封鎖壁は、前に見た時と同じ場所にあった。
石。
鉄。
何かの力で固められた、後付けの塞ぎ。
だが見え方は違う。
前はただの障害物だった。
今は違う。
奥へ通じる境界だ。
意味を知っている。
それだけで、壁は少しだけ薄くなった。
ヴォルフは止まらない。
断重の鉄塊斧を抜いた。
一撃目。
鈍い音が返る。
石ではない。
ただ硬いだけでもない。
封じるために固めた感触だった。
二撃目。
ひびが走る。
三撃目で、継ぎ目が大きく割れた。
奥から、冷えた空気が漏れる。
ヴォルフは更に叩き込んだ。
砕く。
押し広げる。
人ひとりが通れるだけの穴を、無理やりこじ開ける。
露骨な監視はない。
その方が自然だった。
こんな場所を守れば、それだけで奥に何かあると教えることになる。
痕跡も、ほとんど残っていない。
それでも分かる。
ここは捨てられたのではなく、隠されていた。
隠していた。
守るより先に。
そんな場所だ。
しかも今は、組織そのものが噛み合っていない。
命令も遅い。
共有も遅い。
アイビスで何が起きたか、まだ全部は回っていない。
だから間に合わない。
ヴォルフは封鎖壁を越えた。
向こうは遺跡だった。
前に一度だけ見た場所だ。
あの時は流した。
今は違う。
ここが導線だと知っている。
地下へ入る。
石の通路。
ひび割れた床。
古い刻印。
宗教のものではない。
もっと前のものだ。
カルドレクが後から寄りかかっただけの場所だと、見れば分かる。
道中は静かだった。
露骨に守れば怪しい。
置いても止められない。
今は組織も麻痺している。
その全部が重なった結果だった。
ヴォルフは迷わない。
枝道を切る。
下る。
また下る。
空気が変わる。
冷たい。
湿っている。
遺跡の奥というより、もっと深い臓腑へ入っていく感触だった。
やがて通路が開けた。
広い。
だが壮麗ではない。
神殿じみた作りをしているくせに、どこか家畜小屋の拡大版みたいな気配があった。
柱。
配線。
管。
血に似たものを通していた痕跡。
祈りのための空間ではない。
維持と制御のための空間だ。
その中心に、いた。
思っていたより近い。
隠れていない。
あるいは隠れる必要がないと思っていたのかもしれない。
高座めいた台の上に、獣が伏せていた。
巨大だ。
動物めいている。
だが、見慣れた獣ではない。
痩身の牧羊犬を、そのまま神話の側へ引き伸ばしたような形だった。
長い四肢。
深い胸郭。
首も胴も、人の感覚から少しだけ外れた長さをしている。
毛並みは白と灰を基調としていた。
だが喉のあたりと口元には、血を吸ったような赤が滲んでいる。
聖獣にも見える。
処刑獣にも見える。
その曖昧さごと、最初から作られているかのようだった。
頭部は牧羊犬に近い。
だが瞳が多い。
ひとつではない。
群れを見張るための多重の目が、静かにこちらを捉えていた。
口も長い。
顎が深い。
人を噛み留めるためだけに発達したような形だった。
額には、角にも見える細長い結晶が一本、前へ突き出していた。
白い。
半透明。
骨の延長にも、聖性だけを結晶化させた杭にも見える。
信徒を見る目ではない。
群れを見る目だ。
「来たか」
パストルは静かに言った。
驚きはない。
ヴォルフは歩みを止めない。
「お前が元か」
短い。
それだけで足りた。
パストルは少しだけ首を傾ける。
「元凶、とでも呼ぶか」
「君たちはそういう言葉を好む」
ヴォルフは答えない。
パストルが続ける。
「だが、私は守っていた」
「群れを」
その言葉だけで、もう匂いがした。
救済ではない。
保護でもない。
飼育だ。
「逸れるものを戻し」
「弱るものを選り」
「暴れるものを牙で追い」
「足りないものを補ってきた」
「それがどれほど長く、どれほど危うい均衡だったか、君には分からないだろう」
ヴォルフは聞く。
必要なところだけ。
「使徒は」
パストルの目が、わずかに細くなる。
「牙だ」
「群れを戻すための」
「外へ向ける刃であり、内を削る刃でもある」
「あれらは従者ではない」
「愛弟子でもない」
「必要だから置いた」
ヴォルフの中で、ヴァーレンの最後が少しだけ冷える。
あれは、最後までただの部品だった。
パストルはそこに何も感じていない。
「ヴァーレンも」
ヴォルフが言う。
パストルは即答した。
「役に立たなかった」
「最後まで群れを戻せなかった牙だ」
何の揺れもない。
切り捨てることに慣れすぎた声だった。
「加護も同じだ」
パストルが手を広げる。
白い光が、薄くその周囲へ滲んだ。
「君たちは祝福だと思いたがる」
「守護だと思いたがる」
「だが実際には、群れを制御し、選別し、必要な量だけ消費させるための機構にすぎない」
「私だけではない」
「ルナールの蜘蛛も同じことをしていた」
「守っていたのではない。囲い、見張り、使っていただけだ」
「そうでなければ終わってしまう」
「飢えすぎても終わる」
「増えすぎても終わる」
「完全に勝っても終わる」
ヴォルフはそこで初めて目を上げた。
「勝つ気がないのか?」
パストルは笑わない。
だがどこか満足に似た温度があった。
「終わらせたくなかった」
「それが最も安定していた」
「滅びず、溢れず、絶えず捧げられ続ける」
「ようやく維持できていた均衡だった」
「君はそれを壊した」
恨みはある。
だが熱くない。
冷えた管理者の苛立ちだった。
ヴォルフにとっては、それで十分だった。
聞くべきことは終わった。
相手が何を守っていたのか。
何を捧げさせていたのか。
何を続けたがっていたのか。
全部、もう出た。
その瞬間、額の結晶が白く灼けた。
来る。
ヴォルフの身体が先に動く。
横へずれる。
直後、雷が走った。
槍のように細い。
だが速い。
額の結晶から、まっすぐ撃ち出されていた。
背後の柱が貫かれる。
石が白く爆ぜる。
威力は高い。
だが直線だ。
一発で十分だった。
ヴォルフはブラッド・アンド・リヴェンジを抜いた。
パストルの周囲に、白い膜が立ち上がる。
電撃障壁。
ヴァーレンと同じ系統だ。
劣化ではない。
本流だ。
パストルは動かない。
守られている前提で立っている。
「無意味だ」
上から言う。
「あらゆる攻撃は、ここへ届かない」
ヴォルフは短銃を抜いた。
一発。
撃つ。
障壁が弾く。
白い反応。
雷が走る。
やはり同じだ。
返す。
弾く。
性質は読める。
パストルは避けもしない。
見下ろしている。
本気で、自分は届かないところにいると思っている。
ヴォルフは高負荷を解いた。
刃が鳴る。
赤が濃くなる。
骨の奥まで嫌な圧が響く。
使えば削れる。
それでも十分だ。
ヴォルフは踏み込む。
一直線。
「無意味だというのが解ら──」
言い終わる前に、ブラッド・アンド・リヴェンジが障壁をすり抜けた。
今度は深い。
胸から胴へ。
まっすぐ、深く。
斬り抜ける。
パストルの身体が止まる。
遅れて、傷口に赤が残る。
受難の刻印が体を削る。
「は──?」
パストルが後ずさる。
そこで、返る。
内側から。
食らったはずの一撃が、もう一度噛みつく。
白い光が乱れる。
障壁が消える。
加護が切れる。
パストルの身体が、その場でずれた。
遅れて、二つに分かれる。
高座から落ちる。
石の床へ叩きつけられる。
それで終わった。
広い遺跡の奥に、音が一つだけ響く。
白い残滓が、ゆっくりと消えていく。
加護供給が切れた。
どこまで波及するかは、まだ分からない。
だが止まった。
確かに。
宗教でもない。
守護でもない。
終わらない戦争を飼うための仕組み。
その核は、今ここで切れた。
ヴォルフは死骸の頭部へ近づいた。
額の結晶は、まだ弱く光っている。
力の結晶体。
放っておいてもいいが、それで問題が起きても面倒だ。
特に必要性は感じないが、パストルを殺したという証拠にもなるだろう。
指をかける。
硬い。
だが骨ではない。
引く。
抜けない。
もう一度、強く引いた。
ずるりと音がした。
思っていたより長い。
見えていた先端だけではない。
頭蓋の奥まで、細長い杭のように深く通っていた。
引き抜かれた瞬間、結晶の内側で雷が一度だけ走る。
白い筋が、細く弾けて消えた。
ヴォルフはそれを見た。
使える。
そういう形をしていた。
ヴォルフは刃を払う。
消費した血は少ない。
思っていたより、ずっと少なかった。
奴の中身が薄かったからかもしれない。
どうでもいい。
やることは終わった。