アイビスは、ようやく静かになっていた。
完全ではない。
高所のどこかで、まだ保守機構めいた音が鳴る。
補給器官の残滓も脈打っている。
だが、クロヴはいない。
ヴァーレンも死んだ。
それだけで、この街の殺意は目に見えて薄くなっていた。
ヴォルフは振り返らない。
倒れたものを見ても、もう意味はない。
やることは別にあった。
ここに来る前に、エリスたちから聞いていた。
全部は持ち帰れない。
だから当たりだけ拾え、と。
中枢に近い制御盤。
保守記録の断片。
扉系統へ繋がっていそうな媒体。
読むのは後でいい。
今は抜く。
それだけだ。
ヴォルフはアイビスの上層を移動した。
前みたいに隠れる必要はない。
それでも長居はしない。
壊れた梁を渡る。
焼けた金網を踏む。
外壁側へ回り込み、クロヴが根を張っていた中継塔の脇へ降りた。
脈打つ肉塊は、まだいくつか残っている。
だが統率はない。
切られた手足が、まだ勝手に痙攣しているみたいな残り方だった。
制御盤は半ばまで血に埋もれていた。
金属。
骨。
肉。
それぞれ別のものだったはずなのに、もう境目が曖昧だ。
ヴォルフは斧の柄で叩き割った。
外殻が開く。
中から板状の部品と、薄い記録片らしきものがいくつか落ちた。
拾う。
布へ包む。
次。
別の足場。
別の中継塔。
別の保守箱。
ひとつずつ当たりを抜く。
末端迎撃体が二、三体だけ近づいてきた。
遅い。
薄い。
もう群れではない。
ヴォルフはノコギリ鉈でまとめて断った。
それで終わる。
アイビス戦は、クロヴが落ちた時点で終わっていた。
ヴァーレンとの決着は、そのあとに残っていた別の問題を片づけただけだ。
その実感が、今は逆にはっきりしていた。
拾うものだけ拾う。
長く見ない。
長く考えない。
十分な量になったところで、ヴォルフは外縁へ向かった。
高所の風が抜ける。
金網が鳴る。
下ではまだ都市の深い方が脈打っている。
それでも、ここはもう空になった巣だった。
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アイゼンガルへ戻った頃には、空がまた鉄色に濁っていた。
熱。煤。油。
生きた工房街の匂いがする。
黒鉄の顎へ入ると、エリスが最初に顔を上げた。
ヴォルフの手元を見る。
次に、その包みを見る。
「拾ってきたんだ」
ヴォルフは黙って、布包みを作業台へ置いた。
重い音がする。
エリスの叔父も顔をしかめた。
「またろくでもねえもん持ち込んだな」
「読むものだ」
ヴォルフが短く言う。
店主は鼻を鳴らした。
「お前が読むわけじゃねえだろ」
その通りだった。
ヴォルフは答えない。
エリスがもう包みを開いている。
薄い板片。
削れた記録媒体。
制御盤の芯らしき部材。
血と煤で汚れている。
欠けてもいる。
完全な形のものは一つもない。
「最低限って感じ」
「最低限でいい」
ヴォルフは壁へ寄りかかった。
戦闘が終わっても、疲労までは消えない。
高負荷のブラッド・アンド・リヴェンジを使ったぶん、むしろ内側は前より重い。
だが今は動かないだけでいい。
解析は別の仕事だ。
エリスが板片を光へかざす。
角度を変える。
叔父が横から別の器具を寄せる。
さっきまで文句を言っていたくせに、手はもう止まっていない。
「これ、アイビスの中枢寄りの制御系だね」
「読めるのか」
「全部は無理」
エリスは即答した。
「でも方角は見える」
店主が別の断片を持ち上げる。
「こっちは保守記録の規格だな。古いが、完全に別物ってほどでもねえ」
「繋がる?」
「繋がるように作ってある。だから余計に気持ち悪い」
エリスが小さく息を吐いた。
「今日中は無理」
「分かる」
「でも明日には何か出せると思う」
ヴォルフは頷きもしない。
ただ、その場を離れなかった。
解析の進み方を見ているわけではない。
結果が出るまで待つ。
それだけだ。
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次の日、工房の空気は前より張っていた。
徹夜だったらしい。
エリスの目は赤い。
叔父の機嫌も悪い。
だが作業台の上には、前日より整理された板片と、書き起こしの紙が並んでいた。
ヴォルフが入ると、エリスはすぐ本題へ入った。
「アイビス、やっぱり単独の都市じゃない」
ヴォルフは黙って聞く。
「扉の……システム全体の末端寄り施設」
「多分、この扉って扉じゃないね。実際の用途はもっと別のもの」
「炉に近いのかな。他の何かを動かすための施設。もともとは」
「誰かが……っていうかあいつらが勝手に別の用途に使ってるみたい」
「で。ログ上の識別名からするとクロヴ……こいつは扉の起動者じゃない」
エリスが書き起こしの一枚を指で叩いた。
「ログからすると、セヴェルってやつが起動してたみたいだけど」
「クロヴは占拠してた」
「支配してた、の方が近いかも」
「侵入者排除と、領域の安定維持。完全に安定して放置できるようになるまで守るための個体」
ラサンやシレとは少し違う。
特定の一機能を担う拠点管理ではなく、もっと汎用的な領主型。
エリスの説明は短い。
だが十分だった。
クロヴが何だったのか。
それが、ようやく戦闘のあとで読める形になっていた。
店主が紙束の別の箇所を示す。
「こっちがもっと嫌な方だ」
「アイビスの防衛系、これ単独で閉じてねえ」
「深い方へ繋がってる」
「地下だな」
エリスが続ける。
「地下深部。古代首都」
「基幹装置、って呼んでいいと思う」
「正確な全貌までは出ない。でも接続がそこへ伸びてる」
ヴォルフは紙を見る。
読めるわけではない。
だが意味は分かる。
クロヴを倒しても終わりではない。
アイビスを抜いても終わりではない。
末端を一つ剥がしただけだ。
もっと深い場所に、まだ本体に近い何かがある。
「方角は?」
ヴォルフが短く聞く。
エリスが少しだけ肩をすくめた。
「わかんない」
「地下へ繋がってるのは見える。でも、どこからどう降りるのかはまだ曖昧」
「照合がいる」
店主が鼻を鳴らす。
「詳しいやつに聞くしかねえだろ」
リヴィル。
あいつなら、少なくとも次の当たりは出せる。
ヴォルフは作業台の上の紙束を見た。
クロヴは終わった。
ヴァーレンも終わった。
それでも、終わりの形は見えない。
むしろ戦いのあとになって、ようやく次の深さが見えた。
落胆はない。
次が残っている。
それだけだ。
ヴォルフは短く息を吐いた。
カルドレク。
情報のためだけではない。
ヴァーレンと殺し合った時点で、あの宗教組織とはもう切れている。
なら、放っておく理由も薄い。
また今回みたいに、肝心なところで横から殴られるのは面倒だ。
なら、その前に体制ごと見ておく。
必要なら潰せる形にしておく。
実務としては、それで十分だった。