怪談事件   作:境界の狐

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02 事故物件

6

 

手形は、消えませんでした。

最初は、ただの汚れだと思おうとしました。

引っ越しの際についたものかもしれない。

そう思って、ウェットティッシュで拭きました。

ですが——

落ちないのです。

表面をなぞるように拭いても、強く擦っても、まるで最初からそこに“染み込んでいる”かのように、手形はびくともしませんでした。

むしろ、気のせいかもしれませんが。

拭いた後の方が、くっきりと浮かび上がって見えました。

「……気持ち悪い」

思わずそう呟いて、ドアから目を逸らしました。

 

その日は、少し早めに家を出ました。

あの手形を見ていると、どうしても落ち着かないのです。

会社に着いても、頭の中はそのことでいっぱいでした。

「どうしたんですか? 顔色悪いですよ」

昨日の同僚が声をかけてきました。

私は少し迷ってから、話しました。

「昨日言ってた部屋のことなんですけど……」

そして、足音のこと。

ドアの前で止まったこと。

そして、今朝見た手形のこと。

話しているうちに、自分でも馬鹿らしく思えてきて、途中で笑ってしまいました。

「いや、さすがに考えすぎですよね」

そう言うと、同僚は少しだけ真顔になりました。

「……いや、その」

「え?」

「前の住人、確か……ドアの前で倒れてたらしいです」

一瞬、言葉の意味が理解できませんでした。

「ドアの……前?」

「外に出ようとして、そのまま……って聞きました」

背筋が、ぞわりとしました。

無意識に、今朝見た“外側の手形”が頭に浮かびます。

まるで——

中に入ろうとしているような。

 

 

7

 

その日の帰り道。

私は、まっすぐ帰るのをためらっていました。

特に用事もないのに、コンビニに寄ったり、公園で時間を潰したり。

気づけば、かなり遅い時間になっていました。

「……帰らないと」

自分に言い聞かせるように呟いて、アパートへ向かいます。

廊下に足を踏み入れた瞬間、妙な違和感がありました。

静かすぎるのです。

いつもならどこかの部屋から生活音が聞こえるはずなのに、その日は、何も聞こえませんでした。

まるで、建物ごと息を潜めているような。

 

そして——

自分の部屋の前に立ったとき。

私は、思わず息を呑みました。

手形が、増えていました。

一つではありません。

三つ、四つ。

いや、それ以上。

ドア一面に、大小様々な手の跡が、びっしりと。

外側から、内側へ向かって。

「……嘘でしょ」

鍵を差し込む手が、震えます。

ここに居るべきか、部屋に入るべきか。

頭の中で警鐘が鳴っているのに、体は勝手に動いていました。

カチ、と鍵が開く音がやけに大きく響きます。

ゆっくりと、ドアを開けた、その瞬間——

この階に上がる階段から

誰かが、こちらに向かって歩いてくる音がしました。

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