遮断。
それが分かった瞬間、背中の皮膚が軽くなった。
さっきまで貼りついていた視線の感触が、すっと抜けた。赤い点もない。配管の脈動も聞こえない。
息を吐く。
熱い。
地上で燃やしかけた肺が、ここでようやく落ち着き始める。
だが暗い。
明かりは最低限だ。
石壁に埋め込まれた小さな灯りが、湿った床を鈍く照らしているだけ。
先を行く足音は多い。
ワイヤーの擦れる音、工具の金属音、息。
それでも誰も喋らない。
喋れば音が残る。
残れば、上に届く。
「止まれ」
前から低い声。
カイトだ。
隊列が止まった。
ヴォルフも止まる。
カイトは振り返らない。
「ここで一度だけ、やり方を合わせる」
エリスが横に立った。
手を上げ、後ろの女たちを制する。
「地上の視線は、ここには届かない」
エリスが言う。
「でも安心しないで。上に戻れば、すぐ捕捉されちゃう」
ヴォルフは答えない。
エリスは続けた。
「視線って、目じゃないの。仕組み。……だから癖がある」
「赤く染まる前。捕捉される前に、必ず一拍ある」
ヴォルフの頭に、さっきの感触が残る。
踏んだ感覚がないのに空気が変わった、あれ。
エリスが言った。
「その一拍で、逃げ道を変えるの。角は曲がらないで。曲がるなら、曲がった先を先に消して」
女たちの一人がワイヤーフックを回した。
金具が鳴り、巻取り機が短く唸る。
「ワイヤーは攻撃じゃないよ」
エリスが言う。
「移動、撤退、救出。……生き残るための道具」
ヴォルフはワイヤーを見る。
地上で見たときは、ただの線だった。
だが今は違う。
打ち込む角度、張り方、巻取りの速度。全てが技術だ。
エリスがヴォルフを見た。
「あなた、力でどうにかしようとする癖があるでしょ。ここだとそれ、死んじゃうよ?」
ヴォルフは目を動かさない。
カイトが言った。
「お前が前に出るのはいい。だが、勝手に前へ行くな。こちらに合わせろ。力押しにもタイミングというものがある」
ヴォルフは短く。
「分かった」
女たちが一瞬だけ静まった。
カイトが歩き出した。
「行くぞ」
隊列が動く。
通路はさらに細くなる。
石が新しくなる。
積み方が変わる。
古い遺構から、後で付け足した通路へ移った。
途中、縦穴。
上へ繋がる。
だが上は行かない。
エリスが壁の刻印を指でなぞった。
「ここから先、拠点が近い」
通路の空気が少しだけ変わった。
湿りに混じる匂いが、油と鉄に寄る。人が長く居る匂い。
カイトが言う。
「最後に一つ」
「獣を出すな。出すにしても、出す場所を選べ」
エリスが続けた。
「もしその必要があっても、必要なとこだけにしてね。脚だけ、とか」
ヴォルフは短く答えた。
「わかった」
エリスが頷いた。
「よし」
先で灯りが増えた。
石の壁の継ぎ目がほどけ、通路が広がる。
扉。
今度の光は白くない。
炉の光に似た、鈍い橙。
カイトが手を上げた。
隊列が止まる。
扉の向こうから、細い声。
工具の音。
水の音。
生きている音。
エリスが言った。
「……ここが私たち、サイトレスの拠点だよ」
扉が内側から開いた。
炉の熱が、頬を撫でた。
扉の向こうは、地下の湿りとは違う。
油の匂い。鉄の匂い。濡れた布の匂い。焼けた煤。
人が長く居た匂い。
狭い。
だが、詰んでいない。
棚。
工具。
ワイヤー。
巻取り機。
水桶。
布。
簡易の寝床。
誰かの咳。
小さな笑い。
金属を叩く音。
生きている。
ヴォルフは無言で視線を動かした。
入口。背後。横穴。天井の梁。奥へ抜ける通路。
逃げ道を数える。
カイトが言った。
「ここで息を整えろ。だが休むな」
エリスが肩をすくめる。
腰の鞘が小さく鳴った。上等なショートソードの柄が覗いている。
「休んでると、死ぬからね」
誰かが水を差し出した。
ヴォルフは受け取らない。
喉は熱い。だが、受け取る動きが遅い。
カイトはそれを咎めない。
「上だ」
カイトが言った。
短い。
目的だけ。
「心臓部は上層にある」
ヴォルフの視線が少しだけ動く。
エリスが続けた。
「近づくほど、眼が増える。密度が上がる」
「ここみたいに静かに歩けるのは、最初だけ」
「そのうち、どうにもならなくなる」
ヴォルフは短く。
「押し切れば良い」
カイトが頷いた。
「そうだな。それしかないところがある」
エリスは指を立てた。
「でも最初から押したら、終わる」
「見つかったら終わり、じゃないの。見つかったら始まる」
「増える。追われる。逃げ道が消える」
ヴォルフは答えない。
エリスがワイヤーフックを机に置いた。
金具が鈍く鳴る。
「だから、これ」
「教えてあげる」
女たちが集まる。
空間が少しだけ広くなる。
誰かが灯りを足す。
エリスが言った。
「基本は三つ」
「打つ角度。張り方。巻き取る速さ」
「それと、音。金具を鳴らしたら負け」
女の一人が笑う。
「負けって言うなよ」
エリスが笑い返さない。
「負けだよ。見えてなくても音でバレちゃう」
ヴォルフはワイヤーを見る。
金属の紐。
強く、しなやかでそう簡単には切れないだろう。
エリスが壁の梁を指さした。
「まず打つ。浅いと抜ける。深いと割れる」
「張る。張りすぎると鳴る。緩いと落ちる」
「巻き取る。速すぎると振られる。遅いと見つかる」
ヴォルフが手を伸ばした。
エリスが手を叩いた。
「待って」
ヴォルフの手が止まる。
「まずはお手本を見せるね。見てて」
エリスはワイヤーを打った。
——乾いた音。
金具が梁に刺さり、次の瞬間、巻取り機が鳴らない速さで回る。
身体が浮く。
靴底が床を離れ、壁沿いに滑るように移動する。
静かだ。
着地。
エリスが言う。
「これが撤退」
「次」
女が二人一組で動く。
一人が打つ。
もう一人が合図を出す。
ワイヤーが伸びる。
「救出」
「やってみて」
ヴォルフがワイヤーフックを受け取った。
重い。
だが嫌いじゃない重さだ。
ヴォルフは一度だけ息を吐き、梁へ狙いをつける。
打つ。
——音が鳴った。
金具が梁の表面を削り、火花が散った。
女たちが息を止める。
エリスが即座に言った。
「今の、最悪」
ヴォルフは眉も動かさない。
「力で刺そうとしたでしょ」
「さっきも言ったでしょ?死んじゃうって」
ヴォルフが短く。
「浅い」
エリスが頷く。
「浅い。だから角度を変える」
「刺すんじゃない。噛ませる。……余裕があるなら巻き付かせても良いんだけど、今やったら死んじゃうからね」
言い方が若い。
だが、言葉は正確だ。
ヴォルフは二度目。
打つ。
今度は音が小さい。
金具が梁に噛む。
「張って」
エリスが言った。
ヴォルフが引く。
ワイヤーが鳴りかける。
エリスが指を立てる。
「止めて。……音」
ヴォルフが止める。
エリスが肩をすくめた。
「あなた、どうとでもできるでしょ。でも、音だけは誤魔化せない」
ヴォルフは息を吐いた。
巻取り。
身体が浮く。
壁沿いに滑る。
着地。
エリスが頷いた。
「よし」
女たちが小さく息を吐く。
ヴォルフはワイヤーフックを見下ろした。
片手が塞がる。
鉈。
斧。
銃。
持ち替える。
遅れる。
ヴォルフが言った。
「邪魔だ」
一拍。
「……適当に剣でも付けられないか」
エリスの目が一瞬だけ変わった。
「……それよ」
笑いじゃない。
現場の顔。
「できる。たぶん」
「ワイヤーと刃、両方を握れる形にする」
「でも必要。上層は、歩くだけで捕捉される」
ヴォルフが眉を僅かに寄せた。
エリスが続ける。
「あなたの脚と、それが合わされば——」
言いかけて、止めた。
「……うん。多分いける。でも今する話じゃないね」
エリスは視線だけを工具台に向けた。
並んだ工具と金具を見て、指先が空中で線を引く。製図でもしているかのように。
今すぐ形にしたいというのが、指の動きだけで分かる。
……この『道具』の使い方は、だいたい分かった。だが身体に馴染ませるには、繰り返すしかない。続けたいが——
切り上げ時だ。客が来た。
カイトが近づいてきた。
「お前の力を最大限に叩きつけるための『タイミング』を決めたい」
「作戦会議だ」
ヴォルフは頷いた。
工具の音が増える。
炉が鳴る。
ワイヤーが引き出される。
次は、力の使い方を決める時間だ。
……それを他人に預けるのは、多少不安が残るが。