第1話
カルドレクの城壁が視界に入ったのは、日が傾き始めた頃だった。
砂埃と硫黄の混じった風の中に、その輪郭は異様なほどはっきりとしていた。黒みがかった石で積まれた壁は分厚く、どの方角から見ても等しく威圧的で――言葉を換えれば、生き残るために削り取られた余分のない形をしていた。ヴォルフラムは帽子の鍔を下げ、巻いた布を口元で確かめながら歩いた。空気に血の匂いはない。今のところは。
門は開いていた。
往来がある。荷車を引く者、足早に通り抜ける者、門兵と何か話している商人らしき人物。ごく普通の、要塞都市の入口の光景。
普通だ、とヴォルフは思った。
帽子の鍔の下から周囲を流し見る。目の色が変わらないように、意識して抑える。人の流れに混じり、城門の手前まで来たとき。
異変が起きた。
悲鳴ではなかった。それより前に、声が止まった――人間が声を出そうとして出せなくなる、あの一瞬の真空。ヴォルフは歩を止めないまま、音の方向を把握する。
左。城門の手前、道の脇。
群衆が端へ端へと流れていく。退き波のように、その中心を空けていく。
複数いた。
異形。
かつて人間だったものの残骸が、三体。四体。正確な数は乱戦の中では判別しにくい。それぞれが別の方向を向き、ばらばらに動いている。小さいものは人間の体格と大差ない。しかし一体だけ、明らかに違う。関節の向きが逆転し、四肢が本来の倍近い長さに引き伸ばされている。それが群れの中心に立ち、周囲の小さな異形を従えるわけでもなく、ただそこにいた。
兵士が数人、槍を向けている。
前列の二人は槍先へ短く光を灯していた。突きに合わせて薄い光弾を押し出す、初歩の攻撃魔法だ。小型なら怯ませられる。だが殺し切るほどではない。
後ろには一人、槍身へ細い雷を這わせている兵もいた。加護持ちだろう。雷は異形の肩口を焼いたが、それでも動きは止まらない。
一般兵が振るう魔法は、あくまで武器の延長だ。火力は低い。刺突に勢いを足し、小型の足を止める。その程度でしかない。
しかし小さい方に手を焼いており、大型に近づける者はいなかった。一人が壁際に追い詰められ、別の一人が転倒した。槍が届いていない。
ヴォルフはコートの内側で柄を握った。
小さい方は後回しだ。死の重さが足りない——あれを仕留めても代償が戻ってくるだけで、燃料にならない。狙うのは一体だけ。
前に出た。
乱戦の中を、ヴォルフは大型だけを見て歩いた。
小型の一体がヴォルフの進路に入ってきた。
足を止めなかった。歩きながら鉈を一度だけ振った。躱しもせず、狙いもつけず、ただ邪魔だから除いた、という動作だった。小型が崩れ落ちるのを確認せずに通り過ぎた。
壁際で槍を失った兵士と目が合ったが、足を止めなかった。
「おい、こっちを——」
無視した。
右足に意識を集める。引き出す量は最低限。それ以上は要らない。
足の内側から何かが滲み出てくる感覚がある。皮膚の下で肉が動き、趾の骨が伸びる。爪が伸長し、黒ずんだ色に変化した。右足だけ。そこで止める。
大型との距離が詰まる。
異形はまだ兵士どもに意識を向けている。
隙だらけだ。
ヴォルフは音もなく、無慈悲な狼のように大型に飛びかかり、鉈を振った。無造作に、大ぶりの果実でも叩き割るように。
叩きつけられた鉈が肉を抉り、骨を割る不快な音を立てる。
ノコギリ状の刃。再生を阻害するための形。血が噴き出し、コートの袖に飛沫が当たる。
皮膚に染み込む感覚。
ここだ。次の一撃。
敵を、異形を生贄に見立てた儀式。
名を──『ブラッドボーン』と名付けた。
体勢を崩した異形の、無防備にさらされた胴体に狙いを定める。
鉈を放り捨て、右腕を引き絞る。
右腕が獣のそれと化し、長い爪が黒く光を反射する。
貫通。
右腕が、血飛沫の飛び散る派手な音を立てて異形の胴体に手首までめり込んだ。
骨や心臓の感触はしない。
ハズレか。まあいい。
「死ね」
内臓を掴み、異形の体を蹴り飛ばして臓腑を引きずり出した。
血と臓腑の錆びた鉄のような匂いが広がり、血飛沫が地面を赤く染める。
異形が倒れ、臓物が地面に叩きつけられる。
まだだ。
地面に打ち捨てられたノコギリ鉈を拾い、うめき声を上げる異形に近づく。
十分な距離まで近づき、右手を大きく振り上げて。
振り下ろす。
異形の腕があらぬ方向に伸ばされる。
振り下ろす。
痙攣を繰り返し、血の匂いが広がる。
振り下ろす。
反応はない。
振り下ろす。
反応はない。
振り下ろす。
……反応はない。
死んだ。
間違いなく。
小型のものは、大型が倒れるのを見て散り始めていた。兵士たちが追う。ヴォルフは追わなかった。
……静寂が戻ったとき、広場には血の臭いが満ちていた。
ヴォルフは右手を意識して戻す。爪が引っ込み、指の形が人間のそれに戻る。息を一つ吐いた。
誰も近づかなかった。
兵士たちが槍を構えたまま、距離を保っている。「化け物」と誰かが呟いた――異形に向けた言葉か、ヴォルフに向けた言葉か、判別できなかった。どちらでも構わなかった。
膠着状態が続いた。
それが崩れたのは、別の方向から足音が来たときだった。一人。速い歩き。無駄のない足音。
「下がれ」
短い命令だった。低く、感情のない声。
「ヴァーレン様」
兵士たちの槍先が、一拍置いてから下がった。
ヴォルフは声の方向に目を向けた。
男は三十前後に見えた。戦闘の跡が服に残っている――どこか別の場所で、同じようなものと戦ってきた人間の立ち姿。目が合った瞬間、ヴォルフは相手を測り、相手もこちらを測っているのが分かった。
「上の意向だ」男は言った。「今日のことは問わない」
「……都市への入場も許可する。問題は起こすな」
それだけだった。説明も、謝罪も、感謝もない。純粋に、命令の伝達。
ヴォルフは答えなかった。男も追加の言葉を出さなかった。
兵士たちが散り始める。広場に残ったのは、異形の残骸と、血の臭いと、立ち去りかけたヴォルフの背中だけになった。
歩き出しながら、左手がコートの内側に触れた。固い小さなものがある。指で輪郭を確かめて、離した。
宿を探す。それだけのつもりだった。
使いが来たのは、日が完全に落ちてからだ。
若い男だった。宗教組織の徽章を胸に付けた、いかにも使い走りの風体。ヴォルフの宿を探し当てたことに驚いた様子もなく、短く言った。
「教主セルヴァンがお話を聞きたいとのことです」
穏やかな口調だった。急かさない。命令でも、脅しでもない口振り。
ヴォルフは相手の目を一度だけ見て、頷いた。
断る理由はなかった。利用できる間は利用する――それがここまで生き延びてきたやり方だ。