アイビスはまだ生きていた。
高所の梁。
外壁のフレーム。
金網の継ぎ目。
どこも脈打っている。
血と鉄と保守機構が、一つの巣のように絡み合っていた。
その中腹で、ヴォルフは身を伏せていた。
前とは違う。見つけた瞬間へ飛び込んだりはしない。
今は見る。
まず、それだけをやる。
下では雷が走っていた。
白い線が、梁から梁へ跳ぶ。
金網を伝う。
外壁の補強材へ流れる。
通路を殺すための配置だった。
ヴァーレンだ。
中層に足場を作っている。
焼いた梁の残骸。
打ち込まれた槍の跡。
雷を通すために置かれた金属片。
あいつなりに、この巣を攻略するための線を積み上げていた。
クロヴは奥へ引いている。
だが逃げ切れてはいない。
ヴァーレンも押し切れてはいない。
だから止まらない。
消耗戦だけが続いていた。
数日。
あるいは、それに近い時間。
どちらも削れている。
それでも、まだどちらも落ちていない。
ヴォルフは視線を上へ滑らせた。
いた。
クロヴ。
高所の外壁寄り。
一戦目で器官を引きちぎった側は、やはり目に見えて薄い。
左右の均衡が崩れている。
補給器官へ喰らいつく回数も、前より多い。
埋め合わせている。
足りなくなったぶんを。
だがそれで終わりではない。
五脚はまだ速い。
壁も梁も足場の裏も、変わらず軌道にしている。
血刃も来る。
本数は減った。
しかし、通る線だけを選ぶみたいに鋭くなっていた。
弱った獣ではない。
一つ削られた守備機構。
その感じが、前より強い。
ヴァーレンが踏み込む。
雷槍が伸びる。
クロヴは正面から受けず、梁の束を蹴って軸をずらした。
遅れて、金網の向こうから血刃が返る。
ヴァーレンの肩が半歩だけ引かれる。
深追いしない。
だが引きもしない。
また一帯へ雷を流し、逃げ道を削る。
それの繰り返しだ。
ヴォルフは黙って見ていた。
前回と同じ場ではない。
三つ巴ではない。
もう、読む相手は二つでいい。
クロヴの軌道。
ヴァーレンの圧。
その噛み合い方。
ヴォルフは背から、新しい刃を抜いた。
血と復讐の刃。
ブラッド・アンド・リヴェンジ。
柄を握る。
重みはある。
だが暴れない。
前に工房で見た時より、ずっと静かだった。
殺すための形に、もう落ち着いている。
ヴォルフは目の前の金網へ視線を落とした。
編み目。
細い。
普通の刃なら止まる。
銃弾でも、角度が悪ければ弾かれる。
だが、これは違う。
ほんの少しだけ、圧を送る。
低負荷。
刀身の輪郭が、わずかにほどけた。
赤い。
薄い。
刃でありながら、まだ定まり切っていない液体めいた線へ変わる。
金網へ触れる。
止まらない。
編み目の隙間へ、するりと抜けた。
向こう側で、また刃に戻る。
音も小さい。
派手さはない。
だが十分だった。
届く。
本来なら届かない場所へ。
ヴォルフは刃を戻した。
今ので分かった。
通る。
梁の隙間も。
金網越しも。
ヴァーレンの障壁でも、薄い場所なら通るかもしれない。
この武器は、単純に真正面から叩き割るためのものではない。
ルールの外から刺すための刃でもある。
下で雷が爆ぜた。
ヴァーレンがまた一歩、前へ出る。
クロヴは高く跳ぶ。
壁面へ接続。
補給。
直後、三本の血刃が扇状に走った。
ヴァーレンの正面。
足場の端。
退路。
狙いは深い。
だが器官を一つ失ったせいか、射線の厚みは前ほどではない。
ヴァーレンが焼く。
クロヴは退く。
そこへまた雷が追う。
押し切れない。
だが押されてもいない。
その均衡だけが続く。
ヴォルフは位置を変えた。
一歩ではない。
ワイヤーを撃つ。
巻き取る。
梁の上を滑る。
次の金網の陰へ。
更に上。
見つからない角度だけを選ぶ。
クロヴの視線は前。
ヴァーレンの視線も前。
どちらも、まだヴォルフを見ていない。
あるいは気配には気づいていても、優先順位が違う。
それでいい。
今はまだ。
ヴォルフは止まる。
射線を探す。
クロヴの外殻。
腕部。
脚の開き。
補給器官から離れた瞬間。
中枢へ近い線。
一戦目の感触を、身体が覚えていた。
どこを壊せば大きくぶれるか。
どこを断てば終わりに近づくか。
探すまでもなく、知っている部分がある。
ヴァーレンの雷が、今度は広く走った。
金網ごと。
梁ごと。
その一帯を立てなくする線だ。
クロヴは脚を開く。
迎撃の向きを寄せる。
血刃が二本。
一方は雷へ。
もう一方は、回り込もうとする角度へ。
前を見ている。
完全に。
ヴァーレンへ。
その瞬間だった。
ヴォルフはブラッド・アンド・リヴェンジを振るった。
大振りではない。
低く。
短く。
刃を飛ばすというより、通す。
赤い線が伸びる。
手前の金網へ触れる。
編み目を抜ける。
向こう側で再構成。
細いまま、しかし刃になる。
クロヴの死角。
器官を失った側と逆。
まだ守りが厚いはずの方。
そこへ、真横から入った。
遅れて、クロヴの外殻が裂ける。
一拍。
処理が追いつかないというような空白があった。
クロヴの脚が止まる。
動きが、ほんの一瞬だけ空白になる。
その次の瞬間、血が噴いた。
赤い。
だが射出ではない。
中から漏れている。
ヴァーレンが目を細めた。
クロヴがようやく反応する。
遅い。
そっちから来るはずがない一撃だった。
よろめく。
脚の一本が梁を踏み外す。
外殻の継ぎ目が大きく開く。
中枢が見えた。
ヴォルフはもう一度ワイヤーを撃っていた。
巻き取る。
身体が飛ぶ。
クロヴは迎撃に腕部を開こうとした。
間に合わない。
さっき入れた刃が、その処理ごと乱している。
血の流れがぶれている。
射出口の開きが遅れる。
ヴォルフはそのまま懐へ入った。
近い。
臭う。
血と、熱と、腐った機械みたいな臭いがした。
ブラッド・アンド・リヴェンジを握り直す。
今度は通すのではない。
斬る。
横薙ぎ。
一閃。
外殻。
肉。
骨めいた芯。
まとめて断つ。
クロヴの声が鳴った。
機械音声みたいな処理音。
だが最後まで感情はない。
「――」
途切れる。
そこで終わった。
ヴォルフは止まらない。
着地より先に、もう一歩踏み込む。
返す刃で、縦に断った。
中枢を抜ける。
支えが消える。
巨体が二つに割れた。
少し遅れて、脚がばらばらに外れる。
梁へ。
金網へ。
外壁へ。
ぶつかりながら、落ちていく。
クロヴの上半身が、高所の外へ傾いた。
そのまま、何にも引っかからずに落ちる。
下は遠い。
夜より暗い底へ、異形の残骸が吸い込まれていく。
遅れて、ずっと下の方から重い音が来た。
鈍い。
遠い。
それだけだった。
ヴォルフは見送らない。
見る意味がない。
もう死んだ。
それで終わりだ。
着地。
梁が軋む。
膝に少しだけ重さが返る。
前回とは違う。
今度は、逃げるために立っているのではない。
真正面から、もう一つを殺すために立っている。
白い光が、向こうで静かに弾けた。
ヴァーレン。
槍を下ろしている。
どんな状況にも対応するための構えだ。
追撃の構えではない。
もう必要がなくなったからだ。
第三者が消えた。
巣の高所に残っているのは、二人だけ。
ヴァーレンの視線が、まっすぐヴォルフへ向く。
冷たい。
だが荒れてはいない。
怒鳴りもしない。
その静かさの方が、よほどはっきりしていた。
排除対象。
今、あいつの中でヴォルフはそれに定まった。
ヴォルフも刃を下ろさない。
ブラッド・アンド・リヴェンジの刀身には、まだ赤い名残が残っていた。
細く。
静かに。
さっきまでクロヴの中枢を断っていた熱だ。
それもすぐ消える。
場に残るのは、次の戦いだけになる。
風が抜けた。
高所の金網が鳴る。
遠くで補給器官の脈動がまだ続いている。
だがクロヴはもういない。
その音だけが、逆に空白を広くした。
ヴァーレンが一歩、前へ出る。
雷が槍へ集まる。
足場の金属が白く軋む。
ヴォルフは背中にある、斧の位置を確かめた。
だが抜かない。
今はまだ新しい刃だけでいい。
この場へ持ってきた理由は、終わらせるためだ。
クロヴは終わった。
残りも同じだ。
二人の間に、もう何もない。
梁。
金網。
外壁のフレーム。
前と同じ戦場のはずなのに、今は妙に広かった。
邪魔がない。
紛れもない。
ここからは、互いしか見なくていい。