6
手形は、消えませんでした。
最初は、ただの汚れだと思おうとしました。
引っ越しの際についたものかもしれない。
そう思って、ウェットティッシュで拭きました。
ですが——
落ちないのです。
表面をなぞるように拭いても、強く擦っても、まるで最初からそこに“染み込んでいる”かのように、手形はびくともしませんでした。
むしろ、気のせいかもしれませんが。
拭いた後の方が、くっきりと浮かび上がって見えました。
「……気持ち悪い」
思わずそう呟いて、ドアから目を逸らしました。
その日は、少し早めに家を出ました。
あの手形を見ていると、どうしても落ち着かないのです。
会社に着いても、頭の中はそのことでいっぱいでした。
「どうしたんですか? 顔色悪いですよ」
昨日の同僚が声をかけてきました。
私は少し迷ってから、話しました。
「昨日言ってた部屋のことなんですけど……」
そして、足音のこと。
ドアの前で止まったこと。
そして、今朝見た手形のこと。
話しているうちに、自分でも馬鹿らしく思えてきて、途中で笑ってしまいました。
「いや、さすがに考えすぎですよね」
そう言うと、同僚は少しだけ真顔になりました。
「……いや、その」
「え?」
「前の住人、確か……ドアの前で倒れてたらしいです」
一瞬、言葉の意味が理解できませんでした。
「ドアの……前?」
「外に出ようとして、そのまま……って聞きました」
背筋が、ぞわりとしました。
無意識に、今朝見た“外側の手形”が頭に浮かびます。
まるで——
中に入ろうとしているような。
7
その日の帰り道。
私は、まっすぐ帰るのをためらっていました。
特に用事もないのに、コンビニに寄ったり、公園で時間を潰したり。
気づけば、かなり遅い時間になっていました。
「……帰らないと」
自分に言い聞かせるように呟いて、アパートへ向かいます。
廊下に足を踏み入れた瞬間、妙な違和感がありました。
静かすぎるのです。
いつもならどこかの部屋から生活音が聞こえるはずなのに、その日は、何も聞こえませんでした。
まるで、建物ごと息を潜めているような。
そして——
自分の部屋の前に立ったとき。
私は、思わず息を呑みました。
手形が、増えていました。
一つではありません。
三つ、四つ。
いや、それ以上。
ドア一面に、大小様々な手の跡が、びっしりと。
外側から、内側へ向かって。
「……嘘でしょ」
鍵を差し込む手が、震えます。
ここに居るべきか、部屋に入るべきか。
頭の中で警鐘が鳴っているのに、体は勝手に動いていました。
カチ、と鍵が開く音がやけに大きく響きます。
ゆっくりと、ドアを開けた、その瞬間——
この階に上がる階段から
誰かが、こちらに向かって歩いてくる音がしました。