「動くな」
声は低い。
湿った石の匂いの中で、言葉だけが真っ直ぐ刺さってきた。
ヴォルフは動かなかった。
周囲に人影。数は多くない。だが近い。
腰の巻取り機が並んでいる。ワイヤーフックが何本も向けられていた。やろうと思えば躱せる。どうとでもできる。だがやれば、ここが戦場になる。
——見られている。今度は街じゃない。人間の警戒だ。
ヴォルフは息を整えた。喉の奥の獣の呼吸は、まだ抜けない。
「武器に触るな」
別の声。
同じ女だ。
命令口調。
ヴォルフは手を膝の横に落としたまま、視線だけを動かした。
石造りの広間。
壁は黒い。積み方が荒い。ルナールの整いすぎた石材とは違う。配管は途切れている。赤い眼もない。
ここは、監視の外。
女たちはそのことを知っている。
知った上で、声を張らない。
「名前」
女が言った。
ヴォルフは答えない。
空気が硬くなる。
ワイヤーが僅かに鳴り、金具が揺れた。
奥から足音。
重い。静かだが重い。
人が現れた。
男。
若くはない。だが老けてもいない。
顔に余計な感情がない。群れの中心が歩いてきた。
女たちが道を開けた。
男はヴォルフの前で止まった。
視線が一度だけ、外套の裾、腰、背中へ流れる。
武装を読む視線ではない。状況を読む視線だ。
「こいつが例の……?」
女が答えた。
「そう。上で囲まれてたのを連れてきた。……変身したって」
男は頷いた。
それで十分だというように。
「人狼だと聞いている」
ヴォルフは眉も動かさない。
男は続けた。
「ここで獣を出すな。出せば殺す」
脅しではない。規則だ。
女たちの目が一斉に動く。ワイヤーが僅かに締まる。
「出さないなら話ができる」
ヴォルフは頷かない。
ただ、武器に触れない。
男が訊いた。
「何をしに来た」
ヴォルフは短く。
「殺す」
女たちの空気が一段固まった。
男は怒らない。
「誰を」
ヴォルフは地上を指さない。
名も知らない。
だが中心は一つだ。
「この街を動かしてる奴」
男は一拍だけ黙った。
その沈黙が、値踏みだった。
「……俺はカイトだ」
名乗りが遅い。
先に相手を測ってから、自分の名を置く。
カイトは言った。
「この街は、斬っても終わらない」
ヴォルフは答えない。
女が口を挟む。
「上で見ただろ。倒した端から増える」
ヴォルフは一拍。
「減らない」
女が息を吐いた。
カイトが頷く。
「それがルナールだ。敵は数じゃない。街そのものだ」
沈黙。
遠くで、脈動。
石の奥を叩くような、規則的な低音。
女たちが顔を上げる。
カイトは、振り向かない。
耳で聞いている。
「……時間がない」
最初の女が言った。
声の端が、僅かに切れていた。
カイトは頷いた。
「動くな、と言ったのは殺したくないからだ。だが、今ここで揉める余裕もない」
足音。
金属が擦れる音。
女が入ってきた。
作業着。腰の工具。手は油で黒い。
立ち方が違う。現場を仕切る人間の立ち方。
女がヴォルフを見た。
一拍で武装を読む。
懐のあたりで視線が止まった。
「……その銃」
次の瞬間、女は思い直したように顔を上げた。
カイトが低く呼びかけた。
「エリス、今は見るな。撤退が先だ。脈が近い」
カイトが言った。
「敵対しない。それだけ決めろ」
ヴォルフは短く返した。
「しない」
エリスが、釘を刺した。
「そのヤバそうな銃、撃たないでね? 見た感じ、なんかすごいの撃つためのものでしょ?」
「……あんまり派手に音や光を立てると、追われやすくなる」
そう言って踵を返す。
「移動する。次の層へ入る。走れ。止まるな」
ヴォルフは動いた。
女たちが先導する。
ワイヤーが壁の穴へ滑り込み、巻取り機が唸り、古い石の扉が押し開かれる。
通路だ。狭い。湿りがかび臭く鼻を突く。一段、二段、さらに下。
途中で、空気が変わった。
背中の皮膚から、視線の感触が抜ける。
赤がない。
脈動が聞こえない。
完全に、遮断された。
息を吐いた。
暗い。
静かだ。
それでも、終わっていない。
次に行く。
レジスタンスの拠点へ。