見えた。
上だ。
ルナールは横に広がる都市だった。
配管が街路を這い、眼球が壁に張りついていた。
だがアイビスは違う。
梁が上へ。
壁が上へ。
塔が上へ。
何もかもが縦に積み上がり、頭の上に続きがある。
ヴォルフは外縁の崩れた石壁を背に、全体を見上げた。
金属の梁が幾重にも渡されている。その隙間をガラスの壁面が埋め、空を鈍く反射している。外壁には搬送路が走り、保守用の足場が段々に張り出している。本来は人が通るための構造だ。あるいはそうだったはずだ。
今は違う。
高所の壁面に、何かが張りついている。
遠すぎて細部は見えない。
だが脈打っている。
それだけは分かる。
上を取られていると、下から何も届かない。
一度だけ、視線を降ろした。
地表側の入り口。石と金属が入り混じった低層区画。人の匂いが残っていない。
何年か前まではここに暮らしていた連中がいたはずだ。
今はいない。
ヴォルフは外套を直し、上へ向かった。
━━━
正面からは入らない。
大通りは頭上に射線が通りすぎる。迎撃するなら上から落とすのが正解で、下を歩く人間は遮蔽物を探す暇もなく潰される。
外壁の端を使う。
梁の下面に沿って横移動する。
アイゼン・ラピッドを射出した。
梁に噛む。
巻き取る。
身体が斜めに引き上がる。
次の梁。
また射出。
着地ではなく、移動のまま次へ繋ぐ。
この都市とアイゼン・ラピッドは、悪くない相性だ。
足場は多い。上下に分厚い。梁と壁と搬送路が入り組んでいる分、ワイヤーを噛ませる場所には事欠かない。
ただし。
高所の遮蔽物の陰から、赤い光がふたつ、動いた。
来る。
巡回の末端個体だ。
人の形をしていない。
四肢のバランスが狂っている。余分な関節がある。皮膚が甲殻に移行しかけた、半端な状態の何かだ。
ヴォルフはワイヤーを逆に引き、身体を梁の下側へ引き込む。
末端個体が通過する。
気づかない。
視覚系が簡略化されているのか、あるいは真下という死角があるのか。
どちらでもいい。
通り過ぎたところで、鉈を抜かずに首の付け根へ拳を叩き込んだ。
音なく落ちる。
足場の下、遠い地表へ。
落下音は遠すぎて聞こえなかった。
━━━
二層、三層と上がるごとに密度が増した。
巡回の末端個体の数が増える。
射出口が増える。
梁の陰や搬送路の曲がり角に、固定の迎撃器官が埋まっている。肉と金属が混ざった、砲台とも生き物ともつかないものだ。正面を向いた眼球が赤く光っており、射線内に入ると何かを吐き出す。
ヴォルフは射線の外を選んで動いた。
直線ではなく、梁伝いに迂回する。
時間はかかる。
だが騒ぎを起こすよりはいい。
ここはルナールではない。
ルナールは眼球の数で支配していた。見ることが力だった。
アイビスは違う。
射線。
制圧。
落下。
高さそのものが武器になっている都市だ。
見つかれば上から一方的に叩かれる。
だから見つからないまま、高所へ近づく。
━━━
四層を越えたあたりで、壁面の質が変わった。
もともとの石材や金属の構造物に、肉と膜が混ざり始める。
壁から突き出た管。
その管に繋がった、脈打つ塊。
圧送音がする。
低く、規則的に。
血か、それに近い何かを送っている音だ。
触れなかった。
刃を当てれば簡単に潰れるだろうが、それをして何かが変わる可能性がある。
巣の内側に来た、という感覚が強くなる。
この都市全体が、何かの一部として組み込まれている。
ヴォルフは管を避け、上へ続く搬送路の外縁を進んだ。
━━━
五層の高さで、変化があった。
迎撃が止んだ。
巡回の末端個体が来ない。
射出口の赤い眼が、閉じている。
全部が止まったわけではない。
遠くではまだ動いている。
だがこの区画だけ、静かになった。
不自然だ。
ヴォルフはアイゼン・ラピッドを構えたまま、梁の陰に背を付けた。
音を立てない。
呼吸を落とす。
見られている。
確信ではない。
だが、何かがいる感覚だけはある。
迎撃を止めたのは、機能が落ちたからではない。
必要がないと判断したからだ。
来るなら来い、という静けさだった。
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搬送路の先に、空間が開けた。
吹き抜けだ。
幾層もの梁と金網が、縦に積み重なっている。各層の搬送路が交差し、中継塔がその中心を貫いている。外壁のガラスが三方を囲み、残る一面は剥き出しの金属骨格だ。
射線は通る。
どこからでも。
だが遮蔽物も多い。梁の下面、金網の折り重なる陰、中継塔の背後。
地面に当たる面積が少ない。
落ちれば遠い。
脈打つ肉塊が、ここにもある。
中継塔の節に、肉塊が半ば生えていた。管が繋がり、脈打っている。塔の一本ではなく、複数に。壁面にも張りついている。まるでこの空間に血管を通したように。
これが巣の中枢に近い場所の見え方だ、とヴォルフは理解した。
中継塔の上層。
影が動いた。
五本。
脚が五本ある。
人の動きではない。奇数の配置で、壁から梁へ、梁から中継塔の外面へと、予測を外すように移る。速い。重そうな見た目に反して、動くたびに支点を変え、軌跡が読めない。
腕の部分に、何かが畳まれている。
外殻の内側に。
ヴォルフはノコギリ鉈を抜いた。
来る前に、理解する。
ここはあれの縄張りだ。
━━━
動きが止まった。
中継塔の上層。
五脚が固定され、こちらを向いている。
視線という概念があるなら、今はそこにある。
静かだった。
音を立てない。
あれがこの都市のどこに何があるかを知っているように、ヴォルフが今どこにいるかも知っている。だから急かない。逃げ場がないと分かっているから。
ヴォルフは金網の端へ移動した。
梁の下面を選ぶ。
落下方向に死角を作る。
射線の数を絞る。
できることをやる。
外殻の内側で、何かが動いた。
畳まれていたものが、開こうとしている。
その瞬間。
轟音。
上から来た。
ガラス壁面の一区画が弾け、金網が焦げる。
雷だ。
白い閃光が縦に走り、着弾点の金網が熔けて丸まった。
五脚の動きが止まる。
ヴォルフも止まる。
第三者が来た。
━━━
降りてきた。
搬送路の上層から、一人。
槍を持っている。
雷が、その周囲をまだ散っていた。余熱だ。足場の金網に流れ、じじじと焦げ続けている。
ヴァーレンだ。
全体を一瞥しただけで、状況を把握している顔だった。
ヴォルフを見る。
それから五脚の異形を見る。
どちらも、視線の温度は同じだった。
「先に着いていたか」
声は静かだ。
感情的ではない。
だが硬い。
「カルドレクの部隊は下層で足場を固めている。この高さに上がれるのは、今は俺だけだ」
ヴォルフは答えない。
ヴァーレンが続けた。
「セルヴァンは前線から退いた」
「今は俺が、ここの判断をしている」
「異形も、お前も、もはや見逃さない」
それだけだった。
長くしない。
激情もない。
ただ、決定として告げた。
セルヴァンがいた頃とは違う。
あの頃の硬さは命令を守る者の硬さだった。
今のこれは、自分が判断する者の硬さだ。
━━━
中継塔の上層で、五脚が動いた。
外殻の内側から、ゆっくりと展開する。
肉と外殻の境目が、裂けるように開く。
血が散る。
射出口がせり出す。
その動作に感情はない。
処理として行われている。
声が出た。
低い。
反響する。
どこか機械的な整い方をした発声だった。
「私の名はクロヴ。五つ脚のクロヴ」
「貴公らは私のテリトリーに侵入している」
「排除する」
それが宣言なのか、処理の開始音声なのか、区別がつかない。
どちらにせよ、意味は同じだ。
腕部の射出口が脈打った。
充填されている。
「アシンメトリー・ドライブ、ロード」
五脚が動いた。
壁へと跳ねる。
梁へと飛びつく。
更には中継塔の外面へ。
着地するたびに支点が変わり、次の軌跡が読めない。速い。重さを感じさせない速さで、この空間を縦横に移動している。
ヴォルフはアイゼン・ラピッドを構えた。
ヴァーレンが槍を構えた。
どちらも、主眼は同じ場所にある。
クロヴが壁面を蹴り、空間の対角へ跳んだ。
その軌跡の先に、さっき見た脈打つ肉塊がある。
━━━
射出口が膨らんだ。
充填が終わった。
「スカーレット・ラジアル、ロード」
腕部の外殻が大きく開いた。
血と肉片が散る。
五連。
放射状。
偏った射角で、安地をずらすように飛んでくる。
ヴォルフは梁の下へ。
金網の裏へ。
直撃ではない。だが一枚、腕をかすった。
鋭い。
刃として飛んでいた。
ヴァーレン側でも雷が走った。
迎撃だ。
二本を弾いたが、残り一本が搬送路を削った。
三者がそれぞれに動く。
クロヴはその肉塊へ飛びつき、一瞬だけ接続しつつ同時に次の軌跡へ移る。
ヴォルフはワイヤーを射出し、クロヴの移動先を先読みして位置を取ろうとする。
ヴァーレンは雷光のように、直線的な動きで跳ね回る。クロヴとヴォルフの両方を視野に収めて隙を伺っている。
誰の計算も、少しずつ狂っている。
一対一なら読める。
三者では読めない。
それがこの空間の現実だった。
ヴォルフは鉈を握り直した。
正面から抜けるしかない。
クロヴが接続を終え、再び動き始めた。
ヴァーレンの雷が一本、梁を伝って流れた。
次が来る。