でもなければ。
そしてそのような物理的な制限こそ、この空間が現実に──すなわち何らかの都市計画を用意し、相応の資金と資材、人員を注入して整備された建造物であることの証である。必然的に、この街の権力者も関わっていたのだろう。問い質そうにも、容疑者は一年と少し前にこの世を去っている。
「あまり長居すべきでないでしょう。脅威は感じられませんが、ここは死徒の汚染が強い」
「分かりました。手早く済ませましょう」
体感にして五分ほど歩いたところで行き止まりが見えてくる。地下道から地下深くに向けて、すり鉢状の巨大な孔が口を開けていた。その形状や大きさから真っ先に円形闘技場が連想させられる。明確に異なるのは、観覧席が存在しない点か。
壁は滑らかで傾斜がきつく、指をかけられるような取っ掛かりはどこにも見当たらない。一度底まで落ちてしまえば自力での脱出は望めない。
生きて出ること叶わず、見届ける者すらいないときた。これでは見世物ですらないただの──
「刑場ですね」
シエル先輩がぽつりと評する。俺は黙って頷いた。
これを誰がデザインしたのか。人間を処理する施設など外注出来るわけもなし。となれば、巣食っていた死徒本人しかいない。
奥深くには蠢く影が見えた。光が本体まで届かず、辛うじてシルエットしか見えないが、無数の”何か”が折り重なって積み上がっている。
楕円から細長い脚が幾つも飛び出た輪郭。一つ一つが大型のバスにも匹敵し得る巨躯。あまりにも現実離れしているそれらは、俺にとって見覚えがある。
初めてアルトリウスが接触してきたあの帰り道。俺の目の前で、真祖の霧に捕食されたのがまさにあんな化け物だった。あまりに悍ましい異形なものだから、今でも鮮明に思い出せる。
だからこそ、ひとつ引っ掛かかるものがあった。アルトリウスがあの蜘蛛の化け物を狩っていたのは、確かにこの目で見た事実。『残らず粛清した』というのも、彼の立場からしてでっち上げる理由もないのでやはり事実なのだろう。
そうなると、彼が誤解した唯一のポイントは、街を闊歩していた蜘蛛共の由来ということになる。総耶におけるコロニーは一つだけではないということだ。
霊脈とやらの構造は知らないが、話を聞いている限り血管のように枝分かれしているのだろう。ロアの「食堂」は一つだったが、ここの主だった死徒はその限りではない。
他に幾つも忍ばせている。それも街全体を監視していたアルトリウスの目をある程度は掻い潜れるほど、巧妙に。
「洗浄というわたしの推測は、どうやら誤りだったようです。あれは争いの結果。地形を利用してまとめて兵隊を処理したのでしょう。……兵隊といっても、決して雑魚ではありませんが」
「先輩が把握していないなら、教会の仕事じゃないんでしょう。そしてアルトリウスでもないなら、いったい誰が……」
「消去法で死徒の潰し合いしかあり得ません。二十七祖の出現が認められた時点で、少なくとも関東圏から魔術師は撤退していますから。その上で、ⅶ位相当を相手に、かくも一方的な虐殺を遂行出来る死徒となれば自ずと限られてくる」
現在、この街に存在が確認されている祖は三体。
このような大掛かりで古めかしい施設を保有出来るのは、長年この総耶に巣食っていたという死徒──推定、阿良句博士を置いて他にない。そしてタタリは、奴に利用されているという。
これまた消去法で、候補は一つに絞られる。アルトリウスと同じく真祖の力を持つのであれば、同様に土地の力を辿ってここを見つけ出すことも、膨大な水流──
「何のために?」
──穴の底を静観していたアルトリウスが、誰ともなしに呟いた。
「彼女が掃討した、という見立ては正しいでしょう。元より祖とは相容れないものですから。加えて首領同士が既に潰し合っている。故に、ここを訪れた者は皆そのように考える筈」
「お前は、そう思わないと?」
「可能性の話です。あれらは徒に死を振り撒くだけの獣ではございません。恐ろしく悪知恵が働き、幾らでも寝技をかける。今だってそうです」
細い右手が振り翳される。
アルトリウスの身体から光が消え、代わりに目を灼くような焔が黒い手袋の中に現れた。凝縮された太陽の如き塊が投擲され、放たれた矢のように穴の底へと吸い込まれていく。
一筋の閃光。燃え広がった炎は蜘蛛の姿を鮮明に照らし出す。そもそも声を出す機能すらないのか、化け物共はうごうごと苦しそうに脚をばたつかせた。まだ息絶えていなかったのか。
樹皮のように乾燥しきった外皮はよく燃える。擦り鉢の底から盛大に火の手の上がる様は、巨大な篝火のようにも見えた。
そうして明るみに出たコンクリートの壁面は、ドス黒いペンキをぶち撒けたように変色している。その塗料の正体は、この餌場が半世紀近くにわたって喰い物にしてきた夥しい犠牲者の生き血に違いない。
「ほら、まだ生きている。明らかに罠ですが──ここで終わらせるには、まだ早い」
「まさか、あえて踏みに行くつもりですか。アルトリウス」
「そうすべき時もございましょう。私の目には、あれらが己の苦しみを偽っているように見受けられます」
言うや否や、アルトリウスはふわりと穴の縁を蹴り飛ばし、蜘蛛が待ち構える奈落と自ら舞い降りる。
業火をものともせず、折り重なった山の頂上にいる個体の背甲へと爪先をつけ、そのまま弧を描くように蹴り飛ばし、そうして開いた道をさらに下へとこじ開けていく。
優雅に回転し、一切の抵抗を許さないまま全ての層を爪で切り刻んで、ものの数秒で底まで到達した──その瞬間。
轟音と共に、上で見守っていた俺たちの遥か後方。降りてきた梯子まで続く通路が閉ざされた。
防火壁ではない。
人工的な扉ではなく、もっと自然的に──トンネルの床部からコンクリートを砕いて飛び出してきた地盤が、まるで逆さまの土砂崩れのように空間を埋め尽くす。
「な────!?」
それに気を取られた俺の首を刈り取るように、天井の換気孔から這い出てきた蔦──否、蜘蛛の触手が真上から鞭のように襲いかかる。
「遠野くんっ!」
間一髪、シエル先輩の放った黒鍵に救われた。
投擲剣が触手を切り飛ばせば、堪らず体勢を崩した本体が落下してくる。
眼鏡は既に取っていた。反射的に抜いたナイフで、慣性ごと化け物を殺す。そうしている間にも、崩壊したコンクリートの隙間から堰を切ったように、化物は次から次へと湧き出てきた。
「こっちへ! わたしから離れずに! ──やられましたね、裏の裏をかかれました」
「アルトルージュと阿良句が手を握っていた。そもそもアルトリウスがここに辿り着いたこと自体、奴らの思う壺だったのか」
健在だった蜘蛛の化物。そして地盤の操作──空想具現化。どちらも祖の御業だろう。それらが波状的に発動した背景はそれしかない。だが、先輩は首を横に振る。
「違います。アルトリウスはそれを疑って、死徒の検分を試みたわけですが──彼女はアルトリウスの、偏執的なまでの疑り深さを見越していた。罠を疑うこと、それ自体が罠だったのです」
だとすれば、真に嵌められたのは最高戦力から切り離された俺たちの方だ。先輩と背中合わせになりつつ、横目で穴の底を見る。
今のやり取りの間に処置は終わっていた。アルトリウスが何もせず、ただ立っているだけで燃え盛る蜘蛛が跡形もなく見えない力で磨り潰され、塵へと還っていく。
それで終わり。だというのに、あいつは一向に穴から出てこない。高低差など真祖の前には何の障害にもならない筈なのに。
──違う。脱出に手間取っているわけではない。まだ何かと戦っている。
ここからでも辛うじて見えた。まるで白い、犬のようななにか。馬鹿馬鹿しい。あいつが小動物になんて手間取るわけが──
「遠野くん、前! いくら換気されているとはいえ、あの炎では酸素を使い果たすまで猶予がありません。真祖も真祖です。拷問なら他のやり方があったでしょうに」
「その前に一つ。手を組んでるのが嘘だというなら、敵はどっちなんですか」
「──アルトルージュでしょう。契約の書き換えは彼女の十八番ですから。そしてそれには、死徒の従属関係も含まれます」
なにしろ死徒を統べる為の器だったんですから。先輩は早口で締め括り、喝を入れるように俺の脇腹を肘で小突く。
「話は後でいくらでも。今はここを切り抜けることに集中して下さい。幸い、城としての攻略難易度は下から数えた方が早い」
「そうなんですね」
それは言い換えればアルトルージュにとって、ほんの小手調べに過ぎない策だということに他ならない。
余計な思考を頭から追い出す。生き延びさえすれば、頭の体操なんていくらでも出来るのだから。
「むしろますます気が重くなりましたよ……!」
シエル先輩の確かな体温に背中を預け、俺はナイフの柄を逆手に持ち替えた。