第1話
カルドレクは、思っていたより崩れていなかった。
崩れていない、というだけで、
元どおりに近いわけではない。
祈りの声は残っている。
人の流れもある。
店も開いている。
ただ、前にあった熱は薄れていた。
街全体を一つの信仰で押し固めていたような、あの息苦しい密度がない。
代わりにあるのは、もう少し現実的な種類の緊張だった。
明日のパンがあるか。
今日の荷が届くか。
巡回が機能しているか。
そういう類の緊張だ。
ヴォルフは通りの端を歩きながら、看板の並びを見た。
開いている店。
閉じたままの店。
扉は開いているが、売り物が減っている店。
顔つきだけは平静に見せようとしている店主。
死んではいない。
だが、一度大きく息を止めてから、無理に動き出した街の顔をしていた。
パストルは死んだ。
加護供給も断たれた。
それでもカルドレクは止まっていない。
止められないのだろう、とヴォルフは思った。
ここで街まで止まれば、宗教だの教義だの以前の話になる。
人が先に死ぬ。
物が尽きる。
休める場所も消える。
それは面倒だった。
セルヴァンが何を考えていようと、腹に何を抱えていようと、
今のところ街を回す方向で動いているなら、それでいい。
信用はしない。
だが、潰す理由もない。
無秩序に崩れるよりは、まだましだ。
通りの向こうを、白い外套が横切った。
以前より数は少ない。
だが消えてもいない。
前線の熱狂ではなく、運用のために残っている動き方だった。
再編は始まっている。
早いな、とヴォルフは思う。
あの男ならそうする。
混乱を拾えるなら拾う。
拾ったものを自分の手で並べ替える。
そういう人間だ。
ヴォルフは歩きながら、コートの内側に意識を向けた。
固い感触がある。
パストルの額から引き抜いた結晶。
短く見えていた先端とは違う。
実際にはもっと長い。
杭に近い形だ。
気のせいではなく、ときおり微かに熱を持つ。
脈打つとまではいかないが、死んだものの残骸としては静かすぎなかった。
放っておいてもいいが、放置して何か問題が起きても困る。
それだけの理由で持ち歩くには、少し厄介すぎる代物だった。
カルドレク側でこれをどうこうできる人間がいるのか。
ヴォルフは下層へ足を向けた。
下層は、前に来た時と同じようでいて、少し違っていた。
以前は張りつめた静けさだった。
今は、張りつめるだけの力が少し抜けた後の静けさだ。
路地に入る。
看板のない建物。
前に来た時と同じ場所。
扉を叩く。
すぐには返事がない。
だが、気配はあった。
ややあって、内側で錠が外れる音がした。
扉が開く。
カルはヴォルフを見ると、一瞬だけ視線を細めた。
驚いたわけではない。
見れば分かる程度の消耗をして帰ってきた人間を見て、
面倒な話を持ち込んだなと察した顔だった。
「生きてたか」
「今のところは」
「結構」
カルの視線が、すぐにヴォルフのコートの内側へ落ちた。
「持ってきたな。面倒なのを」
ヴォルフは答えず、結晶を出した。
白く、硬く、内側に雷を閉じ込めたまま固まったような色をしている。
カルはすぐには触らなかった。
まず作業台の端に置いた小さな金具へ指を当て、短く何かを唱える。
金具の刻み目に淡い線が走り、薄い膜みたいな光が結晶の表面を撫でた。
派手なものではない。
こういう探り方は、職人や解体屋が使う初歩魔法の範囲だ。
カルの眉間に皺が寄る。
カルはそれ以上歓迎もしなかった。
身を引いて中へ通す。
それで十分だった。
中の空気は前と変わらない。
油と金属と、乾いた薬品の匂い。
必要なものだけが並んでいる。
生活感は薄いが、仕事の気配は濃い。
カルは扉を閉めた。
「今日は何だ」
ヴォルフは答えず、コートの内側から布に包んだものを取り出した。
机の上へ置く。
布越しでも、わずかに気配があった。
カルの目つきが変わる。
触る前から、まずそれを測る目だった。
「……どこで拾った」
「拾ったわけじゃない」
「そうか」
カルは短く返した。
それ以上は聞かない。
その代わり、布の端に手をかける前に一拍置いた。
慎重なのではない。
厄介なものだと分かっている人間の間だった。
布がめくられる。
細長い結晶が姿を見せた。
角のようにも、杭の芯のようにも見える。
白く、硬く、内側に雷を閉じ込めたまま固まったような色をしている。
カルは黙った。
黙ったまま、まず目で見た。
次に距離を測った。
最後に、道具棚の方へ一瞬だけ視線をやった。
その順番で十分だった。
厄介で、危なくて、
しかも道具を使う段に入る前から嫌な予感がしている。
そういう顔だった。
「触るぞ」
「勝手にしろ」
カルは鼻を鳴らした。
「こういう時だけ雑だな」
文句は言う。
だが手は止めない。
棚から薄い手袋を取り出し、片手だけにはめる。
それから結晶の先端ではなく、側面のやや下を指先で挟んだ。
持ち上げはしない。
まず重さのかかり方を見る。
次に指先で微かな反応を探る。
ヴォルフは黙って見ていた。
カルの顔は変わらない。
だが耳だけが少し寝ていた。
嫌なものに触れている時の顔だ。
ややあって、カルは手を離した。
「価値はある」
それが最初の言葉だった。
「危ない」
次がそれだった。
「触れるだけならできる」
短く区切る。
「保管も、やり方次第ではできる」
ヴォルフは待った。
カルは結晶を見たまま続ける。
「だが、これを何かに使える形へ加工するのは無理だ」
言い切った。
迷いはない。
「削った瞬間にどうなるか読めない。割ってもまずい。熱を入れてもまずい。何もしなくても微妙に生きてる。こういう素材は、加工の入口に立つ前から終わってる」
机の上の結晶を指先で軽く示す。
「価値はある。危なさも分かる。だが、分かるのと扱えるのは別だ」
ヴォルフは聞く。
「カルドレクの職人では無理か」
「少なくとも俺の知ってる範囲じゃ無理だ」
カルは即答した。
「まともな鍛冶でも嫌がる。薬屋はもっと嫌がる。細工師に触らせたら、下手するとそいつごと吹き飛ぶ」
そこで初めて、カルはヴォルフを見た。
「どこから持ってきた」
「殺した相手の額から引き抜いた」
カルは一拍黙った。
「聞かなきゃよかった」
「そうか」
「そうだ」
カルは手袋を外した。
外したあとで、指先を布で拭く。
意味があるかは怪しい。
だが、そうしたくなる類のものなのだろう。
「一応言っておくが、持ち歩くなとは言わない。ただし雑に持つな。寝床の近くにも置くな。子どもが触れる場所には論外だ」
「子どもはいない」
「例えだ」
ヴォルフは結晶を見た。
机の上に置かれているだけなのに、場に馴染まない。
刃物とも、宝石とも、宗教物とも違う。
用途が決まりきっていない危険物の顔をしている。
カルが言う。
「売るなよ」
「売らない」
「だろうな」
カルは少しだけ肩を回した。
「売った先で何か起きても、どうせ面倒は戻ってくる」
「そうだな」
「あと、ここに長く置く気もない」
それは率直でよかった。
ヴォルフは布を戻し、結晶を包み直した。
カルドレク側では無理。
裏流通でも、下層の細工でも、せいぜい保管と危険判定まで。
武器に変えるところまでは行けない。
だが、それで十分でもあった。
切り分けはついた。
「助かった」
カルは鼻を鳴らした。
「金を取るほど何もしてない」
「いや」
ヴォルフは包みをコートの内側へ戻した。
「無理だと分かっただけで十分だ」
カルは何も言わなかった。
否定もしない。
その代わり、棚の方へ視線を戻す。
話は終わりだ、という合図だった。
ヴォルフは扉へ向かった。
手をかけたところで、背後から声が来る。
「最近、外から来る連中の臭いがおかしい」
ヴォルフは振り返った。
カルは棚を見たままだった。
「良くは分からん。ただ、いつもより水っぽい気がする」
「詳しくは」
「知らん。だから言ってる」
それだけ言って、カルはもう続きを話さなかった。
断片だった。
だが、無意味な断片にも見えなかった。
「……そうか」
ヴォルフは外へ出た。