警報が、変わった。
連続した切迫音ではない。
途切れ途切れだ。
失速している。
ヴォルフは配管の上に立ったまま、真っ二つになったシレを見ていた。
眼球が弾けている。
神経節が裂けている。
制御装置は破片になって散っている。
脈動はまだある。
だが今にも止まりそうだ。
長くない。
回収できる代償の量は大したことがないだろう。
だが、踏み潰してとどめを刺した。
……死んだ。
崩れた外壁の向こう、ルナールの奥の方でまだ何かが倒れる音がした。爆発の余韻が、配管を伝ってくる。雨は続いていた。石を叩き、血だまりを濡らし、静かに積もっていく。
全部は止まっていない。
制御装置が止まった。崩壊の信号は失速した。だが慣性で動き始めた破壊は、そう簡単には止まらない。
どこかで配管が裂ける音。
どこかで壁が崩れる音。
それでも、さっきとは違う。
連鎖の速さが落ちている。最悪の全域崩壊は、もうここでは起きない。
ヴォルフはアイゼン・ラピッドを腰へ戻した。
━━━
足音が来た。
速い。
「あいつは!?」
エリスだ。
崩れた橋の端から飛び降り、破片を踏んで走ってくる。ワイヤーフックが腰で揺れていた。顔に切り傷がある。泥と血が混ざっている。
立ち止まる前に、真っ二つのシレを見た。
一瞬だけ、押し黙った。
「止まった、か」
声が平たい。
感情より先に確認が出た。
ヴォルフは頷かない。代わりに、砕けた制御装置の破片を一つ、足先で転がした。
赤い光は消えている。
エリスが息を吐いた。
「警報が変わった。崩壊速度が落ちてる……街はこれ以上壊れない」
遠くでまた何かが崩れる音がした。崩壊が止まったとはいえ、不安定になった建物は下手につつけば崩れるだろう。
エリスは顔を上げ、その方角を確認した。それから視線をヴォルフへ戻す。
「カイトたちと合流しよう。被害状況の確認。……あんたは」
ヴォルフの全身を一瞥した。
返り血。切り傷。雨に濡れた外套。
「今すぐ動ける?」
「動ける」
「なら一緒に来て。合流しよう」
エリスが先に歩き始めた。
ヴォルフはシレの残骸を最後に一度だけ見た。
もう、動かない。
完全に。
それから、後に続いた。
━━━
合流は地下二層の通路で行われた。
事前に決めていた箇所だ。
通路の奥、崩れた壁に背を預けてカイトが立っていた。隣にシスターズの構成員が三人。一人は腕を吊っている。別の一人は額に布を巻いていた。
カイトはヴォルフを見た。
ヴォルフを見て、エリスを見た。
「制御装置は」
「壊した」
ヴォルフが答えた。
カイトの表情は変わらなかった。だが肩から何かが抜けた、とわかる変化があった。
「被害は出た」
静かな声だった。
「逃げ切れなかった者もいる。上層の崩落で三名が生き埋めになった。一名は引き出せた。二名は……間に合わなかった」
誰も何も言わなかった。
雨の音が遠くから届いている。
「残りのみんなは?」
エリスが聞いた。
「全員の所在確認はまだだ。ただ大量死は出ていない。避難誘導は機能した」
カイトは壁から背を離した。
「今夜は応急封鎖と負傷者の処置を優先する。解析は後だ。全員、まだ仕事がある」
構成員たちが動いた。
疲れた顔をしていた。それでも動いた。
エリスがヴォルフのことをちらりと見て、指示を出すために去っていくカイトの方も見て、言った。
「……終わったね」
独り言だった。
誰に向けたものでもない。
ヴォルフは答えなかった。
━━━
数日が過ぎた。
応急封鎖。負傷者の処置。安否確認。生存者の誘導。最低限の休息。それらがひとかたまりになって、ただ過ぎていった。
全域崩壊は起きなかった。
ルナールは残った。
それでも街の傷は深く、守護者の心臓部を解析に向かえるほどの余裕ができるまで、それだけの時間がかかった。
━━━
心臓部の入り口は、崩れていた。
外壁が一部落ちている。進入路だった通路が、天井ごと潰れて狭くなっている。サイトレスの構成員が先に入って、最低限の安全確認をしていた。
ヴォルフとエリス、それからカイトが続いた。
中は暗かった。
かつては監視の光で満ちていた場所だ。眼球が並んでいた。神経束が走っていた。生体機構が脈打っていた。
今は半分が潰れている。
崩れた配管から、青白い液体がゆっくりと流れていた。シレが使っていた監視網の眼球から漏れていた流体だ。発光している。弱く、間欠的に。まるで死に損なった何かが、まだ呼吸しているようだった。
床に、眼球の残骸が散っている。
つぶれたもの。割れたもの。乾きかけたもの。
神経束が、壁から剥がれて垂れ下がっていた。
エリスが先に進んだ。
足元を確認しながら、崩れた機械の残骸を避けながら、記録系のある区画へ向かう。数日前に確認した場所だ。崩壊で損傷しているが、一部はまだ生きているかもしれない。
「……臭うね」
エリスが言った。
腐敗ではない。
焼けた神経と、冷えた血と、古い石の匂いが混ざった、この場所特有のにおいだ。
カイトは何も言わなかった。ただ、周囲を見ていた。
かつて自分が仕えた守護者の、その成れの果てを。
ヴォルフには、その内側はわからない。
ただ歩いた。
青白い光の中を。
潰れた眼球を踏み潰して。
垂れた神経束を払い除けながら。
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記録系は、半分死んでいた。
エリスが接続端子のひとつに触れ、手の中の機材を繋いだ。古代の遺物に連なる技術の代物だ。うなりが出る。弱い。それでも出た。
「……生きてる」
端末から引き抜かれた情報が、ぼんやりと画面に滲んだ。文字ではない。記号に近い。シレが使っていた観測系の出力形式で、エリスでなければ読めないものだ。
「ログはある。かなり壊れてるけど」
崩れた天井のそばで、カイトが腕を組んでいる。
「読めるか」
「読めるところだけ、読む」
エリスは手を動かしながら言った。画面に映る情報を、欠けた部分を飛ばしながら進んでいく。
ヴォルフは少し離れたところで、壁に背を預けていた。
監視に使っていた眼球から散った血の跡が、頭の上の壁にも染みついている。
しばらく、エリスの作業音だけが続いた。
やがてエリスが口を開いた。
「……これは、『扉』のログだね」
「見たことあるかな? 異形がどんどん湧き出す、古代の施設。あいつらは『扉』って呼んでるみたいだけど本来は別の用途に使うものだったみたい」
今はそんなことどうでもいいか。と続けて言って、頭を振った。
「シレは、扉を開けてない」
誰も返事をしなかった。続きを待った。
「起動者じゃない。……扉を開けたのは別の誰かで、シレはその後を管理してた。各地の扉が今どんな状態にあるか、異界側の圧力がどれだけかかってるか、こちら側への流入量がどう変わってるか——それを全部ここで見てた、みたい」
「監視だけか」
カイトが聞いた。
「監視と配分。どの扉にどれだけのリソースを割くか。流量を絞るか、広げるか。……それを判断する役割」
エリスは光の断片をひとつ、親指で弾いた。
「ただ、扉の機能はそれだけじゃない」
「向こう側と繋ぐだけじゃないってこと」
「これを見て」
光の一片が広がった。記号の列が、ひとつの図になる。ヴォルフには読めない。だがエリスは読んだ。
「扉は向こう側の環境を観測してる。圧力、密度、流入量——それを監視しながら、こちら側の接続条件を少しずつ広げていく。長期間かけて、少しずつ」
「広げる、というのは」
カイトの声が、わずかに変わった。
「こちら側の世界を、向こう側に合わせていく。環境ごと。気候でも空気でもない、もっと根本的な何かを」
沈黙があった。
「書き変えている、ということか?……おそらくは、自分の住みやすい世界に」
エリスは答えなかった。
答えられる段階にない、という沈黙だった。
ヴォルフは壁の目玉の跡を見ていた。
シレはここから、その「変化」を数値として眺めていたらしい。感情なく。冷たく。ただ数字として。
━━━
「おかしい」
エリスがつぶやいた。
作業を続けながら、止まらずに言った。
「流量の記録が、合わない」
カイトが近づいた。
「本来ルナールに集積されるはずのリソースが、一部抜けてる。シレが使った分じゃない。別の経路で出てる」
「横流しか?」
「経路がある。シレの管理系統とは別口で、外へ繋がってる引き込み線みたいなものが……ログに残ってる。断片だけど」
エリスは手を止めた。
「これ、シレが自分でやってたんじゃない」
「シレの管理外から干渉した、ということか?」
カイトが聞いた。
「そう。外側から入ってきて、リソースを少しずつ抜いてた。……やり方が、慎重だ。量をごまかしながら、長い時間をかけて」
「でも、波長っていうか……パターンからすると、シレみたいな奴らの同類でもないね、これ」
「どっちかって言うと……ルナールの守護者のパターンに近いと思う」
カイトの表情が変わった。わずかだ。だがヴォルフには見えた。
エリスが言った。
「使える力の質、干渉の仕方、経路の組み方——個人や組織じゃ出せない。シレとは別の、ルナールの守護者と似たような存在がここへ手を入れてた」
静かな言葉だった。
それがかえって重かった。
「抜かれた先は」
ヴォルフが聞いた。
エリスは首を振った。
「記録が壊れてて、名前まで出ない。ただ……方角だけは残ってる」
光の断片が、一本の線になった。
「流向から割り出せる範囲だと」エリスは言葉を選んだ。「大きな候補は、そう多くない。この方角だと、カルドレクぐらいしかないよ」
沈黙が落ちた。
「断定はできない」
エリスは続けた。
「崩壊で記録が欠けてるから。でも偶然の方向じゃない。……そっちに、リソースが抜かれてたのは確か」
カイトが息を吐いた。
「今の段階では、それだけ分かればいい」
「うん。全部は見えてない。でも、偶然じゃない」
━━━
心臓部を出たのは昼を過ぎてからだった。
地上に出ると、サイトレスの構成員たちが動いていた。崩れた建材を運ぶ者、避難誘導の最終確認をする者、補修の仕切りをする者。全員、疲れた顔をしていた。それでも手が止まっていなかった。
カイトが立ち止まり、全体を見渡した。
「封鎖区画の再確認が今日中に終わる。負傷者の処置は昨日で一通り済んだ。……ルナールは残る」
エリスへ向けて言った。
「シレが乗っ取っていた観測系は死んだ。監視は消えた。再建に時間はかかるが、あの目に追われる必要はもうない」
「課題は残るけどね」
エリスが言った。続いてカイトが引き継ぐように言った。
「だが今日やるべきことは終わった」
カイトはそれだけ言って、構成員のいる方へ歩いていった。
エリスはその背中を少しの間見ていた。
役目は果たした。
ルナールは残った。
どちらも事実だ。
とりあえずは、ここでやるべきことは終わった。
━━━
ルナールはまだ脈打っていた。
弱く。間欠的に。
心臓部の奥に残ったリソースを含んだ流体が、青白く光っては消えた。
監視の眼はもうない。
だが都市はまだ生きていた。
傷だらけで、半壊で、それでもまだここにある。
ヴォルフは空を見た。
雨はもう止んでいた。