人跡未踏、霊峰無限。この星の心臓たる千年城ブリュンスタッド。
そんな禁足地にはあまりにも似つかわしくない出で立ちこそ、この女が只ならぬ存在であることを端的に顕している。
「危ないとは。果たしてどこの誰が私の脅威になると?」
「ばかね。そんなの決まっているじゃない。ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの?」
躊躇なく目の前まで近づいてきた魔法使いは、見上げる私の額を人差し指で弾いた。
これはもう、完全に子供扱いされている。
不服だが、ここでムキになればかえって相手の思う壺だ。なにしろ彼女は、幼い頃のお父様を導いた「先生」なのだから、その息子である私を相応に扱いたいのだろう。
「地上じゃ君の敵なんてそれこそ星の数いるんだから。そんなにぼうっと呆けていたら、ひょいっと摘ままれて美味しく食べられておしまいよ」
その忠告がどうにも腑に落ちずに首を傾げる。
思えば、常に食べることだけが頭にあったから、自分が食べられる側に回ることは考えたこともなかった。
そうして首を捻る様のなにが可笑しいのか、楽しそうに笑う魔法使いは私の頭を帽子越しにぐりぐりと撫でる。
「ま、そんなことができるのは、それこそ君と同じく天体を成すモノぐらいでしょうね。この星の総てを蹂躙してこその
もっとも、と魔法使いは続ける。
「君もそれなりに長く生きるでしょうから、そのどこかで石に躓かないとも限らない。とりわけ君は、お姫様よりもずっと無駄が多いみたいだから。人間の可能性ってやつ?」
「私に聞かれてもなんとも。なにしろ、一度も人間という生き物を実際に見たことがないものですから」
「君、いま私のことをナチュラルに人間から除外したわね。同じ魔法使いでも、ツレの爺さんと違って私は純人間です!」
「そうですか。貴女のような強い生き物が七十五億もいるというのであれば、地上は想像以上に魅力的でございます」
どういう意味で魅力的なのか。
少しだけ歪になった千年城の輪郭から、魔法使いは瞬時に理解したらしい。
鷹揚とした笑みから打って変わって、心底呆れたような顔で軽く頭を振る。
「まぁ、こんな壊れかけの工場じゃ君の飢えは満たされないわよね。だからといって地上を猟場にするのも考え物だけど……今にとなっては、むしろ好都合か」
「おや、諫めないのですか。魔法使いは、人間の味方かとばかり思っていましたが」
正義の味方かはともかく、人里の側ではあるだろう。それに協会勢力として秩序維持を担う人物でもある。職務態度はさておくとして。
そんな彼女が、魔術協会、聖堂教会、死徒社会全てに災禍を撒き散らしかねない危険因子の解放を歓迎するのは道理が合わないのではないだろうか。
「魔法使いにも色んな奴がいるのよ。ま、私については概ねその認識で正しいわ」
──その上で、君に確認したいことが二つほどあるのだけれど。
「…………どうぞ」
なにを言うだろうかと身構える。
飄々とした魔法使いの語り口の中に、ふとらしからぬものが顔を覗かせていた。
焦燥だった。
お父様の記憶の中に在る蒼崎青子は、大地に深く根差す大樹の如く泰然自若としていた。悠久を生きながら死徒のように腐ることもない、この星から卒業した観測者として。
話の流れから、私に何かをさせようとしているのは明らかだ。だが、口説くなら踏むべき順序があるだろう。いくらお父様の知己とはいえ、現時点では警戒が勝る。
そしてなにより、彼女はそのような手間を惜しむタイプではない。むしろ、時間が許すだけ私のことを知りたがり、導きたがるだろう。かつてお父様相手にそうだったように。
裏を返せば、いまの彼女に与えられた時間は余りにも少ないと言える。
かのミス・ブルーをして余裕を失うだけのなにかが、地上では起きようとしている──あるいは既に起きているのだ。
「──概ねご想像の通りよ。そうでなきゃ、地球で一番怖い虎が守る穴まで虎児を拝みに来たりしないわ」
蒼崎青子は半ば自棄気味に肩をすくめる。いくら時間がないといっても、勝手に心の中を読むようなコミュニケーションは如何なものか。
アクアリウムでも覗く感覚で世界を運営している女だと思っていたが、魔法使いとはどうやら想像以上に難儀な生業らしい。
「それじゃあ確認その一。君、私と一緒に来るつもりはあるかしら」
この確認……あるいは実質的な要求については、既に予想がついていた
私の後見兼監督といったところだろう。いずれ私が地上に出るとして、目の届かない所で好き放題されるぐらいなら、手元に置いて管理するほうがずっと良い。
逆に言えば、私は庇護と引き換えに自由を奪われることとなる。蒼崎青子がどの程度まで私に首輪をつけるつもりか知らないが、野放図に食い散らかすことを許さないことは確かだ。
星の急激な膨張を、人理の安定を是とする彼女は許容しまい。
自立できるほど育った真祖の王族を抹殺するのは困難を極める以上、程よく飢えさせながら、生かさず殺さず飼い殺すのが慈善だろう。
少なくとも、私が彼女ならそう判断する。
その時はその時で力尽くにより首輪を破るのみだが、そうやって敵に回すことになるのが分かっているのだとすれば、そもそも最初から手を組む意味がない。
「中々魅力的なお誘いですが、お断りいたします。私は私の好きなようにやらせていただきますから」
「──うん、安心したわ。ここで自分から鳥籠に収まる器なら先が思いやられるし」
即答にむしろ気分を良くした様子で、蒼崎青子は大きく頷いた。
私を試したつもりか。あまり気分の良いものではない。
「おや、振られた負け惜しみでしょうか。魔法使いにも存外みっともない部分がおありのようで」
「薄々気付いていたけど。やっぱり君、敬語さえ使えば許されると思っているでしょう」
「敬語は最も軋轢が生じ難いコミュニケーションツールと伺っております」
「なら先生がいい言葉を教えてあげる。慇懃無礼っていうのよ。意味は自分で調べなさい」
相手を見て使い分けるのは面倒だ。
だいたい、私の人生における知的生命体との接触は、彼女でまだ三人目である。あのアーキタイプ:アースとやらを数に入れても四人目だ。
「それでこそ真祖の王族。でも君、それがどれだけ茨の道か理解している?」
「ならば茨をも呑み込むまでのことでしょう。この飢えから逃れるには、神秘を捕食する以外道はないのですから」
地上は神秘が廃れて久しい。人類の手に落ちた彼の地において、現存する旧時代の名残りは大きく分けて二つしかない。
ありとあらゆる手段を駆使してまで時代に縋り付いた出涸らしか。
あるいは時代の移ろいなどものともしない本物の強者だ。
魔獣、幻獣……神獣まで残っていれば申し分ない。
その首筋に牙を叩きつけ、頚椎を噛み砕く瞬間に思いを馳せるだけで喉が鳴る。
死徒も同じだ。階梯が高いほど食い出があろう。その鮮血を強奪したいと、私に宿るなにかが呻く。魔の欲望か、退魔の本能か。
この
たとえそれが、
「──それが、
やおら、蒼崎青子は屈んで私に目線の高さを合わせる。
思わず顔を反らしかけて、肩を掴まれた。
逃げは許されない。
悪趣味でもなんでもなく、蒼崎青子はどこまでも本気だった。
「アルトリウス。真祖が生まれるには意味があるの。君がこの星から託された意味とはなにか」
「それ、は……」
「地球にとって、己を食い潰す者は須らく悪よ。それが人間であれ、
肩を掴む爪が戦慄く。
救いようのない生き物を前にして。
「……そう、ですか」
この期に及んで、ようやく理解した。
魔法使いがわざわざこの城に来訪した理由は、威力偵察でもなければ、仕事の依頼でもない。
ただの死刑宣告だ。
衰退極まったアルクェイド・ブリュンスタッドが再び眠りに落ち、次に覚醒める時があれば、それは朱い月という名の侵略者として顕現する。
アルクェイド・ブリュンスタッドの器を得た月の最強種は、今度こそこの星を呑み込みにかかるだろう。
その野心に抗うための最終防衛ライン。
地球が生み出した最後の最強の真祖。
それが私だとするならば。
「──私は、
母親殺し。
それこそが、真祖アルトリウス・ブリュンスタッドが生み出された、たった一つの意味だった。