フェルノスは、アイゼンガルから東へ半日だった。
空気はとうに変わっている。鍛冶場の煤とは違う——もっと重く、甘ったるい。地面を這うように流れる煙の中に、腐りかけた肉の匂いが混じっている。
正門はなかった。崩れた鉄柵の隙間から中へ入った。
暗い。
巨大な建物が両側から空を塞いでいる。精錬所か搬送施設か。壁は錆びた鉄板と配管で覆われ、ところどころから蒸気が噴いている。足元は金属の格子。その下から、重低音の機械音が絶えず這い上がってくる。
人間がいない。機械だけが動き続けている。
通路は狭い。鉈を横に振れば壁に当たる距離だ。蒸気と煤煙で、十歩先がぼやける。
前方。通路の奥に、何かが立っていた。
人間の形をしている。
だが人間ではなかった。
身体の表面を、鉄屑と機械部品が覆っている。腕、胸、肩、頭。元は人間だったものに、金属片が強引に接合されていた。継ぎ目から黒い液が滲んでいる。目は開いている。だがそこに意志はない。
壁みてえに立ってる。
店主は嘘を言っていなかったようだ。
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鉈を抜いた。
踏み込んだ。一歩で距離を詰め、横薙ぎに振った。
弾かれた。
鉈の刃が装甲の表面で止まり、通らない。金属の層が斬撃を跳ね返す。
もう一度。同じ箇所を縦に叩く。
火花が散った。浅い。表面を削っただけだ。装甲の下の肉まで届いていない。
三度目を振る前に、相手が動いた。
遅い。動き始めは人間の半分以下の速度。だが腕が横に振られただけで、壁の配管が千切れた。当たれば終わる種類の質量だった。
躱した。背中側へ回り、装甲が薄いはずの背面を狙った。
——浅い。
背面にも鉄屑が張り付いている。鉈が通るほどの隙間がない。
奥から、もう二体。
同じ姿。同じ装甲。狭い通路を塞ぐように近づいてくる。
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後退した。
三体を同時に相手にする通路ではない。狭すぎる。鉈が振れない。
角を曲がり、天井の高い搬送広場に出た。足元にレールが走っている。壁沿いに工具や廃材が積まれていた。
二体が追ってきた。
広い場所なら、まだ動ける。
一体目の横を抜け、首の付け根——装甲が途切れた隙間へ鉈を突き込んだ。
入った。刃先が肉に届いた。
だが浅い。肉の裏に硬いものが埋まっている。引き抜こうとした瞬間、腕が振り回された。
躱した。だが鉈が抜けない。装甲の内側で刃が噛み込んでいる。
力ずくで引き抜いた。刃こぼれ。先端が潰れている。
二体目が来た。
銃を抜いた。撃った。
弾は当たった。装甲の表面で火花が散り——弾かれた。
分かっていた。だが衝撃で相手が一瞬だけ止まった。その間に距離を取る。
刃こぼれした鉈。通らない銃弾。厚い装甲。数が多い。
一体目がまた来た。腕を振り下ろしてくる。横に跳んだ。背中が壁にぶつかった。
壁沿いの廃材の山。その中に——斧があった。
工業用の解体斧。施設の解体作業に使う道具だろう。柄は鉄製で長い。刃は分厚く、鈍い。斬るための道具ではない。壊すための道具だ。
掴んだ。
重い。鉈の倍以上ある。
振り下ろした。一体目の肩口へ、全体重を乗せて。
——通った。
斬れたのではない。装甲ごと、肩の構造が陥没した。金属片が弾け飛び、継ぎ目から黒い液が噴いた。腕が一本、千切れかけた。
これだ。斬るのではなく、壊す。
もう一撃。胸の中央へ叩き込んだ。装甲が割れた。中から、黒い液に浸かった胸腔が見えた。元は人間だったものの内側だ。
さらに一撃。
崩れた。
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二体目が迫った。
斧を振り上げ、肩を狙って叩きつけた。
当たった。陥没した。だが——倒れない。肩が潰れたまま、腕が来た。
避けきれなかった。
掠めただけだ。掠めただけで、脇腹の肋骨が軋んだ。身体が横に飛ばされ、レールの上を転がった。
立ち上がった。息が荒い。脇腹が熱い。罅が入ったかもしれない。
斧を構え直した。二体目に踏み込もうとして——
通路の奥から、足音。
三体目。さっき撒いたはずの一体が、別の通路を回ってきた。
その後ろに、さらにもう一体の影。
四体。
一秒だけ、間があった。
退く。
今の手札では足りない。鉈は通らない。斧は通るが重い。一体ずつ壊している間に囲まれる。
踵を返した。
その瞬間、声が降ってきた。
高い場所から。
「ハッ! 逃げんのかよ」
見上げた。
高炉の上。搬送路の継ぎ目に併設された監督台に、巨体のシルエットが立っていた。身体の輪郭が異様に大きい。肉と脂肪を溜め込んだ、梨のような体型。煙越しに、こちらを見下ろしている。
最初から見ていたのだ。
あの装甲兵どもは、勝手に動いていたのではない。上から差配されていた。
「せっかく下の連中がどんだけ使えるか、ちょうど試してたとこだったのによ。まあ、一体壊されたくらいで済んでんだから上出来だろ」
装甲兵を「下の連中」と呼び、「試してた」と言っている。製品を検品する現場監督の口ぶりだった。
「おい、その斧。うちの廃棄品だろ。廃品回収に来たのか?」
笑っている。声が太く、下品で、工場の鉄壁によく響く。
「次来るときはもうちょっとマシな得物持ってこいよ。じゃなきゃテメーも素材にしちまうぞ——うちは常に人手不足でなぁ!」
笑い声が工場全体に反響した。
ヴォルフは返さなかった。
声の主の位置。監督台の高さ。そこから工場全体が見渡せるという事実。装甲兵が指揮されていたこと。それだけを頭に入れた。
走った。脇腹を庇いながら来た道を戻り、崩れた鉄柵の隙間から外へ出た。背後の足音が止まった。追ってこない。施設の外は、あいつらの領域ではないらしい。
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フェルノスの外で、息を吐いた。
斧はまだ手にある。
鉈では足りない。それだけは分かった。斧は通る。だがこのままでは振りが遅すぎて、数を捌けない。
手を入れる必要がある。
ヴォルフはアイゼンガルの方角を見た。
あの男なら、何か思いつくだろう。
斧を肩に担ぎ、来た道を戻り始めた。