ここで穴へと飛び込む選択肢もある。だが、現実的とは言えない。
火災は未だ収まっていない。ただでさえ酸素が足りないというのに、迂闊に近寄れば先輩はともかく俺はただでは済まないだろう。
最悪、炎そのものを殺してしまう手もあるが、それが裏目に出ないとも限らない。先輩はああ言うが、アルトリウスとて考えなしに火を点けたわけでもあるまい。
そして何より、あいつが戦っている敵の得体が知れない。不完全とはいえ祖を圧倒するアルトリウスと戦闘なんてものが成立している時点で、これまでの相手とは明らかに一線を画している。
ここでさらに三人があそこに固まってしまえば、蜘蛛の大群までもが上から殺到する羽目になる。過去の犠牲者が迎えた末路の二の舞だ。
合流にあたっては、アルトリウスの方から開けたこちらに上がってきてもらうべきだ。退路を断たれた今、空間の確保は何より大事となる。
「なんにせよ、あいつの邪魔だけは出来ませんね」
「真祖はひとまず放っておきましょう。幸い、こちらは二人とも戦える」
「そうですね。窮屈でもありませんし」
ひょっとして、この状況を想定して弓塚やノエル先生たちを留守番させたのだろうか。
シエル先輩の買い出しはほんのついでで、自分ははなから死徒の城を潰す腹積もりだったのかもしれない。
「真祖も、そしてわたし達もゆとりを持って動けるようになったと捉えましょう。見たところ、地の利はこちらもあります」
「はい、先輩」
彼女の言う通り、崩壊の進んだ通路において立ち回りに優位があるのはこちらとなる。
蜘蛛の無駄に長い脚では旋回すらままならず、ひたすら愚直に突進する他ない。
ひしめく物量は獲物の逃走を許さないものの、いざ腹を括って迎撃に徹すれば動きの読みやすい的でしかなかった。
ナイフを構えると、頭の芯から凍てつくように思考が冷えていく。すっかりこの身に馴染んだ、戦いの境地。
迎え撃つといったところで、棒立ちのままではじりじりと穴の縁まで押し込まれて終わる。突出しすぎない範囲で、こちらも前に出るべきか──そう判断して利き足を踏み込んだ直後、左隣から制された。
見ればそこには先輩の姿。口を開けたバックパックに片手を差し込み、空いた手で俺を抑えながら同じ方向を向いている。
「シエル先輩──!?」
背後はどうなったのか。肩越しに確かめると、両手の数ほどの化物の残骸が無残に散乱しているのが見えた。それぞれ一体ずつ、ないしは二体まとめて黒鍵に射抜かれていた。
都合八本。両手で一度に投擲出来る最大数。一撃で音もなく殲滅してのけたのだ。背中合わせの俺にも悟られないまま。
もうこの人ひとりでいいんじゃないか──そんな弱音すら顔をもたげる程の圧倒的な制圧だった。そりゃあこんな人と組んでいたら、ノエル先生とて卑屈にもなろう。
窮屈なリュックの口をものともせず、惚れ惚れするような手慣れた仕草で先輩が取り出したのは一丁のアサルトライフル。訓練された軍人が両手で扱うそれを軽々と片手で構える。いつの間にか、俺の前に出された手には黒鍵の柄が握られていた。
「一掃します。遠野くんは撃ち漏らしの処理を」
こちらの返事を待たず、火を噴く銃口。暴れ馬もかくやの反動を少女の細腕で抑え込む。
吐き出された銃弾の嵐は、トンネルにひしめき雪崩れ込んでくる化物の群れをそれ以上の物量で挽肉に変えていく。フォアエンドに十字架が刻まれているあたり、対吸血鬼に特化した武装なのだろう。
胡桃の殻のようにいかにも堅牢で、事実コンクリートを苦もなく破砕した蜘蛛の装甲が凄惨に弾け飛ぶ。なにかの映画で見た、殺到するゾンビの群れを機関銃で薙ぎ払うワンシーンのようだ。
絶命に至らなかった個体はむしろ不運だった。追撃として放たれた黒鍵が肩の瘤へと突き刺さり、目も眩むような雷撃の嵐に巻かれて周囲の同胞ごと灰となる。髪の毛が焦げたような嫌な臭いが鼻をついた。
シオンの拳銃とは比べ物にならない自動小銃の雄叫び。薬莢が床を叩く金属音。網膜を焼くマズルフラッシュが、崩落した地下の暗闇を断続的に照らし出す。これではまるで、下水道に逃げ込んだ敗残兵を掃討しているかのようで、どちらが獲物なのかも分からなくなってくる。
先輩は取り溢しを任せると言った。火器である以上、必然的に生じる筈の
遠距離と中距離をシエル先輩がカバーするのでは、近距離しか戦えない俺の出る幕がない。若干の居心地の悪さまで覚えていたところ、ようやく弾幕を突破するものが現れた。蜘蛛の醜く膨らんだ肩の瘤から、牙とも爪とも知れないカタマリが真っ直ぐこちらに放たれる。
筋線維の駆動に全霊を注ぎ込み、点の移動で突っ込んでくるそれを勢いごと殺す。ヴローヴの氷柱を迎え撃った時のことを思えば、この程度なんてことはない。むしろ無駄にデカくしたぶんだけこちらの銃火に晒されて、威力と射程が減衰しているのではなかろうか。
当然ながら二度目を許す先輩ではなく、返す刀で下手人を一山いくらの屑肉へと変えてしまった。他の個体は相変わらず無意味に接近を試みている。どうやら、さっきのが敵にとって虎の子の遠距離攻撃手段だったらしい。
「弱い。一年前とは比べるべくもない」
既に大半が斃れたにも関わらず、馬鹿の一つ覚えの突撃を繰り返す蜘蛛の集団。その醜態を前にして呆れたように先輩が吐き捨てる。どうやら俺の知らないところで、こいつらは吸血鬼事件でも暗躍していたらしい。
──いや。同じ見た目ではないにせよ、同類と思しき奴は俺も殺したんだったか。ロアの食堂で襲い掛かってきた、人のカタチをしているだけの悍ましい異形。
酷く衰弱していたとはいえ、あのアルクェイドに一撃を与えた奴を引き合いに出してみれば、確かに目の前の連中は余りに不甲斐ないと言える。仮にあれと同じ実力だとしても、五十に届かんばかりの数を前にお喋りに興じている余裕はなかっただろう。
さらに言うなら、この蜘蛛は食堂の化物と比べてより強力な個体に見える。コンセプトが明確なデザインとか、単純に大きさにしてもそうだ。
「弱ってるんですかね。アルトルージュにまとめて叩き潰された後なんでしょう、こいつら」
「それが主な、というより最大の理由でしょうが。あとは、無理やり戦わされていることもあるでしょうね」
「ノエル先生のようにですか」
「はあ。確かに言われてみれば、あの子も今は真祖に洗脳されている身でしたか」
いま洗脳って言ったよこの人。
ノエル先生は最後の最後まで、いざとなれば師匠が庇ってくれると甘えていたようだが、当のシエル先輩からの扱いはこれだった。良くも悪くも興味の湧いた人間以外は相手にしないアルトリウスへの信頼が厚いとも言えるが。
一昨日、ノエル先生が『シエル先輩』のネタバラシをしたついでに教えてくれたことだが、暗示によって本人が望まない行為を強いることは出来ないという。
有無を言わさず服従させるとなると、それは暗示ではなく対象の意思/思考プロセスそのものを書き換える洗脳に他ならない。代行者相手に行使出来るのは吸血鬼の中でもごく一握りと言っていたが、昨日の今日で身を以て味わう羽目に陥ったのは皮肉というかなんというか。
「まあ、こんなところに来なくて済んだだけマシでしょう。俺たちも早く地上に──」
帰りましょうと。
願望を口にしかけた、その瞬間。
「──っ!」
地面が揺れた。
足下が揺らいだのではない。ここは地中なのだから。大地が揺れるということは、世界そのものが軋むということ。
大気が攪拌される。剥き出しになった地盤の下で、地球が身じろぐ音を聞いた。
落盤。とっさにその二文字が頭に浮かぶ。直後にその可能性を自分で否定した。安直に決めつけるには何かがおかしい──なにもかもがおかしい。
主な異変は重力だった。体が不自然に軽い癖に、少しでも足を動かそうとすると馬鹿みたいに鈍くなる。まるで海底にいるような。
あるいは悪夢にも近い。肉体が意識に周回遅れとなったあの感覚。人喰いの怪物に襲われているというシチュエーションもおあつらえ向きだ。唯一そぐわない点は、その怪物もまた同じ異常に囚われている部分か。
周囲に視線を飛ばし、次いで自分自身に目を落とす。少なくとも死線におかしなところは見られない。罠が発動したとか、呪いをかけられたとか、そういう単純な話ではないということ。
『視る』ことと『捉える』ことは全く異なる次元の話だ。人間の脳では処理しきれない事象も世の中には存在する。
「なんです、これ──」
引き金を絞る指を緩めないまま、先輩が呻く。彼女にとっても不可解極まりない現象だった。となれば、震源地は一つしかない。
敵も味方も動きが阻害されている。アルトリウスなりの援護のつもりか、あるいは出力を間違えたのか。そんな安易な納得を直感が否定した。
肌が粟立つ感覚。全身の毛が産毛の一本に至るまで逆立つような、筆舌に尽くし難い焦燥。
ようやく悟る。これが初めからだとするならば、俺がアルトリウスの元に向かうのを避けたのは合理的な判断ではなく──本能的な拒絶を前に、後付けの理由を足したに過ぎなかったのか。
■■■■■■■■■■─────!!
■■が吼えた。
人間の鼓膜では拾えない音階。
人間の聴覚野では解析出来ない音波。
能力の多寡ではなく、元からその権利自体が与えられていない。理解が克服の初期段階である以上、俺たちにはそれが許されない。
結果、何一つとして与えられていない筈なのに。今のが「絶叫」だということだけは分かってしまう。苦しんでいる。痛みに悲鳴を上げている。
──ヒトの身で■■と居合わせたこと、それ自体が致命的な災難だった。
「あ────」
ひたり、ひたりと重たい足が前後する。脳を介さず、四肢の神経が勝手に判断したようだ。
行く手に悍ましい異形が待ち構える。だが、逃走という至極単純な指令はそんな障害を意に介さない。
銃声が消える。確かにおよそ繊細な動作が望めないこの状況において、誤射のリスクはついて回るだろう。ただしそれは、凡庸な射手であればの話。
先輩は弾丸の口径が辛うじて潜り抜けられる程度の外殻の隙間に、片手の連射で全ての弾を叩き込んでみせた。まさしく針の穴を通すような精密射撃。射線に重なっていようが、本調子ならふらつく俺を避ける形で当てるぐらいわけもないだろうに。
敵の動きも鈍っているのだ。残り七体にまで数を減らしているから、あと数秒もあれば殲滅出来た。背後から切羽詰まった呼びかけが聞こえる。
「遠野くん、気を確かに!」
「分かってる先輩。分かっている、けど……!」
肉体のコントロールを完全に喪失していた。脳髄からの信号に別の命令が割り込んで、意思を伴わない「穴から遠ざかる」という動作だけが成すすべなく出力される。
一秒でも早くこの場から離脱すること。それだけが、生存を含めたあらゆる目的よりも優先されてしまう。
仮に蜘蛛の残党を突破出来たところで、地上に繋がる唯一の道は土砂に埋もれているというのに。この調子では礫の重さで手足が潰れ、肺の中が土に塗れるまで止まれそうにない。
攻撃されたわけでも、支配されているわけでもない。それ以前に、俺を意識などしていない筈だ。でなければ、未だこのように息をしていられる筈がない。
「あれ」はヒトにとって正視に堪えないものだ。ただそこに存在するだけで、俺のような人間には、どんな犠牲を払ってでも逃れようとする作用が働く。必要であれば心臓さえ自らその動きを止めるだろう。
先輩だけは、なんとかその場に踏み止まっている。人並み外れた精神力を以てしても、為せる抵抗は棒立ちが限界なのか。
縮まった彼我の距離をその巨躯で埋めて、蜘蛛の触腕が襲い掛かる。
欠伸が出そうなほど遅い動きだが、ろくに腕も上げられないのはこちらも同じだった。プールの水をかいて進むようなじれったさを噛み殺しながら、撓る巨木の一撃をナイフで受ける──シエル先輩の援護は、もう期待出来ない。
「ぐ──っ」
いなすように、視えた視線をなぞって切り落とした。不幸中の幸いというべきだろうか。たまたま手の届く場所に線が無ければ、今の一撃で終わっていた。
そして、死中において幸運などそうそう続くわけもなく。腐った溜まり水のように、陰鬱な複眼が俺を見下ろす。未だ尽きぬ炎に照らされたそれらには、間近に迫る同じ異形の姿が映っている。
囲まれた。我ながらあまりのツキの無さに笑いそうになる。自分の意思では倒れ込むことすら許されず、わけのわからないまま甚振られて殺されるのか。
せめて道連れにしようと、最後の力を振り絞り目の前の化物の点を貫く。たちどころにカタチが崩れていく蜘蛛の向こうに道が拓けたが、言うことを聞かない足ではなんの意味もない。
ふと、シエル先輩に目を奪われた。初撃でたたらを踏んだことで、たまたま視界の端に捉えたのか。黒鍵を捨てた腕を掲げ、瑞々しい唇が動く。
「“────”」
詠われた音には、不思議と憶えがあった。
それが何だったかをはっきりと思い出せないまま、凄絶な雷霆に身を焦がす。
悲鳴は出ない。声帯も含め、全身の筋肉が瞬時に縮んだ。反射的に酸素を取り込もうと試みるが、萎縮した横隔膜のせいで無駄に終わる。
九十度傾く視界。スローモーション。痛覚まで麻痺したのか、衝撃は一向に来ない。全身が鉛にでもなったような。
なるほど。こんな有り様では馬鹿みたいに歩き続けることもない。葉っぱから転がり落ちた芋虫さながらに丸くなるのがせいぜいだった。
肉体の暴走が手に負えないなら、物理的に動けなくすればいいというわけか。流石は歴戦のシエル先輩、惚れ惚れするほど
無論、俺はただの巻き添えに過ぎず、黒鍵に施された式典の大元らしき一撃は、直撃を食らった蜘蛛を問答無用で蒸発させた。
残りの六体、それら全てが爆ぜる。蒸気の尾を引き、炭化した残骸が仰向けの俺へと容赦なく降り注ぐ。
人生最悪のシャワーだった。シエル先輩がやったことだから心配はいらないだろうが、それでも吸血鬼の屍骸を浴びるというのはあまりにいい気分がしない。血肉ではなく、炭と灰なだけ幾分マシだとしても、だ。
暫く息を止め、ゆっくりと吐き出す。少しの間そうしていると、徐々に手足の感覚が戻ってくる。電撃による麻痺のみならず、あの四肢が自立したような不気味な異常も消えていた。代わりにだるさがどっと押し寄せてくる。酸欠のせいだろうか。
すっかり大人しくなった炎の爆ぜる音。鼻腔をくすぐる硝煙の残り香。さっきまでの喧騒が嘘のように穏やかで、あたかも祭りの後のような雰囲気。目を閉じて冷たいコンクリートに頬を寄せると、二人分の足音が伝わってきた。
「捨てられた子犬みたいですね、遠野くん」
「あんまりな言い方じゃないですかね……」
少し離れた場所から先輩の声が聞こえると同時に、何か柔らかいもので二度三度と顔を拭われた。これはアルトリウスだろう。
これまで生きてきて一度も触れたことの無い、想像を絶するほどの触り心地。絹のように滑らかでありながら、肌にしっとり吸い付くような重さもある。干した毛布のような匂いに続いて、タオル地からは得られない生き物特有の温かみと微かな息遣い──。
「…………」
嫌な予感と共に目を開ける。
いつもと変わらない無表情でこちらを覗き込むアルトリウス。その手にむんずと鷲掴みにされているのは、子犬とも猫とも兎ともつかない、正体不明の小型動物だった。
星の光を吸い込んだような、白く美しい毛並み。天女の衣さえ恥じ入るだろう無垢な輝きも、胴の側面いっぱいにこびりついた煤のせいで台無しだった。
当然、本人(本犬?)もそんなことは望んでいないようで、フォウフォウと珍妙な鳴き声を上げながら必死に身悶えしている様がなんとも哀れみを誘う。以前、なにかのドキュメンタリーで目にした、猛禽に連れ去られるリスにも似ていた。
とてもじゃないが、真祖の王族と渡り合っていた規格外の怪物とは思えない。確かに遠目から見た姿はこんな感じだったが、間近で見るとあまりに棘が無さすぎる──いや、それを言ったらアルトリウスも同じなわけだが。
ましてや、あの自ら命を投げ出すほどの重圧がこの生き物から放たれていたなど、どれだけ理屈が通ったところでにわかには信じ難い。
「まさか、そいつも祖だなんて言わないだろうな」
思わず疑問を漏らした瞬間、犬はびくりと警戒するように身を縮める。……俺の声に反応したように見えたのは、果たして気のせいだろうか。
「そうですね。これに原理血戒はございませんから。もっとも、似たようなものなら限界まで絞ればひり出せるかもしれませんが」
「やっぱりろくでもないじゃないか」
「毒抜きは済ませてあるので、今日のところは問題ないかと。もっともこれだけの大都市となると、角が生え直すまであと僅かでしょうが。それならそれで食い出がある」
再び犬(仮)を近づけるアルトリウス。ひっくり返し、
どうやら優れているのは手触りだけではないようで、軽くひと撫でするだけで嘘のように汚れが落ちていく。そのぶん犬の方が煤けていくわけだが、吸血鬼に容赦はない。ズボンまでくまなく拭き終えたころには、火を落とした暖炉か機関車の煙突にでも放り込まれたような姿にすっかり変わり果てていた。
今度は尻尾に持ち替え、高く掲げるアルトリウス。釣った魚を自慢するように、追い付いたシエル先輩に見せつける。
「嘗てない大物ですよ。今宵はえのころ飯ですね」
「なんです、それ」
「この国の伝統食です。喉元から股間までを裂き、内臓を抜いて流水で清めたのちに白米を詰め、竹串で止めてそのまま火を放つのですよ。動かなくなったら食べ頃です」
先輩が知りたいのはえのころ飯ではないと思うが。尾を掴んだまま顔と同じ高さまで上げ、ある部分を観察し「オスですかね」などと言っている。断定しないとは一体なにを見たのだろうか。
「吸血鬼でこそないようですが、教義から外れている点では変わらない。どう対処するつもりですか、アルトリウス」
「根本的に処置するのであれば、この世界から放逐するほかないでしょうね。結局、その先でも獣として頸を刎ねられないとは限りませんが。どのみち徒花と散る
「つまり、どうするのです」
「先程から何度も言っているでしょう。食べると」
されるがまま吊られていた犬だったが、ひと際高く鳴いたかと思うと狂ったように身を捩った。アルトリウスの言葉が比喩でもなんでもないと理解したようで、懸命にも脱出を試みる。
「んっ?」
そして、それは通ってしまった。驚くべきことに、あれだけしっかりと拘束されていたにもかかわらず、白い小動物は手品のように拘束から逃れてのけた。
とはいえ、一度捕まえた獲物をむざむざと見逃してやアルトリウスではない。すかさず払われた方とは別の手を伸ばすかとおもいきや、逃げ惑う影を見送るのみ。そこでようやく、彼の片腕が欠損している事実に気が付いた。
地に伏せたこちらからは見えず、シエル先輩からもケープで隠れている。いや、あえて隠していたのだろう。敗れこそしたものの、アルトリウスから腕を奪い、回復をも阻害する──断じて狩られるだけの獣ではない。
俺が声をあげるより早く、先輩の銃口が照準を定める。死に物狂いのサイドステップを意に介さず、放たれた弾丸は寸分の狂いもなく犬の背中へと吸い込まれ、その全てが突き刺さることなく
「え──?」
いつもの先輩らしくない、困惑の声。無理もない。
これが効かなかったとか、弾かれたとかならまだいい。あるいは着弾と同時に溶解したとしても、まだ分かる。だがあれは違う。例えるなら、映像編集の途中で、なにか不都合なコマを雑に切り抜いたようなおかしさ。脈絡も因果関係も、時間の流れすら無視して、弾が当たらなかったという結果だけを適当にでっち上げたような。
つじつま合わせを丸ごと放り投げた、あまりに雑な所業。それは翻って、あの犬にとって“現実”など容易く弄べるものに過ぎないという、冒涜的な価値観の発露にも思えた。
戦いの経験が浅い俺ですら察知出来た脅威だ。当然、シエル先輩はそんなこと百も承知で、浅く息を吐きつつゆるゆると突撃銃の銃口を下した。これ以上、追撃したところで無駄だろうし、それ自体が正しい選択なのかも分からない。
あたかも自分自身に言い聞かせるように、間を置かず次の方針を下す。
「脱出しましょう。ここは人間のいるべき場所ではありません。真祖の空想具現化がなければ、とっくに窒息か一酸化中毒です」
「アルトリウスのおかげで……?」
「別に褒めることじゃありませんよ、遠野くん。そもそも最初に火をつけたのも真祖ですから、ただのマッチポンプです。当然の責任を果たしたまでの話」
意地でも評価してやるつもりはないようだ。まぁ、先輩が吸血鬼を褒めることなんてそうそうないだろうけど。
そしてアルトリウスの方も特に気にした様子はなく、ようやく生えてきた腕を遊ばせていた。手袋まで元通りなあたり、全ての装飾を空想具現化で賄っているらしい。
「シエル、プラ犬は捨て置くのですか?」
「もしかしなくても、それはあの獣の名前ですか……いいんです。あれも地上に逃れたようですし、代行者の管轄かも怪しいですから。下手に他の秘蹟会が絡むとまたナルバレックが鬱陶しい」
先輩の弁は立て板に水のようだ。
最近になって権限が変わったとか言っていたが、それ以前から現場の指揮を執っていたのも彼女なのだろう。ちなみに事務手続きはノエル先生の役目だとか。
「それにここはノーマークでしたから、事後処理と並行して検証も必要でしょう。せっかくの痕跡とて、現場がなくなってしまえば元も子もない」
「おや、埋葬機関の癖にいっぱしの組織人らしいことを口走るのですね。良いことを教えて差し上げますよ。承認など、終わった後に申請すれば必ず通ります」
「それを事後承諾と言います。貰えるのはメダルではなく、懲戒と始末書の提出命令ですね」
「では、代わりに私が褒賞を与えましょう。千年城の一室は如何ですか」
「檻の中で恥を晒す羽目になるのがオチでしょう。それで喜ぶ人間は遠野くんだけです」
さり気なく酷い流れ弾を貰ってしまった。それでも、あえて突っ込むような真似はしない。
俺はただひたすらにここから出てくて堪らないのだ。今はあの狂おしい衝動ではなく、自分の意思でそう切望している。本来、人が生存出来ない環境と知れば誰だってそうなるだろう。
同行しているのがアルトリウスとシエル先輩なのもかえって不安に拍車をかける。この二人なら、大気圏外に飛ばされようがマリアナ海溝に沈められようが普通に生きて帰ってきそうだし。
「ほ、ほら帰りましょう先輩。どうやったら出られるのかは分からないけど」
「そうですね……どうやらあの梯子に繋がる蓋以外は全てダミーのようですし、ほぼ間違いなく溶接されていて開かないでしょう。さしあたっては、通気孔をあたりましょうか」
「納得いきませんね。通気孔とて、人が通り抜けられる造りな筈がないでしょうに。誰もが貴女のように、全身の骨を折って侵入出来るとは思わないことです」
バックパックに銃を納める先輩を尻目に、アルトリウスが反転する。何もない壁に向かって、悠然と歩き始めた。
「そも、ここが一から屠殺場として設計されたことは自明。誰があえて逃げ道を用意しますか?」
「あのですね、そんなこと貴方に言われずとも分かっています。だからといって迂闊に地盤を掘り抜けば、上層の
先輩が絶句する。そこでやっと、俺も二人の言わんとするところを理解した。
先輩は地下から退避すると決めただけで、片が付いたとは一言も言っていない。もっと早く疑問に思うべきだった。
直下、それもマンホールの蓋を開けただけの先にこれだけ大規模な空洞が広がっていて、住宅街がまともに機能するわけがない。なにしろ本来地中に埋まっているべき上下水道や通信インフラその他諸々がごっそり抜け落ちているのだから。
地下道そのものは真上の道路に沿う形で続いてはいるものの、縦はともかく横幅は圧倒的にこちらが大きい。必然的に、両脇の物件は、コンクリートで固めただけの土台に乗っかった箱物となる。
外から見て目立たないよう、どうにかして電気ぐらいは通しているだろうが、およそ居住に適した環境ではないだろう。水道局なり通信局なり、然るべき役所に照会すれば異常が数字として出ただろうが、それだけの伝手が教会になかったのか。あるいはそんなところにまで、死徒の手が回っていたのか。
なにはともあれ、地上と地下がまとめて一つの巣だというなら、ここで両方叩くのみ。シエル先輩も、そしてアルトリウスも当然そのつもりだ。異なるのは、前者が潜入を主とするエージェントであるのに対し、後者は殴り込み上等の重戦車だという点である。
「先輩。外は真昼ですから、逃げた奴が街に出ていくこともありませんよね。むしろ日が高いうちに退治した方がいいんじゃないです」
「時間はいいんです時間は。問題は後始末ですよ。都市制圧戦の申請すらせず区画を浄化するなんて、報告書にどう残したものか」
「なるほど……」
やはりというか、大人の事情だった。そして代行者の立場など、真祖が斟酌してくれるわけもなし。
ここでぐうの音も出ない理屈を突きつけられれば、渋々ながら矛を収めるだろうが、逆に言えば納得させられない限り折れることもない。そして、適当に生きているように見えて裏ではしっかり考えているので、あれでも言葉で丸め込むのは極めて難しい。そんなところまでアルクェイドに似たのだろうか。
「今さらですけど、防音とかは大丈夫ですかね」
「当然、対策は済ませていますよ。たとえダイナマイトに火が点いても、なべて世はこともなしです」
白い細腕が振りかざされるのを見守りつつ、黒鍵を抜く先輩。
それがただの希望的観測だと痛む鼓膜で理解したのは、ほんの数秒後のことだった。
◆
掃討はいとも容易く終わった。
家々に巣食っていた死徒たちは、流石に地下の騒ぎには気付いていたらしく各々息を潜めていたものの、相手は真祖の王族と歴戦の代行者。おまけに燦々日光の昼下がりとくれば助かる目などある筈もなし。
逃走、抗戦、命乞い。最期に縋ったものは様々だったが、実を結ばかった点では何れも同じだ。何一つとして見逃すものはなく、淡々と処理がなされた。
日中だというのに、カーテンを開けてもなお室内は妙に薄暗い。独特の構造がそうさせているのだろう。元からまともな人間が住むことを想定していないわけだ。
実際、奇妙な家であった。家電こそ曲がりなりにも使用された痕跡はあるが、棚や物置の類は軒並み空っぽ。小物と呼べるものが一つとして存在しない。そのくせ消耗品は乱雑に散らかっていて、何もかもがちぐはぐだ。
無理やり例えるなら、素行の悪い集団の溜まり場となったショールームといったところか。
「やはり二層構造でしたか。地上の戸建てが隠れ家と餌を呼び込む罠を兼ねている。加えて、”下”に送る適切な時期が来るまで管理する場でもあったのでしょう」
シエル先輩の言葉を受けて、アルトリウスがリビングに放置された空のペットゲージを蹴飛ばした。
恐らく家庭用ではない、なにか大きな動物を閉じ込めておくための檻。それでも中に収まるのは、児童と呼べる年頃までがせいぜいだろう。
使い込まれた給水器が床に落ちる。先程の無慈悲極まりない虐殺を前に、ほんの僅かに芽生えていた吸血鬼達への同情心が跡形もなく消えていくのを感じた。
「よくあるパターンなんですか、先輩」
「そうですね。都市で潜伏しつつ血を集めるとなれば、自ずとこのような根城になります。ただ隠れる為ではない、能動的な築城。ようは計画犯罪。ヴローヴもそうだったでしょう?」
「ああ……そういえば確かに」
そうだ。アルクェイドが言っていた。ヴローヴの城の入口は駅前のデパートにあると。実際、夜になって地上に出てきたヴローヴがそこで暴れていたわけで。
ちょうどあの頃、デパートにまつわるいかがわしい噂も流れていたのだったか。たった一晩で大金が手に入るバイト。
総耶の主に若者の間で広まっていたが、不思議なことに、実際に応募した者の体験談は一つとして聞かない。
故に当時ですら、堅実な人間には眉唾だと切って捨てられた。今となっては記憶している者すら僅かだろう。
「他方で、特徴的な部分もあります。地下も含め、この区域が最初から死徒の城として設計されていることです」
そう、区域だ。アルトリウスがぶち抜いた通路はある家の書斎に通じていて、そこを取っ掛かりに俺たち三人は一戸ずつ渡り歩いて制圧している。
「死徒とは通常、日常を侵すモノ。吸血によって少しずつ営みを乗っ取り、成り代わりを広げることで街を支配する。当然ですね。最初は身一つなのですから」
「しかしこの街は違う。始まりから死徒の手が加わっている。支配する街を創り上げたこと──そして何より、それが許される環境を握ったことそのものが特異だと。そう言いたいのですね、シエル」
「ええ。ただしそれ自体は、祖に匹敵する死徒であれば珍しい話でもありませんが。ですが今回の場合、守護者としての気概もなく、ただひたすらに餌場としかみなしていない」
「所詮は一時の道楽かと。モナコを焼くよりは手早く済みそうで何より」
つい先程まで、会話どころか目を合わせることもなかった二人が会話を始めた。
別に口すら利きたくないというわけではなく、どうやら今までは死徒の殲滅に集中していただけらしい。それが終わったということは、ここも完全に片付いたということだ。
「二人とも、ひとまず家に帰ろうか。シエル先輩の買い物も終わったわけだし」
「いけませんよお父様。あちらの戦いは未だ佳境に至らず。今戻ってしまえば、ノエルにとって良からぬ成功体験となりましょう」
「成功体験?」
「はい。いざとなれば助けが入るという」
「あぁ……」
声を上げたのはシエル先輩だった。
本当に、思わずといった感じの。よっぽど思い当たる節があったのだろうか。
「ですがアルトリウス。貴方はむしろ、弓塚さんとシオンの心配をすべきでは。母親に似て鈍い貴方はお忘れかもしれませんが、吸血鬼は日光に当たると弱ります」
「だとしても、あの二人がまとめてノエルに伸されるとは、かなり無理のある見通しではございませんか。たとえ一騎打ちでも厳しいでしょうに」
「そう思うなら二対一なんてしないであげてください……あのですね、彼女はかなりムラが激しいんです。確かに貴方の知る代行者ノエルは、それはもう味噌っかすなのでしょうが」
さらりと酷い評価を下しつつ、こめかみを押さえる先輩。
何が楽しいのか、そんな先輩のジャケットの裾で遊びながらアルトリウスは先を促す。
「相手が格下の場合──正確には、ノエルが相手をそう判断した場合、あの子は本来の実力を発揮出来ます。とはいえ甘く見積もって中の下ですが。それでも、今の彼女を落ちこぼれと評するには無理がある」
「なるほど。姫プレイありきとはいえ、伊達に長生きしていないわけですか」
長生きとは。ノエル先生は御歳二十六……万が一、サバを読んでいたとしてもアラサーの域は出ないだろうに。代行者とはそれ程までに過酷な生業らしい。
ついでにアルトリウスが妙な言葉を覚えているのも気になる。どこで知ったのか後で問い質すべきか。
「弱者らしく臆病ではございますね。常に最悪を想定するが為に、実力を十分に出し切れない。せっかくの逃げ足も、自分すら賭けられないようでは持ち腐れでしょうに」
「興味がないくせにしっかりと見てはいるんですね……。無様を晒してでも死線を潜ってきたノエルと、素質こそあれどもあまりに戦闘経験の乏しい二人。錬金術師はともかく、一般人だった弓塚さんでは、そもそも人を殺せる覚悟があるのかどうか」
「それらがノエルの後塵を拝する理由になると」
「少なくともノエルはそう考えるでしょうね。なにしろ彼女にとって、積み上げてきた過去はたった一つの拠り所ですから」
「まあ、それで本人の戦意が上がるなら私の魔眼とも十全に噛み合うのでしょうが。果たしてどうでしょう、お父様」
「ここで俺か?」
「ノエルと戦ったことがあったでしょう。その時のノエルは、お父様を怖れていましたか。それとも侮っていたでしょうか。力量は如何でした」
一年前。屋敷前の道路でロアから助けられた直後、なし崩し的にノエル先生とやり合った。
あの時の先生は完全に俺を下に見ていた。シエル先輩の言葉を借りれば、実力を発揮した状態。その力量は──俺が制圧されたとはいえ、お世辞にも褒められたものではなかった。とはいえ、組み伏せられた身で言えることでもない。
結局なにも返せなかったが、その沈黙こそがこれ以上ない答えだったようで、アルトリウスはつまらなそうに鼻を鳴らす。シエル先輩もまた、話を打ち切るように軽く息を吐いた。
それにしても、アルトリウスとシエル先輩であの「訓練」の見立てが食い違っていたのは意外だ。どちらも実力者なだけに、互いのバディ(と言っていいかは知らないが)より相手方を意識しているのは興味深くもある。
「いずれにしても、もう少し様子を見るのは賛成です。わたしはともかく、ノエルはここ半年グロッキーでして。あまり実戦経験を積めていませんでしたから」
「おや。まだ不調になるだけの余地があったのですね」
「貴方のせいですけどね? まあ、それはさておき」
任務終了を告げるように。
黒鍵の柄を懐にしまい、両手を合わせてウインクする先輩。
「時間も時間ですからお昼にしましょう。わたし、近くに良いお店を知ってるんです」