ワールドエンダー 終末の物語   作:ニカン

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第2話

使いの男は足が速かった。

 

先を歩き、角を曲がり、ヴォルフが追いつく前に次の曲がり角に消える。迷子にしようとしているのか、あるいは単にそういう歩き方をする人間なのか、判断するには材料が足りなかった。どちらでも構わなかった。道は覚えた。戻れる。

 

カルドレクの夜は生きていた。

 

昼間の往来とは違う種類の人間が通りに出ている。下を向いて歩く者、壁沿いに急ぐ者、路地の暗がりで動かずにいる者。灯りは少ない。少ない分だけ、光の届かない場所の暗さが際立つ。街の構造は、夜になって初めて輪郭を見せるものがある。

 

ここは信仰の都市だ。

 

昼間は均一な信仰の仮面をかぶっている。それが夜になると、仮面の下の各自の算段が表に出てくる。誰もが何かを計算しながら生きている――とはいえ、その意味ではどの都市も変わりはない。

 

施設は都市の上層にあった。

 

石造りの建物。外壁に施された装飾は控えめで、権威の誇示というより「必要なものだけ置いた」という印象を与える。しかし大きい。無駄に大きい。空間そのものが、ここを訪れる者に「お前は小さい」と伝えるための設計だった。

 

内部に案内されたとき、ヴォルフは空気の変化を感じた。

 

外の夜気が遮断される。石の厚さが音を殺す。廊下を歩くたびに、足音が反響して戻ってくる。すれ違う人間が目を伏せる――ヴォルフに向けた敵意ではなく、「ここでは視線を向けるな」という習慣として身についた動作。

 

扉が重い音を立てて開いた。

 

案内された部屋は、広くはない。しかし椅子が二脚、向かい合う形で置かれている。それだけの配置なのに、どちらの椅子に座るべきかが一目で分かった。正面の椅子が「迎える側」で、入口に近い椅子が「来た側」だと、空間が言っていた。

 

男はすでにそこにいた。

 

「よくいらしてくれました」

 

声は穏やかだった。立ち上がることも、手を差し伸べることもない。ただ座ったまま、まるで旧知の相手を迎えるような自然な口調で言った。

 

四十代後半か、五十代か。白髪の混じった落ち着いた顔立ち。目だけが、声の温かさと噛み合っていなかった。何かを測っているような、何も映さないような――感情の残像だけが表面に貼り付いている目。

 

ヴォルフは椅子を見た。

 

座らずに立ったままでいることにした。

 

「本日の件、詳しくは報告を受けました」教主セルヴァンは言った。「異形の群れに対して、単身で。しかも――興味深い戦い方で」

 

ヴォルフは答えなかった。

 

「あれはどこで覚えたのですか」

 

「……」

 

「失礼、詮索が過ぎましたね」一拍の間。「お座りになりませんか」

 

「必要ない」

 

「そうですか」

 

セルヴァンは少し微笑んだ。断られたことへの苛立ちも、取り繕う焦りもなかった。ただ「そうか」と情報を受け取っただけ、という様子。ヴォルフはその反応を観察する。感情を出さない人間か、感情を道具として使う人間か――後者だ、と判断した。前者は感情を殺す。後者は感情を必要な形に成形して出す。表情の柔らかさが計算の産物だと、この男は知っている。

 

「本題に入ります。お互い、長々と話す事柄もないでしょうしね」

 

セルヴァンは椅子の背に浅く寄りかかった。急かさない。急かすことで生まれる焦りを相手に与えるつもりがない。

 

「近頃、カルドレク周辺で異形の出現数が増えています。以前からの増加傾向が、この数週間で明らかに加速した。発生源がどこかにあるはずです」

 

ヴォルフは何も言わなかった。

 

「加えて」セルヴァンは続けた。「異形が多く発生する場所の近くで、われわれには正体の掴めない何かも目撃されています」

 

「どう見ても人間……であるにも関わらず異形たちを率いているような素振りを見せている」

「人間を襲わない異形など存在しない。十中八九、人のふりをした「何か」でしょうね」

 

「方角と距離は」

 

「後ほど地図で。移動の目安になる程度には正確な情報です。ただ」

 

「移動の速度がかなり速い。今から目撃地点に行っても影も形もないでしょうね」

 

「よって、捜索までを含めた依頼になります。受けてもらえますか?」

 

ヴォルフは黙って考えた。

 

発生源の除去。そして「人間ではないと思われる何か」。

 

方角が一致するなら、それは目的地そのものだ。セルヴァンは知らないかもしれないが、ヴォルフには分かる。カルドレクに来た理由が、この男の依頼と偶然に重なっている。

 

「見返りは」

 

「滞在の継続的な黙認。清浄の儀の適用除外――永続的な保障として」

 

清浄の儀。異形に汚染された者や、教義に反する者を排除するための制度。名目は浄化だが、実態は排除の手段として機能している。ヴォルフが今日の広場で受けた「化け物」という視線は、その制度の基盤から来ている。

 

「俺のやり方で、俺のタイミングで動く」ヴォルフは言った。「組織の指示には縛られない」

 

「構いません」

 

即答ではなかった。一拍、確かに置いた。しかしその一拍は計算の時間ではなく、返答を軽く見せないための間だった、とヴォルフは判断した。こういう人間は、決断をすでに済ませた上で話を始める。

 

「成果の報告は」

 

「任意で。いただければありがたいですが、強制ではありません」

 

「……」

 

均衡していた。

 

どちらが上手を取ったとも言えなかった。セルヴァンはヴォルフを道具と見ている。ヴォルフはセルヴァンを利用できる限り利用する。互いにそれを知っており、知った上で合意する。言葉にしない契約――言葉にしてしまえば均衡が壊れるから、どちらも言わない。

 

「後ほど、情報をまとめた書面をお送りします」セルヴァンは立ち上がった。「もう一点だけ」

 

ヴォルフは待った。

 

「清浄の儀の適用除外は、上層の中でも限られた者だけが知る話です。下層には伝わらない。外を歩けば、引き続き同じ視線を受けることになります」

 

「分かっている」

 

「……そうですね」

 

短い沈黙だった。ヴォルフには感謝も謝罪も不要だ、とセルヴァンは判断したように見えた。正確な判断だった。

 

扉に向かった。手をかけたとき、背後から声が来た。

 

「良い報告を、お待ちしています」

 

温かみのない声だった。

 

ヴォルフは振り返らなかった。ただ、一瞬だけ歩みを緩めて鼻で笑うように息をついた。

 

部屋を出た。

 

来た廊下を戻りながら、ヴォルフはこの組織の構造を頭の中で整理した。

 

カルドレクは宗教国家だ。政府と教会が同一であり、市民の生活から法の執行まで、すべてが信仰の名のもとに動いている。その頂点に立つのが教主セルヴァン――ただし、名目上の頂点ではない。

 

名目上の頂点は別にある。

 

《牧師》(パストル)。カルドレクの、そしておそらくこの地域一帯の宗教組織が奉じる守護神。人々が神と呼ぶ存在。異形の脅威から人類を守るために戦う超越的な何か、として信仰されている。セルヴァンはそのパストルの意志を「解釈し、執行する」人間の代理人として権力を持つ。

 

すれ違う組織員が目を伏せる。通路の壁に、等間隔に刻まれた紋章。どれも同じ形をしている――パストルを示す意匠だ。

 

ヴォルフには信仰がない。この組織が信仰によって動いていることとは関係ない、別の話だ。上層は実利で動き、下層は本気で信じている。その落差が都市を機能させている。セルヴァンはその落差を、完全に把握した上で利用している。

 

また、上層と下層の間に、もう一つ別の階がある。

 

使徒。パストルから直接力を与えられた、とされる人間たち。先ほど城門の外で兵士たちを一言で制止した男がそれだ。戦闘の跡が服に残っていた。どこか別の場所で同時に異形と戦っていた、という立ち姿だった。

 

直接その戦い方を見たわけではない。しかし他の都市でも似たようなものを見てきた。パストルとやらが何らかの力を供給しているのだろう、というのがヴォルフの見立てだ。信仰から来る精神的な強さ、というだけでは説明がつかない動き方をする人間が、どこの宗教組織にも一定数いる。それが使徒と呼ばれる存在の正体だ。詳細は知らない。知る必要もない。ただ、普通の兵士とは別の扱いをするべき相手だ、という判断だけが残る。

 

実用的な理解だ、とヴォルフは思った。

 

廊下の突き当たり、曲がり角の影から人の気配がした。

 

ヴォルフは歩を止めずに視線だけ向けた。

 

男が壁に背を預けて立っていた。城門の外で、兵士たちを制止した使徒――名前は知らない。戦闘の跡が服に残っている、あの人間だ。ヴォルフが施設に来ることを知っていて、あるいは知らずに、ここで待っていたのかもしれなかった。

 

目が合った。

 

使徒は何も言わなかった。視線の中に嫌悪はなかった。しかし受け入れている、とも違う。言葉にできない種類の複雑さを押し込めて、ただ立っていた。

 

ヴォルフは視線を外して歩いた。

 

追ってくる気配はなかった。

 

廊下を抜け、扉を開けて外の夜気に戻った。石の重さから解放されると同時に、施設の空気が背中に張り付いているような感触がしばらく残った。利用される側に立った気分ではなかった。利用する側でもなかった。

 

互いに相手を使っている、という状況だけが成立している。

 

夜気の中に立ったまま、右手をコートの内側に押し当てた。固い感触が布越しに掌に届く。いつもそこにある。それだけを確かめて、歩き出した。

 

それで十分だ。

 

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ヴォルフの足音が遠ざかってから、ようやく使徒は口を開いた。

 

「あれを使うおつもりですか」

 

足音はなかった。

 

それでも、背後に立った人間が誰かは分かる。使徒――ヴァーレンは振り返らない。

 

「使う、とは」

 

「そのままの意味です」ヴァーレンは言った。「あの男を、です」

 

「ええ」

 

セルヴァンの声は穏やかだった。先ほどの部屋の中と何も変わらない、温度のない柔らかさ。

 

「明らかに普通ではない力を使う者です」

 

「そうですね」

 

「兵たちは恐れていました」

 

「あなたもでしょう」

 

ヴァーレンはそこで初めて振り返った。

 

セルヴァンは咎めるでもなく、試すでもなく、ただ事実を確認しているような顔で立っていた。

 

「……信仰に反します」

 

「信仰は結構です。ですが、使えるものを捨てるほどの余裕は我々にはない」

 

声音は変わらない。

 

冷酷というより、すでに結論を出した人間の声だった。

 

「あれが何者であれ、異形を殺せる。その一点で、現時点では十分です」

 

ヴァーレンの口元がわずかに強張る。

 

納得したわけではない。だが反論もできない。カルドレクが置かれた現実を、彼自身が知らないはずもなかった。

 

「……承知しました」

 

その返答に、セルヴァンは満足した様子も見せなかった。

 

「結構」

 

それだけ言って、セルヴァンは去った。

 

ヴァーレンはその背を見送ったあとも、しばらく動かなかった。

 

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