シエル先輩が”いい店”というぐらいだから、目を疑うほどの値段設定のレストランに連れて行かれるかもしれない、と少しだけ肝を冷やしたが……それも杞憂に終わった。
先輩が弾む足取りで案内してくれたのは、繁華街の小さな店がひしめき合う一角。
知る人ぞ知る隠れ家的な名店──かはさておき、扉の先に広がっていたのは、エスニックな情緒溢れるインテリア。鼻をくすぐるのは食欲誘うスパイスの香り。たぶんターメリックとか、ガラムマサラとか。
どこからどう見ても、本格インド風カレーショップだ。
「おお、ちょうどランチタイムが始まったところでした。スパイシーチキンのおまけ付きですね」
るんっ、といっそう上機嫌な歩みで、迷いなく奥の席に向かっていく先輩。どうやらかなりの常連だったらしい。
ランチタイムといえど、昼食のコアタイムにはまだ早い時間。だからだろうか。休日の繁華街にもかかわらず、俺たち以外の客はいない。
先輩の目にはそれが奇妙に映ったのか、探るような眼差しを窓ガラスの向こうの大通りに投げたものの、すぐにまたご機嫌な笑顔に戻る。
せっかくの出先なのに、急かされて食べるのも損だ。その意味では僥倖とも言えよう。お店の売り上げはこの際置いておくとして。
そしてなにより、ここなら目玉が飛び出るほどゼロの並んだメニュー表は出てこない。きっと。
思わず漏れた安堵の吐息。耳聡い息子が真顔でこちらを振り仰ぐ。あれは確実に内心を見抜かれた顔だ。
お前の考えていることは分かるぞ、アルトリウス。なんとでも言うがいい。現実問題として、俺の懐事情はあまりにお寒い。
別に秋葉を責めるつもりはないが、鬼のように厳しいご当主様が絶対にバイトを認めてくれないため真っ当に稼ぐ手段がない。それどころか、俺の渡欧を阻止する為とはいえ、一日五百円(昼食代)の小遣いすら取り上げられかねない始末。
非人道的な労働環境とはいえ職に就いているシエル先輩、そして母親の遺産+いかがわしい稼ぎで膨大な資産を持つアルトリウスとは状況が違うのだ。後者に至っては空想具現化で何でも作り出せる以上、無尽蔵とまで言えるわけだし。
せめて持ち合わせがないで抜けられれば一時の恥で済むが、二人がそれを許してくれるとは思えない。まず間違いなく先輩の厄介になる。最悪の可能性として、息子に奢られる羽目にすらなりかねない。
とはいえ、それはフレンチでも相手にしたらの話。
庶民的な店であれば、いちいち算盤を弾かずに済むだけの手持ちはある。日々の節制の賜物だった。シエル先輩と向かい合わせに腰掛けつつ、確認の為に机の下で財布の口を開く──やけに固い。詰まって可動域がほぼ失われているような。そして馬鹿みたいに重たい。
「んん?」
ような、ではなかった。ポケットにぎっちりと紙の束がすし詰めになっている。財布の形を崩さない限界いっぱいまで、それこそ一ミリの隙間もないほど。
皮を押し広げてどうにか指一本捻じ込み、四苦八苦しながらほじくり出す。やはりというかなんというか、我が国の最高紙幣、一万円札が全部で──何枚だこれ。百万円で厚さ一センチというが、どこからどう見てもそれを凌駕している。
俺の狼狽える様をみて察したのか、シエル先輩も同じように財布の中を確かめ顔をしかめた。全く同じ怪奇現象に直面したようだ。無論、心当たりなど一つしかない。
犯人は素知らぬ顔で俺の斜め向かい……すなわち先輩の隣に座っている。どれだけシエル先輩のことが気に入ったのやら。
「やっぱりこれ、紙幣番号が全部同じじゃないですか。アルトリウス、これは偽札です」
「落ち着いてください先輩。番号が違ったところで偽札には変わりありません」
この国で銀行券の発行を許されているのは日本銀行だけだ。そして言うまでもなく、アルトリウスは真祖であって銀行ではない。
「問題なく使えますよ」
「それこそ大問題だろ。経済を破壊するつもりかお前は」
「お父様の財布のようにですか」
「うるさい。とにかくこれは資源の無駄だ」
札束はとりあえず上着のポケットにしまっておく。ちなみに財布が使いにくいからであって、紛らわしいからではない。何故なら五百円をあの手この手でやりくりしていた俺の財布に、一万円札などという大物は存在しないからだ。我ながら悲しくなってきた。
追い打ちを食らう前に、素早くメニューを間に広げて話題を変える。
本場志向、と言っていいのかは分からないが、このカレーショップは主にナンで提供しているらしい。希望すればバターライスにも変更出来るらしいが、せっかく来たのだからやはりこちらで頂くべきだろう。
品目は両開き複数のページにまたがっている。加えて、二十段階ものスパイスから揚げ物まで含めたトッピングなど、実に種類豊富だ。カレージャンキーの先輩が通い詰めるのもさもありなんといったところか。
「多彩ですね」
「初心者ならバターチキンカレーがおススメですよ。辛ければいいというわけではありませんし、なにより美味しく味わうことが一番ですから」
「そうですか。では、そのバターチキンカレーにスパイスとトッピングは全乗せで」
「おい、先輩の話を聞いていたかお前」
「もちろん」
なるほどなるほど。聞いた上で、そのだったらなんなのだとでも言いたげな態度を取っているわけだな。
こいつが知らないのも無理はないが、シエル先輩はかなりの辛党だ。それも辛味を辛味と受け取るまでの閾値が異様に高いタイプの。そんな彼女をして思い留まらせようとしたにも拘わらず、「その先は地獄ですよ」なるありがたい忠告を真祖は無碍にしたわけだ。
「ふぅ……」
まあ、それならそれでいい。自分の舌と胃袋を過大評価して痛い目を見るのは、誰しも一度は通る道。こいつのふてぶてしさに灸をすえるにはいい機会だ。
いざとなれば、俺と先輩がいるわけだし。はしゃいでいた子供が泣きを見た後で尻を拭う準備は出来ている。
「一応聞いておくが、付け合わせはナンでいいんだよな」
「なにをおっしゃいますか。全品ナンとライスの両方に決まっているでしょう。どちらもメガ盛りでお願いします。それらを」
アルトリウスの指先がメニューの端から端までを一直線になぞる。
「ここからここまで、全て」
「おっと?」
それはつまり、メニュー見開き一面の全十二品(スパイス、トッピング全盛り)×2(ナン&ライス全てメガ盛り)……ということになるが?
ちなみにメガ盛りでナンは6枚、ライスは800グラムで、比例してソースも上乗せだ。ライスだけでも、一般家庭用の一袋を使い切ってまだ足りない。それも炊く前の米の状態で。
今さら言うまでもないことだが、俺は食が細い。胃が量を受け付けない。食べないのではなく食べられないのだ。いや、たとえ俺が大食いのタイトルホルダーであってもどだい太刀打ち出来ない量だろうが。
つまり、いざその時が来た時に縋れる相手はシエル先輩しかいないわけだが、当の彼女は呆れつつも止めようとはしない。アルトリウスだけが馬鹿を見るならともかく、大量の食事が廃棄処分されることを先輩が看過するとは思えないのだが……それともまさか、全て一人で始末をつけるつもりか。
「わたしはもう決めていますから、遠野くんもどうぞ」
「あ、はい。じゃあ俺はそのバターチキンカレーの小盛を。スパイスは抜きで」
朝っぱらから教会の面々が押しかけてきたせいで、朝食は取れていない。なので、胃袋には多少余裕がある。あくまで俺基準だが。
アルトリウスが残しても、限界まで頑張ればなんとか成人男性一食分は消化出来る筈だ。流石に水一杯でやり過ごすのもなんなので、自分の分はこれでやり過ごすと決める。
先輩が顔見知りらしき店員を呼ぶ。メニューに一瞥もくれないまま注文をこなしていく様は常連の威厳と風格に満ちている。この人、一年前も含めてひと月かせいぜい二月ほどしかこの街にいない気がするけど。
ともすれば悪質な悪戯にとられかねないようなオーダーであるが、店員はやや戸惑いつつも特に確認を入れることはしない。見た感じ、先輩への信頼もあるようだが、それだけではない。どこか、降ってわいた幸運に恵まれたようにも見える。
「土曜の昼時にもかかわらず、閑古鳥が鳴いておりましたから。鴨が葱を背負って来くれば誰しもこうなりましょう」
「そんなもんか。それはそうと、使い方を間違っているぞ」
言わんとすることは伝わるが。そして地味に、俺だけに届く音域を出力するというなんとも器用な真似を披露している。
余裕綽々なのは結構だが、お前にとっての戦いはこれからだぞアルトリウス。オーダーが通ってしまった以上、もう後戻りは出来ないというのに。
最悪、留守番組を集めることも考えるべきかもしれない。マナー違反も甚だしいが、大量のフードロスよりはまだマシだと思う。次の入店は断られるかもしれないが……いや、それってかなりの大事じゃないか。俺ではなく、シエル先輩にとって。
店員が奥へと消えるのを見届け、アイスチャイで口を湿らせる先輩に問う。
「あの先輩。このお店を出禁にでもされたらどうするつもりです」
「いきなりなんですか、縁起でもない。どうもなにも、やることは変わりませんよ。可及的速やかに祖を討ち果たし、遠野くんを……まあ適切に処理してこの街での任務は終わりです」
「あ、やっぱり無事では済まないんですね俺」
そういえば元々はそんな話だったような。俺は教会とかいうおっかない組織に目をつけられていて、先輩はそこの切り札なわけで。
俺に出来ることなど、とにかくこの人の機嫌を損ねず、お目溢しを期待するぐらいだとノエル先生が言っていた。同時に、そんな情けなど代行者シエルにはないとも言っていたが。だったら結局何をすれば良いんだか。
「教会は過激で執念深いですからね。現にイタリアでは宿を燃やされましたから」
「貴方がこともあろうにバチカン宮殿まで侵入したからでしょう。良い機会です。どんな魂胆だったのか聞かせてもらいましょうか」
「
先代のローマ教皇が帰天したのはだいぶ前の話である。俺がまだ有馬の家にいた頃の出来事だ。
じゃあなにか。こいつ、当代の教皇を暗殺するためにサン・ピエトロ広場に足を運んだわけか。むしろよく殺されなかったな。というより、殺せなかっただけか。
「国家元首にして聖堂教会の盟主を葬ろうとは。堕天ここに極まれりと」
「心外ですね。先に王族へ無礼を働いたのはあなた達でしょうに」
「別に貴方達は政治的指導者というわけではないでしょう。そもそも他の真祖が既にいないじゃないですか」
「お母様以外はどうでもいいですよ。あのような者共はいてもいなくても同じこと。端的に言って資源の無駄です」
薄々察してはいたが、やはりアルトリウスにとって他の吸血鬼は同胞でもなんでもないらしい。そしてそれは、真祖に分類される個体も例外ではない。
教会の定義はともかく、アルトリウス本人に仲間意識は薄いどころか全く無い。出会ったところで行き着く先は胃袋の中というわけだ。欧州において、一切の同盟や主従関係のようなものは確認出来なかったという。
アルクェイドは吸血鬼のことを、起源が同じなだけの、別の進化を遂げた固有種だと説明していた。故に人間でいう仲間意識は希薄なのだと。アルトリウスにとって、同一個体であるアルクェイド以外はおしなべて別種ということになるのだろうか。
とはいえ、あの話はあくまで死徒と真祖を切り分けた上でのたてつけだったような気もする。しかしこいつの場合、両者を峻別しているようには見えない。身も蓋もないことを言ってしまえば、そこに関心を寄せていない。
反面、人間に対しては比較的親和的だ。
少なくとも人間社会における契約行為とか、経済活動への理解はあった。世間の物差しから外れてはいるものの、息をするように都市を焼き払う災害とは違って、人間社会の枠内に収まろうとする気概はある。
真祖と人間の混血。生物的な規格は間違いなく真祖そのもので、他ならぬアルトリウスがそう認めている。だというのに、超越者然と振舞う──シエル先輩の言葉を借りるなら、真祖の誇りを標榜しているかというと、それもまた違う。
このあたりも、シエル先輩が警戒する一因なのかもしれない。血に飢えた死徒ほど短絡的ではないものの、これ以上ない脅威であり、実力で排除が望める相手でもない。
いざとなれば確実に吸血鬼を始末出来るだけの能力と権限が、先輩の自負を支えていた。そのどちらも通用しないとなると、これまでと全く異なるアプローチが求められる。太陽で遊ぶ子供とはよく言ったものだ。
「ついでに確認しておきますが、
「お母様にお願いされましたから。ええと、確か、視線がいやらしい死徒に二度と見られずに済むようにすればいいんでしたよね。しぶとく生き延びておりましたか、あの変態」
「いや、そんなところに死徒がいてたまるか」
あまりに適当な言い分に思わず口を挟んでしまう。先輩はというと、頭痛をこらえるように顔をしかめていた。
ひとまず口を閉じておく。どうやら聞いている以上にアルトリウスはふっかけているらしい。教会側は、ともすれば身内の恥を晒すことにもなりかねないから黙っているだけで。
そして同時に、責任を取らせる先を他に探しているのだとすれば、リストの筆頭はまず間違いなく俺だろう。
「しかしシエル。吸血鬼退治が専門というわりには、あなたはあの場にいませんでしたね。さては臆しましたか」
「減らず口を。たまたま任務で出払っていただけです。生憎、貴方のように霧になれるわけでも、分身を作れるわけでもありませんから」
「なるほど。だからわたしの案件を専属という体で押し付けられたと」
「ええ。貴方のおかげで、今や異端狩りは開店休業ですから」
「そうでしょう。遠慮せず褒めて良いのですよ」
「相変わらず、皮肉を皮肉と理解できないとは……」
恨めしそうに、人差し指で机を叩くシエル先輩。同業が軒並み暇を持て余している中、半年間も休めず働き詰めとなればストレスも溜まるもの。
それは自分も楽をしたいという欲ではなく、時間が余ればそれだけ無駄な仕事が無駄に細かく求められるという、極めて不都合な現実から来るものだという。面倒な事務の実務はノエル先生に任せているとはいえ、最終的な責任を負うのは先輩である。
教会で最大の事案を一手に引き受けているシエル先輩には、良くも悪くも多くのものが集まってくるのだろう。その元凶が隣にいるのだから、嫌みのひとつも言いたくなるわけで。
「聖座すら踏み躙る貴方に、今さら自制など欠片程も期待していませんが。どうせこの国も、野蛮な吸血鬼らしく蹂躙するのが望みなのでしょう」
「……先輩」
ずいぶんと、踏み込んでいったな。
最初からここに着地させるつもりだったのか。挑発の裏に潜めたカマかけは、その本心を聞かされていた俺から見ても自然だった。
不機嫌も偽りではないだろうが、別に先輩は糾弾がしたいわけではない。過ぎた出来事ではなく、これから起こり得る事態を懸念している。
総耶の保護という行動指針、それ自体が先輩にとっては信じ難いことだという。およそ真祖のプロトコルからかけ離れた挙動。バグ動作に等しいとすら言っていた。
よしんば守るという意思こそ本物だとしても、前提となる価値観が致命的に乖離していれば無意味を超えて有害となる。
破綻したロジックのもと真祖が力を振るえば、それは二十七祖すら遥かに凌駕する厄災となる。どのような意思に基づくものであれ、出力される御業そのものは天変地異に他ならない。
極論、この地方を石器時代に還したとしても、住人さえ無事ならそれを以て護ったと見做すかもしれない。なんなら合理的に考えた結果、人間一人でも残っていればそれで良しと結論づけた場合──文明がどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。
事実、公園の広場を跡形もなく破壊し尽くし、衛星の軌道まで捻じ曲げる無法を起こした以上、杞憂とは言えない。人除けこそ施していたものの、仮に俺たちより先に第三者がいたとしたら、果たして死傷者なしで済んでいただろうか。
アルトリウスの行動原理次第では、総耶の守護者どころか最大の脅威になり得る。ともすればその枕に”人類の”という修飾までつくかもしれない。
無論、直球で聞いてもこいつが素直に明かすわけがないので、こうして売り言葉に買い言葉で馬脚を現すのを狙っているというわけだ。
『真祖の肩を持つのがが父親である遠野くんの役割だというのなら、疑ってかかるのはわたしの役目です。それで初めて調和が保たれる』
なんて、一昨日も言っていたな。
後に続く、男親と女親の役割がどうこうの話は聞き流してしまったが。
「まさか」
アルトリウスは半眼を向ける。
相手の物言いに気を損ねたわけでもなく、単純に白けた。そういうことにしようと決めた時に見せる表情だった。
本当にどうでもいい時は、表情自体を変えない。そもそもはっきりと笑うことの無いアルトリウスにおいては、文字通り目は口程に物を言う。
「わたしは今の世界をそれなりに気に入っております。あえて壊すつもりはございませんし、わけの分からない輩に壊させるつもりもない」
「欧州にて一時代を終わらせた感想がそれですか。他ならぬ貴方が席巻したおかげで、神代の名残は見る影もないというのに」
「結果論ですね。所詮は燻りかけた蝋燭。あてどなく歩き回る影法師なれば」
なるべくしてなった、ということだろう。
シエル先輩の畏れをアルトリウスは理解しない。正しくは、理解することに価値を見出していない。種として単一であるこいつの世界において、観測者は自分ひとりだけだ。
「その嘘臭い信条に則れば、祖と矛を交える理由も見当たりませんが。むしろ彼らと結んだ方が、得られるものも多いでしょうに」
「望みを叶えるなら私の力だけで十分。あのような者達からの施しなどこちらから願い下げです」
「ならあえて首を突っ込む理由も無いのではないですか。いくら彼という存在があるとはいえ、私情で星のリソースを浪費するなど」
「それこそ、今更な話ではございませんか」
「違います。真祖は星に必要とされて生み出される。星の触覚なので当然ですが。貴方には定められた
シエル先輩が欧州でアルトリウスと交戦した時は、あくまで一騎打ちだったという。真祖の倒し方など知らないが、いくらなんでもそれが最適解だったわけではあるまい。案の定、一方的に返り討ちに遭ったというし。
それこそ、シエル先輩の所属する埋葬機関とやらの総力を挙げるだけでも、また違ったのではなかろうか。
「真祖の王族の起動は、星による直接的な介入とほぼ同じ。迂闊に阻害してしまえば、かえって地表における生命体全てに累が及ばないとも限らない」
「なるほど。ちゃんと先のことまで考えて様子見に回ったということですか」
「ええ。そしてこれまた当然ながら、貴方が投入された理由に遠野くんは関係ない。故に欧州での貴方はともかく、今の貴方は暴走した兵器。想定から外れた運用──直截に言って、放蕩に他なりません」
「シエル」
「なにより合理性を至上命題とする真祖を自称しながら、貴方の活動は合理的に説明がつかない。貴方は最初からバグを抱えている」
それはアルトリウスにとって、挑発以上の意味を持つものだったのだろう。吸血鬼の瞼が、視線を宙に漂わせたまま一段と細められる。
ただそれだけで空気が凍った。懐かしくもある、路地裏でアルクェイドに追い詰められた時に刻み込まれた、あの感覚。
あの時と違って、まったく視界に入れられてすらいないというのに。あれと机一つ隔てた距離にいること自体が致命的だと、呼吸の一つでもすれば、その瞬間息の根を止められると、本能が警告する。
あの燃えるような朱い瞳とは対極的に、アルトリウスの澄んだ碧眼は、骨の髄から壊死しかねない冷気を湛えていた。直接の対象であり、真横に座る先輩にかかる圧力は一体どれほどになるか想像もつかない。
これ以上刺激するのは流石に不味いと判断したようで、シエル先輩からの続きはなかった。それが功を奏したか、やがて潮が引くように凍えは収縮していく。
「お母様にお願いされましたから」
「またそれですか。じゃあなんですか、アルクェイドに命令されたら何でも従うんですか貴方は」
「何でもとは言いませんが。拒む理由がないのなら、そうですね」
「真祖の間に従属関係は存在しないでしょう。当然、指揮命令系統も。貴方達の社会における格差など、せいぜい称号の有無ぐらいでしょうに」
「突き詰めれば純然たる性能の差ですね。粗悪な個は廃棄されるが必定」
まるで相手にせずあしらうアルトリウス。
事実として、この問答──あるいは原則論に意味はない。発生からして異質な彼をそんなものに落とし込めようがないためである。自然発生する本来の真祖と、そんな者たちが創り出した社会において、親子の情などあろうはずないのだから。
そして、これはシエル先輩からの受け売りである。故に先輩自身も的外れな指摘だと承知している。それでもあえて口にしたのは、第三者である俺に聞かせるために他ならない。
これは、今朝シエル先輩と話した、あの仮説についてのことだ。
アルトリウスとアルクェイドの関係。隷属とは言わないまでも、たんなる母子の繋がりを超えて、前者が後者の強い影響下にあるのではないかと先輩は踏んでいる。
星からの命令と、アルクェイドからの“お願い”。これら二つの指針を同時に遂行していることが、破綻して見える行動に繋がっているのだとしたら。
これが正しければ、アルトリウスは放蕩息子どころか、プログラムに雁字搦めのコンピュータと同じようなものと言える。
半年ほど前に地上に出現。爾来、邁進している捕食活動と全く同じ原理で、アルクェイドの遺志に則って総耶を守護しているのであれば、二十七祖を筆頭に如何なる障害と相まみえようともやり遂げるだろう。
というより恐らくは、放棄するという選択肢自体が存在しない。かつて全世界を敵に回そうとも、お構いなしに欧州を制圧したように。その為なら、シエル先輩への執着も一先ず棚に上げられる。
とはいえ仲良しでいられるのは、目下直面している存亡の危機──タタリを滅ぼすまでの一時的なもの。
それを理解していない二人ではない。アルトリウスも、シエル先輩も、既にこの戦いを終えた先を見据えている。互いに、互いが勝ち残ることを前提として。
彼らにとってこの街は、これまで生き延びてきた数ある死地の一つにすぎないのだから。少なくとも、先輩の方は相応の備えを整えている。
「お待たせしましたー」
言葉の応酬が途切れる。まるでそれを見計らったようなタイミングで、奥の厨房からカレーが運ばれてきた。
量が量なためか、トレイではなく手押しのカートに乗せられている。それと同時に、芳醇かつ鼻の奥が沁みるような香りがホールを包み込んだ。
「バターチキンカレー激辛(スパイス20倍)メガ盛りと、ほろほろ肉煮込みビーフカレー激辛メガ盛り……以下同じように、秋の野菜たっぷりカレー、スペアリブのポークカレー、それから本場四十種の特製インドスペシャル、えーっと……」
「おお」
あたかも最初から仕込んでいたかのような、あまりに驚異的な手際。スピードもさることながら、これだけの品目を一度に提供するマルチタスクに目を瞠る。
突貫工事で近くのテーブルもくっつけ、少しの無駄も許さず埋め尽くしたあと。最後に二十四人前ですと締め括って、レシートが先輩の前に置かれた。
そうか。これが常連の……否。シエル先輩のカレー愛に対する信頼というやつか。
ちなみに俺の前には先輩のチーズカレーが置かれ、アルトリウスの前には俺の注文した、最も小さなサイズのバターチキンカレーがあった。
まあ、見た目だけなら誰でもそう考えるだろう。店員が下がるのを見届け、狭い空間に四苦八苦しつつどうにかあるべき場所に置き直し、ようやく自分のナンを手に取る。
ここまで来てもなお、俺の目を掴んで離さないのは自分のカレーではない。食卓の約95%を占拠する辛味の権化だった。
そのうちの一つ──メニュー上では一応、俺のと同じバターチキンカレーである──のルゥが、アルトリウスの手によって、ライスごとスプーンで淑やかに掬われる。まるでミートソースのような要領で。
おかしいな。俺の知っているカレールゥはあんな粘り気のあるものじゃないが。心なしか色も凶暴さを帯びている。あれでバターの風味が感じられるのか。
そして何より、机一つ挟んだ距離でもしっかり感じられる強烈なスパイスの香り。鼻腔を抜けて眼球を背中から擽られているようで、油断すると涙が出そうになる。
十中八九、あれを宇宙人に学習させたら、催涙ガスなんかと同じグループに分類されるのではなかろうか。およそ劇物の類だ。半ば固形になっているのも、香辛料の大量投入によるものだろう。
こいつが音を上げたとして、果たして俺の内臓が耐えきれるかどうか。いや絶対に無理だろ。家に帰って速攻で薬をもらえば……琥珀さんがいないんだった。魔眼で刺激は殺せるだろうか?
興味深げに、青い瞳と同じ高さにまで
警告色、なんて単語まで思わず頭に浮かぶ鮮烈な芳香。とろりとした塊を珍しそうに(娑婆でそうお目にかかれないのは事実として)観察するアルトリウスの背中を、
「あんまり時間かけていると冷めちゃいますよ」
「そうですね。では頂きます」
ひょいと口に放り込まれてしまった。咀嚼し、軽く頷きながら嚥下する。
──この間、わずか五秒足らず。確かにただの食事ならなにもおかしくないだろう。ただの食事なら。
この世全ての辛口を煮詰めたかのような混沌を食らってなお、その真顔は崩れない。強がりでもなく、無風だ。手の震えも、発汗も見られず。
やはり物理的な刺激でこいつの飄々とした態度を崩すのは無理があるらしい。だが俺は知っている。真に地獄を見るのは次の朝で──そうだった、こいつには無縁なんだったな。
というか、食事中に考えるべきことじゃないな。うん。
「随分とまぁ、ネジの外れた味ですね」
「大胆かつ繊細と言いなさい、真祖。それは、ただ唐辛子と胡椒を二十倍にしただけの単純な代物ではありません。痛烈な辛味に埋もれず、いえむしろいっそう存在感を際立たせる旨味とコクの調和。そう、まさしくカプサイシンの魔術なのです」
「なるほど、これが職人技だと。記録しておきましょう」
シエル先輩の熱弁に頷きを返しつつ、アルトリウスのスプーンを淀みなく動かす手は止まらない。見る間に皿の上のカレーが消えていく。
がっついているわけでもなければ、一口が特別大きいわけでもない。むしろ優雅だ。なんら気取ることもなく、自然体で背筋を伸ばした姿は品があり、流石に王族の称号を冠するだけはある。
それと同時に、凄まじい勢いでカレーを消化していく様はまさしく健啖の一言に尽きる。常人であれば、酷く空腹な状態からの一口目と比べれば、中盤から食べ終わりにかけては必然的にペースが落ちる。しかしアルトリウスは最高速度を維持し続けていた。
辛味と熱をものともせず一皿目を片付け、流れるように次へと取り掛かる。先輩は横目で見ながら、まるで張り合うかのようにひときわ豪快にナンを千切った。
「へぇ。わたしだって、やろうと思えばそのぐらい出来ますけどね」
ようにじゃなかった。本当に張り合ってるよ、このシスター。よりにもよって
これもカレーだからか。だとしたら一体カレーの何が彼女を駆り立てるというのか。そろそろ信仰の域に足を踏み入れてないか。
「たとえばあなたが門番として、総耶区名物メシアン特製激辛カレー大食い勝負を仕掛けてきたとしても、私なら勝てます」
「いきなり何の話です。どこでなにを賭けた攻防ですか、それ」
「薬で巨大化するというなら、空想具現化で同じことをやり返すまでのこと」
「だから何の話です」
全く意味不明な豪語をするだけあって、二皿目に突入してなお消費するペースは微塵も衰えない。表情も変わらず、発汗も紅潮もない。こいつ、仮にスプーンを突き立てる先がバケツに入ったアイスだったとしても、全く同じなのではなかろうか。
いや、この調子なら最悪の展開は回避出来るのだから、俺としては喜ぶべきだろう。そして、そのまま最後まで突っ走ってくれるのを祈るのみだ。なにしろ手つかずの残りはまだ二十二皿もあるわけだし。
なんにせよ、これ以上観察していても得られるものは何もない。むしろ見れば見るだけ、ただでさえか細い食欲が削られてしまう気がする。
目の前のひとりフードファイトから目を背け、無心でまだ温かさの残るバターチキンカレーにナンを浸した。
◆
恐るべきことに、俺が自分の皿を空にするのと、アルトリウスが全ての皿を平らげるのにさほどの時間差はなかった。流石に後者の方が遅れたとはいえ、真にネジの外れているのはこいつの食欲である。
だいたい、総量はどう考えても胃袋の容量を超えている。それも十倍や二十倍では効かない。アルトリウスの体内が物理法則を超越しているのか、そうでなければ飲み込んだ先から瞬く間に溶かし切る化け物のような消化器官でも搭載しているのか。
いよいよ本格的なお昼時に差し掛かったこともあり、俺たちと入れ替わるように客足も増えてくる。たちどころに賑やかになった店を後にして、繁華街に出る。
肩を並べる俺とシエル先輩。その前を歩くアルトリウスの足取りは軽やかだ。もしあれが俺だったら、いや俺でなくても普通の人間は横になるのがせいぜいだろうに。
「シエル先輩は普通じゃないもんな」
「いきなりなんですか遠野くん」
「あ。いえ、生物の代謝について少々」
失言だった。
取り繕うように白状すれば、先輩はむっとしながらも揺れる金髪を目で追う。思っていたことは同じか。
「馬鹿みたいに燃費が悪いですからね。低燃費高性能がこの国の製品の売りだと思っていましたが」
「メイドインジャパンなのかあいつ」
「とりあえず半分は日本製でしょう。ほぼ産地偽装ですけどね」
「その言葉、そっくりそのままお返しいたしますよ」
ひらりとこちらに翻るアルトリウス。
てっきり腹ごなしも兼ねてまた地脈を辿っているのかと思っていたが、どうやらあてどなくほっつき歩いていただけらしい。真っ直ぐ家に帰るつもりがないことに変わりはないのだろう。
「さて。次はお父様が行き先の案を出して下さいませ。私もシエルも出したのですから」
「あれで提案のつもりだったのか、お前」
先輩のカレーショップはともかく、こいつの場合はシームレスに死徒の巣へ連れ込んでくれたわけだが。
それも悪意や悪戯心ではなく、出先でコンビニに立ち寄るぐらいの気安さで。アルトリウスにとって命の奪い合いとは日常の一部なのだろう。
皮肉にも、先輩のいう兵器としての価値を証明している。まともに付き合っていては、命がいくつあっても足りない。
それはさておき、突然の振りについては、同じようなことを一年前にも経験している。
とはいえ、息子を路地裏まで連れ込むわけにもいかず、公園もまたこの世から消滅したいま、残る候補は一つしかない。幸い、手持ちにはまだゆとりがある。
「──映画でも観に行くか」
今回はラブロマンス以外の作品で。今月頭に封切りされたミステリーが、巷でかなりの話題になっているのだ。情報社会の宿命か、俺は既にネタバレを食らってしまったが。来日からまだ日の浅い二人なら楽しめる筈だ。
アルクェイドと別れて以来、こうした流行りをチェックするのが、俺の新たな日課になっていた。