第1話
アイゼンガルの煙は、背中に残った。
炉の息。槌の音。怒鳴り声。まだ街が生きているという騒がしさ。
北東へ。
歩くほどに、それらが薄れていく。
煤の匂いが抜け、風の輪郭が固くなる。地面の湿りが消え、夜の冷えが骨に届く。
腰にはノコギリ鉈。
背に断重の鉄塊斧。
懐に短銃——強襲の遠吠え。
銀燐弾は五発。布越しにも重みが分かる。
リヴィルの手紙を思い返した。
北東のルナール。
入った人間が戻ってこない。
誰かが見てる。というより、街全体が見てる。
情報としては薄い。
だが薄いほど、現場の匂いは濃い。
約一週間。
途中の宿場は二度だけ使った。屋根と火種がある場所。誰かが用意した乾燥肉と水差し。
借りは増える。返すかどうかは、あとで決める。
最後の夜、風がやけに静かだった。
虫の音がない。獣の遠吠えもない。
静けさだけが、土地を覆っている。
翌朝。
丘を越えた先に、ルナールがあった。
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静かだった。
壁も門も、閉ざすための威圧ではなく、ただの境界としてそこにある。
壊れていない。崩れていない。整いすぎている。
ヴォルフは門をくぐった。
人影がない。
声もない。
靴底が石を叩く音だけが、やけに大きい。
通りはまっすぐで、建物は均されている。
汚れも、崩れも、生活の痕も薄い。
廃墟ではない。——管理されている。
壁面に配管が走っていた。
一本ではない。街の至る所で、壁を這い、路地を横切り、建物と建物を繋いでいる。
金属のはずなのに、脈を打っている。
近づいた。
手袋越しに触れると、温かい。
生き物の体温だ。
視線を感じた。
窓からではない。路地の陰でもない。
空気そのものが、こちらを向いている。
柱の表面に、丸い膨らみがあった。
眼球の形。
開いている。
……見られている。
ヴォルフは歩いた。
音を立てず、急がず、ためらわず。
——この街は、静かすぎる。
それだけが、確かなことだった。
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柱の表面に、丸い膨らみがあった。
眼球の形。
開いている。
……見られている。
足は止めない。止めれば、その瞬間に取り返しのつかないことになる。……そんな気がした。
壁面を這う配管は金属のはずなのに脈を打ち、路地を跨いで建物へ繋がり、触れなくても温かさが伝わるほどに生き物じみていた。視線は窓でも影でもない。空気の厚みそのものが、こちらを向いている。
ヴォルフは歩いた。音を立てず、急がず、ためらわず。
何かを踏み越えてしまった気がした。
踏んだ感覚はない。だが空気が変わった。配管の脈動が速まり、街中に散った眼が、一斉に赤く染まる。
音はない。怒鳴り声も、宣言も。
ただ、見られている。
赤い点が増える。柱、壁、路地の角、高所。逃げ道を探す視線すら掴まれて、先回りされる。
配管が鳴った。金属が擦れる音じゃない。肉が動く音だ。
遠くで、規則的な射出音がした。ひとつ、ふたつ、数が増える。
地面の格子の下が割れて、そこから何かが這い出てくる。壁面の継ぎ目が裂け、配管の接合部が開き、吐き出される。
軽い。
速い。
数が多い。
一体目を鉈で割った。青白い血が跳ねる。
二体目、三体目。斬る。壊す。倒す。
倒した端から、補充される。
力は通る。
だが意味がない。
短銃に手をかけた。
懐にある強襲の遠吠え。銀燐弾の重みが、布越しでも熱を持って伝わってくる。
撃てば道は開く。数体まとめて焼ける。——退くか。
一瞬だけ迷った。
だが、退いても終わらない。
おそらく、この街は追ってくる。どこまでも。足が外へ向く前に、赤い視線がその先を塞ぐ。撃って逃げれば、その瞬間に捕捉はもっと深くなる。銀燐弾は切り札だ。切っても追われるのなら、ここで使う意味が薄い。
ヴォルフは銃から手を離した。
代わりに斧を抜く。断重の鉄塊斧。短柄ではなく長柄へ。
路地が狭い——それでも、薙げる角度はある。
振り抜いた。
鉄塊が肉を砕き、骨を潰し、胴が折れて飛ぶ。血が飛び、脚が転がり、まだ動くものの上に別のものが重なって押し寄せる。
それでも増える。
背後から、違う音。
風を裂く一本。
反射で身を捩った。攻撃だと思った。
だがワイヤーはヴォルフを狙っていない。背後の量産型の核を貫いて止まった。青白い血が散った。
声がした。
女の声。低い。命令口調。
「……いい反応だ。死にたくなければ、そのワイヤーを掴め!」
一拍。
計算。
このまま地上にいれば、削り殺される。数は尽きない。
ヴォルフはワイヤーを掴んだ。
巻取り機が唸った。
視界が引きちぎられる。
路地、壁、配管、赤い点——すべてが後ろへ流れ、身体だけが地下へ引きずり落とされる。
暗転。
岩盤の隙間を抜ける。配管と石の狭い通路。
ある深さで、視線が途切れた。
赤が消え、脈動が遠ざかる。
石の床へ落ちる。
その寸前にワイヤーが巻き取られ、着地の衝撃はほぼなかった。
湿り。冷え。
喉の奥の獣の呼吸だけが残る。
周囲に人影があった。数は多くない。だが近い。
外套ではない作業着。腰に巻取り機。手にワイヤーフック。
するどい眼だった。
見られている。今度は街じゃない。人間の警戒だ。
「動くな」
声は低い。
ヴォルフは動かなかった。