ワールドエンダー 終末の物語   作:ニカン

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第3話

翌朝、ヴォルフは宿を出た。

 

消耗品を揃える必要があった。包帯。縫合糸。傷口に詰める乾燥した薬草。大量の失血後に身体を繋ぎとめるための液体と錠剤。出発前に揃えておくべきものはいくらでもある。どれも命綱ではないが、どれも欠ければ次の戦闘での生存率が目に見えて下がる。

 

最初の店で断られた。

 

店主はヴォルフの顔を見た瞬間、表情を変えた。驚きではなかった。怒りでもなかった。「やはり来たか」——そう言っているような、あらかじめ予期していた顔だった。昨日の城門前の騒ぎは、一夜で街中に回っている。帽子の鍔を深く下げ、布で顔の下半分を覆っていても、消える種類のものではなかった。正体のわからない力を振るう者。人でもなく獣でもない何か。その評判は、ヴォルフが想定していたものより、やや速く動いていた。

 

「売れるものはない」

 

言葉は短く、目は合わなかった。扉が閉まる音がした。

 

二軒目も断られた。こちらは言葉すらなかった。店の奥から出てきた女が、ヴォルフを一瞥し、首を横に振り、引き返した。三軒目では店主が顔を出し、視線を外し、黙って奥に消えて、戻ってこなかった。

 

ヴォルフは店の前にしばらく立ち、それから歩き出した。

 

怒りはなかった。落胆もなかった。予想の範囲内だ。人間とはそういうものだ。理解できないものを排除する——それが本能であり、信仰がその本能に大義名分を与える。昨日、命を救われた事実と、救った者を排除したい衝動は、彼らの中で矛盾なく同居している。

 

四軒目に向かう途中、市場を横切った。

 

ふと、足が止まった。

 

鳥が多かった。

 

屋根の上。軒先。窓枠。石壁の出っ張り。鳥たちがそこかしこに止まっている。種類は混在していた——雀に近い大きさのものもいれば、鴉よりひとまわり小さい黒い鳥もいる。群れているのではなかった。それぞれが独立した場所に止まり、互いに距離を保っている。ただ、視線の向きが似ていた。

 

市場の往来は騒がしい。荷車が軋み、商人が声を張り、子供が走り回っている。それでも鳥たちは飛び立たなかった。

 

一羽が、ヴォルフの方を見ていた。

 

黒い目。小さい。何も映していないように見えて、何かを記録しているように見えた。

 

ヴォルフは視線を外した。

 

気のせいかもしれなかった。市場に鳥が集まること自体は不自然ではない。食べ物の匂いにつられて来ているだけかもしれなかった。しかし——人が通っても飛ばない鳥というのは、少しばかり奇妙に見える。

 

今は確かめる手段がない。頭の隅に置いて、歩いた。

 

四軒目も断られた。

 

五軒目は、店に入る前だった。店先に立っていた男が、ヴォルフの姿を認めた瞬間に手のひらを向けた。

 

「お引き取りを」

 

声に敵意はなかった。恐怖だけがあった。善良な恐怖。自分と家族を守るための、ごく当たり前の拒絶。

 

ヴォルフは踵を返した。

 

手ぶらで宿に戻った。

 

階段を上がり、廊下を歩き、部屋の扉の鍵をかけようとして———鍵が開いていることに気づいた。

 

開けると、人が先にいた。

 

椅子に座り、足を組み、窓からの光を背に受ける位置を選んでいた。「待っていた」という姿勢だったが、その姿勢そのものが計算されたものだった。部屋に入った者がまず何を見るか。逆光がどこまで顔の印象を曖昧にするか。どの椅子に座れば最も自然に、かつ最も有利に見えるか——それを把握した上で選んだ配置だ、とヴォルフは直感した。

 

女の亜人だった。

 

体つきは人間と大差ない。顔立ちも整っている——ただし「信用してはいけない奴」の典型だった。いつも何かを計算しているような目。笑顔の奥が読めない。

 

背中が違った。外套を羽織っていたが、肩甲骨の辺りから不自然に膨らんでいる。折り畳まれた何かが外套の下に完全には収まっておらず、背中の輪郭を歪めていた。翼だ。

 

左肩に、鳥が一羽止まっていた。

 

掌よりやや大きい程度。暗灰色の羽毛。外套の肩口に爪を立てて、主人と同じ方向を見ている。動きに合わせて重心を移す慣れた様子は、今日初めてそこに乗ったものではなかった。飼い慣らされている——いや、それとも少し違う。訓練されている、という方が近い。

 

目が鋭かった。向き合うときに、視線の角度がわずかにずれる。鳥の目だ。正面を見ているはずなのに、首の傾きが人間のそれとは違う。

 

「遅かったね」

 

女の声だった。低く、穏やかで、聞いていると警戒が少し緩む種類の声。その「緩む」という作用を、本人が意図的に作っていることも同時に分かった。

 

「あちこちの店を随分と回ったんじゃないかな。でも全部断られた。そうだろう?」

 

ヴォルフは答えなかった。

 

「顔に書いてあるよ」

 

くすりと笑う。唇の動きは柔らかく、声のトーンは親しげだった。しかし目は笑っていなかった。目だけが別の作業をしている——ヴォルフの反応を、一挙一動を、記録するように観察していた。

 

肩の鳥も、同じ目をしていた。小さな黒い目がヴォルフの方を向いている。市場で見たあの目と、同じ種類の目だった。

 

「帽子の鍔を下げていても、君が持っている空気というものがある。昨日の広場から、もう街中の噂さ。情報の動きを見ていれば分かることだよ」

 

ヴォルフは部屋に入り、扉を閉めた。壁に背を預け、相手との距離を保った。逃げ場と動線を確認する。窓は背後にある。扉はこちらの手の届く位置にある。問題ない。

 

「誰だ」

 

「情報屋さ」

 

あっさりと答えた。躊躇いがなかった——値踏みの段階で、ここは隠す場面ではないと判断している。

 

「リヴィルと名乗っている。君のことは昨日から聞いているし、何ならもっと前から耳には入っていたよ。探し物があるんだろう?」

 

ヴォルフは反応しなかった。

 

「なんで知ってるかって? 企業秘密さ」リヴィルは肩をすくめた。外套の下で翼がわずかに動き、肩の鳥がバランスを取り直す。「だが、あえて言うなら——まあ、『風の噂』ってやつさ」

 

風の噂。肩に鳥を乗せた女が言う台詞としては、出来すぎていた。

 

「何の用だ」

 

「まあ、そう急がないでくれ」リヴィルは足を組み替えた。動作に余裕があった。急いでいない。急いでいないことを見せている。「用があるのはこっちだけじゃない。君の方にも用があると思ってるから来たんだ。最初に少しだけ話を聞いてもらいたい。無料で」

 

沈黙が落ちた。

 

ヴォルフは動かなかった。壁に背を預けたまま、相手を観察していた。リヴィルも動かなかった。椅子に座ったまま、沈黙を急がなかった。沈黙の中で先に折れた方が一歩後退する——その力学を、二人とも知っている。

 

「警戒するのは当然さ」リヴィルが先に口を開いた。しかし折れたのではなく、間合いを変えに来た声だった。「ただ、私の扱っている情報の質を試してもらうための話だよ。嘘はつかない——それだけは保証する。全部は言わないけど、出す情報に嘘は混ぜない。それが長続きする商売のやり方だからね」

 

嘘をつかない。ただし全部は言わない。

 

情報屋の定型句だ。どこの都市にも似たようなことを言う人間はいた。しかし実際にそれを守れる者は少ない。守れる者は長く商売を続ける。守れない者は早い段階で消える。この女がどちらかは、まだ判断できない。

 

リヴィルは椅子に少し深く座り直した。背中の翼が外套を押し上げる。無意識の動きなのか、それとも「亜人であること」を改めて見せる意図なのか——どちらでもありえた。

 

「私のところに情報が届かなくなった都市が、この一ヶ月で増えている」

 

声のトーンが変わった。軽さが消え、代わりに輪郭のはっきりした言葉が出てきた。

 

「異形のお陰で歩いていける距離ではないけど、周辺にいくつかの都市や街があるのは君も承知の通り。そこからの情報が、次々に途絶えている」

 

ヴォルフは反応しなかった。表情を動かさなかった。しかし頭の中では、昨晩セルヴァンから受け取った地図が広がっていた。

 

「どうやって情報を集めているか、とは聞かないでおくれよ? 企業秘密さ」リヴィルは片手を軽く上げた。肩の鳥が首を傾ける。「精度も鮮度も、正直に言えば高くない。でも『他の誰も持っていない種類の情報』が入ってくる——そこに価値がある」

 

「都市が消えているのか」

 

「消えた、とまでは言えない」リヴィルは一度だけ首を傾けた。鳥の仕草だった。人間はああいう角度で首を傾けない。「ただ、情報が来なくなった。それ以上は確認できていない」

 

一拍の間。

 

「方向性がある」

 

リヴィルの声が、さらに一段落ち着いた。

 

「およそ北北西から。この都市に向けて、だいたい直線的に——順番に、来なくなっている」

 

ヴォルフの頭の中で、情報が重なった。

 

セルヴァンが言った「発生源」の方角。異形の出現が増えている方向。「人間ではないと思われる何か」の目撃情報。そしてリヴィルが示した、情報が途絶えていく方向。

 

三つが同じ点を指している。

 

偶然ではなかった。

 

確信が静かに固まった。怒りも高揚もない。ただ——行き先が確定した、という感触だけが胸の中に沈んだ。目的地がある。そこに行く。それだけのことだった。

 

「もうひとつ」リヴィルは続けた。

 

ヴォルフは視線を戻した。

 

「君が今日回ったような店では、これからも買えない。カルドレクで消耗品を揃えるなら、別の場所に行く必要がある」

 

「亜人のコミュニティか」

 

リヴィルの目が一瞬だけ光った。計算が合った、という光だった。

 

「いくつかの都市を回ってきた君なら、想像はつくよね? 人間の店で断られた者が行く場所というものが、ある。具体的な場所はここでは言わない——それは次の話だ。でも存在すること、そこで君が断られない可能性があること、それだけは確かさ」

 

ヴォルフは黙って考えた。

 

この女が何を目的にここに来ているかは、おおよそ見えていた。情報を「無料で」出す初回サービス。信用の土台を先に作り、本命の取引を後に持ってくる。情報屋の定石だ。無料で出された情報の精度が高ければ高いほど、次の有料情報に手が伸びやすくなる。長期の顧客を作るための投資。

 

問題は、その情報が本物かどうかだった。

 

途絶えた都市の方向は、昨晩の情報と一致した。リヴィルがセルヴァンから情報を受けている可能性はある——しかし、セルヴァンが渡した情報は「異形の発生源の方角」であり、「都市からの情報の途絶」ではない。異なる経路で同じ結論に至っている。少なくとも、この時点の情報には嘘が混じっていない可能性が高い。

 

「一つだけ聞く」ヴォルフは言った。

 

「どうぞ」

 

「情報が来なくなった都市の、今の状況を本当に知らないのか」

 

リヴィルは少し間を置いた。

 

今日初めて、演じていない顔が表に出た気がした。ほんの一瞬。計算の下に何かがある。恐れか、苛立ちか、あるいはもっと別の——自分の商品の限界に対する、情報屋としての歯がゆさか。その何かが、表情を作った。

 

「知らない」

 

声は静かだった。

 

「……ただ」少しだけトーンが変わった。軽さでも穏やかさでもない、別の質感が混じった。「来なくなる前の、最後の便で届いた情報がいくつかある。内容はきれいじゃない。だからそれは、次の話に取っておく。それを売るとしたら、ただではない」

 

ヴォルフは答えなかった。

 

リヴィルはそれ以上押さなかった。線の引き方を知っている。今日はここまでだ、という判断を、相手の沈黙から正確に読み取っている。

 

「今日のところはこれだけさ」リヴィルは立ち上がった。動きに無駄がなかった。翼の重さを慣れた身体の使い方で処理しながら、外套の裾を整える。肩の鳥が羽ばたいてバランスを取り直し、主人の肩口に落ち着いた。「亜人のコミュニティのことは——詳しいことはそっちで聞いた方がいい。名前を出せる人間がいる。繋ぎはできるよ」

 

扉の前まで歩き、振り返った。

 

「おっと、一つだけ確認させてほしいんだけど」

 

声が軽くなった。最初の飄々とした調子に戻っている。

 

「私の情報の質については、多少は信頼してもらえそうかな?」

 

ヴォルフは黙っていた。

 

「そうか」リヴィルは微笑んだ。「君が黙っているのは、肯定なのか否定なのか分からないからね、これ以上は追及しないよ。でも次に来たときは値段の話もさせてほしい——商売だからね」

 

扉が開いた。リヴィルが廊下に出る直前、肩の鳥が先に飛び立った。廊下の窓——開いている——を抜けて、外の空に消えた。まるで先触れのように、主人より一歩先に動く。リヴィルはそれを見送りもしなかった。いつものことだ、という動作だった。

 

扉が閉まった。

 

足音が廊下を遠ざかっていく。軽い足取り。翼の重さを感じさせない歩き方。やがて、階段を下りる音。それも消えた。

 

ヴォルフは部屋の中央に立ったまま、しばらく動かなかった。

 

整理する。

 

方角は確定した。出発の前提は揃っている。消耗品はまだ手に入っていないが、別のルートがある——亜人のコミュニティ。その詳細は、リヴィルが言及した「繋ぎ」から来るだろう。

 

情報が集まり始めている。

 

セルヴァンからは方角と「人間ではない何か」の目撃情報。リヴィルからは都市の途絶と、亜人コミュニティの存在。異なる立場の、異なる情報が、同じ地点を指し示している。

 

リヴィルの目的も見えている。ヴォルフを長期の顧客にしたい。あるいは——ヴォルフの行動が生む情報そのものが、次の商品になる。情報屋にとって、行動する人間は金脈だ。どちらに転んでもリヴィルは得をする。

 

それで構わなかった。利用できる間は、利用する。利用される側もまた、利用しているのだから。

 

ヴォルフは帽子を外し、窓の外を一度だけ見た。

 

市場の方角に、鳥が数羽飛んでいた。

 

ばらばらに見えて、同じ方向へ向かっていた。さっき肩から飛び立った一羽が、その中にいるかどうかは分からなかった。

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