第1話
情報通り、二日目の川沿いに、宿場があった。
リヴィルの手紙の通りだった。小さな石造りの建物。管理人はいない。扉は開いていた。中には乾燥肉と水差しと火種の道具が揃えてある。誰かが先に用意した形跡がある。
使った。一晩だけ屋根の下で眠り、翌朝には発った。
借りは覚えておく。返す気があるかは別として。
道は東へ続いている。カルドレクを離れてから、景色はゆっくりと変わった。湿った石の色が乾いた土に変わり、祈りと血の澱んだ空気が、少しずつ鉄と煤の匂いに入れ替わっていく。
歩きながら、何度か鉈に手が伸びた。
刃は研ぎ直してある。刃こぼれはない。だが遺跡の中での感触が、まだ手に残っている。
相手の動きが始まってから、踏み込みが届くまでの一拍。鉈は届かない。身体を投げ出せば間に合う場面はあった。だが「間に合わせた」のと「差し込めた」は違う。あの一拍を潰す手段が手元にあれば、傷の半分は負わずに済んだ。
距離の外から、相手の動作に楔を打ち込む道具。
放浪時代に、何度か見たことがある。
東の方角にある工業都市。煙突ばかりが目立つ街だった。その工房街の一角で、壁に掛けられた短銃を見た。黒い鉄の塊。飾りはなかった。だが重みの位置が妙にまともだったのを、手が覚えている。
あのときは必要だと思わなかった。鉈があれば足りていた。殴り合いで圧し切れないほどの相手と、まだ出会っていなかった。
今は違う。
アイゼンガル。あの都市の名だ。手紙にも書いてあった。三日目。進行方向にある。
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三日目。
東の空に、煙突が見えた。
壁よりも先に煙が見える。灰色ではなく、煤を噛んだ鉄色の煙が何本も空へ伸びていた。カルドレクの煙は祈りと儀式用の薫香の匂いがした。ここの煙は、鉄と焼けた油の匂いがする。
門の手前で、鳥が来た。
一羽。前と同じ暗い羽色。足元に紙片を置いて、すぐに飛び去った。
『東外縁が荒れている。都市そのものは無事なようだが、危険なところがある。
——風の噂より』
東外縁。リヴィルが何を掴んでいるかは書いていない。だが「荒れている」とだけ書くなら、普通の荒れ方ではないということだ。
紙片を懐に入れ、門をくぐった。
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アイゼンガルは、カルドレクとは別の種類の騒がしさだった。
高い石造りの建物の間から煙突が突き出し、路地には荷車と鉄材が溢れている。鍛冶の槌音。蒸気の抜ける音。轂の軋み。怒鳴り声。祈りの言葉より金属音のほうが多い街だ。
清潔ではない。上等でもない。だが、壊れかけたものを祈りで誤魔化す都市ではなく、叩いて繋ぎ直すための都市だった。
記憶を頼りに工房街を歩いた。数年前に何度か通った道だ。建物の配置は変わっていない。変わっていたのは、以前より人が少ないことだった。いくつかの工房は扉を閉じている。炉の音が聞こえない場所もある。
リヴィルの言う「東外縁が荒れている」影響が、ここまで届いているのだろう。
一軒だけ、炉の音が変わらない場所があった。
入口は広くない。看板も愛想がない。だが扉の脇に立てかけられた失敗作らしい鉄塊は、そこらの武器屋の売り物よりずいぶんましに見える。
黒鉄の顎。
覚えている。
中へ入った。
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熱気が顔に当たった。
奥で炉が赤く唸っている。壁には銃身、刃、工具、組みかけの部品が隙間なく掛かっていた。売り物として並べているのではない。作業の途中で一時的に置いてあるだけの雑然さだ。
奥から声が飛んできた。
「冷やかしなら帰れ」
見もせずに言っている。
ヴォルフは答えず、声の主を見た。炉の横に立つ男。白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、前掛け越しにも分かるほど腕が太い。年季の入った職人の体つきだった。目つきは悪い。だが悪いのは機嫌であって、視線そのものはよく利いている。
男は鉄床の上の品を置き、ヴォルフを正面から見た。
一拍。
「……何年ぶりだ」
覚えていた。
「刃をノコギリみてぇにギザギザにしろ、って言いに来た妙な雰囲気のガキがいたら——そりゃ忘れねえよ」
放浪時代。どこにでもある鉈を腰に差したまま、ヴォルフはこの工房の前を一度だけ通り、思いついたように口を開いた。
「刃をノコギリのように、ギザギザにしてほしい」
店主は一瞥して、鼻で笑った。
「くだらねえ。解体の真似事か?」
ヴォルフは引かなかった。
「切るんじゃない。削って血を出す。——そういう刃が要る」
店主は舌打ちして、鉈を取り上げた。
刃を見て、柄を見て、もう一度刃を見てから、炉に背を向けた。
「金は要らねえ。二度と来るな」
数刻。
返ってきた刃には、荒い歯が刻まれていた。工芸品じゃない。実用品の、雑で、強い刻みだ。
ヴォルフは礼も言わずに腰へ差した。
店主も見送りはしなかった。
——何も買わず、ただ厄介な注文だけ置いて消えた。それが余計に癇に障ったらしい。
あのときの不機嫌な顔は覚えている。
「今度は買いに来た」
「最初からそう言え」
ヴォルフは外套の内から布包みを取り出し、作業台に置いた。
重い音がした。
店主の目が変わった。
布を開いた。中には、遺跡から回収した硬質の部材がある。セヴェルのいた遺跡を構成していた素材だ。普通の鉄ではない。表面に走る鈍い脈のような筋を見て、店主は数秒黙った。
「……ろくでもない所から持ってきたな」
「使えるか」
「使えるかどうかを決めるのは俺だ」
素材を持ち上げ、角度を変え、爪で軽く弾いた。返った音を聞いてから、作業台に戻す。
「で、何が欲しい」
「短銃」
店主の手が止まった。
「お前がか」
ヴォルフの全身を見ている。腰のノコギリ鉈。外套の下の体格。返り血の染みが抜けきっていない袖口。
「何に使う」
「割り込む」
短い沈黙。
店主はそれ以上訊かなかった。必要な答えだったらしい。
奥の棚へ消え、木箱をひとつ持って戻ってきた。中には無骨な短銃が収まっている。飾り気はない。黒鉄の鈍い光沢と、握りの古い木の色だけで出来ている。懐に収まる大きさだが、玩具めいた軽さはない。
「六連式。懐に入る。軽すぎはしねえはずだ。反動は手首だけで受けるな、肘と肩まで使え」
ヴォルフは銃を手に取った。
重い。だが重さの位置が素直だった。抜いた瞬間に先端が暴れない。
「弾は」
小箱を寄越された。
「慣れるまではそれで十分だ。無駄撃ちするなよ。脅しの音を鳴らすための道具じゃねえ」
素材と銃を見比べた。
「足りるか」
「足りる。釣りが来るくらいだ」
店主は棚から金属片をいくつか取り出して置いた。
「うちじゃ現場の払いは、こういうもので返すこともある。嫌なら置いてけ」
「構わない」
店主が棚の上の金属片を指で弾いた。
「ついでだ。撃ち方もある程度教えてやるよ。釣り代わりだ」
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工房街の外れに、試射場があった。
壊れた鉄板と古い樽が無造作に積まれた荒れ地。
ヴォルフは短銃を抜いた。
懐から手へ落ちる重みを確かめる。握り。狙い。片手での保持。
撃った。
乾いた破裂音。反動が手首を跳ね上げる。重い。だが肘で逃がせば問題ない範囲だ。
鉄板に穴が開いた。
「当たっただけで満足するような道具じゃねえぞ」
「分かっている」
二発目は込めなかった。代わりに、抜く動作だけを繰り返した。
懐から手へ。鉈を振る動きの、どこに差し込めるか。撃ってから次の動作へ繋ぐまでの拍。
それだけを身体に刻む。
削る武器ではない。命を取る一発でもない。相手が動き出した瞬間に楔を打ち込むための道具だ。
「……妙な奴だな」
店主が腕を組んだ。
「普通の客は、もう少し撃ちたがる」
「普通じゃない」
「知ってる」
店主の目が東を向いた。
「フェルノスまで行く気か」
フェルノス。東外縁の資源街。
ここに来る途中で聞こえてきた。
ヴォルフは否定しなかった。
店主の顔から嫌味が消えた。代わりに、現場を知る人間だけが持つ種類の渋さが残る。
「今の得物じゃ、装甲は抜けねえぞ」
「何がいる」
「お前が思っているものの、もう一段先だ」
店主は言った。
「あそこはもう工区じゃねえ。機械と人間を一緒くたに固めたような連中が壁みてえに立ってる。斬ってどうにかなる場所じゃない。銃でもどうにもならん。爆発物なんかで構造物ごと壊さなきゃならんかもな」
ヴォルフは黙って聞いていた。
「まあ、死に急ぐなら止めねえよ。客の死に方まで面倒見てたら商売にならん」
店主は踵を返した。数歩進んで足を止める。
振り返らずに。
「何か使えそうな鉄を拾ったら持ってこい。フェルノスには、まだまともな工具や鉄片が落ちてることがある。見てやるくらいはする」
それだけ言って、工房へ戻っていった。
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一人になった。
東の空を見た。アイゼンガルの灰色はカルドレクの灰色とは違う。湿って沈む色ではなく、熱と煤で曇った色だ。
その向こうにフェルノスがある。
懐に短銃の重みがある。腰に鉈がある。足りなかった一拍を埋める楔が、ひとつ増えた。
それでも足りなければ、現場で奪う。
いつもそうしてきた。
ヴォルフは外套の裾を払い、東へ歩き出した。